とはり
2024-10-18 02:23:16
4906文字
Public いろいろ
 

海の底に花束を【要+巽+兄】

お見舞いに来た巽の顔を見て要が一瞬だけ正気に戻る話
要と巽と兄がいます
明るく楽しい話ではないです

巽と要が壇上で語らう追憶ラストシーンの美しさに囚われ続けている
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 十条要は壊れてしまった。
 昏睡状態が続き、目が覚めた思えば意味のもたない言葉で叫ぶ。両腕で自分の身体を抱きしめ、誰かの気配を感じると半狂乱になって喚き散らしながら腕を振り回す。
 そうやって過去から自分を守っていた。彼は無数の暴力に虐げられたあの時間に囚われたままなのだ。
 錯乱し暴れる彼が傷つかないように、誰も傷つけないように、目覚める度に鎮静剤が打たれる。
 兄はただそれを黙って見つめている。それが常だった。
 最初こそ要の意識が浮上する度に懸命に声を掛けていたが、その声は彼の喚き声で全て掻き消されてしまう。
 激しい抵抗と拒絶に近づくことも声を届けることもできず、それが何度も何度も何度も繰り返される内に諦念がじわじわと兄の心を侵食していった。全てが無駄なような気がして、全部放り出してしまいたくなった。全て投げ捨てて、姿形を変え、誰でもない自分に戻って世界という大海を放浪するのも悪くないと思った。
 それでも、眠る要の手から伝わる皮膚の感触や微かな温もりにギリギリのところで踏みとどまる。
 要は兄にとっての錨だった。
 決して自身では引き上げることのできない錨。



 風早巽は分厚い扉の前に立っていた。会わせたい人がいる、と連れて来られた病院の一室。真っ白な扉はこの先の空間を世界から切り取るかのように、鈍く光を反射していた。壁のように立ちはだかる扉は何者の入室も拒んでいるかのようで、この扉は本当に開くのだろうかと巽は首を傾げる。
 慣れた手つきで『HiMERU』がカードキーを傍の壁に翳し、ピピッと小さな機械音が鳴ると、固く閉ざされていた扉は音もなくスライドし、いとも簡単にその口を開けた。
「何をぼーっと突っ立っているのですか。早く入ってください」
 呆気にとられて佇む巽に『HiMERU』は怪訝そうに眉をひそめる。促されて足を進める前に、そういえば、と巽は思いついたことを口にする。
「まさか行き先が病院だとは思わず、お見舞いの品を持って来ていないなと思ったのですが。こういう場合は花とかがいいんでしょうか?」
 巽の言葉に『HiMERU』の眉間の皺がより深くなる。
「必要ありません。花ならこの間新しくしたところですので」
 ため息と共に背を向けて『HiMERU』は奥へと進んでいく。早くしないと扉が閉まりますよ、と一瞥もくれずに警告する背を、巽は慌てて追いかける。
 扉ひとつ隔てたその先は想像していた病室とは随分と異なっていた。
 一歩踏み入れれば足元にはリノリウムの床が全面に広がり、壁もつるりとした木目調に整えられている。
 家具や家電も一通り揃えられており、白熱灯が暖かに照らすこの空間は誰かが生活している部屋のようで、別荘にでも招待されたのかと錯覚するほどだった。ベッドから少し距離を開けて置かれたチェストには『HiMERU』の言った通り、瑞々しく咲く小ぶりの白い花がプラスチックの花瓶に生けられていた。
 病室と呼ぶにはぬくもりに満ちており、しかし、部屋と呼ぶには無機質だった。
 部屋には塵ひとつ見当たらず、丁寧に手入れされているようなのに、家具や家電が使われた形跡が全くなかった。
 極めつけに、ベッドを囲むいくつもの機械とモニターが、整頓された部屋の中で異質さを放ち、ここが病室なのだと嫌というほど主張してくる。機械たちの隙間から辛うじてベッドが見えるが、そこに横たわる手足は白くて、細い。
 『HiMERU』はベッドで眠る人物の傍に寄り添い、瞳に影を落としては、ひとつ溜め息をこぼした。こちらに来るよう目線で促されて、巽はおそるおそるベッドへと近づいていく。
 進めば決定的に何かが変わりもう戻れないような、けれど自分はそれを知らなくてならないような、義務感に包まれた好奇心と予感に胸がざわつく。
「HiMERU、さん……
 ベッドを覗き込むと巽にとってよく知った顔がそこで眠っていた。
「この子が、十条要です。あなたがよくご存じの」
 苦しそうに『HiMERU』が告げる。その顔とベッドの上の顔を交互に見つめるが、瓜二つで全く区別がつかない。ここに来るまでに『HiMERU』からあらましを聞き、その際に「双子だったのですか?」と尋ねたが、明確な答えは避けられた。
 けれど、そっくりな二つの造形は双子でなければ説明がつかないようにも思えた。入れ替わったとて誰も気づけないだろう。
 それでも、自分だけは気づきたかった。対等な友達として唯一の存在だった彼が、手を取り合った彼の存在が、世界から欠けていることに気づいてあげたかった。
 どうにもならない後悔で己を苛む巽は、胸に手を当ててひとつ息を吐く。そしてベッドで眠る友へと再び視線を向けた。
 身体中から様々なコードやチューブが伸びている。縺れ合う管を全身に纏う要は、さながら蔓に閉じ込められたいばら姫のようだ。
 ピッ、ピッ、と規則的に鳴る機械音はどうやら要の鼓動を示しているようだった。情緒の欠けたその音は彼の体が問題なく生命活動を続けている証でもあった。
 部屋にはいくつものカメラが要の姿を取り囲むように設置されていた。要の身体に起こる兆候を少しも見逃さないよう観察するためにあるらしい。このカメラの向こう側では今も医療者が片時も目を離さずにいるのだそうだ。
「要……
 宝物を慈しむように『HiMERU』が要の頬を撫でる。
 巽は見慣れた顔がふたつ並んだ現実味のない光景を奇妙な気持ちでぼんやりと見つめていた。ベッドの上で眠る人物が自分の知る『HiMERU』で『要』なのだと言われて、すぐに信じられるほど思考も心も単純ではなかった。
……HiMERUさん」
 隣に立つと、俯いていた勿忘草色の頭がハッとした様子で起き上がる。さらさらと流れる艶やかな髪は、室内灯の下では少し曇って見えた。
 巽に場所を譲り、壁際にもたれて窓の外へと視線を飛ばす『HiMERU』に代わって、ベッドに横たわる『彼』に向き合う。
 ゆとりのあるベッドに佇む痩せた体軀は、並んで立っていたあの時よりもずっと小さく見えた。
 腕を伸ばして彼の手を握る。もちろん握り返してはくれない。
 触れるまでは精巧な人形のようにも思えた体だったが、冷えた肌の柔らかな感触と温もりに彼が紛れもなく生身の人間なのだということを実感する。そして、『HiMERU』から聞かされた話が事実だったのだと思い知らされる。
 残酷な現実に足元が揺らぎ、堪らずベッドサイドに用意された椅子に腰を落とす。
 巽の手が握る強さを増しても、要は指ひとつ動かす様子はない。
 少しかさついた肌、細く伸びる腕には暗赤色の点が青白く浮かぶ血管に沿っていくつも点在している。点滴痕の数だけ、要がここに縛りつけられて相応の時間が経過しているのだと知る。
 曇りのない美しさを放っていた要には似合わない痛々しい斑点に、巽の睫毛が影を落とす。
 かつて隣り合って眠ったことも、手を握って理想を語り合ったこともあった。
 あの頃、確かに存在した要との思い出が巽の脳内を駆け巡る。
「おはようございます、HiMERUさん。今日もとてもいい天気ですな」
 思い出を手繰るように要に語りかける。懸命に生きる彼は、カタコンベやこの部屋のような薄暗い場所よりもずっと明るい青空の方が似合っていた。
「────」
 ぴくり、と手の中が震えたような気がして反射的に視線が手元に移る。
「要っ!」
 静けさを切り裂く大声に体が跳ねる。何事かと振り返ると驚愕の表情をした『HiMERU』が身を乗り出していて、その視線の先を辿ると、同じ蜂蜜色が目に入った。
 ベッドの上の要の目が、この部屋の天井を映していた。眩しそうに顔を顰めて、何度も瞬きをする。
 小さく呻いた要は気怠そうに緩慢な動きで上体を起こした。傍らの『HiMERU』が肩を震わせて身構える。
 要は目が覚めてもまともな言葉を話さず、暴れ回るのだと言っていた。目が覚めた時の希望と目醒めが叶わなかった時の絶望と恐怖が『HiMERU』の体を防備へと向かわせていた。
 息の詰まるような緊迫感がこの空間に漂い、皮膚の表面をぴりぴりと刺激する。神経が過敏になった巽の膝もまた、じくじくと痛みを自覚し始めていた。
「巽……手を、」
 微かに震える『HiMERU』の声は、要の手を離した方がいい、と助言しようとしているのだろうが、その意図を理解しながらも巽は身動きひとつとろうとしなかった。あの日届かなかったこの手を離すわけにはいかなかった。
 巽が要の手を強く握ると、焦点の合わなかった視線がゆらりと巽を捉える。要の薄い唇が開くのを固唾を呑んで見つめた。
 どんな叫びも痛みも怒りも悲しみも、要から発せられる全て受け入れようと巽は覚悟していた。要が大きく息を吸い込む。
「──たつみ、せんぱい」
 ただ名前を呼ばれ、おや、と肩の力が抜ける。
 掠れた声はかつての甘やかさを失っているものの、確かに要の声だった。
 要を除いたその場の人間はみな呼吸を忘れた。憑き物が落ちたように穏やかな表情の要は、この場所ではただの一度も観測されたことがなかった。
 要はゆっくりと瞬いて、巽をじっと見つめた。
「かみ、きったのですね。とても、似合っています」
 ぎこちなく持ち上がる要の指が、巽の髪先を爪弾くように撫でる。好奇に色めく要の瞳に、巽は吸い寄せられるように手を伸ばす。
「君は……少し痩せましたかな?きちんと栄養をつけなくてはいけませんよ」
 巽の指が要の目元に触れると、蜂蜜色の眦が蕩ける。
「HiMERUの体調管理は万全なのです。巽先輩とひとつになる、大切な身体なのですから。でも、少しだけ。ほんの少しだけ、お腹が空いているかもしれません」
 内緒話のように囁いて、くすくすと笑みをこぼす。
 時間が巻き戻ったかのようだった。まるであの日のことがなかったかのように振る舞う要に、巽は困ったように笑った。何を伝えるべきか分からず、言葉の代わりに寝癖のついた勿忘草色の髪を撫でて整える。
 子供扱いは嫌なのです、とむくれた要が巽の肩越しに見えた兄の姿を捉えると、その瞳が一層大きく開かれた。
「お兄、ちゃん……
 唇を閉じることも忘れて、ぱちくりと瞬きを繰り返す。巽と兄の顔を見比べて、要は思案するように瞳を伏せた。
 深く息を吸って再び上げた要の顔は、木漏れ日のように穏やかで。
「巽先輩がいて、お兄ちゃんがいて。痛みのないここがきっと、夢見た楽園、なのですね」
 小さな唇からそよ風のように暖かな吐息があふれ、蜂蜜色の瞳から白い頬へ一粒の雫が伝う。窓から差し込む朝日を反射して絵画のように慎ましい煌めきが要を包む。
 しかし、その美しさもつかの間。溶け出すように溢れた雫が寝衣を濡らすと、要の瞳から光が抜け落ちる。小さな頭部が大きく揺らいだかと思えば、身体がかくんと重力に従ってくずおれた。
「HiMERUさん! どうしたんですか! っ、──要さん!」
 咄嗟に体を支えた巽は腕の中の要を揺するが、糸の切れたマリオネットのようにぶらぶらと両腕が揺れるだけで、がくりと項垂れた頭部が再び持ち上がることはなかった。
 慌ててモニターに目を移すが、幸いなことに彼の鼓動を表す波形は美しい波を示しながら、規則正しい機械音を鳴らし続けている。
 ほっと息を吐いて、再び深い眠りに落ちた要の体をベッドへと横たえる。さっきまでくるくると表情を変えていたのが幻だったかのように要の瞳は固く閉ざされている。
 要の目覚めに色めき立っていた部屋もあっという間に静まり返り、機械の規則的な稼働音だけが変わらずに鳴り響く。
 チェストの上に落ちた白い花弁を決意めいた視線で見つめて、巽は唇を開いた。
「俺も時々ここへ花を持って来ることにします」
……お好きにどうぞ」
 細波のようなテノールが部屋の床に沈んでいく。

 ここはまだ深い深い海の底。