明るい声が満ちる空間で桜河こはくは隅の壁にもたれてちびちびとジュースを飲んでいた。清涼感が得られるはずの炭酸が今は舌と喉をぴりぴりと刺激するだけで煩わしく感じている。
視線の先には何人にも囲まれて談笑に耽るHiMERUの姿がある。会話が終わったかと思えば入れ替わるようにまた別の人が輪の中にやってくる。到着が遅れたことを少し悔やんだ。着いた頃にはこんな調子で声をかけることすらままならない。HiMERUは本日の主役なのだから仕方のないことなのだが。
ESビル内のワンフロアで行われているHiMERUの誕生日パーティーは賑わいをみせていた。会場の装飾には自分も協力し、所狭しと並んだ色とりどりの料理はニキが腕によりをかけて作ったものだ。食欲を誘う彩りと香ばしい匂いが会場に更なる華を添えていた。
窓の外は晴れた満天の星空が広がっているらしいが、煌々とした室内から覗いても浮かない表情の自分が反射するだけでよく分からない。
「こはくちゃん楽しんでるっすか?」
「ニキはん」
人の輪の隙間から覗く勿忘草色の横顔を見つめるのにも飽きてきた頃に、ちょいちょいと肩をつつかれる。振り向いた先で目に入った人懐っこい笑顔に声が漏れる。ふわりと揺れるグレーの髪と見慣れた顔にどこかほっとしている自分がいた。
「おつかれさん。どないしたん、今日はバイトで忙しいっち言うてなかった?」
「これもバイトの一環っす。料理の補充に来たんで。みんないっぱい食べてくれてるみたいでよかったっす」
「ニキはんの料理美味しかったで。つい食べ過ぎてしもたわ」
膨れた胃をさすりながら伝えた感想にニキの頬が嬉しそうに緩む。
「HiMERUくんも食べてくれてるっすかねぇ?」
「どうやろ。パーティーが始まってからずっとあの調子やしなあ」
囲まれているHiMERUを示すと、ニキから「あぁ……」と苦い笑みがこぼれる。
「HiMERUくん大人気っすね」
「ほんまにな」
「嬉しいけど、ちょっぴり寂しいっすね」
「……せやね」
事務所という枠も越えて次々と祝いの言葉をかけられるHiMERUを見ていると、彼が幅広く活躍し認められているのだと分かり、人の事ながら誇らしい気持ちになる。しかしそれは同時に、いつも近くにあったHiMERUの横顔を遥か遠くに感じる寂しさも連れてくる。
手を伸ばさなくても触れられる距離にいて、幾度も熱っぽい視線を交わし合った。好きと言ってしがみついたしゃんと伸びた背中も今は少し遠い。
「特別な日に大好きな人と一緒にいれない時って、食べても食べてもなぁんか満たされないんすよねえ。お腹はちゃんと膨れるんすけど」
「ん」
コップの中身をを啜りながら小さく頷くとニキの手が背中に添えられる。静かな優しさが今はありがたかった。
こはくとHiMERUが恋人同士の関係にあるということは、ニキだけでなく燐音も知っている。付き合い始めた頃に、せめてユニット内では共有していた方がいいだろうというHiMERUの判断だった。
燐音に茶化されることを懸念して難色を示していたが、いざ話してみると「まァ、好きにやんな」と存外落ち着いた反応が返ってきた。更には「だからって仕事で気ぃ抜くんじゃねェぞ」と大黒柱じみた忠告も飛んできて、HiMERUと目を合わせて驚いた。
最初こそ大きく狼狽えていたニキも、今ではこうして温かく見守ってくれている。
「その様子だと一緒に作ったゼリーもHiMERUくんに渡せてないみたいっすね」
手元のデザートカップを指差すニキの言葉に肩をすくめて肯定する。カップの中は少し甘めに味つけしたコーラ味のゼリーと瑞々しいフルーツが詰め込まれている。昨日ニキに教わりながら作った特製のゼリーだった。
HiMERUに渡そうと隙を窺っていたが、談笑に割り込むのも気が引けて渡せないまま今に至る。
「ゼリー、どないしよ。だいぶ温くなってしもた」
冷蔵庫から取り出した時はひんやりとしていたカップも、すっかり室温に馴染んでしまった。手の中で緩やかに鮮度を失っていく甘いデザートを見つめて肩を落とす。
「温度が変わったって美味しいことには変わらないっす。こはくちゃんが愛情を込めて作ったんすから。HiMERUくんにもきっと伝わるっすよ」
ニキが空中に人差し指で円を描く。その動きはゼラチンを溶かした鍋を丁寧に掻き混ぜた昨日の記憶を呼び起こす。HiMERUに美味しく食べてもらいたいと願いを込めて慎重にヘラで円を描いた。冷やした出来たてを味見して、舌の上で解ける滑らかな甘さを感じた時、きっとHiMERUも喜んでくれるだろうと確信めいたものがあった。
料理について語るニキの目にはいつもより爛々とした光が宿っていて、不安に曇った心を照らしてくれる。
「あっ、僕そろそろ行かないと怒られちゃうっす! じゃあね、こはくちゃん」
「おおきに、ニキはん」
慌ただしく去っていく背中に声をかけると、振り返ったニキが大きく両手を振る。その陽気さにつられて小さく手を振り返すと、コップの底に残った炭酸ががちゃぷちゃぷと揺れた。
ニキの姿を見送った後、改めてHiMERUの方に視線を移すが見える景色は相変わらずだった。軽やかで快活なニキの声が去ったことで、自身の孤独の輪郭が浮き彫りになってしまう。
座敷牢とは真逆の祝宴の中でさえ寂しさが生まれてしまうなら、孤独から逃れられる場所なんてこの世界のどこにあるのだろう。
「寂しい、か……」
ニキとの会話を反芻する。ささやかな呟きは賑やかなパーティー会場の雑音にもならずに消えていく。
誕生日は出来るだけ一緒に過ごしたいと思っていたのはもしかして自分だけなのだろうか。一抹の不安がよぎる。
お互いに舞い込む仕事やレッスンに明け暮れ二人きりになる時間が取れず、誕生日を一緒に過ごしたいと約束を交わせぬまま今日を迎えてしまった。この後のHiMERUの予定すら把握していない。言葉も交わせないまま今日が終わるのかもしれないと思うと寂寥がどっと押し寄せてくる。
それでも、囲まれて方々からたくさんの愛を受け取るHiMERUを皆の前から攫ってしまえるほど自分の欲望に忠実な獣にはなれない。輪の中心で彼がいつもより上機嫌な笑みを浮かべているのだから尚更だ。『HiMERU』はみんなのHiMERUで、今日は殊更そうだった。
自分だけのHiMERUではないのだから、独占したいと思ってしまうだなんてあまりに身勝手だ。その瞳に自分だけを映していて欲しい、だなんて。
そう思うのに、視線は未練がましくその勿忘草色を追いかけてしまう。
素直な欲と理性とがせめぎ合って体中で渦を巻き、空調の効いた部屋だというのにくらくらとのぼせてくる。これ以上この空間で過ごしていたら、自分の醜い独占欲で全身が濁りきってしまいそうだった。
目映いこの場所で自分の心だけが暗く影を落としていて、何だか惨めに思えてくる。体内に蓄積されていく澱を自覚しながらぽつねんと隅で立っているのに、いよいよ耐え切れなくなった。
残りの炭酸を呷って紙コップをゴミ箱に放り込む。ガコン、とゴミ箱から乱雑な音が吐き出されるのを聞きながら、パーティー会場を抜け出してエレベーターへ続く廊下を足早に進んでいく。楽しげな喧騒が遠ざかっていくにつれ、どこか安心した心地になって息を吐いた。
「桜河!」
背中から突然呼び止められてぴたりと足が止まる。心を甘く揺さぶる呼び声。間違いようもない、HiMERUの声だった。
醜い欲が染み込んだ体では不意に届いた愛しい声にも振り返ることができない。
見つけてくれた喜びと、主役不在のパーティ会場に対する焦燥感とが混じり合って、どんな顔をして振り返ればいいのか分からなかった。
「……主役が抜け出したらあかんやないの」
早くHiMERUを会場に追い返さなければ。焦りからついささくれ立った物言いをしてしまう。
言ってすぐ、背後でHiMERUが息を飲む気配がしてハッとする。間を漂う沈黙に、彼を傷つけたことを自覚して唇を噛みしめる。こんなことを伝えたかったんじゃない。頭を振って、体ごとHiMERUに向き直る。
「堪忍。八つ当たりや。HiMERUはんは何も悪ないのにな」
振り返って目に入ったHiMERUの表情が安堵の形に変わったのを見てほっと胸を撫で下ろす。優しい蜂蜜色の瞳を見つめるのは何だか久しいように感じる。
「話の途中やったのに追いかけてくれたん?」
「桜河を見かけて、つい」
考えるよりも先に体が動いてしまったらしく、冷静なHiMERUにしては珍しい。それだけ彼の心を占める一部になれているのだと自惚れてもいいのだろうか。沈んでいた気持ちが鼓動に合わせて浮き立っていく。
「わしとしては嬉しいんやけどな、そんでも主役が抜けたらアカンよ。あそこにはHiMERUはんのことを待っとる人らがおるんやから。はよ戻り?」
体を会場の方へ押し返すが、手首をしっかりと掴まれてしまった。
「桜河は待ってくれないのですか」
「えっ」
「桜河も一緒に戻りましょう?」
腕を引かれ、慌てて足を踏ん張る。一緒に、と優しく手を引かれようと、寂寥の香りが染みたあの賑やかな空間にもう一度戻る気にはなれなかった。
むずがる心とは裏腹に、HiMERUに握られた手首から熱が生まれて全身へ広がっていく。触れられることが嬉しいと心臓がどうしようもなく疼いている。
「桜河?」
一歩も動く素振りを見せないまま目を泳がせていると、怪訝な声で名前を呼ばれる。
「……一緒、なら、二人きりがええ」
零れてしまった本音に、時間をあけて羞恥とほんの少しの後悔が込み上げてくる。顔に熱の集まってくるのが分かって咄嗟に俯く。
「このまま抜け出しましょう」
繋いだ手の甲を親指で撫でられて、背中がぞくりと震える。
「それはあかんっ」
咄嗟に声をあげるとHiMERUの目が見開かれる。
「HiMERUはんのお誕生日を祝いたいんはわしだけやない。今は皆からのおめでとうをちゃんと受け取ってほしい。来てくれるんなら、それからがええ」
自分のわがままに迷わず抜け出そうと言ってくれたことが嬉しかった。気持ちは決して一方通行ではなかったことに鼓動が喜びに逸る。
「桜河がそう言うのなら」
ほんの少し眉尻を下げたHiMERUに髪を撫でられる。慰めるような手つきをみるに、痩せ我慢はバレバレだったのかもしれない。気恥ずかしくて目を伏せた。
視線の先の影が動き、不意にHiMERUの顔が近づく。耳元に唇が寄せられて、掛かる吐息に全身の筋肉が固くなる。
「パーティの後、二人で過ごしましょう? それまでもう少しだけ待っていてくれますか?」
耳元で甘く囁かれた言葉にこくりと頷く。脈打つ鼓動の音が吐く息と共に体の外へと溢れてしまいそうだ。
「空中庭園で待っとるから、来て」
指を絡めて約束を囁く。伝えて体を離すと、HiMERUは目を細めて頷いた。
「あと、これ。良かったら食べてな。ニキはんに教えてもろて作ってん」
握りしめたままだったカップを差し出すと、両手で受け取ったHiMERUはカップの中のゼリーと顔を交互に見つめる。
「これを、桜河が?」
「時間経って温なったから、味は保証できんけど。堪忍な」
顔の前で手を合わせると、HiMERUはゆっくりと首を振った。
「桜河がHiMERUのために作ってくれたのですから、どれだけ時間が経とうと美味しいに決まっているのですよ」
嬉しそうに眦を綻ばせるHiMERUに、ご馳走を貰ったような満足感が胸に広がる。食べ物に関してニキの言うことは正しいのだと実感した。
今度こそHiMERUを会場へと送り返し、エレベーターに乗り込む。
外へ繋がる扉をくぐると、心地良いとは言えない温い空気が通り過ぎていくが、心と足取りはすっかり軽くなっていた。
梅雨の明けきらぬ夏の夜風はほんのりと湿度を含みながらも、生き生きとした植物の香を運んでくる。
パーティーを締めくくる挨拶を終え、礼もそこそこにHiMERUは早足で空中庭園へ足を運んだ。
先程まで建物内でパーティーが開かれていた影響か、人の姿はほとんどない。逢瀬を重ねるには都合が良かった。
彩り豊かな花壇の隙間を縫いながら、目を引く桜の色を探す。庭園の隅で柵に寄りかかる見慣れた後姿が見えて、自然と歩く速度が速まった。
気配を感じ取ったのか、こはくが振り返る。ぱちり、視線が合うと菫色がキラリ瞬く。
満天の星空を背景に立つこはくの姿は、有名な七夕伝説のいち登場人物と重なった。
「お待たせしました」
手を取って隣に立つとこはくは「ほんまやで」と眉尻を下げて微笑んだ。
「やっとわしだけのHiMERUはんになった」
眦を甘く蕩けさせて、指を絡める。
「今日はやけに積極的ですね?」
「嫌なら離れるけど?」
「嫌なんて一言も言ってませんが」
すっと距離を取ろうとしたこはくの華奢な腰をすかさず引き寄せると、「コッコッコ♪」とご機嫌に肩が揺れる。
「美味しかったですよ。桜河の愛情たっぷりのデザート」
「あ、愛情たっぷりやなんて言うてない」
「おや。込めてくれなかったのですか?」
「……込めたけど」
素直に恋情を紡ぐ唇が魅惑的で今すぐ奪ってしまいたくなったが、衝動に身を任せるのはこの夜空に相応しくない。
腕にぴとりと寄り添うこはくの髪が夜風を浴びて靡く。月夜に照らされ夜桜のように舞い、HiMERUの視線を奪っていく。
「今日は星が綺麗でええね」
言いながら、HiMERUを映した瞳を細めて煌めくから、HiMERUは自分自身が瞬く星になったように錯覚する。
「お誕生日おめでとう、HiMERUはん。これからもよろしゅう」
弾んだ声でお祝いの言葉を伝え、絡めた指をそっと握り直す。寄り添う体温が心地よくて頬が緩む。
「ありがとうございます、桜河」
「ちゅうわけで。はい、プレゼント。受け取ってくれるやろか」
こはくが袋から取り出した、海のように鮮やかな青色の箱を握らされる。
長方形のその箱の中には夜を閉じ込めたような濃紺の万年筆が収められていた。滑らかなボディには所々に金の装飾が施されており、頭上に広がる星空のようにきらきらと瞬いている。
「お手紙の返事書いとるHiMERUはんの横顔見とるんが……好き、やっち。よかったら使うてな」
色白の耳を染めてはにかむこはくの体を強く引き寄せる。両腕で抱き込めた存在は胸の中でわたわたと慌てふためいてHiMERUの衣服を擦る。小動物のようで愛らしい。
「ま、待ってHiMERUはん、もいっこあんねん」
腕を緩めると目の前にこ手のひらサイズの瓶が差し出される。中は水色の液体に満たされている。
「万年筆のインク、ですね」
HiMERUの言葉にこはくが頷く。手渡された瓶の底にはラメが沈澱しており、揺らすと瓶の中で舞い上がり水色の液体の中を泳ぐように漂う。その様は空を舞う星屑のようだ。
「それな、HiMERUはんの色に似とって綺麗やっち思うたんよ。それに、プレゼントのアドバイスくれたラブはんが『推しが自分のメンカラでファンレターの返事くれたら超ラブい』っち言うとったから……。ラブはんの言うことは半分も分からんかったけど、役立ててもらえたら嬉しいわあ」
「今日は、桜河に貰ってばかりですね」
HiMERUの言葉にこはくはきょとんと首を傾げる。
「何言うとん。誕生日なんやから当然やろ」
さらりと言ってのけるこはくの純粋さが眩しい。小さくも強い輝きに惹かれ、吸い寄せられるように額に口づける。
万年筆が星空を描いて紙の上を滑る映像を思い浮かべて心が弾む。ファンレターの返事を書くのも捗るだろう。贈り物を早く試したくて気が逸るが、今はこはくとの時間を大切にしたい。
「HiMERUはんこそ今日はえらい積極的やね。外ではあんまりしたがらへんのに」
唇の触れた額に指先でそっと触れるこはくの目が丸く開かれる。
「嫌ならやめますが?」
「誰も嫌なんか言うとらんっ」
こはくの手が伸びて指に髪が絡まる。そのまま頭を引き寄せられたかと思うと、唇同士が触れ合った。
突飛な行動に驚きはしたが、こはくの唇がちう、と嬉しそうに吸いついてくるので大人しく受け入れた。どうせ自分達を見ているのは天上の銀河だけなのだから。
「HiMERUはんのくちびる、わしの作ったゼリーの味がする」
うっとりと吐息を絡めて自身の唇を舐めるこはくに、ごくりと喉が鳴る。
「もっと、味わいますか?」
「ん、」
小指と視線が甘く絡まると星がひとつ、空からこぼれて瞬いた。
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