そろそろワインがなくなって来ていたはずなので、と顔を出した酒場でとんでもないものに遭遇してしまった。多分明日は槍か雪が降るに違いない。
明日は夕方からクライアントと打ち合わせがあって遅くなるから、夕飯はどこかで食べて帰ってくるか自分で作るかするようにとカーヴェはアルハイゼンに伝えていたのだ。だからまあ、彼が酒場にいるのは分からなくもない。カーヴェのような飲み方はしないものの、箱単位で買うくらいには彼は酒を好んでいる。本を片手に店の隅を陣取って、ページを捲りながらちみちみ飲むこともあるのだろう。
「あ、アルハイゼン……?」
良ければあれも持って帰ってくれ、と顎で示された先には見覚えのある銀色の頭があった。椅子に深く腰掛けて足を組み、本は指を栞の代わりにして太股の上で閉じているらしい。まぶたは伏せているのかと思ったが近づけば完全に閉じられているのが分かる。
「……カーヴェか」
「ああ、うん、カーヴェだ。君、大丈夫か……?」
呼びかけられたアルハイゼンがゆっくりと少々むずがるようにまぶたを持ち上げて、カーヴェに焦点を合わせようとした。いつもよりいくらか時間をかけて彼がカーヴェの姿を認めて、そのくせ確かめるように呼ぶものだから心配になってくる。
「酔った」
眠気に抗うようにアルハイゼンがぱちりと瞬きをしてから、やや弱い調子でぽつねんと自身の状況を申告する。酔っ払いが酔っていると自己申告するなんてそもそも相当な状況ではあるのだが、それがアルハイゼンなのだから輪にかけて動揺してしまう。体調を崩す兆候でないといいのだけれど。
「立てそうか? 難しければメラックに補助してもらうけど」
カーヴェに名前を呼ばれたからかぴ、とメラックが音を立てる。酒場には似合わない音が気になったのかアルハイゼンがメラックの方に視線を投げた。
「酔いが少し醒めたら帰るつもりだった」
「そっか。ちょっとはましになったか?」
少々飛躍したアルハイゼンの返事をとりあえず受けて、彼が話しやすいように促してやる。うん、と本当かどうか怪しい返事と共にアルハイゼンが立ち上がって、ほんの少し重心を前にしすぎた気配があった。やっぱり駄目そうだと思いながら手を差し出してやれば、酒のせいで火照った手のひらがカーヴェの手のひらに押しつけられる。
「ツケで良いって言っていたから今日はそのまま帰ろう」
そのまま手を握られ続けたのを気にしないようにしながら、カーヴェはアルハイゼンにこれからのことを説明する。喉を鳴らすのも億劫になったのか、アルハイゼンは微かに頷いて見せただけだった。
幸いにも彼がいたのは一階だったので、アルハイゼンの足下を気にしながら段差を移動したのは少しで済んだ。店の外を出てもアルハイゼンがカーヴェの手を離そうとしなかったのには少し困った。
アルハイゼンと呼んで手を持ち上げて言外に促してみたが、彼は指を解く気はないらしい。付き合ってもいない成人女性にすることじゃないよとやんわりと伝えてみても、うん、と彼は頷くだけである。
諦めて二人で歩き出せば、アルハイゼンはどきどきバランスを崩しそうになっている。もしもの時のためにメラックに反対側に控えていてもらって、普段の彼からすれば随分とゆっくりのペースでカーヴェはアルハイゼンと並んで歩いた。
「飲める頃になってすぐでも僕に世話させてくれなかった君がこんなふうになるなんてなあ」
「酔っ払いの介抱がしたかったのか?」
「一回くらいなら見てみたいなと思ってた。気分は悪くないか? 吐かせるのにはちょっと自信あるぞ」
この前も工事現場の飲み会で、若手をなんとかしてやったんだからと続けると、アルハイゼンがぴたりと足を止めた。下手なことを言って胃の状況を意識させてしまったかもしれない。
「二人きりで個室に入っているんじゃないだろうな」
「僕を何だと思ってるんだ」
どうやら不用心だと彼は文句を言いたいらしい。体力勝負なところがあり男ばかりの職種なので、カーヴェだって注意しているし大半の就業者がカーヴェのことを気にしてくれている。だからそもそも、トイレなんて少人数しか入れない個室では世話をさせてもらえないのだけれど。
「付き合ってもいない男と暮らしている女」
「そうさせたのは君だからな」
アルハイゼンが再び口を開くと共に今度は大股で歩き出すので、カーヴェは慌てて彼に付いていきながら文句を言う。自分が押しかけたのならともかく、あの家にカーヴェを上げたのはアルハイゼンの方だと言うのに何を今更。
カーヴェの反論に取り合うつもりがないのか、アルハイゼンは黙ってどんどん先に進んでしまう。カーヴェではぎりぎり小走りにならないくらいに頑張らなくてはいけなくて、いつもは彼がカーヴェに合わせてくれているのだと痛感した。もしかしたら先ほどまでの歩速についても、カーヴェが隣にいることを強く意識した結果だったのかもしれない。
「アルハイゼン、もう少しゆっくり歩くか手を離すかしてくれないか」
そう苦情を述べるとアルハイゼンがちらりとカーヴェを見てから、すぐに視線を戻して速度を落とす。だというのに、カーヴェはかくんと彼の肩を引っ張ってしまった。
僅かにずれた指の位置をアルハイゼンが握り直して戻して、緩く手を引いてくるのでカーヴェは慌てて足を踏み出す。それから、一瞬で網膜に焼き付いたカーヴェに向けられる彼の視線に再び気を取られる。
拗ねていたのではないだろうか。あれは。付き合ってもいない男と暮らしている女であるカーヴェに、アルハイゼンは何らかの不満を抱いている。今までの話の流れを汲んで考えれば、つまるところ。
いやいや、そんなまさか。そんなこと、さすがに常軌を逸している。今の彼が自分達の関係に不満を抱いている、なんて。いや、勝手に他人のツケを作って帰ってくる同居人に不満がないということはないだろうが、これはそういう話ではなく。
アルハイゼン、と確かめるようにカーヴェは指の力を強めて彼を呼ぶ。それでもまだ、彼ははっきりとした答えをカーヴェにくれるつもりはないようだった。
* * * *
それからはお互い何も喋らず夜道を歩いた。アルハイゼンはまだしっかりと酩酊しているようで、時折重心の移動が怪しくなる。その度にメラックがアルハイゼンの動向を気にしたし、カーヴェも気がついたら彼と繋いだ手を強く握ってしまっていた。
家に戻って玄関の前に立ってカーヴェは指を解こうとしたが、アルハイゼンは一向に力を緩めてくれなかった。むしろカーヴェが力を緩めたのが不満らしく、それを補うように力が加えられる。
「アルハイゼン、鍵を取らせてくれないか」
子供に言い聞かせる気分になりながらカーヴェがアルハイゼンに願い出ると、アルハイゼンが自分が握り締めた手を見てから自身のボディバックの口を開ける。それから鍵を取り出してそのまま扉を開けようとするものだから、思わず不用心な鞄の口を締めてやった。
扉をアルハイゼンが引いて二人で中に入り、やっぱり鍵を閉めようとしなかったのでカーヴェが締める。アルハイゼンの鍵は小さな音を立てて鍵置きに戻ったが、この様子ではカーヴェの分は後で戻しに来るしかないだろう。
「ほら、水を用意するからいい加減に」
「こんな振る舞いを見せられて、納得できると思うのか」
「は?」
玄関扉に辿り着いてから、アルハイゼンばかりが握り込んでいた指に更に力が籠もる。いまいち脈絡が掴めないものの、普段よりも苛立ちが混じって低く響いたその声は明らかにカーヴェを非難していた。
「なんとも思っていない男と共に暮らして、こういう事を許す女だろう君は」
「僕だって選択肢があれば」
刹那、爆ぜる音が響いて思わず肩を竦めてしまう。それがアルハイゼンの舌打ちだと気がついたのは、彼が再び口を開いてからだった。
「君がここから出て行こうと思えば手段なんていくらでもある。君がそれを選ぼうとしていないだけだ」
アルハイゼンお得意の揚げ足とりであるとか、カーヴェの不都合な事実の羅列の類を意図したものでないのは明らかだった。どこか痛切さを感じる指摘に、カーヴェはどう答えるべきなのか分からなかった。そもそもアルハイゼンが何を求めているのかも判然としない。
「カーヴェ」
呼ばれて、顎を掬われた。突然のことに身を強ばらせているうちに、アルハイゼンが目を眇めて手を解いたと思ったら腰の後ろに腕が回って引き寄せられる。ひたりと彼の胴がカーヴェの体に押しつけられて、その熱さに目を白黒とさせてしまった。
それからまたもう一度呼びかけられて、カーヴェは自身に落とされたアルハイゼンの眼差しをようやく受け取る。瞳に籠もる子供染みた癇癪はなんとなくカーヴェにも心当たりがあるものが根源のように思えてならない。
先ほど酒場でしていたように酔いが落ち着くまでまどろんでいるのが彼の酔いの対処であるならば、アルハイゼンがこの感覚を覚えるのは初めてのことかもしれない。コントロールが利きづらい感情の起伏は、正しい意思疎通の手段を奪って正確な表現を阻害するものだ。
「アルハイゼン」
彼の腕の中でもぞりと動いて背中に手を回し、鼓動と同じスピードよりもほんの少し遅くリズムを取ってやる。そうすれば一瞬何かを気にしたようだったが、カーヴェの好きにさせるつもりになったようだった。
「君は僕にどうしてほしいんだ?」
一度深くアルハイゼンが息を吸って吐き出すのに合わせて、カーヴェは柔らかく響くように努めながら彼に問いかけた。その問いに彼はほんの少し目を眇めて、躊躇うように視線を逸らし、最後に堪えかねたように唇を開いた。
「……俺が特別だからだと言ってほしい」
ゆるりと開かれた唇からまず零れたのは微かな吐息だった。それからなんとか残った理性を押しのけるように、アルハイゼンがカーヴェに願いを零す。
実際アルハイゼンが指摘するように彼の家に転がり込んだ直後ならともかく、今のカーヴェが本当にどこにもいけないわけではないのだ。たとえばクライアントに会う手間であるとか、近隣住民との騒音問題であるとか、はたまた作業に適した広さであるとか。そういうものを犠牲にすればどこかの賃貸を借りるのは全く難しい話ではなかった。
そういうマイナス面とアルハイゼンと暮らすということを天秤にかけて、結局カーヴェは彼との生活を選んでいる。好ましくもない男と二人きりで。
――――本当に? たとえば、ここに暮らすのが彼以外の誰かであったとしても、カーヴェはこの家に留まり続けたのだろうか。
自らに問いただしながら、カーヴェはアルハイゼンの瞳を覗き込む。酒に飲まれた虹彩は普段よりも赤味を増して、カーヴェを縛り付ける重さが感じられるように思う。
それからアルハイゼンはほんの少し背を丸めてカーヴェに顔を近づけると、温度の上がった額をカーヴェの額に押しつける。そこからカーヴェが逃げようとしないのを見て、ゆっくりとまるで祈るように瞼を落としてどうか一人の男に過ぎない自分を見てほしい、と囁いた。
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