
画像:同人誌表紙
1
時はヴィクトリア朝ルビコン。首都
倫敦にほど近い
白金漢郡の
泰晤士川沿岸に
聳え立つは、
小銃の製造で名を馳せる名門実業家、アーキバス家のカントリーハウスの尖塔である。
長閑な田園地帯を抜け、鬱蒼とした森深くへと進んでいくと、複雑に入り組んだ幾何学模様の装飾と、
蝙蝠の翼のように突き出した無数の
飛び梁が刺々しい、入る者を拒むような風体の灰色の館が見えてくる。
辺り一帯は全てアーキバス家の領地となっており、
肥沃な土地は
主人が何もせずとも財を生み出す。手付かずの自然が残された森では、夏季になると貴人達を招き入れての大規模な狩猟大会が行われる。勿論、狩りに用いられるのはアーキバス製の
小銃である。それはただの娯楽のための集まりではなく、軍関係者に自社製品の性能を宣伝する、社交の場でもあるのだ。
そのような贅沢な
歌徳式建築の館に乗りつけた、
軽量二頭立て馬車から降り立ったのは、夜のような濃い菫色のドレスを纏った、一人の
家庭教師であった。
質素な詰襟のドレスに、
肋骨様飾緒の付いた乗馬服風の上着を羽織り、大きな
腰当付きの細身のスカートが特徴的な
家庭教師の名は、スネイルという。スネイルは
中流階級の小さな
連棟家屋から、紹介状を通して
上流階級の
荘園邸宅へと勤め先を乗り換えて、地位を上昇させてきた熟練の教職者である。ほとんど化粧気のない青白い眉間には、長年の経験と苦労を思わせる深い皺が刻まれていた。
スネイルはアーキバス家の門戸を叩いたとき、必ずやこの家を自分の最後の勤め先、生涯の主としてやろうと、天を衝く
銃剣のような尖塔に心の底で誓ったのであった。
家庭教師は、あらゆる婦人の職業の中でも、未婚者が自立して生きる事のできる唯一の選択肢と言っても過言ではない。スネイルには、自分が結婚をするという選択肢は考えられなかった。スネイルが過去の勤め先で見てきた
女主人達は、一見すると労役を免除され贅の限りを尽くしており、恵まれているように見えるかもしれないが、実態は籠の中の鳥である。そのような生活は自尊心をへし折り、心を腐敗させる。名誉と教養あるスネイルには、とうてい耐えられる生き方ではない。
子供が
新生児室を去るべき6、7歳の年頃に成長すると、教育熱心な貴族の親達は子供を質の低い
寄宿学校へは通わせずに、教職者を家に雇い入れる。ゆえに
家庭教師は貴族の跡取りの人格形成に大きく関わり、その一生を左右する力を持つ、極めて重要な仕事である。実力を認められれば家に仕える立場にもなれるし、もしも教育を施した子供が慈悲深い名君へと成長すれば、生涯に渡る支援を期待でき、老後の生活も安泰だ。教鞭を振い続けて十余年、スネイルは緻密に計算された人生設計に基づき、
家庭教師としての理想的な道を歩み続けていた。あとは誰が見ても恥ずかしくない名家の者に、自分の実力を認められるだけだ。
最初の日は、アーキバス家の主人夫妻は、遠路はるばる
嵐ヶ丘からやって来たこの新しい同居人を、客人としてもてなし、屋敷の隅々まで案内した。
慢性的な
資源不足により、ルビコンの貴族社会は斜陽を迎えているのにも
拘らず、アーキバス家ではヴィクトリア朝全盛の姿そのままに数多くのメイド達が働いており、少ないながらも豪奢なお仕着せの
従僕の姿もあった。表に姿を見せない階下の使用人も居る事を考えると、館全体の人口は数百人は下らないだろう。
スネイルは主人夫妻が見ている前では、誰に対しても朗らかな微笑を浮かべていたが、かれらが目を離すと使用人達を冷たい目つきで見下し、手足のようにこき使った。スネイルは使用人達を、同じ境遇にある労働者の仲間とは思わなかったし、
家庭教師が使用人に媚を売っても舐められるだけだと知っていたからだ。
スネイルは主人夫妻の息子
――未来のアーキバス家の当主になるであろう少年の教育を任された。
天鵞絨のような滑らかな色白の肌をした、まだ坊やという形容の似合うこの少年は、それまで付かず離れずで彼を支えていた
乳母から無理矢理引き離されたのに、
我儘の一つも言わずにスネイルの教え子として勤勉に知識を吸収していった。
アーキバス家の坊やは、スネイルのそれまでの教え子の中でも、最も手のかからない部類の子供であった。それは、彼の
乳母が過剰な甘やかしも虐待めいた
躾も行わない、健全な教育を施したお陰であろう。あるいは、スネイルの髪の色や眼鏡をかけた顔付きが、前任者とよく似ているために、坊やが親近感を抱きやすいせいだとも考えられた。
しかし、スネイルはその事に気づいても、前任者の手柄を
簒奪して自身が称賛されている状況に、何の罪悪感も抱く事はなかった。柔和で控えめな気性の
乳母は、まるで慣れた事だと言わんばかりに、坊やの主導権を握る権力闘争の場から、静かに身を引いた。
坊やの専属教師として、自分一人の部屋と専用の
従者を持つようになったスネイルは、あたかも貴族の一員であるかのように、傲慢に振る舞った。ある朝、スネイルは自室を出た先の廊下で、ランプボーイが屋敷中のランプを壁から取り外し、拭いて回っているのを見て、嫌味たっぷりに声をかけた。
「飽きもせずにご苦労様ですね。お掃除は楽しいですか?」
「はい、楽しいです」
ボーイが社交辞令を返すと、スネイルは嬉々とした足取りで自室から古いランタンを持ち寄り、ボーイの目元に突き出して、言い放った。
「ならば、これも掃除なさい。楽しい仕事が増えて喜ばしいでしょう?」
スネイルは、煤汚れのこびりついたランタンを、掃除済みのランプの山の上に、あえて汚れが被さるようにひっくり返して置いた。ボーイは、ぴかぴかに磨かれたランプが真っ黒な煤と澱んだ
灯油で汚されていくのをしばらく見つめ、無言ですくっと立ち上がって、スネイルの方に顔を近づけた。
「な、何をなさるのです
……」
ボーイの取った予想外の行動と、想像していたよりも大柄なボーイに見下ろされる威圧感とで、スネイルは後退り、狼狽した。無表情なボーイの奇妙な色合いの瞳に射竦められたスネイルは頭が回らなくなり、中途半端な姿勢のまま、その場で硬直してしまった。
沈黙を破ったのは、遠くから聞こえるジャラジャラという金属の音であった。スネイルが音のした方に目を向けると、そこには案の定、鍵束を付けたメイドが廊下の影の中を歩いていた。スネイルは軽く舌打ちをし、メイドを睨みつけた。
「可愛い部下のパイターを、あまりいじめないでくれないかな、スネイル」
メイドの制服を着用せず、緑色の幅広のドレスの腰に鍵束を付けた服装が特徴的な、このフロイトというユダヤ人メイドは、屋敷の監督者として全ての使用人を取りまとめる、
家政長という特別な役職に就いていた。
フロイトの白いレースで縁取られたキャップの下には、ユダヤ人らしい黒々とした髪の毛が垣間見えている。口元には感情の読み取れない薄気味悪い微笑みが浮かんでおり、微かに持ち上げられた唇の端からは、酷薄そうな鋭い八重歯が覗いていた。ステンドグラスの赤い所を通った朝日に照らされて妖しげに輝いて見える、薄暗い色の瞳に寒気を覚えたスネイルは、会釈に応える振りをして、目を逸らした。
「名前が違います。ペイターです。私はペイター」
「そうだったな、ポイター」
自分の方を一瞥する事もなく、適当な言葉を放つフロイトに、ボーイはそれ以上の訂正は行わなかった。ボーイはフロイトの腰のベルトの間に掃除用の
布巾を捩じ込むと、何食わぬ顔で面倒なランプ掃除を押し付けて、その場からそそくさと去っていった。
「
……あれが哀れだと思うなら、そもそもあなたの権限で、屋敷中のランプを電灯に変えてあげれば良いでしょうに」
「電気の色はこの館にはふさわしくない。ここは電灯が生まれる前に作られた建物だからだ」
館の調度の事は自分の方がよく知っているのよ、とでも言いたげなフロイトの言葉に、スネイルは軽い苛立ちを覚えた。スネイルは、この
家政長の事がどうにも好きになれなかった。初めは自分が見下す使用人達の親玉であるという立場への嫌悪感でしかなかったフロイトへの悪感情は、館での日々を過ごしていくうちに、フロイト自身の気性への嫌悪感へと変わっていった。
フロイトは奇妙な人物であった。普通、上級使用人に見られるような強権的な性質は全くなく、そのために誰からも嫌われてはいないが、どこか浮世離れした雰囲気のために、誰からも親密な関係になろうとは思われていなかった。日曜日に
礼拝堂に来ることもなく、職場関係を超えた友人と呼べる者も一人も知らない。
メイド達の噂によればフロイトは
ドーバー海峡を渡って遠方からやって来た移民であり、最下級の
皿洗いメイドの身分から腕一つで成り上がってきた、
立身出世の物語を体現するような背景を持つという。しかしスネイルはその話を耳にした時、フロイトの事を努力家として好ましく思うのではなく、なぜだか怪奇小説に登場する、人の生き血を啜る恐ろしい怪物の姿が、謎めいたユダヤ人メイドのそれと重なって見えた。
農業不況や社会情勢の変化に伴い、先祖代々受け継がれてきた屋敷を放棄する貴族は、今や珍しいものではない。スネイルの若かりし頃と比べると、
家庭教師を雇う余力のある家庭はずっと少なくなった。
星外から押し寄せて来る、
集団虐殺に追われたユダヤ人達が安い賃金で働くので、ただでさえ少ない労働者の椅子から人々が蹴落とされ、街を彷徨っているのだ!
スネイルは、完璧であるはずの自分の人生設計に、この頃は一抹の不安を覚えていた。工業の急速な発展、価値観の変容、そして
悪性菌のように
英国を侵食するユダヤ人
――本当に、未来の世界でも自分の人生は安泰なのだろうか。階級上昇を果たしたところで、その階級自体がなくなってしまったら?
平時であれば、そのような
風刺画で描かれるような不安を掻き立てる未来予想を、鼻で笑ってみせるような理性のあるスネイルであっても、いざ貴族社会に食い込んだユダヤ人と対面し、その不吉な色の瞳に射抜かれると、目の前のメイドが自らの立場を揺るがすためにやって来た
侵略者であるという悪夢のような想像が、暗雲のように脳裏に立ち込めるのであった。
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