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史加
2024-10-17 22:36:46
1979文字
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原神(鍾タル)
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溶けないから言えること
鍾タル/眠れない鍾離の話
命の息づかいひとつ聞こえぬ雪原を、鍾離は知らない。
スネージナヤ。名前と、文献に記された文化や逸話、そして璃月港を訪れるかの国の者たちの風貌と、彼らの語ることばだけを知る国。長らく璃月を統治し、離れることのできなかった鍾離にとって、冬国は未知の領域である。
けれど草木も眠る夜に、うっすらと赤く腫れた瞼と、長い睫毛がつくる影を見つめるたびに、未踏の雪原に足を踏み入れた気分になる。辺り一面、まっさらに積もった雪の海も、肌を刺す冷気も知らないのに、まるでそのうつくしさの上に自らの痕跡を残す高揚を知ったような気になるのだ。
「
……
眠れないのかい」
ふるりと睫毛が震えて、いまだ冷え固まってはいない瑠璃のひとみが顔を覗かせる。昼間なら視線がうるさいだの、気配が気になるだのとことばを連ねて鍾離を突っぱねそうな男が、今は等身大の青年のまま腕の中に留まっていた。
「すまない、起こしてしまったか」
「なかなか先生が寝付いてくれないからね」
自らのあどけなさを棚に上げて、彼は困ったような口ぶりで言うと、あたたかい身体を擦り寄せてくる。ちゅ、とやわらかいものが眦に、頬に触れるのがくすぐったい。冷え始めていた心の端っこに人肌のぬくみが伝わって、鍾離のまばたきを緩慢にさせる。
「先生は長生きをしているからか、小難しく考えすぎだ」
眠れずにいる男を寝かしつけたいはずの青年が、不意に語り始めた。
「俺の故郷の雪原は、たとえ何度踏み荒らしても降り積もる雪がすべてを覆い隠し、まっさらな状態に戻る。凍えるような寒さの中でも生き延びる術を持つ者であれば誰だって、何度でも真新しい雪の上に足跡を残せるのさ。そしてそのたび、なんとなく、そう、本当になんとなくだけど
……
特別なことをした気分になる。雪なんて飽きるほど見ているはずなのにね」
俺も子どもの頃はそうだったし、今もたまに、そういう気分になるよと、偽りのない声が紡ぐ。
触れ合った肌の下から、とくとくと規則正しい音が鳴り響いている。腕の中で大人しくしている青年の身体に不自然な強張りはない。
彼の肉体は冷たさにはほど遠いところにある。幾度となく鍾離を受け入れたことで、もうまっさらで無垢な生きものには戻れなくなっている。それでも、しろい肌の上に深い夜の痕跡を残すたび、鍾離はそれが薄れていく未来を想い、息をひそめてじっと眺めずにはいられない。
朝が来て、溶けたまままぶたの下に隠された瑠璃が元の硬度を取り戻すそのときまで眠れない日を、もう何回経験しただろう。寂しさが淡く積もった朝は、目を痛めるほどにまばゆい。晴れた冬の朝もそういったものだろうかと、勝手に思い馳せてしまうほどに。
「先生」
薄い暗闇の中で青年が頬に触れてくる。
「俺はね、どうして特別なことをした気分になるのか、その根拠を探そうとすることにたいした意味はないと思っている」
「
……
それは、なぜだ」
「簡単なことさ。ひとの心は理屈じゃないもので動く、やわらかいものだからだよ」
節くれだった指先がふに、と鍾離の頬を押した。弾力を確かめるように何度か戯れた指先が離れていき、未だ赤く腫れている目が三日月を描く。
「先生の頬だってこんなにやわらかいんだ。きっと、もっとやわらかくなるね」
くふくふと笑って、青年は無邪気に言った。難しいことばだが、言いたいことは鍾離にもなんとなく理解出来る。なにより彼がそんな、舞台の台詞のように飾られたわけでも、気取ったわけでもないことばを紡いでくれることが胸の奥を揺さぶって、鍾離の凝り固まりつつある思考を引きはがす。
腕にほんの少し力を込めて、青年の身体をぴたりと抱き寄せた。頭の中にことばの羅列を並べるのをやめたことで生まれた余地に、布地越しに伝わる温度と心音が刻まれる。
ふと、鍾離は思い出す。
それは何の変哲もない日だった。窓辺で本を読みふけっていたら、唐突に降り出した雨の一滴が余白の何も書かれていないところにぽたりと落ちて染み込んだのだ。
文字をおびやかすことのない位置だったから、インクが滲んだり、一部が判読不能になったり、そういった被害にはいたらなかった。窓を閉じ、その頁を開いておいたら、鍾離の知らぬ間にきちんとかわいていた。その本は今も鍾離の家の本棚にあり、どの頁のどの部分だったかまで思い出せる。そこに明確な跡は残っていない。けれど水を吸った記憶のある場所だけ、ほんのわずかに手触りは変わっているだろう。
「まだ難しいことを考えているのかい?」
角の落ちたまるい声が尋ねてくる。
いや、と今度は自ら否定して、鍾離は目を閉じた。
――
踏み荒らされた大地に雪が積もったら元通りになるというのは、本当なのか。
彼にたずねるのは、次の朝でいい。
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