ようやく仕事が一段落して危機を脱したと思ったら、そろそろ日付を跨ごうという時間だった。長時間妙な姿勢でいたせいで痛む背中を伸ばしたら、ぱきぱきと音がなってほんの少しだけ楽になる。そうすれば正しい位置に戻った胃が空腹を訴え始めて、渋々台所に向かえば見覚えのある紙袋が置いてあった。
たしか、と痛みが残った首を傾けながらカーヴェは今朝の出来事を思い起こす。たしか、今日はパンの一つ温め直す余裕もないとアルハイゼンに告げて、常温のパンと適当に切ったハムと葉物野菜を朝食にしたのだ。もそもそとパンを口にするアルハイゼンよりも食事を先に終わらせて、夕飯も適当に済ませてくるように伝えた記憶がある。
これは明日の朝食か、カーヴェための夕飯だったのではなかろうかと思う。頼んではいなかったものの、彼は時々そういう気を回してくれることがあった。
袋をちょいと持ち上げると、時間経過で詰めてある葉っぱがしんなりとした大ぶりのピタが半分入っている。これを翌朝二人で分け合うには足りないので、たぶん今夜のカーヴェのご飯なのだろう。
すでにぐっすり寝入っているであろうルームメイトがいるはずの方角に手を合わせて、カーヴェは袋を剥がしながらピタに齧りついた。温めるのも億劫だという気持ちまで慮ってくれたのか、冷えたままでも美味しい具材が詰まっている。
台所で立ったままピタを食べきってコップ一杯の水を飲んでから、カーヴェはずるずると居間に向かう。さっさと湯でも浴びて寝てしまった方が良いのは分かっていたが、吸い寄せられるように広いカウチ近寄って仰向けになって転がってしまった。
お腹はそこそこ満ちているし、連日の長時間労働に心身共にくたびれているし。もうそのままここで寝てしまってもいいんじゃなかろうか。そんなことを考えていたら、とん、と小さな音がした。
はじめの音には何の注意も払ってはいなかったが、とん、とん、と続けば気になってしまう。というよりも、これは足音ではなかろうか。びっくりしてしまいながらも閉じかけた瞼を持ち上げるのと、アルハイゼンがカーヴェの前にやってくるのはほとんど同時だったように思う。
「起きたのか……? えっ、いやなんだそれ、ま……」
喉が渇いたとか、トイレに行きたいとかで途中覚醒したのかと思ったが、何やら片手に持っている。ずい、と頭上に下ろされかかって慌ててしたから支えると、ようやくそれが本だと気がついた。
「今日は君の誕生日だっただろう」
「そういえば……そうだっけ……」
アルハイゼンの指摘にようやくあともう少しで期限切れになる今日の日付と自分の生まれを関連付けて、なんだか余計に疲れを感じてしまった。教令院を卒業してからはろくに祝ってもこなかったし、もう歳を重ねたところで嬉しい年頃というわけでもない。
「いや、でもこれは明らかに君の趣味、ん? あ⁉」
アルハイゼンの物言いだとまるで誕生日プレゼントを渡しているかのような振る舞いだが、本のタイトルだけを見るとどうにも嘘くさかった。せめてカーヴェの専門に掠りそうなタイトルを選んで来たらどうなのだ、と文句を言おうとした瞬間に本の上の何かがぐらりと揺れたのが分かった。
そのまま丸い何かが崩れて、ぼとりぼとりと絨毯の下に落ちる。随分と軽くなった本をカウチによけて身を捩りカウチの下を覗くと、甘く芳醇な芳香が鼻先に香った。
「何やってるんだ、まったく……ああ、傷になってる……」
一つ二つと持ち上げた大きな桃は片方は軽くえぐれて、もう一方はへこんでしまっていた。このままでは日が昇る頃には傷んでしまうだろう。こうなっては仕方がない。
「今から剥くけど君も食べるか?」
この時間に食べるには量が多いような気もするが、二人であればなんとでもなるはずだ。カーヴェの誘いにアルハイゼンは少しの迷いもなく頷いたので、カーヴェはとうとうカウチから身を引き剥がして台所へ向かう。
誕生日がどうこうと言っていたのだから、アルハイゼンに剥かせれば良かったと気がついたのはざぶざぶと桃を水に浸してからだった。そう思うと途端に億劫になってくるが、今更彼を呼び寄せて代わりに剥けと要求するのは少々格好が付かないので諦めることにする。
アルハイゼンの雑な扱いのせいで形は少しばかり悪くなってしまったものの、丸くて大きなそれはずっと美味しそうな匂いをさせている。色や匂い、形のどれをとっても、カーヴェが普段買うような安物でないのは明らかだった。
きっとこれはお祝い事に使われるものなのだろう。そうして、何の因果かカーヴェの生まれた日を祝うためにこの家にやってきたのだ。たぶん。
アルハイゼンが帰り道にバザールに寄って、箱に飾られた果物の数々から桃を二つ選んでこの家に持って帰ってきて。おそらくカーヴェの仕事が終わるまで、わざわざ起きていてくれたのだろう。どうしても読みたい本がない限り、夜更かしなんてしないあの男が。
つらつらと事実確認をするうちにつんと鼻先が痛んだのにびっくりして、カーヴェは慌てて頭を振って痛みを散らす。それからこれから味わうのだろう特別な舌触りを想像して、彼が差し出してきたあの本を読んでやってもいいだろう、なんて気持ちになった。
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