旅人から渡された手紙には意外な名前が記されていた。記されているといっても手紙の文頭だけで、簡素な封筒にはアルハイゼン宛ててあることを示す内容しか書かれていなかったのだが。
旅人が直接送り主の名を述べなければ、アルハイゼンは中身を読みもせずに捨ててしまっていただろう。それでも正直開けるまで、本当にニィロウからのものなのか疑ってはいたのだけれど。
そう勘ぐってしまうくらいには封筒と本人のイメージが乖離していたのだ。まるで教令院の内部で使うような茶色い封筒を彼女がわざわざ買い求めるとも思えなかったし、劇団の備品でももう少し気取ったものを使うのは想像に難くない。しかし、持ち込んだのが旅人であったことと記された内容を照らし合わせれば、この手紙がニィロウ本人のものであるのは間違いないように思えた。
手紙によると最近スメールでは自分達――ニィロウとアルハイゼンの浮いた噂が流れているらしい。慎重に言葉を選んだらしく、やや回りくどくなっている彼女の文章は噂の元になった人物には悪意はなかったはずだと告げていた。そもそも、きっかけの発言は全く違う形だっただろうと、彼女は考えているようだった。
普通であればその場で終わるような話だったのだろうが、その人物が二人と交流があったのが問題だった。その人が言うのであれば確かにそうなのだろうと思われたのか、噂は二転三転して今の形になってしまったらしい。
だからちょっと今、困っていて。そう書かれた文字から目を離して、アルハイゼンは目の前で建築関係の季報雑誌を捲っているカーヴェを睨み付けた。つまり、噂の出所のとされる女である。
ニィロウは踊り子であり、踊り子は人気商売の一つである。彼女の人間関係がその業の評価に影響するべきではないとアルハイゼンは考えてはいるが、そういうところを気にする輩が数多いのは否めない。だからニィロウは勝手に交際相手を作られたという不名誉に輪をかけて困ってしまっている。
どうせ酒の場で、その場の全員が無責任に好き勝手話していたのだろう。その話題が翌日以降に持ち越されるなんて露とも思わず、きっとカーヴェもぺちゃくちゃと喋っていたに違いない。例えばカーヴェが学院祭に出ていなければ、もしくはアルハイゼンとかつて学友でなければ他の大勢と同じ扱いで終わったはずだった。
けれどこの案件に限っては真に残念な事にカーヴェはニィロウと面識があったし、アルハイゼンとの縁が修復されつつある事を知っている者も少ないとはいえない。後者については意識していないのは本人ばかりである。勘弁してほしい。
「な、なんだよ」
剣呑なアルハイゼンの視線に気がついたのか、遅れて顔を上げたカーヴェがびくりと肩を竦める。彼女からすれば全く心当たりのない鋭さに少々たじろぎつつも、不当な扱いを受けているとでも言いたげな姿勢を示してきた。
「……飲みに行かないか。今から」
「今のそういう顔だったか? いいけ……いや、ちょっと最近懐が厳しいからどうしようかな……」
「今回は奢っても構わないよ」
自分から誘ったのだし、と付け加えるとぱっとカーヴェのかんばせに喜色が浮かんだ。こういうときに変に勘ぐらないのが彼女の美徳で、と言いたいところだが実際勘ぐってはいるのだろう。
「分かった。行こう!」
勘ぐった上で、アルハイゼンの提案に裏がなかった時の事をちらりと考える。そこに自身の欲求やら直近のスケジュールやらを加味して、そういう判断になったらしい。
そういうもしもを考えてしまう思考の仕方のせいで、どれだけ自身が損をしたのかと喉元まで出かかった批判をアルハイゼンは何とか飲み込んだ。なにせ、思った通りに事が進んでくれるのはありがたいことなので。
なんて話をしたのももう一時間以上近く前の話である。日中仕事で外に出ていたらしいカーヴェの身支度はすぐに済んで、飲み始めるには少々出遅れた時間帯に横並びの席に座った。そのせいで料理が出てくるのが少しばかり時間がかかったように思うが、量味共に不満はない。
アルハイゼンが平らげるのを前提にしてあれやこれやとカーヴェが好き勝手――とはいえアルハイゼンの趣向も考慮してくれた内容で注文し、それに合わせた酒もそこそこ空けた。カーヴェはいつもの正体をなくしたいという不純な動機のない状態で席に着いたからか、普段よりもむしろ余裕のある飲み方をしているように思える。つまり、ふわふわと気持ちよく彼女にちょうど良いペースで飲めているということだ。
「この前ここでニィロウの話をしただろう」
「へ? 急に何……ああ、確かにしたな。なんで君が知ってるんだ?」
カーヴェがこくんと喉を動かして深い色のワインを飲み込んだのを確認してからアルハイゼンが問いかけると、怪訝そうな顔をして記憶を掘り返したらしい彼女が更に訝しげに首を傾げてみせる。
「一体どんな話をしたんだ」
「さては今回の件はそれが原因だな? いやまあ、君の話もちょっと混じっていたし、下世話といえばそうだけど」
ワインの入ったグラスを揺らして、支払いの相手が誰なのかを示唆しながらカーヴェがもう一口ワインを口に含んだ。どうやらまだ酒を飲んでいる余裕があるらしい。
「下世話?」
「あっ、いや、ちょっと言い過ぎだった。学院祭の時に君達一緒に仕事をしてただろ? その姿が案外お似合いだったなあって話をしていたんだ。誰とだったかな……多分ここの常連の誰かだったと思うけど」
内容によってはニィロウの名誉のためにも文字通り締め上げる必要が出てくるところだったが、さすがに踏み越えてはならないラインの見極めはできていたようだ。小さく溜め息を吐くと、なんだか機嫌が良さそうに本当にどこから聞きつけたんだかとカーヴェが笑う。
「ほら、それに彼女の柔らかい性格と、君のまあなんだ、癖の強い性格を足して二で割れば随分やりやすくなるんじゃないかって。長く連れ添うと似てくるって言うじゃないか。僕はそういうのを期待していたところもあって」
知り合いの恋愛事情に口を出した事が露見した罪悪感からか、カーヴェの口はくるくるとよく回った。少なくともニィロウに不利益をもたらそうとはこれっぽっちも考えていなかった雰囲気なのが、唯一の救いと判断しても良いのだろう。
「考えてもみろ、君とちゃんと会話が続けられる相手なんてどれだけいる? そういう人は大事にした方が良い」
「それはそうだな」
ニィロウの未知と遭遇した際の柔軟性はアルハイゼンも評価していた。アルハイゼンやカーヴェとは全く異なる知識と経験をもってしてそれらを咀嚼しようとする姿勢もまた、この国に根ざした好ましいものだと思っている。それについてはアルハイゼンだって否定するつもりはない。
「もしも君が家庭を持ちたいと思うなら、現実的な選択肢だと僕は思ってる。というか実質今のところ一つしかないんじゃないか?」
いっそ得意げに感じられるくらいの調子でカーヴェがいつの間にか空っぽになっていたグラスの口を指代わりに差し向けてくるので、アルハイゼンはぐっとグラスごとカーヴェの手を横にずらした。その異様に自信満々の結論にはいたく不服がある。
「君の判断の正しさはとにかく、そういう対象は他にもいると思っている」
「だれだ?」
思っているどころか、その相手こそがアルハイゼンの本命であるわけだが。思いもよらなかったらしいアルハイゼンの回答に、片手で持っていたグラスを机に戻したカーヴェが再び首を傾げてしまう。
さらりと耳から落ちた甘い色の美しい金糸が今は忌々しく感じられた。愛おしくて恨めしい女だと思う。
他の手段などいくらでもあったはずだが、もういいか、と思ってしまう。良いはずがないのだけれど、ここまで脈がありませんと振る舞われた時に自分は冷静ではいられないのだとここに来て気がついてしまった。
このまま食らいついて、なるようになってしまえばいい。願わくばそれがアルハイゼンが望む形をしているように。そう、祈らずにはいられない。
隣同士で座っていた事もあって、元々詰めるような距離もなかった距離を埋めてアルハイゼンはカーヴェの顎の骨に手のひらを沿わせた。突然の事にまんまるになったカーヴェのまなこが眇められる前に、アルハイゼンはカーヴェの唇に自身の唇を重ね合わせる。
「きみ……!」
緩く唇を食むようにしながら一度少しだけ距離を作ってやれば、きゅっと縮み上がった瞳孔と相反するように大きな声が上がった。よく通る声がきん、とアルハイゼンの鼓膜を突き刺しながら酒場の端の方にまで広がって、ざわりと喧噪が一つの意志を持ったように波打つのを感じる。
「ちょ、ん、ぅ……っ!」
迂闊にも開かれた口をぱくりと覆ってしまって、上がるはずだった文句を喉から胃に落とし込む。喋ろうとしたせいか逃げ遅れた舌を絡め取ってざらりと舐め上げれば、カーヴェの顎関節に力が籠もって歯がぐっとアルハイゼンの舌に圧力をかけた。
そのまま血が出るまで噛まれる覚悟をしていたが、ぐっと握りしめられた拳がアルハイゼンの太股に押しつけられただけで痛みは訪れない。この調子では他に乱暴を働かれた時にも暴力で返すのを躊躇ってしまうのではないかなんて、思わず場違いの心配をしてしまった。
彼女のしなやかな腰を引き寄せると、カーヴェの背中がびくりと跳ねる。彼女の耳を彩っているいつものピアスがかしゃんと小さな音を立てたのが分かるほど、周囲は静まりかえってしまっていた。
「っん…………」
つるりとした上顎をべろりと舐め上げると、どこか擽ったそうにも思える微かな声がカーヴェの鼻先から零れ落ちる。ほんの少し艶の混じるその声を隣の机にいる輩は耳にした事だろうと考えると、腹立たしい以外の感想が見つからなかった。
とはいえ、ここまですればアルハイゼンとニィロウの間にあった噂は一掃されるだろう。今日この日まで好き勝手に憶測されたはずのニィロウの私生活を思えば、相応の代償であるだろうとアルハイゼンは思う。
「俺はその相手として相応しいと思われるのは君であってほしいと思っているが」
刺激を受けてじわじわと滲む唾液を軽く吸い上げてから、アルハイゼンは唇を拭うこともできずに耳まで真っ赤にして固まってしまっているカーヴェの額に自身の額が触れ合うぎりぎりの距離で、彼女以外にも何とか聞き取れるだろう声量を意識して囁いた。
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