【カブミス】花の香りの別れ道

迷宮探索から帰ったミスルンにマッサージを施しながら、北中央大陸にいた頃のことを語るカブルーの話。

 いつだって、別れ道は目の前にあった。
 北中央大陸に留まり、ミルシリルのもとで安全な生活を送るか、それともずっと執着していたダンジョンに潜るか。俺はそんな極端な選択肢をいつだって選んできた。いつだって、あなたと出会った時だってそうだった。
 でも、あなたがいる未来と、いない未来がもしあったのなら、そんなのあなたが存在する未来しか俺には選べないだろう。そこに俺の意思なんて関係しない。だって俺にはあなたが全てだから。だからあなたが笑っている、それ以外はどうだっていいんだ。
 そう、孤独だった明日も、今では怖くないくらいには。
 
 
「どうです? 気持ちいいですか?」
 俺はミスルンさんの寝室で、彼の足の裏を、オイルを馴染ませた手でゆったりと揉みながら尋ねる。すると彼は鼻を鳴らして、「気持ちいい」と小さな声で言ってくれる。俺はそれが嬉しくなって、ベッドに横たわった彼の膝裏に手を入れ、傷だらけの足にキスをする。自傷して残ったそれは今も痛々しかったが、丁寧に手入れするうちに、その傷たちも少しずつ薄れていっていた。俺はそれが嬉しく、また手に花の香りがするオイルを取る。今度はふくらはぎをさすって、疲れが取れるようにマッサージをする。
 今日、ミスルンさんは迷宮探索から戻ってきた。四日、いや五日ぶりだろうか? そんなに離れていたのに、俺はどういうわけかこの人とずっと一緒にいた気がしていた。それはミスルンさんが置いていった気に入りの書物を読んでいたからかもしれないし(ミルシリルに習ったエルフ文字はどこか懐かしかった)、単純に俺に余裕ができたからかもしれない。この人に愛されていると感じる余裕。そんなものを、俺は持ち始めていた。
「迷宮はどうでしたか? 何か見つかりましたか?」
「何事もなく平和だった。モンスターの死骸をいくつか見つけたが、それくらいだろうか……。そんなことより目がさめるような話をしてくれ。このままじゃ眠ってしまいそうだ」
 このまま眠ってもいいんですよ、と俺は言ったが、ミスルンさんはまだ眠りたくなさそうだった。そりゃあそうだろう、今はまだ夕暮れが終わったばかりの、残照がなだらかな丘を照らす夜にもなっていない、光が闇と交わる不思議な時間帯で、俺たちはまだ食事しかとっていなかったのだから。このマッサージが終わったら、一緒に風呂にでも入ろうか? そんなふうにミスルンさんをからかうか?
「目がさめるような話?」
「私が知らないお前の話とか」
「強欲ですね。恋人の昔を知りたいだなんて」
 俺はそう言って笑って、彼が再び得た欲がさまざまな方向に向かっていることを喜ばしく思った。なんてたって、最初に会った頃、この人は俺に全く興味がなかったのだから。
「そうだな……ミルシリルと暮らしていた頃、エルフの少女に告白されたことがあります」
「へぇ……
 ミスルンさんの身体が少し強張る。俺はまた彼の足にキスをして、いたずらっぽくこう尋ねた。
「目がさめましたか? 恋人の昔話を聞いて」
「続けろ、どんな女だった?」
「そうですねぇ……。銀髪で、銀色の目で、一目でエルフって分かる、それでいて優しい友だちでした。でも俺は告白してくる彼女の目が怖かったかな。普通ああいう時は嬉しいはずなのに、なぜか怖かったんです」
……どうして?」
 ミスルンさんが興味深そうに尋ねる。俺は首を捻って、昔のことを思い出す。彼の足をマッサージしながら、花の香りが立ち込める寝室で、まるで前戯みたいに彼の足をくつろがせる。
「そうだな、なんでかな。大陸に留まるなら、この女の子と一緒になるのもいいかなとは思いました。長命種は短命種を嫌うけれど、その女の子はそういったところがなかったから。でも、俺たちは長く一緒にいられないことが分かっているのに、それでも一緒にいたいって言われるのが、痛みを重ねるようで怖かったんでしょうね」
 なのに今じゃあ、あなたに愛の言葉を送ってる。あの時感じた恐怖は、多分選択できない自分への言い訳だったんですよ。
 俺は身体を動かして、ミスルンさんの服に手を入れる。そうして彼が身体をびくんと震わせるのをいいことに、顔中にキスをし、昔話を中断する。でも、ミスルンさんはまだ恋人の過去が気になるのか、俺にこう言った。
「へぇ……。それであと何人に告白された? 全部を断ったのか? 禊は済んだと言っても私は嫉妬深い男だからな。気になってしょうがないんだ」
 甘い声でミスルンさんが言う。それは確かに嫉妬深い言葉だったけれど、俺にとってはすこし嬉しい言葉でもあった。これまで彼に過去は語っていなかったから、美しく成形されたカブルーという男しか彼には見せたことがなかったから、単純に嬉しかった。
 でも、駄目だ、今日はお互いに疲れているからここまで。俺はそう思って枕元にある、ドワーフ細工のオルゴールのねじを巻く。そうして、彼にこう囁く。唇を指でたどって、それでもまだキスはしないで、彼をじっくりと眺める。
「ミスルンさん、オルゴールが鳴り終わるまでキスをしませんか? きっと気持ちいいですよ」
「さっきねじを撒いたばかりじゃないか。どれだけ長く……
「だからですよ。さぁ、黙って。俺にキスをして。それが終わったら庭を散歩しましょう。そして花を摘んで、風呂に入って、もっと気持ちいいことをしましょう」
 あなたを愛しています。どうか俺のものになって。
 俺はミスルンさんに懇願する。俺だけのものになってくれって、この人以外見えない俺に、全てをくれって。するとミスルンさんは花が開くように美しく笑って(恋する俺にはそう見えたんだ、仕方がないだろう?)、俺の背中に腕を回した。
「お前は今日は支離滅裂だな。何かあったか?」
「何もありませんよ。あなたに久しぶりに会って、それでちょっとおかしいのかも」
 それは嘘だった。俺は今日仕事で疲れていて、ちょっと辛くて、でもそれは誰にも秘密のことで、そのせいで彼をいつもより入念に可愛がり、愛しているのだった。
 俺は今日、初めて部下を処罰した。それはそれは重い処罰だった。明日からあの男はいない、黄金城から姿を消す、そういった処罰だった。それをライオスは知らない。どんな罪状で、どんな処罰を受けたのかを彼は知らない。知っているのは俺と、ヤアドと、刑を執行した人間くらいだ。うまくやったから、きっとみなはあの男は故郷に帰ったと思うだろう。
 そんなことをミスルンさんに言えるわけがなかった。俺の薄暗いところをこの人に伝えられるわけがなかった。
「なんだっていい。お前が私の側にいるんなら……
 ミスルンさんが俺を抱きしめてくれる。そしてオルゴールが鳴る中、俺たちは静かにキスをする。ベッドが軋む。でも、そんなことは気にしない。オイルの花の香り、ミスルンさんが迷宮で傷つけた手足の香り、そんなものを俺は吸い込んで、彼の額をなぞり、頬を包む。
「ずっとあなたの側にいるって、決めましたからね」
 選びましたからね。
 俺はこの人の愛を求めている。だったらそれを選び続けなくては。どれほど苦しいことがあっても、あなたを愛する、それだけは選び続けなくては。それが俺を俺として成り立たせることなのだから。
 俺はミスルンさんとキスをする。長く長く。もしかしたら、全てを投げ出してしまうくらいに。