千代里
2024-10-17 12:53:00
12310文字
Public リーブラ14話
 

リーブラの針は問う・14話・その2


 ば、がん。小気味よく木が割れる音は、冷え込んで透き通った空気によく響く。今は天気が悪く、粉雪と強風のせいで数フルム先すら見通しが危うい有様だったは、朝は久々に晴れ間が見えた。
 だからこそ、天気が崩れる前に薪割りをしようと話していたのだが、クルザスの天気は随分と移り気のようだ。
「サルヒさん。そろそろ、部屋の中に戻りましょうか」
「もう少しだけ。後ちょっとで、全部終わる。オデットは、寒いだろうから先に帰ってて」
「大丈夫です。わたし、意外と寒さに強いみたいです」
 オデットはサルヒが割った薪をまとめると、編み目の荒い縄でまとめていく。ぎゅ、ぎゅときつく縛れば、これが一日分の薪となる。こうした薪割りの作業を、サルヒとオデットはもう何日も手伝っていた。
 泊めてもらう以上は、少しでも仕事を手伝いたい。自ら申し出た託された仕事でもあrので、地道な作業でも投げ出したいという考えはなかった。
「ノエと旦那様、雪の中で遭難してないといいけれど」
「占星台の方が火をつけてくれると言ってましたから。遠くまで出掛けていても、きっとよく見えますよ」
 もう一つ、バガンと小気味良い音が響く。サルヒがふたたび薪となる木を割った音だ。カラン、と地面に転がる薪を、雪が染み込む前に拾い上げる。
 淡々と自分の仕事に集中しているように見えて、オデットの手が一度止まる。視線の先に広がっているのは、ノエたちが向かっていった雪原だ。
「ノエのこと、心配?」
……はい」
 もう出会った頃の二人ではないのだ。オデットが隠そうとしていて、それでも隠し切れずに内側から滲み出る憂慮の感情が読み取れないほど、サルヒの目は節穴ではない。
 オデットは、魔物退治そのものを危惧しているのではない。彼女がノエのことで憂いているのは、
……グレンさんのことがあったばかりですから」
「その割には、ノエはいつもと変わらない振る舞いをしている。少なくとも私の目からは、そう見える」
 だが、オデットはゆっくりと首を横に振る。サルヒも、オデットの否定を受けて、自分の推測を確信へと変えていった。
「あれも、やっぱり意識してそう振る舞っている。そういうこと?」
「はい。何がどうとは言えないのですが……何かが違うんです」
「そう。……なら、ノエは前より演技が上手くなった」
「上手くならないでほしかったです。以前はもっとわかりやすかったんですよ」
 ノエが自分の掲げた信念が、実は自分勝手なものではないかと迷いを抱いたときも、彼は平気なふりを演じようとした。だが、その変化は、今のこれに比べれば顕著だった。
 彼は、常に笑顔を絶やさないようにしたのだ。いっそ、怖いくらいなまでに。その凍りついた笑顔の下の仮面を暴くのは、オデットでもできることだった。
 けれども、今のノエは少し違う。
「自分なりに、グレンさんのことが悲しかったって気持ちは態度に示してくれています。それに、自分があの一件についてどう考えているかも、ちゃんとわたしたちに教えてくれました」
 ノエはほどほどに自分たちを頼り、ほどほどに己の悲哀を形として見せている。滂沱の涙を流すようなことはなくとも、少しばかりは弱い面を見せてくれている。
 故に、近づけない。もっと深く彼の中にある気持ちに踏み込んでいいのかがわからない。その先には何があるかもしれないし、何もないかもしれない。本当にノエが程よい悲しみで気持ちを落ち着けられているのなら、無理にもっと悲しめというのも迷惑な話だ。
「兄さんが、あのような形で向き合って気持ちを落ち着けているのなら、わたしの心配はお節介の杞憂でしかないんです」
……私は、ノエのことをそこまでよく見ているわけじゃないから、これが正しいのかはわからないけれど」
 そう前置きしてから、サルヒは一度斧を振るう。用意していた最後の薪が割れて、鮮やかな木の断面が白一色の世界に映える。
「理不尽に悲しい出来事を押し付けられたら。もし、旦那様がノエと同じ立場だったなら、もっと、こう……
「もっと、こう?」
 サルヒは斧を一度地面に突き立てて、何か身振り手振りで示すかのように手を宙に留めてから、
……もっと、感情的になる」
「感情的に……
「ノエくらいの年頃の旦那様なら、もっと何かに八つ当たりしていた」
「八つ当たり?」
 驚きのあまり目を丸くするオデットとは対照的に、サルヒは懐かしいものを思い出すような顔で、
「悔しくて悲しくて、でもどうしようもなくて。そんな気持ちを、あちこちにぶつけてしまう。みっともないって分かっていても、自分のために生み出した怒りを、外に発散させずにはいられない。それが旦那様のやり方」
 オデットは瞳を何度か瞬かせ、サルヒの語る『やり方』をノエに当てはめて想像しようと奮闘する。しかし、それは予想以上に困難を極めることとなった。なにしろ、
「兄さんが、自分の感情に任せて外に向けて八つ当たりする、なんて……そんな姿、考えられません」
 あれだけ苦い感情を抱いていた父親に対面したときですら、感情を波立たせていることはあれど、面と向かって罵ったり、手をあげたりするような真似はしなかった。そんなノエが、激情に任せて何かを傷つける様など想像できない。
 もっとも、手をあげるようなことこそなかったものの、ベルナールと再会した直後、ノエは痛烈な皮肉をいくつか父親に浴びせていたが、それはオデットの知らぬことである。
「それに、ルーシャンさんだってそんなことをするようには見えませんよ」
「これは、今より若い頃の話。でも、私はあの頃の旦那様も嫌いにはなれない」
 オデットから束ねた薪のいくつかを受け取り、代わりにサルヒはオデットの背をそっと占星台の出入り口に向けて押す。雪が強くなってきたので、中に入って暖まろうと促しているのだ。
「いつも冷静で、物静かで、おとなしい好青年。そのように生きること自体は悪くないと思う。私だって、いつも怒って何かを攻撃している人のそばにはいたくない」
 だけど、とサルヒは言葉を繋ぐ。
「そんな風に綺麗すぎる人は、本当にどうしようもない激しい気持ちが生まれたとき、どうなってしまうのだろう」
 サルヒの言葉によると、若かりし日のルーシャンはそれらの激情を外へとぶちまけた。内側に溜めていた激情が身を食い尽くすよりさきに、外側に吐き出すことを選んだのだ。
……今の兄さんも、そうなのでしょうか」
「かも、しれない。私の考えすぎかもしれないけれど。でも、ノエは、直接自分が関わっていなくても、誰かの死に責任の一端を感じていただけの状況でも、とても動揺する人だから」
 思い出すのは、まだ一行がグリダニアにいた頃のことだ。
 商隊を襲った盗賊を迎撃するために、ノエは剣を握り、賊を迎え撃った。その際、当時はノエと中途半端な契約をしていた妖異――今はオルタシアと名を得た彼が、ノエの脅威を取り除くためにその力を振るった。
 ノエは、妖異が生み出した死体を前にして、ひどく動揺していた。自分が手にかけたわけではないと分かっていても、死体のそばにいる自分をサルヒに見られたときの彼の顔は、単にバツが悪いなどという簡単な表現では済まない混乱があった。
「自分のせいで誰かが命を終える。そのことは、彼にとって大きな傷になるはず」
 少なくとも、今のように理路整然と自分の心理状況を皆に説明して、程々に悲しんで――それで全てお仕舞いにできるほど、簡単な話では終わるまい。
……もし、そこまで大きな傷になっていたのなら。わたしは、兄さんにちゃんと寄り添えるでしょうか」
「オデット?」
「わたしは、あの一件のことをとても悲しいと思っています。時計の針が戻ってくれたら、と何度も思います。どうして、こんなにも悲しいことばかり起きるんだろうって、むかむかする時だってあります」
 けれども、その気持ちがノエのものと同じであるかという自信がない。オデットは、ゆるゆると首を横に振った。
「この悲しさのような、怒りのような、言葉にできないわたしの気持ちは、兄さんの奥深くにある激しい気持ちに寄り添えるものでしょうか」
……人の感情には形が定まっていない。だから、オデットの気持ちとノエの気持ちがぴったり重なる日はきっと来ないと思う」
 話しつつ、サルヒは占星台の中に足を踏み入れる。室内は、暖炉からこぼれ出た熱気が充満していて、寒空の下で冷えた体を優しく迎え入れた。
「でも、寄り添いたいという気持ちがあるかないかは、とても大きな違いだと思う」
 サルヒは目を細め、不安げな様子のオデットにぎこちなく微笑んで見せる。オデットにも、サルヒの考えは十分に伝わったようで、強張った頬に微かな笑顔を咲かせた。
……ありがとうございます、サルヒさん」
「うん。それに、ノエの心配をしているのはオデットだけじゃないから。オデットが苦手な部分は、きっと他の誰かが良いようにしてくれると思う」
「わ、わたしとしては、兄さんの心配事を解決できるのはわたしだけであってほしいのですが……
 場を和ませようとしてか、とってつけたように唇を尖らせるオデット。その姿に、サルヒは喉の奥を震わせて笑いをこぼす。
「私だって、旦那様に同じことを思ってた」
「なのに、当の本人は勝手に一人で片付けたいって顔をしているのですね」
「旦那様もそう。格好つけたがり」
 二人は顔を見合わせ、それぞれ話題にのぼった男たちの顔を思い出す。次いで、今度は弾けるような笑顔を、オデットは顔中に、サルヒはやや控えめに、浮かべてみせた。
「旦那様とノエが戻ってきたときに、ゆっくり過ごせるように、部屋の片付けをしておこう」
「はい。きっと二人とも、とても疲れて帰ってくるでしょうから」
 その話題の当事者たちが何をしているかも知らず、帰りを待つ二人の女性は無事の帰還を信じて、次にするべきことについて語り始める。
 遠く響く剣戟は、暖かな部屋にまでは届かない。
 
 ***
 
 ギン、と金属同士がぶつかる鋭い音。耳に涼やかに響くそれは、しかし人を傷つける物体同士がぶつかったが故に生じるものでもある。
 得物だけを比較するなら、ノエの剣はルーシャンの剣よりも白兵戦に向いている。武器の強度を考えれば、自身の技量が多少ルーシャンを下回っていても、ルーシャンの剣を折ってしまうことも可能である。ノエは、どこかでそう考えていた。
……甘かった)
 その目論見を、ノエは数合の打ち合いで棄却しなければならなかった。
 そもそも、ルーシャンはまともな鍔迫り合いに付き合ってくれるほど優しくない。全力で刀身をぶつけないように注意した立ち回りを常に心がけている。
 どうしても正面からぶつからねばならないときは、必ず魔力を纏わせる。その精緻かつ迅速な魔力の使い方は、ノエでは到底及ばない技量の高みを感じさせた。
「おいおいおい、どうした! 竜の血を飲んで暴れ回る異端者を殺した英雄様の剣とは思えないな!!」
……! 別に、僕はそんな風に言われたくて、彼を……彼らを、殺した、わけじゃない!!」
 分かっている。これは挑発だ。
 ルーシャンがどんな意図でこんな戦いを仕掛けたかはわからないが、少なくとも彼はノエに対してすぐに膝を折ってやろうとは思ってないらしい。
 だから、こうしてノエの心を乱そうとする。心の乱れは剣の乱れ。挑発も立派な戦術であり、その意図は読めているはずなのに。
「だが、事実としてそうなんだろ! お前は、嬢ちゃんたちを助けるのが正しいと思った! だから、坊やを殺すことを選んだ!!」
「そっちの方が正しいなんて、そんなこと……僕は思っちゃいない!」
 呼吸を乱すな。ただでさえ、今は息が乱れがちなのに。己にそう命じても、ルーシャンの痛烈な言葉を受けて、自分の内側で蹲っていた何かが『引き摺り出されている』。
 盾が無い分、体は軽くなったはずなのに、ふとしたときに足が重くなる。さながら、引き摺り出された何かに振り回されているかのようだ。
 振るった剣の切先が、ノエの予想とややずれて、ルーシャンへと向かう。
「だったら、お前はなんだと思ってるんだ? やっぱりあの選択は間違っていました、とでも?」
 最初から視界に入り込んでいた一撃など、歴戦の冒険者にとって受け止めるのは容易い。魔力を纏ったレイピアが、重厚な剣のような音をたてつつ、ノエの剣を受け止める。
「間違っている……とも、思ってない。……そうだ。あの時は……あれが、あれしかなかったんだ! あれが、最善だったんだ……!」
――本当にそうか?」
 しん、と。
 冷えた声が、ノエの頭を一瞬空っぽにする。
「もしかしたら、もっと他の道もあったかもしれないと、何か違う結果があったのではないかと、お前は一度も考えなかったのか?」
 本当に、あれが最善だったのか。
 その問いを、ノエは考えないようにしていた。その理由は、自分でもわからない。
 なぜ、今まで考えないようにしていたのか。
 自分の至らなさが、己自身を貫いてしまうからか。
 それは、少し違う。
 自分は、自分のできる限りをした。できる限りの躊躇。できる限りの阻止。できる限りの――選択を。
 けれども、もし。
 もし、その限界だけでは至れないものを叶える奇跡があったなら。
「そんな奇跡が、あったならって」
 言葉と共に、ノエは自分に迫るレイピアを危ういところで受け止める。じ、と金属同士が擦れる鈍い音がノエの耳をうつ。
 呼吸はまだ乱れている。喉の奥は苦しいままだ。
 けれども、体の内側から沸々と湧き上がる熱いものがあった。
 それに突き動かされるままに、
 
「そんなの――当然、願うに、決まっているでしょう!!」
 
 血を吐くような、叫びだった。
 願っても意味のないものと、最初に切り捨てていた。それでも、目を向けてしまえば懇願せずにはいられない祈りだった。
「どうして、この世界は、あんな悲しいことを当たり前にしてしまうのかって!! 何度も、何度も、そう思った!! でも、そんなことを言っても、仕方がないって、だからずっと……ずっと……!!」
 今までそれから目を背けていたのは、見てしまったら最後、外へ外へと破裂させずにはいられない感情だったから。
 それは――最初に内側に生まれた『怒り』でもあった。
「それは、僕の力が至らないせいかもしれないけれど……! でも、どうして、あんな終わり方じゃなくちゃいけなかったんだ!!」
 衝動のままに振るった剣は、狙いなんてまともに定まっていない。けれども、今までにない力強さで、ルーシャンのレイピアと激突する。
「時間を巻き戻してしまいたい。何かが狂っていたなら、その間違いを正したい。……お前も、どこかでそう思っていたんだろ」
 ノエが己の激しい感情に翻弄されるのと対極に、ルーシャンの声はゆっくりと静けさを帯びる。
……だけど、それは叶わない願いでした。だって、全部もう終わってしまったことなんです」
「ああ。終わっちまったな。お前がどれだけ今の現状に怒ろうと、あの結末に激怒しようと、あの坊やは帰ってこない」
――――そうです。グレンさんは、僕が殺した」
 動きを止めたノエに、今度はルーシャンが肉薄する。しかし、滑るような動きを見せる彼に、今度はその速さにノエが追いついてみせる。
 鈴を振るような涼やかな音と共に、ノエはルーシャンの刺突を受け止める。
……僕は、それが悔しくてならない」
 助けられなかったことが。命を奪う選択しかできなかったことが。
「僕の力が至らなかったことも。それを受け入れてる、今という何もかもが」
 グレンの死を当然と受け入れて進む世界が。そんな悲劇を前にして受け入れることしかできない自分自身が。
「悔しくて、腹立たしくて……仕方がないんだ……!!」
 それは純然たる激怒の声。
 何に対して、という具体的な標的もない。それは自分に向けてでもあり、世界に対してでもあり、あるいは今という瞬間全てに対するものでもあった。
 剣を握る手が震える。なのに、妙に意識は冴えていた。皆の前で見せていた淡い哀惜など比べものにもならない激しい熱が、ノエの体を支配し、暴れている。
「あ、あぁ――
 漏れ出た声は慟哭にも似た、己を駆り立てる鼓舞だ。
 自分でもどう取り扱っていいかわからない熱。なのに、これを手放したくない。
「ああ、あああぁああああ――――っ!!」
 言葉にならない燃え盛る何かを叫びに変えて、ノエは剣を振るう。横に薙いだそれは、仮想の敵と見做した男を切り裂くには至らない。
 後ろに飛んで回避したルーシャンを前にして、絶叫の余韻を喉の端に残しながら、ノエはさらにルーシャンに迫る。瞳の奥に取り残され、外へと噴き出す機会を失って燻っていた熱は、今やノエの両眼にはっきりと宿っていた。
 一合、二合、続けて三合。いくつもの剣と剣の衝突の末、二人の距離が一度置かれる。
 ふーっ、ふーっと手負いの獣のような息が漏れる。雪原の只中にいるというのに体が熱い。汗が、額から流れ落ちる気配すらある。
……息苦しいの、少しはおさまったんじゃないか」
 睨み合いのさなか、不意にルーシャンが言う。指摘されて、ノエは自分の胸の奥に宿る呼吸を司る部分に意識を向けた。
 彼の言う通り、心なしか体が楽になったような気がする。見えない力でノエの喉を押さえつけていたものが、先だっての叫びの後は嘘のように消えている。
……そう、みたいです」
 訳のわからない癇癪をぶつけてしまい、ルーシャンが面食らってしまったかと思った。だが、事実はその逆だった。
 彼は最初から分かりきっていたかのように、静けさすら湛えた瞳でノエを見据えている。
「ノエ、お前がさっき言った通りだ。理不尽だって思っただろ。むかつくだろ。腹立たしくて仕方がないだろ」
……はい」
 もし、運命の女神というものが『これも運命』などと言っていたら、ノエは間違いなくその横面を張り倒していただろう。
 しかし、現実にそのような怒りを向ける都合の良い存在はいない。ノエの怒りを受け止めてくれるものはこの世にいない。
「誰に対して怒っていいかもわからない。力が足りない俺が悪かったのか。それとも、周りが悪かったのか。単なる不運の積み重ねの問題なのか。それすら、俺たちみたいなちっぽけな人に分かることなんざ、高が知れている」
…………
 たとえ正面からぶつかっても、意味のない怒りを破裂させるしかない。だから、ノエは飲み込んだ。飲み込んだという自覚すらないほどに。
 降りかかる理不尽を前にして、受け止めたくはないけれども、受け止めるしかすべがないと項垂れ、胸にしまおうとした。
「だけど、な!」
 ルーシャンの体が、急速にノエに迫る。敢えて真っ直ぐに突っ込んできた刺突を、ノエの剣は今度はしっかりと受け止めた。
……少しくらいは、どこかでぶちまけておかないと、生きることすらやってられなくなるぞ」
「だからって……これは、少し乱暴だったのではありません、か!」
 言葉の切れ目に、ノエはルーシャンの刺突を力任せで押し返す。
「そうか? お前、意外と戦闘を楽しめるタイプだろ」
「相手を無為に傷つけるのは、好きではありませんよ」
「だが、あの妖異と決着つけるとき、なんだかんだで一対一の試合を楽しんでいたんじゃないか?」
 ノエは、自身が契約している妖異との一騎討ちを思い出し、バツの悪さに唇を歪める。実際あの時、ノエは剣を初めて持った瞬間の高揚感を思い出して、打ち合いを続けることを楽しんでいた。
……命が関わっていなければ、ですよ」
「なら大丈夫だ。俺は、一応最低限の加減はしていた」
「本当ですか?」
 ノエは避け損なって掠った剣尖が作ったかすり傷に、視線をやる。防具に致命的なダメージこそないものの、ノエの手はジンジンと痺れるような痛みを訴えていた。受け止めた時に威力を殺し損ねてしまった分だ。
「本当だって。それより、少しはすっきりしただろ」
……はい」
 先だって大声で己の激情を爆発させてから、あの日以来喉の奥につっかえていたような何かが嘘のように消えていた。
 ノエ一人では、この怒りには気が付けなかった。
 怒りという名称すら正しいかも怪しい、曖昧で不確かな激情。しかし言葉にして出すにはあまりに無意味で、発露したところで何の意味もない。それが無自覚に分かっていたから、ノエはその存在にすら気がつくまいとした。
「こんな形ですっきりするのは、何だか申し訳ないのですが……いたっ」
 もう戦闘は終わったというつもりでいたため、ノエは完全に油断していた。その隙を的確に突いて、ルーシャンはノエの額をびしりと指先で弾く。
「若人は真面目に考えすぎなんだよ。たまには癇癪起こして爆発させるくらいの方が可愛げがあるってもんだ」
「ですが、それでは周りに迷惑が」
「お前の駄々を嫌がるような心の狭い連中しか隣にいない、とか言ってくれるなよ?」
 今度は、どん、と胸を叩かれる。鎧越しに、ルーシャンが託してくれた信頼そのものが響いたようだった。
……にしても、お前が怒る先はそこだったんだな。てっきり、あの坊やを追い詰めた司祭や、街を襲った異端者に怒るものかと思っていたんだが」
 それを言われて、ノエも一度ゆっくりと瞬きをした。はあ、と漏れ落ちた吐息一つが完全に虚空に消えるまでの時間を挟んだ後、
「たしかに。僕が大事だと思うものを彼らが壊していったとも考えられます。ですが……それが無かったとしても、きっとイシュガルドにいる限り、僕は同じような悲しい場面に出会していたでしょうから」
 司祭たちがいなければ、グレンは命の危機を感じることもなく、竜に変じるという結論に至らなかったかもしれない。
 異端者たちが街を襲っていなければ、コーディは竜の血を飲まされることもなく、グレンもアランを傷つけようなどと思うこともなく、彼らは平穏無事に暮らしていたかもしれない。
 あの街における一連の事件だけを見れば、原因ははっきりしていて、それを取り除けば全てが解決するようにも思える。
 だが、そうではないとノエは首を横に振る。
「イシュガルドという国に竜がいる限り、異端者が存在する限り……自分の利益だけを考えて己の権力を振り翳す者がいる限り、変わることはない。もちろん、彼らに対して全く恨みがないとは言いませんが」
 しかし、そこは根本的な理由には至らない。恨む気持ちはあれども、そこを責めたところで、どこかで似た悲劇が起きるという構図そのものを覆すことはできない。
「なので、彼らに『あんなことをするなんて』と怒る前に、僕は……彼らが『あんなこと』をしないような場所に変えていきたいと思うんです」
 無論、一介の冒険者にできることなど大したことではない。
 それでも、全く何もせずに、今ある現実にあぐらをかいて不満を並べ立てるよりは、ノエとしては生産性のある選択に思えたのだ。
 たとえば、ドラゴン族を前にしても果敢に立ち向かう姿が、誰かに勇気を与えるように。
 あなたは一人ではないと差し伸べる手が、誰かの心が絶望に染まり切る前に、少しばかりの光を与えるかもしれない。悪事に身を染める前に、こんなことをしていいのかという躊躇を生むかもしれない。
「僕がもたらせる変化なんて、きっと大したことではないのでしょうけれど。でも、僕はこの場所で、そんな大したことのない変化を少しずつ確実に積み重ねていきたい。……そう、思ったんです」
 イシュガルドに残るという選択は、自分でも衝動に突き動かされるようにして決めた道行きであった。けれども、今こうして自分の言葉で己の未来について語れば語るほど、よりしっかりと地に足がついたような感覚を得ていた。それが、どれほど夢物語のような希望であったとしても。
「だから、今のお前が怒る先は、まだ変わっていない世界に向けてになるってことか」
「はい。怒る、というよりは……悔しい、という気持ちに近いかもしれません」
「なるほどね。……若人は、だからこそ若人ってことか」
……ルーシャンさん?」
 ルーシャンはレイピアを腰に吊るした鞘に収め直し、こちらも長く息を一つ吐いて、白金の短髪をがしがしと掻いた。
「俺は、目に見えるものに怒る方が先だったからな。若人のように、そんな形のない大きなものに対して怒ったり悔しがったり、ってことは考えたこともなかった」
……ご家族が、お亡くなりになったときのことですか」
 目の前の男が、元はイシュガルドの貴族の養子であることは既にノエも聞いている。
 屋敷中を巻き込んだ火災により、ルーシャンは一夜にして家族を失った。火災の原因が自然発火なのか、それとも放火なのか、それすらもいまだに定かになってないという。助かったのは、たまたま外出していたルーシャンだけだった。
 そして、養子ではあったが元は貧民街の出身であるルーシャンは、養い親の財産を引き継ぐことすら許されなかった。その時に彼を巣喰った激情は、先ほどのノエの比ではあるまい。
「まあ、そういうことだな。親父たちを殺した犯人を、同じ目に遭わせてやる。俺が得るはずだった財産を奪っていった連中を、絶対に許さない。……若気の至りもあったが、大体始まりはそんなところだった」
 ルーシャンは、自虐的な笑みと共に、己の怒りをそのように説明する。
 今も彼が同じ感情を抱いているのか、残念ながらノエにはわからない。ノエはまだ、それほどの熱を胸に抱えたまま何年もの時を生きた経験がない。
「ですが……それは、僕が言えたことではないかもしれませんが、持っていて当たり前の気持ちだと思います。僕だって、いつか同じ気持ちをを感じる日が来るかもしれない」
「そうか? たとえ慰めだとしても、ありがたくもらってはおくよ」
「慰めのつもりではないのですが……。それに、ルーシャンさんは無意味な怒りで誰かを傷つける人とも思えませんから」
 ルーシャンに倣い、ノエも腰の鞘に剣をおさめる。
 ルーシャンと手合わせをするまでに残っていた不調も消え、ベルナールが治めていた街を出て以来、久々にすっきりと目が覚めたような心地だ。今まで、あんな状態でオデットたちと顔を合わせていたのが、いっそ申し訳なく思えてくるほどだ。
 このまま占星台に戻り、オデットたちに無事な顔を見せたい。そう思うのが順当であるとは分かっているのだが。
「あの、ルーシャンさん」
「ん?」
 ノエは一度、自分の手のひらに視線を落としてから、意を決して視線を上げる。
「もう少しだけ、憂さ晴らしに付き合っていただくことはできますか?」
「別にそれは構わないけどよ。どうしたんだ、急に」
「思った以上に、先ほどの打ち合いが、その……楽しかったので」
 やや申し訳なさそうに視線を彷徨わせながらの発言に、一瞬呆気に取られたのはルーシャンの方だった。
「手合わせをする機会は、あまりないものですから。他の皆さんの武器は剣ではないので、稽古を頼まれても困るでしょう」
……ま、体を動かすのもイライラを吹っ飛ばすのにはうってつけって言うしな」
 ルーシャンは自身の魔力を練り上げて、即席の剣を作り、ノエへと渡す。続けて、自分も同様に扱いやすいレイピアを魔力で作り上げると、
「そんじゃ、三本先取した方が勝ちでどうだ?」
「ありがとうございます、ルーシャンさん」
「おうよ。じゃあ、どっからでもかかってこい!」
「はい!」
 魔力で作られた刃のない剣を構え、ノエはルーシャンへと肉薄する。
 剣を打ち合うときだけは、自分の頭を占める複雑な感情を忘れて、ただ無心で戦いに集中できる。いずれ考えねばならないことではあるにしても、それはまだ先の話だ。それなのに、自分の雑念が己の足を絡めとるというのならば、問答無用で吹き飛ばすに限る。
 これは、そのための禊。自身の心に捧げるためだけの試合だ。
 ルーシャンの刺突を紙一重で交わす。刃はないものの、剣圧で頬が引き攣るのがわかる。
 しかし、それすらも今は――楽しむ。
「隙ありっ!」
 前に踏み込んだために開いたルーシャンの胴体。そこを狙うのではなく、そのさらに下である脚部に向けて、足払いを狙う。
「ったく、お前も随分と行儀の悪い戦い方をするようになったな!」
「おかげさまで、色々と身につけさせてもらいましたから!」
「誰だよ、お前にそんな行儀の悪い戦い方を教えたやつは!!」
 ノエの足ばらいを受けて姿勢を崩しかけたルーシャンは、大きく一度距離を置いて、悪態を吐く。この攻防の駆け引きを楽しんでいるのは、何もノエだけではない。
「ルーシャンさんの戦い方は、学ぶものも多いんです」
「つまり、俺の戦い方は行儀が悪いってことかよ。言うようになったじゃないか!」
 からからと笑いながらも、今度はこちらの隙を窺っている。ルーシャンの剣速は、先ほどの打ち合いと比べるとますます上がっている。あれで加減していたのかと思うと、ぞっとする話だ。
 だが、それもまた、ノエの胸を躍らせるスパイスにしかならない。
「では、今度はこっちからいくぞ!」
「ええ、受けて立ちます!」
 いつしか雪嵐は収まり、しんしんと降り積もる粉雪の紗幕を切り裂いてルーシャンが迫る。
 次はどのような攻撃で迎え撃つか。それを考え、微かに口角を釣り上げながら、ノエは剣を構えた。
 *
 そうして、一時間以上にも及ぶ手合わせの末に、辛くも三勝をもぎ取ったのはルーシャンだった。
 気づけば互いに疲労困憊になっており、双方の肩を支え合うようにして占星台に帰った二人は、
……君たち、魔物を退治しに行ったはずなのに、なんでそんなに剣でできたような傷だらけになっているのさ」
「あんたたち、揃いも揃って馬鹿なのか?」
 二人の姿を見て何が起きたのかを察したヤルマルとオランローに、揃って呆れのため息をつかれたのだった。