口を開かなければ酸素が足りないほどの呼吸をひとつ、ふたつ、みっつ、まだ足りなくてよっつ。胸が大きく上下する間隔は次第に伸びていく。やたら蒸れた空気を肺いっぱいに吸って、吐く。おとこのにおいがした。
汗みずくの肌がゆっくりと平坦になってゆくのを他人事のように観察する。口を閉じ、呼吸を繰り返す。鼻の頭から額にかけて浮いた汗を拭った手の甲は、そのままシーツに落とした。
「水」
短い要求に、すぐさまコップになみなみと注がれた水が差し出された。ベッドサイドに水差しを置いていることは互いに知っているから、当然のことだった。
ずりずりと腕の力で這い上がり、ヘッドボードに凭れかかって鳩尾から上だけを縦向きにする。礼の代わりにコップを持つ手の甲を指先で撫でて受け取り、彼が何事か言う前に一気に呷った。常温のそれは叫び疲れて乾いた喉を滑り落ち、散々シーツを濡らしたせいで水分を失った体に染みわたってゆく。
「下着、新しいものを」
これには少し時間がかかるが、待たされるほどではない。新しい、はおろしたての新品ではなくクローゼットかランドリールームから出してこい、の意だとは悟っているはずだから、勝手知ったる他人の家から彼がそれを引っ張り出してくるのに二分もかからないだろう。
「ついでにシーツの替えも」
勢いあまって胸元にこぼれた水滴をシーツで拭いながら次の要求を口にする。彼がそのしぐさをじっと見ていることにも気づいていた。返事の代わりに彼はこめかみにキスをして、寝室を出ていった。どうにも不愛想な男だが、気障というか甘えたがりな部分がある。
手持ち無沙汰になってしまった。変わり映えしない自分の体を観察するのにも飽きて、ヘッドボードに置かれた眼鏡に手を伸ばそうとしたところで、視界が明瞭になったところで読みたい文字があるわけでもないことに気付き、止めた。
いよいよやることがない。ふと、両膝を立てたままだったことを思い出した。見下ろせば、内股に倒れた膝頭同士がくっついている。試しにまっすぐに足を伸ばそうとしてみたが、膝を開いたところでぎこちなく固まった。起き上がるのにはしばらく時間がかかるだろう。後で按摩も命じることにする。
喉が潤うと、今度は一服したいな、と思った。煙草の箱も灰皿もマッチも、眼鏡と同じく水差しの脇に並べてある。ただし手に取るためには寝返りを打ち、その上で少しばかり手を伸ばす必要がある。たったそれだけの距離が、死ぬほど億劫に感じられた。
見計らったかのようなタイミングで、片手に布の塊を抱えた彼が戻ってきた。それをまとめてベッドの上に落としたのは、穿かせろだの替えろだのこの後に付随する要求を見込んでのことだと思われる。鼻につくくらいに聡い。
「タバコ」
彼の手が空いた瞬間にそう口にしていた。一度ちらりとこちらを見て、少し悩むような素振りを見せた後、彼は立ち上がったまま煙草のパックを取り上げた。
太い指がとんと箱の上端を叩いて、取り出した煙草の真ん中あたりをつまんだ。口元に運ばれたそれをおとなしく唇を開いて咥える。紙と乾いた葉の味が、知らず知らずのうちに湧いていた唾液にほんのりと溶けて苦い。
続けて男はマッチを擦った。ぼう、と大きく燃え上がる燐の匂いがやたら甘く感じる。
一瞬で小さくなった灯火が風圧で消えてしまわないよう、大きな手のひらでそっと匿いながら、男は燃えるマッチを顎と唇のあいだあたりに寄せてきた。顎を引き、空気を懸命に舐める火先へ先端を潜らせる。すう、と膨らませた肺いっぱいに香ばしさが満ちた。後頭部と舌の付け根がずんと重くなる。上げ膳据え膳の一服は、くらくらするほど旨かった。
はああ、と感嘆の声を出して煙を吐く隣で、男は手首を軽く一度振っただけでマッチの火を消した。燃えさしが灰皿に放り込まれるのを横目に、抑えきれない含み笑いがこみ上げる。たばこ、と言ったのなら、煙草とマッチの箱を投げつけてくれるだけでもよかった。もちろん本当に投げつけてきたあかつきには灰皿を投げ返すつもりだ。五月雨式の我侭にも嫌な顔一つ見せず至れり尽くせり、なんて、大層な身分の人間になったような心地がする。
「ギャングのボスみたいだ」
「自分の手で殺しまでやるボスなんざ聞いたことねえよ」
うっとりと呟いた言葉には、久方ぶりに言葉が返された。
煙草から目を離して彼を振り仰ぐ。彼は静かに、揺らさないように、ようやくベッドに腰を下ろすところだった。彼が腰掛けたことでマットレスにできたほんの僅かな傾斜に従い、肩が傾ぐ。それなりの体躯をしているのだから、まったくスプリングを軋ませないというのは無理な話だ。そのくせほんの数十分前にはベッドが真っ二つになるんじゃないかというほど無遠慮に振る舞っていたのだから変な男だ。振り向いた彼と顔を見合わせ、ぱちりと同時にまばたきをする。無性に照れくさい気分になって、それはどうやら彼も同じだったらしく、揃って声を上げて笑った。
「コーヒー」
五番目の要求は笑顔で突きつけた。最高の一服に酒もコーヒーもないなんてありえないと知っているだろうに、詰めが甘い。彼は今度は心底厭そうな顔をして、それでも従順に立ち上がってキッチンへ向かっていった。
###
ジッポー社がオイルライターを発売したのは、皮肉にも1933年のことだった。今や金属製ライターの代名詞ともなっているらしい。マッチが湿気ったり折れたりする心配はもはや無用。片手で使える火打石とは何とも知恵の回ることだ。
蓋を開き、かちりと歯車を回せば、青色の炎が上がる。地獄の火はすべて硫黄が燃えているので酷く臭うのだが、とある筋から贈り物として授けられたそれはどうやら例外らしい。生前好んでいた煙草の銘柄までどうやって調べて手に入れたのやら、熱狂的(fanatic)なファンを名乗ったのが彼か彼女かすらよく覚えていない。
一口吸うなり、ふん、と鼻を鳴らした。
あの日、ベッドの上で捧げられたものはこんなに味気なくはなかった。
禍々しい赤でも毒々しい緑でもなく、生前と変わらぬくすんだ白色の煙が五芒星の浮かぶ空に昇ってゆく。さっさと死ね、なんて到底友に向けるものとは思えない祈りを捧げていた。
If you make a mistake, you can cancel it by pressing the reaction.