AZUMA Tomo
2024-10-17 00:37:10
9320文字
Public 吸血鬼パロ
 

宴・祥恵

⬇️この設定だけわかってたら読める軽い読み物です!
東雲祥貴・吸血鬼の始祖。
邑神有奇・蜘蛛のデミゴッド。訳ありで東雲の使用人として働いている。
千葉恵吾・破門神父。東雲邸にて居候。

 ひと月に幾人かのうら若き乙女たちが姿を消す。しかし、数日のうちに彼女らは街へ戻ってくる。乙女たちは命を取り留めているものの、その姿はもはや乙女と呼べるような生気を宿しておらず、亡霊のようになって日常へ帰っていく。確実に何か変化が起こっているのに、普段と変わらない日常をこなす女たちに町人たちは首を傾げながら、しかし彼女らになんの術を施すこともできない。
 女たちも数日のうちに起こったことに関して記憶がないのだ。だから、理由を突き止めることも難しい。
 
 街のはずれには様々な植物と木々に囲まれたお屋敷が存在していた。昔々から聳え立っているそれに近づこうとも、なんの魔法が働いているのか近づけない。しかし、招かれた者だけはその屋敷の敷地に入ることができた。
 屋敷はその広大さゆえに様々なところに影が生まれ、遠くから見るよりもずっと陰鬱な印象を客人へ与える。黒や赤を基調とした絨毯や扉の配色も陰鬱さを際立たせている。もはや城といっても差し支えのない大きさの屋敷には大層美しい主人とそれに仕える数人の使用人がいるのみ――という、もう何十年何百年も語り継がれた御伽噺めいた噂話がまことしやかに街の中で囁かれている。
 乙女たちが定期的に姿を消しては亡霊のようになって帰ってくる事象と、不思議な噂のある屋敷に何か因果関係があるのではないかと考える人間は何人もいた。しかし、記憶を持たない女たちがその屋敷について語ることもなければ、謎を追究するために屋敷へ向かうこともできない。
 その街にはただ不思議な現象と、昔々から語り継がれる不思議なお屋敷の噂話がそれぞれ独立して存在するのみだった。

 屋敷が文字通り陰鬱なのには訳があった。
 屋敷の主人は通常の人間ではない。陽の光を苦手とし、自分の生や享楽のために人の生き血を啜る、吸血鬼であった。彼のために広大な屋敷のほとんどの窓は分厚いカーテンに閉ざされている。しかし、主人本人はその屋敷とは相反して愉快な物事を愛する大層明るい性質も持ち合わせる男だった。そうであるため、招かれた客人は男と話せば――彼の正体はさておき――その美しい容姿と知性を感じさせる会話に魅了される。
 たとえ客人が「ディナーの主菜として」招かれたとしても、「主菜でしかない存在なのだ」と客人本人が自覚しても、それでも男に心を奪われてしまう。

「ああっ、旦那様っ……はっ、あ……ああ!」
 陽が落ちて随分と経つ。主人の寝室に繋がる廊下にはいつもに増して大きな女の嬌声が響いている。
 ――出遅れたなあ。
 目覚め直後の寝ぼけまなこを擦りながら、端整な顔立ちの男は欠伸を繰り返す。そして声の漏れ聞こえる扉を廊下からぼんやりと眺めていた。
 日の入り前後に強烈な眠気に襲われた千葉恵吾は己の睡眠欲を満たすためにそのまま意識を夢の世界へ追いやったのだが、こんなにも長い時間を夕寝に費やすつもりではなかった。
 その日は月に数度ある食宴の日だった。屋敷の主人である東雲祥貴は日の入り後に街からひとりもしくは何人もの乙女を屋敷に招いて、彼特有の『食事』をする。
 東雲に負けぬほどの美しい容姿を持つ千葉は同時に好事家でもあり、その『食事』のおこぼれに預かることが多かった。
 吸血鬼の体液には催淫作用があるという。東雲の歯牙にかけられた乙女たちは彼女らの意思とは関係なく、もしくは意思を増長させて、性的な欲求を満たそうと東雲を求めるようになる。だが、気を失うまでにその境地へ至れれば、相手が東雲であろうがなかろうが関係なくなるというものだ。そこで、千葉の出番というわけだ。
 しかし、どうやら東雲の連れてきた女は今日に限ってはひとりだけのようで、屋敷の主人が『お食事中』であるところを客人の立場である自身がわざわざ邪魔をするのもどうかと考えた。
 久々に女を抱けると思ったが。
 とりあえず己の空腹を満たそうと考え直す。主人の部屋へ続く廊下を引き返し、ダイニングルームへ足を運んだ。

 ダイニングルームでは、使用人の――というよりも執事や秘書と言った方が正しいだろう――灰色の髪に真っ黒な目を持つ男が待機していた。
「随分眠っていたな。目覚めたらそのまま『あちら』へ行くのかと思っていたが」
 幾重かの黒いチュールを垂れ下げた小さな黒いハットを頭にのせ、男ではあるが、前開きになっている洒落た黒いクリノリンを身につけている。給仕をするのに邪魔にならないのかと千葉は毎日のように疑問に思っているのだが、それを言ったところで無粋だということもわかっていた。
「いや、行こうと思ったんやけど、腹減ってたから……祥ちゃんみたいに人の血でお腹が膨れるわけでもないし」
「そうだな」
「しかもやけに盛り上がってたし……ちょっと萎えた」
……そうか」
 萎えた、の言葉の通りに千葉がしょぼしょぼと落ち込んだようなものに表情を変えて見せると、使用人の邑神有奇は男の言動に苦笑しながら食前酒をグラスに注ぐ。
「まあ、座れ。お前さん用の食事をすぐに温めてくる」

 温め直されたスープやパンが千葉の目の前に並べられていた。
 邑神は一通り千葉に世話を焼くと自室に引っ込んでいった。主人に負けず劣らずの道楽者であるその使用人は本を読んだり人形の手入れをしたり、屋敷の仕事以外にもやるべきことが色々あるらしい。
 この屋敷は夜だからこそカーテンを開け放つ。陽光の苦手な主人が存分に浴びることのできる自然光は月光、ただひとつだった。
 ダイニングからも夜空を眺めることは可能で、蝋燭などの灯りで多少光量が弱く感じるものの、今日も見事な月の模様を確認することができた。
 美しい月夜だが、時折聞こえる悲鳴のような女の声が少しだけ煩わしい。しかしその声も段々と小さくなっていき、ついに聞こえなくなる。これもいつものことだった。妙なのは、千葉自身の気持ちの問題だった。
 萎えただの、煩わしいだの。日頃の『食事』では感じることの方が少ない。どうして今日に限ってこんなに胸の辺りがもやもやするのか。腹は減っているのに食事する動きはいつもより緩慢として、進まない。
 ――つまらない、のか。
 千葉の中で、今もっともしっくり腑に落ちる言葉がそれだった。だが、腑に落ちるとは言っても心底納得したわけではない。とにかく「つまらない」のだと納得させて、食事を済ませてもう一度眠りに戻るのがいいだろうと判断した。それだけのことだった。
 何とはなく楽しくない気持ちで淡々と食事を済ませようとしている千葉の耳に、ダイニングルームの扉が開く音が届いた。
 豊かな実りを感じさせる緩く波打つ長い金髪、ギリシア彫刻の少年神のように中性的ながらも美しい目鼻立ちに、冬の曇天のように冷たい色をした青灰の瞳。誰が見てもその美しさにはっと息を飲み、そのまま呼吸を忘れてしまうのではないかというほどだ。しなやかに鍛えられた筋肉を覆うのは真っ白と評するのが相応しいつやりとした肌。千葉よりも背の高い男は腰から下を布一枚だけで雑に隠して扉付近に立っていたが、一見説得力があるのだ。そんな姿であっても「神の遣いだ」と自称すれば街でもぶらつけそうな、そういう存在感のある男。異様なのは真っ赤な唇がさらに鮮やかで真っ赤な液体に塗れている様子だ。
 この男こそ屋敷の主人・東雲祥貴であった。
 東雲は通常『食事』後であれば大抵は機嫌よく過ごしている。食欲も性欲も満たせたあとなのだから当然といえば当然である。しかし、そこに立つ男は今日に限ってはどこか不満げで、濡れた唇をへの字に曲げて千葉を見ていた。
……どしたん?」
 屋敷の主人がほぼ裸でうろついていることについては一旦目を瞑るとして、千葉は東雲が不満そうな表情であることが不思議だった。男は千葉の問いかけに答えないままペタペタと裸足を鳴らして千葉の隣の椅子を引き、どかっと乱暴に座る。この男には珍しい、極めて粗雑な振る舞いだった。腕と足を組んで千葉の明るい焦香の目を一瞥したあと、テーブルに並べられている食事を確認する。
――あまり、食べていないのかい」
 足を組んでいるせいで布が覆い隠していた一部分が露わになり、あわや局部まで見えてしまうところだった。だが、主人がそれを気にしている様子はない。
 そして千葉もそれよりも気になったことがあった。男が本当に聞きたいことはそんなことではないと直感してしまったのだ。東雲のそれは、他人の食の進みを気にしているような表情ではない。
……なんとなく……?」
「なんとなくで食事をしなくてもいいような人間なのかい、君は?」
……祥ちゃん、ほんまにどうしたん。えらい不機嫌そうやけど」
 千葉が首を傾けて東雲の青み掛かった灰色の瞳を覗き込み、再度視線を合わせる。東雲は目を合わせられるとどこか気まずい表情で、再び千葉から視線を逸らした。
 おや、と千葉は思う。こんなことは今までになかったと言っても良い。東雲はその容姿だけでなく立ち居振る舞いも堂々たるものであり、こんなふうに振る舞うことはかなり稀だ。興味深いと思うと同時に、千葉自身の「つまらない」という感情が少しずつ溶解していく感覚も感じ取っていた。
 千葉は目の前のパンを手に取り、ひと口サイズに千切ることもなくそのまま齧りつく。そして視線を逸らしたままの東雲に対して口に物を入れた状態で話した。
「ん……ふぉら……食べてんで。文句ないやろ?」
 なおも視線を逸らしたまま不機嫌な東雲に当てつけるかのように、千葉はガツガツと目の前の食事を平らげてみせた。食欲があれだけなかったにもかかわらず、これだけのスピードで胃に物を入れられるとは千葉自身も思っていなかったが、食事の横へ用意されていたグラスの中の水も飲み干すことができた。そして再度問う。
「ふう、お腹いっぱいやわ……ほんで、どうしたん?」
……どうしたと、言われても」
 東雲の横顔はまるでヘソを曲げた幼子のように見えた。
……どうした、は僕のセリフだよ……
 少し間を置いて捻り出された言葉は千葉にとっては思い当たる節がない――わけでもなく。思い当たる節はあったが、東雲がそこまでヘソを曲げるようなことでもないと思っていたため、呆気にとられた。「へ?」と声を漏らしそうになるのを寸前でよく食い止められたと、自分で感心してしまう。
 東雲はおそらく、邑神と同様に、千葉が目覚めれば『食事』へ参加するものと思い込んでいたのだろう。実際はそうならなかった。しかも当の本人はダイニングでゆっくりとお食事中であり、健康状態もいたって良好そうであるのだ。東雲からすれば、千葉が参加しないわけがない、と思える状態だ。
 だが、『食事』のことだと確定したわけではない。念のため確認しておこうと千葉が口を開こうとするが。
……今日は、千葉くんも好みの女の子だと、思ったのに……
 屋敷の主人が唇を尖らせたまま、しかもそっぽを向いてポツリと呟く。
 ――やっぱり『食事』のことやったかあ……
 東雲も千葉も大層色を好む男で、特に東雲は相手が美しければ性別など関係なく対象を『食事』へいざなう。東雲の『食事』では乙女が狙われることが多かったが、それは攫いやすく、子どもほど血が少ないわけでもなく、肉が柔らかく、なおかつ多感であるからだ。そして千葉の嗜好的にも美しき乙女を相手にするというのは享楽としては最高に近しいものだった。
 東雲にとってみれば、『食事』対象が乙女であるのはこちらの好みに合わせてという思いが大きいのだろう。千葉はそう分析する。
「ごめんごめん、今日はそういう気分やなかってん」
……嘘だ、何か理由があるだろう。君は気分の乗らないときだって女の子を平気で抱く男じゃあないか」
「それだけ聞くと俺が酷い男みたいやんか……
 しかし、東雲の指摘も間違っていない。千葉はたとえ『食事』直前のタイミングで気分が乗らなくても、実際は行為に及ぶことが多い。『食事』の済んだ主人の目の前で美しき乙女の体を穢したことは数えきれないほどある。
 千葉の口調が尻窄みになったのを感じた東雲は、自身の濡れた唇を拭いながら千葉を勢いよく振り返る。何度見ても圧倒的な美だ。千葉はこの男に決して負けているとは思わないが、この美に迫られれば心が多少たじろぐことはわかっていた。
「君だって否定できないだろう?」
……せやけど」
「じゃあ、なんで今日は僕の部屋に来なかったんだい?」
 詰問とも言える東雲の口調に千葉は再び疑問を抱く。どうしてここまで問い詰められているのか、千葉には東雲の気持ちの全体像が再び掴めなくなってしまった。
……逆に聞くけど、なんで俺が部屋に行く必要があるん? そりゃ、いつもは参加してるけど……そういう日があってもおかしくないやろ?」
……質問に質問で返すのは御法度だよ」
「でも、そうやろ? 祥ちゃんが『食事』してるそのおこぼれをもらってるだけの話やから、そもそも俺って居てもおらんくてもよくない?」
「よくないよ!」
 目の前にいるのに遠くの人間に呼びかけているのかと思うほどよく通る声。千葉は一瞬自身の右耳が機能を失ったかと錯覚した。
 そして東雲も自分で思っているよりも大きな声が出てしまったらしく慌てて謝る。
「す、すまない……大きな声を出してしまって……
「いや……大声にはある程度慣れてるから……で、なんでよくないの?」
 千葉は右耳を押さえながら、東雲のしょぼくれた顔を覗き込む。
 屋敷の主人は長命の存在だ。だからと言って年齢の分だけ人間より優れているかと言えば必ずしもそういうわけではない。喜怒哀楽をしっかり持った存在だ。そして東雲祥貴という男は、気を許した者の前では特に素直な性質を見せることもあった。
 答えを明確に持っているのに、言いたくなさそうな表情。それはやはり容姿や年齢よりも随分幼い子どものようだ。しかしややあって、東雲は美しい形の唇をそっと開いて、今度は囁くような小さな声で心情を漏らす。
……つまらなかったんだ……
……んん?」
……聞こえなかったのかい?」
 今度は気遣わしげに――自身の大声で千葉が難聴に陥ったと心配しているのかもしれない――東雲は千葉の右耳付近に触れる。緩く癖のついた黒髪を千葉の耳にかけながら様子を見ている。
 千葉が東雲の答えに反応ができなかったのは、千葉自身が同じ思いを抱えていたからだ。思いもよらぬ気持ちの一致。しかし、それはそれとして。
「つまらんかったって……あんなに盛り上がってたのに?」
「あっ、よかった、聞こえていたんだ……って、あんなに盛り上がってたって、君、覗きでもしたのかい?」
 そんなことをするなら部屋に入ってこいよ、と文句を言いたげな屋敷の主人。しかし文句を言いたいのは千葉も同じだった。
「いやいや、あんなに女の子をなかせてたら声くらい聞こえてくるやん。ほんでえらい盛り上がってるなあって思って……やのにつまらんかったって意味わからんやろ」
「違うよ、あの子が激しく求めてくるから僕はそれに応じていただけさ! 招いた女性に最大限のもてなしをするのは当然だろう。そんなこと君だってわかっているはずじゃないか」
 確かに東雲祥貴はそういう男だ。千葉も知っている。
 だが、ここで「俺もつまらなかった」と言ってしまえば、気づいてはいけない何かに触れてしまうような予感がしていた。
 ――俺は、祥ちゃんと友達、やんな?
 東雲祥貴が感じていた「つまらなさ」の正体が何なのか気づいていないのであれば、俺はそれを見て見ぬ振りをした方がいいのでは。千葉はそう考えた。東雲祥貴の友人であるからこの屋敷に人間として留まることを許されている。千葉は己の立場を十分にわきまえていた。
 だが、東雲もただ長生きしているだけの生物ではない。千葉のちょっとした言葉や間の変化に気づく。そしてそれを見逃さない。
「あんなに盛り上がってたとは言うけどね……だからって君が参加しない理由には結びつかないよ。そもそも盛り上がってたのは女の子の方だけだし――本当にどうしたんだい、いつもの君らしくないよ」
 青み掛かった灰色の瞳が慈しみに満ちた色で千葉をじっと見つめる。その色が、己の抱えていた「つまらない」という感情を遂に瓦解させてしまったことがわかってしまった。そして千葉は内心で焦っていた。やはり気づいてはいけない感情だったのだ、と。

 記憶を失った乙女たちの全員が生気を失ってしまうというわけではなかった。それはたとえば熱く愛する恋人を持っている者、既に愛すべき伴侶を持っている者。そういった者たちの一部は失踪中の記憶の喪失が見られても、活力の戻る事例が見受けられた。
 千葉は教区内の失踪事件と風土病とも思われる生気喪失の原因を探る使命を与えられた神職者であった。
 千葉の経歴にはすべて先頭に「元」とついてしまうのだが、東雲ともそもそも調査の中で出会ったのだ。神職者であるのに色欲の禁を犯していた千葉は真夜中の逢瀬のさなか、この美しい異形と邂逅を果たした。そしてやはり、乙女たちの失踪と屋敷の噂には因果関係があることに気づいた。
 様々な経緯があって教会を追い出された千葉は東雲の『食事』に加担しながら、乙女たちの生気の喪失の原因を発見した。
 東雲は『食事』を終えると使用人の邑神の手を借りながら乙女たちの記憶を消す。そして街へ帰すのだが、それだけで生気を喪失するわけではない。
 調査中、生気を喪失した乙女たちは皆一様に答えたのだ。
 ――神父様……私は、とても大切なひとを、忘れてしまったような気がするのです……

 ――俺も所詮、「ただの人間」なんか……
 千葉は、自分は他の人間とは違うと思いたかった。その考えこそが浅いともわかっていたが、違うと思いたかった。東雲祥貴という男を理解できる人間でありたいと思っていた。だからこそ、この感情は気づきたくなかった。
……ごめん、俺、やっぱり、変かも」
「千葉くん……?」
 吸血鬼の灰色の瞳にはなおも慈しみが溢れており、右耳にかけられていた手は千葉を宥めるように指先で頭を撫でる。
 東雲祥貴という男は吸血鬼というだけで、その中身は真っ直ぐな性格の男なのだ。今はその真っ直ぐな気質が心に痛い。
――祥ちゃん、俺、もう……
「千葉くん……その先の言葉を言うのは待ってくれないか?」
 いつの間にか東雲から逸らしていた視線。
 東雲の指先が千葉の顔の輪郭をなぞり、顎まで辿り着くと緩く力が込められて東雲の方へ顔を向けるように誘導される。
「僕のことが、怖い?」
 慈愛の目は勿論そんなことはないだろう、と答えを決めてかかって問いかけてきているのがわかった。
 東雲祥貴は真っ直ぐだが、狡猾な男でもあった。

 熱情、恋情。そして愛情。
 ほんの数日もしくはほんの一夜の出来事の中で、乙女は、人々は、心の底からこの男を愛した。
 その喪失が何にも代え難い傷となって乙女の心に刻みつけられる。
 だから記憶を失ってもなお、心だけはずっとこの男を覚えている。

……ずるいって……祥ちゃん、そんな目、したらあかんやろ」
「そんな目って、どんな目だい?」
「怖いわけ、ないやん……
「だろうね――ねえ、『神父様』。君なら罪の告白は得意だろう。僕のことが、そして神が怖くないなら、何にそんなに怯えているのか告白してごらん」

 異形の者に対する恋情の自覚。
 これは青春の崩壊か、はたまた、始まりか。

 東雲祥貴という異形の美を目撃したあの日を千葉は鮮明に思い出す。
 ――こいつだ。
 何に対して『こいつ』と思ったのか。今まではずっと、事件の犯人を発見した感覚だと思っていた。むしろ、そうだと信じたかった。しかし違うのだ。

――俺の、『運命のひと』」
……うん」
 ただ頷くだけの東雲に千葉は胸が、全身が熱くなり、太陽に灼かれているかと思うほどだった。そしてその熱ゆえに、涙が溢れそうだった。
「気のいい友達で居たかった――俺はもうここ以外に居場所はないから……
「うん」
「関係が変わってしまったら、今までの俺たちやなくなってまうから……でも、俺は――祥ちゃんのこと……
 今度こそ涙で視界が不明瞭になり、言葉が喉でつっかえて出てこなくなった。東雲はおそらく、慈愛の瞳で微笑みを湛えてこちらを見つめているに違いない。その状況ですら、千葉にとっては「ずるい」と思った。だが、そんな千葉の心情を察したのか、相槌だけ打っていた東雲がまた囁く。
……君をこんな表情にさせて、僕は『運命のひと』、失格かな……?」
 その言葉にいよいよぽろりと涙が頬に零れ落ちた。次々に零れる涙を東雲の冷たい指先が拭うがキリがなかった。大の大人が何をしているのかと脳の片隅に冷静な自分がいるのがいよいよ恥ずかしく、しかし涙は止まることを知らない。それほどに千葉の心は今、東雲という関心事で限界になっていた。
「なんで、なんでそんなこと、言うん……俺、俺は……
「ごめんよ、千葉くん――僕もこんなに慎重になるのは久しぶりで……
「祥ちゃんの、アホ……慎重どころか、意地悪ばっかり言ってるやんか……
……すまない……
 文字通り東雲の手も借りながら千葉は涙を拭い、なんとか東雲の顔を見ようとした。鮮明になった視界に映るのは千葉の予想とは少し違った東雲の表情だった。
 微笑んでいると思っていた東雲の顔は美しい形の眉が少し寄せられ、不安げに歪んでいた。その歪みすら美しい。そして愛おしかった。
 今度は愛おしい気持ちで涙が溢れ、千葉は自然と東雲の頬に手を伸ばしていた。
「祥ちゃん、なんで、そんな顔……
「長命の僕にとってはね――愛を告白するのは、罪を告白するのと同じくらい難しいんだ。聡明な君になら、この意味を理解できるよね」

 婚姻に際して「死が二人を分つまで」という決まり文句がある。
 人間の死は吸血鬼にとってはありふれたものだが、それが愛するひとならどうだろうか。
 それは愛するにはあまりにも短命すぎるのだ。
 しかし、東雲祥貴という男はその葛藤を乗り越えて、まさしく今、千葉恵吾へ語りかけている。
 そして千葉恵吾は、そのすべてを理解し得た。

――君の態度を見て僕は確信したよ」
……何を」
「僕は君のことを愛したいんだと思ったんだ。君が僕を『運命』だと呼んでくれるなら、僕はそれになろう――ならせてくれないか」

 東雲祥貴は狡猾な男だ。千葉恵吾を「ただの人間」なんかで終わらせない。
 ――己の命はここから始まるのかもしれない。
 千葉恵吾は、絶望に似た希望を東雲祥貴の真摯な瞳の中に見出した。

 <完>