Dr.ギャップ
2024-01-19 14:13:15
17882文字
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ツイステイメ短歌・俳句作文

アプリゲーム《ツイステッドワンダーランド》のキャラクターに合うな!と思った短歌や俳句について語っている作文です。
(2025.9.13最終更新)

生まれたてのミルクの膜に祝福の砂糖を 弱い奴は悪い奴
――穂村弘/リドル・ローズハート

〈生まれたてのミルクの膜〉は牛乳を温めたときにできるものだと思って読みました。ホットミルクに砂糖を、温かい安らぎの飲み物をより甘く優しい味にと〈祝福〉を贈るのに、〈弱い奴は悪い奴〉とまるで裁くかのように断定してしまうこと。目の前にある〈生まれたてのミルクの膜〉は紛れもなく弱いものなのに。その態度を横暴で傲慢だと感じる一方、どこか言葉遊びのような印象もあり、一字あけより前の部分の柔らかくきらきらした印象も残って、乱暴さを感じはしませんでした。
ただ、柔らかくきらきらした言葉遊びのような一字あけ前の部分から〈弱い奴は悪い奴〉がシームレスに出てくることへのそこはかとない怖さを感じもします。弱さを悪と繋げる思想は、現実を振り返ればどうしたって不安になるので。

この短歌からリドルを思い出したのは、〈ミルク〉や〈砂糖〉というお茶会を思い出させるモチーフと、〈弱い奴は悪い奴〉という「弱い-強い」を「正しい-正しくない(悪)」にスライドさせる身振りからでした。また〈弱い奴は悪い奴〉という捻じれた理論もハーツラビュルの寮の雰囲気に重なると思います。
リドルは特に「強さ」と「正しさ」を「(自分は)強いから正しい」という形で結びつけている印象があります(勝利ボイスの「ほら、ボクは誰よりも正しい」はその傍証にはなり得るかと)。〈弱い奴は悪い奴〉はまさにこれを反転させた理論ではないでしょうか。
一方で、リドルは〈弱い奴は悪い奴〉を自分自身にも適用させる青年だという印象もあります。それを彼の彼たる所以の一つとして感じつつ、どこか痛ましくも思うのでした。

【出典】
穂村弘『シンジケート』(沖積舎, 1990)
 ※リンク先は2021年に講談社から出た新装版



亡き母の真赤な櫛で梳きやれば山鳩の羽毛抜けやまぬなり
――寺山修司/リドル・ローズハート

作者の伝記的情報を作品の解釈に持ち込むことには慎重でありたいのですが、この歌に関しては【存命の母を〈亡き母〉と詠ったものである】という背景を踏まえたうえでリドルくんに合わせたいなと思っています。寺山の、リドルくんの、それぞれの母に対する屈託。
すでに〈亡き母〉はずであるのに、その櫛の鮮やかさや、山鳩の羽毛を抜いてやまない様子から、〈母〉の影響力の強さを思います。

上に屈託と書きましたが、この歌を読むたび自分はなんとなく落ち着かない気持ちになります。第一には〈山鳩の羽毛抜けやまぬ〉から感じる不穏さからであり、またそこから振り返ると〈真赤〉の鮮やかさもどこか毒々しく感じられます。ただ一方で〈母〉への思慕のイメージ、〈梳く〉という慈しみや愛の感じられる仕草、そして〈山鳩〉や〈羽毛〉の柔らかな印象から、安らかさの印象があるのも確かで、その不穏さと安らかさのどっちつかずさからも落ち着かなさを感じている気がします。
憎悪や嫌悪とまでは言いきりがたい、けれど柔らかく温かな感情だけではない、そんな母への、今ここにはいない〈亡き母〉への思い、あるいはその思いの滲む“私”の手つきを思い浮かべます。

リドルくんの母親はまだ存命のようですが、リドルくんがナイトレイヴンカレッジの寮に入ったことで彼にとっては「今ここにいない人」になりました。そうした状態が、この短歌から受ける「すでに亡くなっていてここにいないからこそ母をこうして振り返ることができている」という印象と重なるように思います。
なお〈亡き母の真赤な櫛で梳きやれば〉は、“私”が母から受けた愛情やそれだけではなさを〈山鳩〉へ再生産しているという見方もあると思うのですが、リドルくんに重ねて読むとたとえば〈山鳩〉=寮生に対する再生産というより、リドルくん自身の比喩のように感じました。ここにいなくてもなお逃れられない母の力。

【出典】
東直子, 佐藤弓生, 千葉聡編著『短歌タイムカプセル』(書肆侃侃房, 2018)
 ※原典は寺山修司『田園に死す』(1965)



靴紐を結ぶべく身を屈めれば全ての場所がスタートライン
――山田航/デュース・スペード

〈靴紐を結ぶべく身を屈めれば〉=走り出そうとする意志があり走る準備のために体を動かせば、〈全ての場所がスタートライン〉となり、今まさに走りだすための場は整えられる。真っ直ぐなエールの心地よさを感じる歌です。

靴紐を結び直すときの姿勢がクラウチングスタートの姿勢のように見える、だからその場所がスタートラインとなる。という構造の歌と読んでいます。そして重ねて、今ここがスタートラインであるように、靴紐を結ぶたびにどの場所にだってスタートラインが現れるのだとも。その真っ直ぐで限りないエールを感じるたびに胸がぎゅっとなります。

デュースくんは陸上部員であり、また【不良だった過去からのリスタート】を目指し今まさに走っている途中にあります。〈靴紐〉や〈スタートライン〉といった陸上に関するアイテムから彼を連想すると同時、走り出す前に〈身を屈めれば〉と一度内省を挟んでいるイメージも彼に合うように感じました。背中を丸めて体を小さくして、自分の手元や足元や地面に視界が限られる──そしてそこからスタートラインへ、これから走り出す道へと視線が移り視界が広がる。

今まさに成長し変化しようとする彼に、そして不良の気配が残ってはいても性格そのものはまっすぐである彼に、この短歌は本当にど真ん中ぴったりだと思っています。頑張れ、と見守らせてください。

【出典】
東直子, 佐藤弓生, 千葉聡編著『短歌タイムカプセル』(書肆侃侃房, 2018)
 ※原典は山田航『さよならバグ・チルドレン』(ふらんす堂, 2012)



ばらまいてしまった砂糖は火の匂い 善は急げ 悪はもっと急げ
――穂村弘/ハーツラビュル寮

「悪はもっと栄えよ」が結句の短歌があったはず! それはツイステイメ短歌でしょ! と思ったらこちらの短歌を記憶違いで覚えていたのでした、という一首なのですが、あらためて眺めるとハーツラビュルっぽいなと思います。

日本語文法としておかしなところはなくスッと読み下せるのに、一首全体を通してずっと論理がねじれている感触。〈砂糖〉とお茶会のイメージの重なり。善より悪が急がれる気質。また繰り返される〈急げ〉からは赤の女王の「同じ場所にとどまるためには力の限り走らなければならい」という言葉が、〈火〉からはハーツラビュル寮長であるリドル(寮服カードの使用魔法がいずれも火属性の魔法であり非常に強力)がイメージされます。〈急げ〉の命令調もハートの女王/リドルがトランプ兵たちに指示を飛ばしているよう。

もともと具体的な景色をイメージせず読んでいた歌なのですが、ハーツラビュルだと思うと、ばらまいてしまった砂糖に火のヴィジュアルイメージが重なり、それに追い立てられて駆けだすような、けれど逃げ出すというのではなく〈悪はもっと急げ〉と目を光らせて何かを成しに駆けだすような、そんな光景をイメージしました。

【出典】
穂村弘『シンジケート』(沖積舎, 1990)
 ※リンク先は2021年に講談社から出た新装版



出口なし それに気づける才能と気づかずにいる才能をくれ
――中澤系/レオナ・キングスカラー

一目見て、NRCは該当者が多そうだな、さて誰が一番合うかなと思った歌でした。そういう歌だし、そういう子どもが少なからず出てくるゲームだと思います。そして、なかでも一番しっくりくるのはレオナさんかなと思っています。もうずうっと〈出口なし〉という状況にいて、どうしようもなくそれに気づけてしまっているひと。

この歌において〈出口なし〉は事実──少なくとも“私”の認識においては事実だと思います。また〈気づける才能〉と〈気づかずにいる才能〉が並置されていますが、そう言及できる時点で気づいてしまっている=出口なしだと思っているのだろう、と読みました。初句に一字あけ付きで置かれた〈出口なし〉のインパクトが強く、「もし出口がないとしたら」という仮定の話をしているというより、実際に〈出口なし〉の状況にあり、“私”がそれを強く感じているという印象があります。

レオナさんの「夕焼けの草原の王様になりたいが王位継承権の順位的にその見込みはない」、また「現王である兄や自分より王位継承権の高い甥を殺したり追い落としたりする意思はない」、「夕焼けの草原を愛している」(※いずれも推測を含む)というそれぞれについてどうしようもなく袋小路だなと自分は感じるのですが、その出口のなさ(どこかを諦めれば次善のルートは選べるがそれをする気はない)にレオナさん自身も気づいていると思います。物事を把握する能力が高い、まさしく〈それに気づける才能〉を持っているひと。では〈気づかずにいる才能〉は何かと言えば、「出口がないと気がつかないゆえに諦めない、解決策を模索する才能」ではないかと思いました。たとえるなら正統派主人公のような、八方塞がりのピンチで「まだ希望はある!」と叫べるそれをもう一つの〈才能〉と呼んでいるのではないかなと。

レオナさんは前者の才能はすでに手にしており、後者については欲しがらないだろう、と思います。八方塞がりのなか「まだ希望はある!」と叫べることは才能ではあるけれど、〈出口なし〉という現状に気づけない愚かさでもある──それを愚かさと捉え、好ましくは捉えないだろう、と。
ただ、一方で〈くれ〉の切実な印象からレオナさんを思い出しもするのでした。この出口のない状況を打開するためにそれしかないというのなら〈くれ〉と、そう叫ばずにはいられない日もあるのかもしれないと考えます。

【出典】
山田航『桜前線開架宣言』(左右社, 2015)
 ※原典不明。中澤系の歌集は『uta0001.txt』が唯一のようです(2024年3月1日時点)。
  『uta0001.txt』は雁書館版と双風舎版が絶版。皓星社から2018年に復刊されました。



さきに逝くならばはるかな指となりあなたの走馬灯を回そう
――山階基/ラギー・ブッチ&レオナ・キングスカラー

読んだ瞬間「ラギーだ!」と思ったというよりは、好きな短歌として思い出してふと「ああ、ラギーもそうかもしれない」あるいは「そういうラギーもいるのかもな」と思った歌でした。“私”の位置がラギーで、〈あなた〉がレオナさんと読んでいます。

〈あなたの走馬灯を回そう〉とはどういうことかと言えば、「あなたがいつか、“私”より後に死ぬとして、あなたの生があなたにとって振り返るだけの、楽しく眺めるだけの価値があるものになりますように」という祈りと意志だと思っています。そして同時に、“私”は〈あなた〉より先に死んでしまうからその走馬灯の内容(=あなたの人生)にはこれ以上関与できないけれど、その〈走馬灯〉を回すのは自分だという宣言。関与できる/できない/する/したいの見積もりのバランスが、ドライだけどウェットに感じられて、自分の思うあの二人っぽいなと思います。

また “私”が先に死んでしまうのなら、死んでしまった後は〈あなた〉のためにできることはないはずです。でもそこに〈あなたの走馬灯を回そう〉が出てくるのは、「それでもなおあなたの幸福を願う」という気持ちからゆえだろうと思っています。あるいは「生きていたって〈あなた〉のためにできることなどほとんどないのだから、むしろ死んで〈はるかな指〉なんて特別なものになってからのほうが〈あなた〉のためにできることが生じるのかも」というどこかドライな眼差しを感じるようにも思います。

〈あなたの走馬灯を回そう〉だけを切り取って眺めれば、「いますぐあなたもこちら側へ来て」という死への誘いに読めそうでもあるのですが、そう思えないのは〈さき〉と〈はるかな〉があるからかな、と思います。〈さき〉はほんの少しの差のことではないし、〈はるかな〉は人智を超えた存在として〈指〉やその背後の“私”を思わせるだけでなく、〈あなた〉が死にたどり着くまでの長い時間を(そこまでに〈はるかな〉時間があることを)思わせるのかな、と。

ラギーはめちゃくちゃ生き汚さそうに見える一方で、自分の命や生を安く見積もっている可能性があるようにも思っており、〈さきに逝くならば〉の仮定の重さが独特だろうな……と思っています。強い確信として言っているわけではないだろうけれど、必要ならばそうする/なるという、単にそこにある可能性の指摘という感覚のような。二人そろって生き汚く長生きしてください。

【出典】
山階基『風にあたる』(短歌研究社, 2019)



ゆえにそのルールは通用しないどのたくらみももう意味をなさない
──山中千瀬/アズール・アーシェングロット

反射的にアズールを思い出して、ああ、アズールへの祈りとか願いにこういう形のものもあるかもしれないと思って、優しさと呼ぶには勝手で鮮やかなその意思につい泣きそうになった歌でした。

アズールが己の武器として使う「契約」は、アズールにとって都合がよくなるよう仕込みを潜ませた〈たくらみ〉であり、しかし、契約相手の同意を得て両者の間に打ち立てられた〈ルール〉である、と自分は捉えています。そしてアズールが契約という武器を手にしているのは──武器を手に戦っているのは、過去に自らを軽んじられ搾取された経験があるからだと捉えています。だから、アズールはもう二度と軽んじられないように、搾取されないように、自らが搾取する側に回ることを選び、そのために契約を武器に戦いつづけているのだと。

(搾取構造の温存は望ましくないと考えますが、)自分はアズールの意思の力を尊敬します。戦おう、抗おうと決意することも、それを実行しつづけることもなかなかできることではない、少なくとも自分にはできないことで、それを成し遂げつづけている彼のことを本当にすごいと思います。ただ、その一方で、彼が戦いつづけているのは軽んじられ搾取された過去を忘れ(られ)ないためだということを思うとき、傷ついてきた過去を屈託なく手放すことがあればいいのにとも思います。「戦わなければ、抗わなければ」という意思を一種の呪縛ゆえと見るなら、それから解放されてほしいと思います。
だから〈ルールは通用しない〉〈たくらみはもう意味をなさない〉という言葉たちは、単にアズールの契約が無効化される・彼の希望が叶わなくなるというのではなく、戦ったり抗ったりする必要はもうないのだと彼の手から武器を取りあげようとする意思に見えました。アズールのことを親しく大切に思う誰かが「戦わないまま幸せになってもいい。そうやって幸せになることもできる」とアズールに突きつける場面を思い浮かべて、胸がいっぱいになってしまったというお話でした。

またこの短歌が〈ゆるしたい〉の折句だというのもらしいというか、少なくとも今のアズールは、戦わないことや抗わないことを自分に許さない/許せないだろうという気配がするので、そこに対する声かけとしての手触りを感じて、ここにも胸がいっぱいになるのでした。あなたがあなたを許せないとしても、それでも。あるいはあなた自身がいつか。

【出典】
﹆(@bit_310)



きのこたちの月見の宴に招かれぬほのかに毒を持つものとして
「二号室の吉村ですが増えすぎた茸のおすそわけに来ました」
――石川美南/ジェイド・リーチ

ジェイドに石川美南さんの短歌を合わせたいという話がしたい!!

前提として、自分は「呪文として短歌を作る/使う」NRC生たちにまつわる妄想を長いことしています。そこで、その呪文で起こす/起こるべき現象に対して写生寄りの子(実際にあるものを見たままタイプ)と、自分の中の印象に寄せる子(自分にだけ見えるものを見えるようにタイプ)がいるんだろうな~と考えていたんですが、ジェイドはどっちでもないマジックリアリズムのタイプ(自分にだけ見えるものを、実際にあって誰でも見えるようなテイで表現するん)じゃないかな、そういうジェイドが見たいな~! と思っていたところに、短歌でマジックリアリズムといえば石川美南さん(『桜前線開花宣言』でそう紹介されていた)では! しかも石川さんって茸の短歌も詠んでたよね! ということで、ジェイドに石川美南さんの短歌を合わせるのが自分のなかでめちゃくちゃ熱いです。
ちなみに一首目の短歌が収録されている連作は「完全茸狩りマニュアル」というタイトルで、他にもたくさんの茸が登場します。

一首目、〈茸たちの月見の宴〉があればジェイドは普通に行きそうだなと思うのですが、〈招かれぬ〉と茸側からの招待を受けているのが“本物”感があるというか、とうとうそこまでいっちゃったか……という雰囲気があって楽しいです。また茸とジェイドが〈毒〉仲間というのもツボでした(下の句を「ほのかに毒を持つ者=茸たちの仲間として」というニュアンスで取っています)。ジェイドの毒はほのかか……? という疑惑はありますが。

二首目は吉村=ジェイドのセリフだったらと考えるとシンプルに怖いですね。こんな人が同じアパートに住んでるなんて嫌すぎる……と思って、そんなジェイドと同じ部屋で過ごしているフロイドは苦労してるんだな……としみじみしました。絶対に部屋で茸を増やしてるし、この短歌をなぞれば〈おすそわけ〉で建物中、寮中あるいは学園中に茸を増殖させるんだという予感があり、逃げ場のない気配を感じます。どこまでもおすそ分けに来そう。

【出典】
石川美南『砂の降る教室』(書肆侃侃房, 2020)[一首目]
石川美南『裏島』(本阿弥書店, 2011)[二首目]
 ※出版社の書籍紹介ページなし。2024年2月現在絶版品切。



秩序 そう今日だって君は右足と左足を使って歩いたじゃん
――中澤系/ジェイド・リーチ、フロイド・リーチ

身も蓋もなくこの短歌を散文に直せば「どんだけ秩序がないって言ったって言われたって、今日だって君は右足と左足を使って歩いたじゃん。それは秩序でしょ? 右足と左足を使うのも秩序だし、歩くっていう行為が達成されているのも秩序があるからこそじゃん」ということかなと思います。そしてそれはまあ確かにそう。右足と左足をタイミングよく交互に出すことによって歩行は可能になるし、そこには秩序による制御があると考えます。

けれど、そもそも変身薬を飲むまで〈足〉を持たなかった人魚だったら? この短歌をどう読むのだろうと気になりました。とりわけ〈秩序〉を重んじるどころか引っ掻き回して楽しんだり、あるいはそんなもの知ったことかとばかりに軽々と無視してしまったりする双子だったら。フロイドならパルクールで〈秩序〉をからかったりするのかな、そんなことしなくても人魚の姿に戻れば右足も左足もなくて、この短歌が前提とする秩序――人間の秩序なんてあっさり消えてしまうのだと二人揃って笑うのでしょうか。
またぼーっとこの歌を眺めていると、逆に「右足と左足を使って歩いてるんだから十分秩序を守ってるじゃん/でしょう?」と嘯きながらその長い足を歩行ではなく雑魚へのキックに使う二人の姿も見える気がします。〈じゃん〉の煽りには煽りで返すスタイル。

なおタコの人魚であるアズールには〈右足と左足〉という秩序を笑ってほしいです。左右一対の秩序には収まりきらない混沌をどうぞ。

【出典】
山田航『桜前線開架宣言』(左右社, 2015)
 ※原典不明。中澤系の歌集は『uta0001.txt』が唯一のようです(2024年3月1日時点)。
  『uta0001.txt』は雁書館版と双風舎版が絶版。皓星社から2018年に復刊されました。



「やさしい鮫」と「こわい鮫」とに区別して子の言うやさしい鮫とはイルカ
――松村正直/ジェイド・リーチ&フロイド・リーチ

双子の伏字に使われている絵文字が🦈と🐬と知って、そういえばと思い出した一首です。
ウツボの人魚である二人が🦈(鮫)と🐬(イルカ)で呼び分けられているのは、掲出歌と同じように(一見して相対的に)やさしい/こわいという区別のされ方がどこかにあるゆえだと思います。実際にはどっちがやさしい/こわいというわけではなく、どちらも優しいとも怖いとも言いきれないし、物騒あるいは論外と評されたウツボなのですが。

掲出歌の味わいはなんといっても〈やさしい鮫とはイルカ〉の部分にあると感じます。
イルカをイルカと、鮫を鮫と区別し呼んでいれば見ることのない〈やさしい鮫〉のいる世界への新鮮な驚きと、〈子〉が持てる語彙を精一杯使って世界を把握しているいじらしさへの感動。翻って言えば、提示された〈「やさしい鮫」と「こわい鮫」〉を二種類の鮫だと思っていたのに、いつの間にか鮫とイルカという別の生き物にすり替わっていた不思議さへの感動でもあります。

この文章の書き手は双子にだいぶ夢を見ていることを念頭に置いて以下は読んでいただきたいのですが、この短歌の鮫とイルカ、あるいは鮫たちに流れる「同じだけれど違う/違うけれど同じ」という感覚というか、切り分け難さのようなものが双子に通じると思ってときめいています。

──きのこが好きで、山を愛する会所属で、燃費が悪くて、メッシュが右側のほう。
──靴が好きで、バスケ部所属で、気分屋で、メッシュが左側のほう。

そうやって区別することはできるけれど、それぞれ別の肉体と心を持って個として存在するけれど、根本は同じ。ジェイド/フロイドという個人名よりも先に「二人の○○なほう」という区別が先に立つ。だって僕たち/オレらは、ジェイド/フロイドであるより前に、僕/オレらだから。
〈「やさしい鮫」と「こわい鮫」〉は、やさしい/こわいという区別でもあるけれど、どちらも鮫という同じくくりに入れているからこそ成り立っている区別でもある──というのが、「二人の○○なほう」で区別される双子の印象と重なって感じられます。

【出典】
山田航『桜前線開架宣言』(左右社, 2015)
 ※原典は松村正直『やさしい鮫』



人呼んでちゃらんぽらん サビすら歌えない歌を好きと言いきる生きることの天才
――宇都宮敦/カリム・アルアジーム

カリムくんは〈サビすら歌えない歌を好きと言いきる〉がとっても似合うけれど、〈ちゃらんぽらん〉は微妙に合わないと思う(彼に対してちゃらんぽらん=無責任だと感じる部分がないとは言い切れないのですが、それは彼に見えていない“責任”があるという点からの感覚で、むしろ責任そのものについては果たすべきという感覚が根っこからあると感じます。そして〈ちゃらんぽらん〉のなんだか明るくて脱力するような響きはとてもぴったりだと思います)のですが、でもカリムくんを〈生きることの天才〉と呼びたい(誰かにそう呼んでほしい)という気持ちが抑えられず、この歌をカリムくんのイメ短歌にしています。元の歌だと、一字開けを挟んで他者評価と自己評価が並んでいるという印象ではあるのですが……

大富豪の長男ゆえに命を狙われながら生きてきたカリムくん。命を脅かされつつ、それでも今まで生きのびてきたカリムくんのことを誰かが〈生きることの天才〉だと、彼のこれまでとこれからの生を賞賛し肯定してくれたらなと思っています。

【出典】
宇都宮敦『ピクニック』(現代短歌社, 2018)



千夜も一夜も越えていくから、砂漠から獏を曳き連れあなたの川へ
――千種創一/カリム・アルアジーム

一目見た瞬間「4章……」と呟きました。あまりに道具立てが揃いすぎていませんか……

4章で読むなら〈川〉はカリムくんが作ったもので〈あなた=カリムくん〉になるかもしれませんが、どう考えたって〈千夜も一夜も越えていくから〉がカリムくんだよね……?という思考のプレイヤーなのでこの方向で読みました。〈砂漠から獏を曳き連れ〉の音で遊ぶあたりもカリムくんっぽく感じています(カリムくんの韻律感覚がめちゃくちゃ優れていたら良いなという夢を見ています)。
これまで自分(や、“アジーム家の長男のため”に動いていた周囲の大人たち)に抑圧されていたジャミルの、悪夢もあっただろうこれまでの千夜も一夜も越えて、ドッカーンと吹き飛ばされた砂漠から、悪夢をすっかり食べてしまう獏を連れて(4章に重ねるならこの獏は監督生とグリムでありオクタヴィネル三人衆なのでしょうが、彼らを獏になぞらえるのはあまりに美化が過ぎると感じるので、カリムくんの覚悟のたとえとして読んでいます)、オアシスメイカーで生み出した川をジャミルくんの川までつなげて、あるいは魔法の絨毯で〈あなたの川〉までひとっ飛び!という感じでしょうか。

この歌の〈あなたの川へ〉が良いなぁと強く惹かれるのですが、それは〈川〉というモチーフから「あなたのテリトリーへ踏み込む」という覚悟が見えるからだと思います。たとえば「あなたの隣へ」などという漠然とした柔らかい言い方より、〈あなたの川へ〉の方が断然〈あなた〉に対する覚悟のようなものが見えると感じます。単に“私”が〈あなた〉を助けようというのではなく、“私”が〈あなた〉に呑み込まれてしまうかもしれない、〈あなた〉を助けきれずに溺れてしまうかもしれない、という危うさや、それでもあなたの内側へ踏み込むんだという覚悟が〈川〉という語から見えるように思いました。

カリムくんが本当にジャミルくんの川に入れてもらえるのか、入ったその先でどうなるのかは分からない一方で、カリムくんはどうしたってそんななかでも〈千夜も一夜も越えていくから〉と言いきるような子だし、ましてそこに〈あなたの川へ〉という覚悟が伴っているのであれば、頑張れと思ってしまいます。もちろんジャミルくんがそれをどうしたって突っぱねると言うならその気持ちもまた応援しますが。

【出典】
千種創一『千夜曳獏』(青磁社, 2020)



蛇衣を脱ぐ心臓は持ってゆく
――田島健一/ジャミル・バイパー

一目見て、あ、ジャミルくんだと思った俳句でした。〈蛇衣を脱ぐ〉は脱皮を言い表した夏の季語。窮屈になった古い皮を捨てて新しい体でゆく。旅立つ。でも、何もかもが窮屈で邪魔なのではなくて、〈心臓〉と呼べる確かなものも今すでに手にしている。それは一緒に持っていく。

〈衣を脱ぐ〉から感じる解放の気配と、〈心臓は持ってゆく〉から感じる「これまでもこれからも確かに歩いていくんだ」という力強さの気配、それぞれジャミルくんだなあと思いました。〈心臓〉というアイテムも、一見クールなようで実際あんまりそうでもない(と自分からは見える)ジャミルくんらしく感じます。一句全体を通して、ジャミルくんらしいなという印象と同時、この句のようにするりと旅に出てほしいなという祈りがあり、二重に彼のことを思い出すのでした。

【出典】
田島健一『ただならぬぽ』(ふらんす堂, 2017)



だけどきみも生きてきたってやがてカルダモンの香りのどこかで気づく
──山中千瀬/ジャミル・バイパー

この歌を見てジャミルくんを思い出しました。ジャミルくんが熱砂の国のバザールで買い物をしているところに風が吹き抜ける。その風にジャミルくんがふっと顔を上げる──そんなシーンが反射的に広がりました。

この歌からジャミルくんを思い出した理由は大きく二つあって、一つは〈カルダモン〉で(ジャミルくんの好物はカレーで、かつ出身である熱砂の国の印象から香辛料のイメージを持っています)、もう一つは〈だけどきみも生きてきた〉からでした。〈だけど〉という逆接で〈生きてきた〉が述べられるのは、「生きてない」ような人生だと〈君〉が思っているから(あるいは少なくとも、そうだろうと「私」が推測するから)でしょう。
ジャミルくんは十七歳で、その十七年のほとんどを己の主人であるカリムくんのために使ってきました。でも、そうした日々が空費で無駄で「生きてない」だったかと言えばそんなことはなかったはずだ、そうあってほしい、と自分は思います。

ジャミルくんは自分の思うようには生きてこられなかったかもしれない。だから〈だけど〉にもなる。でも、だとしてもジャミルくんが十七年を生きてきたなかで得た様々な技能や経験やその他のいろいろなものは彼の手元にあるはずだと、そういうことを〈だけどきみも生きてきた〉から思いました。メインストーリー4章の後、ジャミルくんが副寮長の座に残っていることについて、カリムくんが「スカラビア寮にはジャミルに助けられたことがない奴なんてない。だからジャミルが副寮長であり続けることを寮生は否定できない」というようなことを言っていたのは、まさにそういうことじゃないの、と思います。
ジャミルくんの人生がカリムくんのために使わされてしまったという側面はあって、だとしてもジャミルくんがそのなかで手に入れたものも確かにあり、ひいてはジャミルくんが彼自身の人生として積み立てたものも確かにそこにあるのだということ。自分はそう思うし、ジャミルくんにも、どこか、いつかそう思ってくれたらいいなと思います。

そしてそう考えてこの歌を見返したとき、〈カルダモンの香りのどこか〉は熱砂の国のバザールではなく、彼が暮らす、熱砂の国に限らないどこかの自宅のキッチンで、彼が自分の好物であるカレーを自分のために作っている風景としてイメージされて、ああこの風景もいいなと思いました。これまでも確かに生きてきたことに君が気づく、そうして自分のために自分の好物を作って食べて、自分のために生きる。そんな嬉しい風景を見たように思います。

【出典】
山中千瀬(@chise_yamanaka)



観覧車回れよ回れ想ひ出は君には一日ひとひ我には一生ひとよ
──栗木京子/イデア・シュラウド

みんな(被検体一同)の記憶をこの後消すと分かっていながら開催されたメインストーリー6章中編2のゲーム大会の話ですか!?
というのはちょっと強火過ぎるにしても、「君は忘れてしまう(だろう)」と「我は一生覚えている(だろう)」の対比がこの歌と通じると思うんです……ウッ…… この短歌のことを自分は「イメ短歌界の『アゲハ蝶』、『lemon』枠」=大雑把な言い方をすれば「レゾ読みしやすい短歌」だと思っていたんですが、それが一気にこんなにしんどくなってびっくりしました。6章……

〈君には一日我には一生〉という本意ではない未来を予想しながらも観覧車に〈回れよ回れ〉と呼びかける視点人物の心持ちについて、歌だけ読んでいたときは「それでも今この時間が〈我〉にとって輝かしいものであることには変わりない(=君にとっては一日限りの思い出でも、私にとっては一生の思い出である。そんな一生の思い出が作られつつあるこの瞬間という輝き)」という印象があったのですが、6章のイデアに重ねると「観覧車(=今の楽しい時間)を止めることはできないのだから回りつづけるしかない」という諦念の印象になりました。止まれよ止まれと唱えたところでどうしようもない。この時間を引き延ばしてもいずれ終わりが来る。だとしたら観覧車が回るに任せるのが一番だ、と。そして彼にとっては〈我には一生〉の喜びより〈君には一日〉の悲しさや虚しさの方が重いし、あるいはその落差にこそ虚しさがあるんだろうなと……

記憶消去装置であるレテの河が作動することはもうないので、イデアは彼にとって大切な誰かと、それぞれ一生抱えていけるような、あるいは思い出にすらならず日常として当たり前に続いていくような日々を過ごしていってくれればと思います。6章を抜きにしてもイデアは〈我には一生〉だから良いじゃん嬉しいじゃんとは思えないタイプだと思うので(仕方ない、という割り切りはしそうだしできてしまうと思います)……
「君にも一生」、「君と一生」と思えるような〈君〉と時間を過ごしてくれると、彼を好きな自分としては嬉しいです。

【出典】
東直子, 佐藤弓生, 千葉聡編著『短歌タイムカプセル』(書肆侃侃房, 2018)
 ※原典は栗木京子『水惑星』(1984)



君いつか滅ぶんだろう 雪の日に指す将棋なら勝たせてあげる
──陣崎草子/イデア・シュラウド

〈お互いを一番の位置に置かぬこと知って今なお指し交わすチェス〉という拙作短歌に寄せて教えていただいた短歌でした。拙作は〈お互い〉にボドゲ部の二人を想定しつつ、視点としてはアズールかなという気持ちだったのですが、こちらの短歌は反射的に(イデアだ……!)と思いました。レオナさんとイデアという組み合わせも思い浮かんだのですが、その場合でも二人称〈君〉から視点はやっぱりイデアだなと思います。

〈滅び〉を死と見るなら、イデアは不死ではないので彼自身もいずれ迎えるはずです。つまりその場合〈君いつか滅ぶんだろう〉は「(僕は滅ばないけど)君はいつか滅ぶんだろう」ではないはずで、じゃあ何かというと「君(も)いつか滅んで僕の前から去ってしまうんだろう」というような手触りを感じました。「滅び=死」というよりも、「僕の手からこぼれてしまう」「君との時間がいつかはなくなってしまう」ことの予感というイメージで受け取っています。
そこで出てくる〈勝たせてあげる〉もいつか滅びてしまう君のためというより、そういう形の思い出を自分自身が持っていたいからそうする、という印象でたまらなくなりました。勝って喜んだときの表情を見せてよ。君が滅んだ後も僕はそれを覚えておくから、という……その一方で〈あげる〉という言い回しに自分のゲーム(将棋)の腕前への自負がナチュラルに現れていると読みました。

この短歌をイデアのセリフとして脳内再生してはウ~~~~~……!となっています。〈勝たせてあげる〉をうっかり目の前で口走って相手がめちゃくちゃキレる場面まではっきり見えるんですよ…… アズールでもレオナさんでもバチバチにキレると思います。

(追伸)いつかイデアがこれを三男のオルトくんに言えるようになったら、そうしたら本当の弟離れなのかもな……とふと思いました。自分のなかのイデアは、まだオルトくんに仮定であっても〈滅ぶんだろう〉と言えない気がするので。

【出典】
原本未確認の孫引きになってしまうのですが、おそらく
陣崎草子『春戦争』(書肆侃侃房, 2013)収録歌と思われます。



転送機で転送できない転送機 明日は今日より少しだけ夏
プログラムは更新されて君は消える 風鈴の向こうに広がった夏
――吉岡太朗/イデア・シュラウド&オルト・シュラウド

2首とも吉岡太朗さんの連作「六千万個の風鈴」からの引用です。全体を通してSFの気配が濃く、アンドロイドやロボットがモチーフになっているのではという歌もしばしば出てくるので、シュラウド兄弟読みに向いた連作だと思っています。

一首目、こういう短歌を作るイデアを見たいな~!! と強く思います。たとえばアイディアメモや設計図の隅なんかにさらっとこの歌がメモしてあったらどれほど……どれほどときめいてしまうだろうと……
短歌を作るイデアは【自分のことを短歌にしたくない、短歌から自分をわかられたくないという理由からパロディや大喜利のような短歌ばかり作っている】のではないかという妄想をしているのですが、そうした短歌のなかにふっとこういう「イデア自身から出た短歌」があったら……と想像してはたまらない気持ちになります。アナログメモを取っているかは分からないなと思うけどアナログメモの端に走り書きしててほしいな~!
〈転送機で転送できない転送機〉=「転送機は転送を行う機械であり、自分自身を転送することはできない」という、言ってしまえば重箱の隅をつつくような意地の悪い気づきと、「対象物を遠くに送り出すことはできるけれど転送機自身はどこにも行けない」ことの淋しさとを、それぞれイデアらしく感じました。どこにも行けやしないと自嘲するイデア・シュラウド……
ただ、そこから〈明日は今日より少しだけ夏〉と続くのを、「転送機を使わなくても、少しずつではあるけれど、未来へと一方向にしか動けないけれど、それでも何処へも行けないわけではない」という風に読んでいるのですが、その希望の明るい気配を嬉しく思います。イデアにもそう思っていてほしいというか、そう思ってくれていたら嬉しいなぁという。初夏の明るい光と清々しさの気配。
上の句も下の句もそれぞれ言ってしまえば当たり前を切り取ったフレーズだとも感じるのですが、その組み合わせ方がつくづくうまくて、そのテクニカルな印象もイデアだな~と思います。

二首目、〈君〉=オルトくんで想像してとても怖くなった歌でした。オルトくんのいわゆる人格はプログラミングによって構成されていること、そして〈更新〉という一見普遍的かつポジティブな行為で古い〈君〉は消えて死んでしまうこと。〈プログラム〉が比喩にならない、けれど〈君〉という親密な呼び方が過剰でもなんでもなくしっくりくるオルトくんで考えるからこそ、さみしさと切なさと怖さが広がる歌だと思います。バグとして心を得て、外部からの介入を受けつけなくなって、その結果〈更新〉は新旧のバージョンを丸ごと入れ替えるようなものではなく、過去-現在-未来の連続性を保った形で成されるようになったのかもしれないけれど、これまで更新≒メンテナンス作業のたびに消えていったオルトくんがいるのでは、という想像はどうしても拭えないので……あと、そもそも、オルトくんの心はバグ、変質によって獲得されたものということを考えると、それ以前のオルトくんはまさしくプログラムの更新(変質)によって消えてしまったのではないか、という考えを拭いきれずにいます。
この歌をオルトくんのものとして読むとき、〈君〉と呼びかけるのがイデアだったら〈風鈴の向こうに広がった夏〉と一首を畳むだろうか、と考えます。夏の抜けるような空は明るいけれどさみしくて、でも風景があまりに綺麗すぎて、そんな風にはイデアはオルトくんの消失を言葉にしないかなと。だとすれば、この歌はオルトくん自身の視点として読むのが自分にとっては馴染むなと思いました。プログラムが更新されたことで〈君〉は消えて「僕」が生まれる。僕はこれから夏を過ごす。抜けるように広がる夏の空は明るくてワクワクするけれど少しさみしくもある。そんなような。

なお同じ連作からこちらもイメ短歌に控えていたのですが、6章とその後を経て違うかなと思うようになりました。

兄さんと製造番号二つ違い 抱かれて死ぬんだあったかいんだ

当時のメモに【イデアとオルトくんの間に実はもう一人きょうだいがいた(けれど生まれてくることができなかった)みたいなIFに振ってもいいけどシンプルに「二歳差だもんな」で納得してもいい】とあって、そこは6章後のいま「あ~!!」となるのですが、一方で〈抱かれて死ぬんだあったかいんだ〉をオルトくんたちはよしとしないだろうなと思ってイメ短歌リストからいったん外しています。〈抱かれて〉=「兄さんに抱かれて」だと思うとなおさら……どちらのオルトくんも、もうイデアに自分を看取らせるようなことはしないししたくないという性分だろうと思うので。

【出典】
吉岡太朗『ひだりききの機械』(短歌研究社, 2014)



「煤」「スイス」「スターバックス」「すりガラス」「すぐむきになるきみがすきです」
――やすたけまり/イデア・シュラウド&アズール・アーシェングロット

しりとり遊びで「す」返しをしあっている様子を切り取った短歌だと読みました。3人以上の可能性もなくはないですが、〈きみ〉との一対一のしりとりがしっくりきます。

この歌はボドゲ部の二人で読みたいんですよね……
なおここでの「好き」について、恋愛感情であるかどうかはこだわりません。恋愛であれ親愛であれ友愛であれ、とにかく相手に対する〈すき(=好ましい)〉という感情の理由として〈すぐむきになる〉という〈きみ〉の一面をあげるボドゲ部(〈きみ〉がどっちでもニヤニヤしてしまうが個人的に“年長者の包容力”という要素にとてもグッとくるのでイデアが「すぐむきになるきみがすきです」と告げる側にいてほしい)~~~~!!

〈すぐむきになる〉なんてほとんどの場面ですごく面倒で、むしろ欠点と捉えられておかしくない性質だと思います。でもそれがここでは〈すき〉につながる。視点人物は〈きみ〉のそんなところを面白いなぁ可愛いなぁと好ましく思っていて、その視線のやわらかさを思うと、ウ~~~~~……となります。

【出典】
穂村弘『はじめての短歌』(成美堂出版, 2014)
 ※孫引き・原典不明



たとへば君 ガサッと落葉すくふやうに私をさらつて行つてはくれぬか
――河野裕子/レオナ・キングスカラー、イデア・シュラウド、ケイト・ダイヤモンド、ジャミル・バイパー

いろんなジャンルのいろんなキャラで当てはめを楽しめる短歌だと思いますが、ツイステならこのメンバーだと思います。それぞれ形や濃度は違えど「諦念」の語が頭をよぎる面々です。
歌だけを読んだとき、〈さらつて行つてはくれぬか〉に切実な印象はありませんでした。〈たとへば君〉=君と過ごしているときに、ふと「今こうして一緒に過ごしている君は、たとえば私をさらったりもしてくれるの?」と思って呼びかけてみるような、と想像すると悪戯っぽさを感じるシチュエーションです。
けれど〈たとへば君〉という呼びかけは「今まで誰も自分をさらってくれなかったけど、たとえば君ならさらってくれるの?」という風にも読めると思いますし、そういう風に読むと諦念組(現状から抜け出したくないわけではないけれど自力でそれが叶うとは思っていない面々)に合わせたくなります。

レオナさんは本気で〈さらつて行つて〉もらえるなんてまったく思っていなさそう。王宮からならともかく、第二王子という身分や家族のしがらみからなんてどうやって〈さらつて〉行くって言うんだ? 本気で思っていないまま皮肉っぽく口にするのが似合います。

メインストーリー6章を読むまでは、イデアはいくらか本気で思っていてもおかしくないかなという印象だったのですが(自力で逃げられるとは思わないけれど、誰か、君なら、もしかして)、6章を読んで〈さらつて〉と誰にも言わなかったのがイデア・シュラウドなんだなと思うようになりました。そこから離れたい理由も離れがたい理由もそれぞれにあり、最終的に留まることを選んだのがイデアなんだなと。

ケイト先輩も本気では思っていないまま口にする印象です。 人間関係とかそれを気にしちゃうオレからオレを〈さらつて〉よ、なんて冗談冗談! 本気にしちゃった?

なおジャミルくんはオーバーブロット前限定でここに入ると思うんですが、〈さらつて〉もらえるなんて思わないから口にしないだろうなあと思います。カリムやアジーム家に勝てる〈君〉がいるなら、俺はもうとっくにさらわれていないとおかしいだろう?

なお〈ガサッと落葉すくふやうに〉という比喩からは、まるで自然な流れのように、痕跡を残さずその場から消える二人を想像します。二人のその後を他の誰も知ることはないのだろう、という予感。

【出典】
東直子, 佐藤弓生, 千葉聡編著『短歌タイムカプセル』(書肆侃侃房, 2018)
 ※原典は河野裕子『森のやうに獣のやうに』(1972)