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きう
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春と嘯く
ワンズオ(禾⇄左)
廊下に踏み出すと冷えた空気が尾の表面を撫でていき、ホーシェンは思わず身体を震わせた。今の時期、つまり過ごしやすい秋口、ロドスは空調の大掛かりな設備点検を行うため、その大部分が止まる。つまり昼は過ごしやすいかわりに朝夕は少し冷える。一枚多く羽織るほどではないが、空気がこもる部屋と比べると朝の廊下は寒い。
窓から入るぬるい陽射しに身を寄せ、息を細く吐き出しながら食堂へ向かう途中、甲板に見慣れた影を見た。濃紺の外套に付けられた留め具が日光を反射している。いつもなら訓練室で朝練をしている時間だと言うのに珍しい。その影、ズオ・ラウは朝練どころか甲板の縁に立ったまま微動だにしない。微かな不安と疑念を抱いて甲板への扉に手をかけた。
陽が降り注ぐ甲板は廊下に比べると暖かい。夏を忘れた荒野の空気は乾燥していて、少し埃っぽかった。ズオは甲板の手すりに背を預けて目を閉じている。防具や武器はなく、任務前という雰囲気ではない。夜色の髪が陽に縁取られ揺れている。自分の足音に気付かないはずもないが、目蓋を上げる気配はない。
「ズオさん?」
呼び掛けると緩慢に思える速度でようやく目蓋が上がった。
「シャオホー、おはようございます」
「おはようございます。
……
何をしているんですか?」
「日光浴をしています」
「
……
日光浴」
復唱するとズオが頷く。確かに甲板は日当たりがよくて気持ちがいい。けれど朝練を止めてまでするようなことにも思えない。疑問が態度に出ていたのか、彼は息だけで笑った。
「今の艦内は少し寒いでしょう」
「そうですね。朝夕は思っているより冷えます」
「身体の動きが鈍くなるので、こうして温めているんです」
彼の尾が種族を主張するように左右に揺れた。フィディア。ホーシェンにはあまり馴染みがない種族だ。でも確かに体温調整があまり得意ではないと聞いたことがあるような。
「申請すれば宿舎の空調を入れてもらえると思いますけど」
「限りある資源は必要とする方が使うべきです」
彼が言っているのが怪我人や病人であることは自明だが、体質の差だってそれに該当するのではないか。ズオの自分を数にいれない性格は美徳ではなく自己満足だ。以前に比べれば彼も充分それを理解しているようなのだが、いまだに線引きが重ならない時がある。それは彼の性格由来なのかもしれないし、もしかすると惚れた相手を大事にしたい僕の欲なのかもしれない。仕方がないと思う反面不満もあり、それを隠さず表情に出せば穏やかに彼は続けた。
「大丈夫ですよ、気を付けていれば普段通りですから」
ほらと言わんばかりに差し出された手を握る。冷たくはない、けれどこちらの方がずっと温かかった。そのことに驚いたのかズオは目を丸くする。
「
……
そういえばフォルテの体温は高いんでしたね」
瞠目した目を細め、柔らかな表情を浮かべる。郷愁なのか、日頃見られない雰囲気の変化に気持ちがざわめく。
彼の知り合いにはフォルテがいるようで、たまにそれを思い出すらしい。それが少し、いや結構面白くない。僕のフィディアは彼ひとりなのに、彼は他のフォルテと僕を重ねているのだから、面白いはずもない。
「
……
申請を上げないのなら、僕で暖をとりますか?」
僕の言葉にズオが二度まばたきをした。手の平より一段温度の低い、皮膚の薄い甲を指で撫でる。身じろぎするように震えた手を逃がさないよう強く握った。
「目覚めが温かければ君も朝練に行けるのでは?」
「それは
……
そうかもしれませんが
……
」
「ロドスの寝台は広いし、二人で寝ても何も困りません」
言いながら果たしてそうだろうかとも思う。野営でもあるまいし、彼が隣に眠る状況で自分は落ち着いて眠れるのか? 答えは考えるまでもなく否だ。それでもひくわけにはいかなかった。この人の記憶する体温を自分で上書きして、自分だけにしたい。嫉妬か独占欲か、自分の言葉に隠し切れない焦燥が滲んでいるのは自覚している。でも止められなかった。ズオは迷うように掴まれた手を見つめていたが、ふと緩むように眉を下げた。
「あなたが許してくれるなら
……
お願いできますか?」
すりと指先を撫でられてどきりとする。相好を崩した彼の顔を急に見ていられなくなって、視線を逸らした。ズオの白い頬が、微かに甘く染まっているように見えるのは都合のいい錯覚だろうか。
「いいですよ
……
僕も少し寒いと思っていましたから」
夜半に差し掛かろうとする時間に、来訪者を告げる部屋の呼び出し音が鳴った。背筋が無意識に伸び、手にしていた本から顔を上げる。何度も同じ場所ばかり読んで頭には入らなかったページに栞を挟みながら短く返事をする。深呼吸してドアを開けた。
訪ねてきたズオは白い部屋着の上に温かそうな上着を羽織っていた。自分はいまだ半袖一枚なので、やはりフィディアには寒い気温なのだろう。
「こんばんは」
「どうぞ、入ってください」
彼を部屋に通し、ドアを閉める前に軽く廊下に視線を走らせる。誰もいない。別によこしまな理由ではないのだから気にする必要はないが、それでも気になってしまう。施錠し戻るとズオが部屋の真ん中で立ち尽くしていた。
「すみません、読書中でしたか?」
「いや、そろそろ寝ようと思っていたところです」
自然を装って答えるが、すでに緊張は最高潮に達していた。見たことのない部屋着は普段の姿から考えれば随分と無防備に見えたし、ふわふわとした上着も防寒だと分かっていても可愛らしく映る。あまり視界に入れないようにしながらベッドへ入ると、おずおずとズオがその端に腰掛けた。
「でも、本当にいいんですか、その
……
」
肩身狭そうにシーツに視線を落とすさまを見ながら、この人は行為前にも同じように恥じらってみせるのだろうかと雑念が浮かぶ。こんなことを考えているなんて、軽蔑されるだろうか。いや、言い出した時は下心ではなかった。全部が善意だとは言うつもりはないけれど、期待があって声を掛けたわけではない。
「
……
大丈夫です、充分な広さですから」
ベッドの奥へ身体を横たえると、ズオが上着を畳んでぎこちなく隣に並んだ。布団をかぶった時に香ったのはいつもと違う匂いで、それが彼の匂いだと気付き体温が上がる。もしかしたら洗髪剤の匂いかもしれないが、どちらにせよ自分のものではない。
二人並んでも窮屈さを感じない寝具に感謝しながら明かりを落とす。普段通りと念じながら大きく息を吐いた。
「シャオホー」
小さく声を絞った呼びかけに、これ以上煩くはならないと思っていた心臓が大きく跳ねる。
「
……
なんですか?」
「
……
手を握ってもいいですか?」
断る理由はない。元より体温を分け合うためにこうしているのだから。こちらを向いているズオと、暗闇で目が合った。布団の中で自分よりも冷えた彼の手に触れ、指を絡めるようにして手を握る。
「ありがとうございます
……
」
ズオの指が控えめにこちらの指に絡んだ。
「シャオホーは寒くないですか?」
「二人でいるのに寒いはずないでしょう」
「いえ、私の体温は低いので
……
」
「平気です」
それだけ言って天井を向いて目を閉じた。寝ることに集中しないとこのまま眠れなくなりそうだった。ベッドに二人いるせいか、それとも別の理由なのか、いつもより暑い。繋いだ手の体温が移って、段々と差がなくなるのが分かる。
不意に踵に何かが触れた。控えめに、けれど確かに触れているものは少し冷えている。
「寒いですか?」
冷たさが離れる。尾先かもしれないが、たぶん彼の爪先だった。
「す、すみません
……
」
「謝ってほしいわけではなくて
……
」
角を枕に埋めながら身体ごと彼の方を向くと、申し訳なさそうに彼は俯いた。繋いだ手まで離そうとするから、安心させるように引き留める。足を伸ばし、彼の脚を捉まえた。
「
……
言ってくれないと分かりません」
こちらに引き寄せ、ふくらはぎの間に挟み込む。布越しに低い体温を感じる。今更大胆な行動をとっていることに気が付いて慌ててズオの様子を窺った。彼は俯いたまま、ぎゅっとこちらの手を握り返した。
「あ、温かい、です
……
」
嫌がられていないことに胸を撫で下ろすと同時、視線が交わる。部屋は暗いのに彼の瞳は光を纏っているように眩い。
「もっと寄ってもいいですか?」
すぐに返答できなかった。僕たちの間には、今それほど距離がない。それなのにもっと? 両手を握り合えるぐらい? 枕を分け合うぐらい? それとも身体が密着するぐらい? 体温が上がりすぎて思考が煮詰まる。
「い、いいですけど」
もぞもぞとズオが布団に潜るように動いて、額がこちらの胸に押し当てられる。心音が聞かれてしまいそうだ。そんなことを思う暇もなく、繋いだ手にもう片方の手が重ねられた。挟んでない方の脚がこちらの脚に沿う。耳元で煩いぐらいに自分の心臓の音が聞こえている。
「そんなに寒いですか?」
昂る感情をごまかすように、聞く必要のないことを口走る。自分のものではない匂いがする。涼やかで品のある、だけど少し甘い香り。知っている、彼の匂いだ。
「はい」
顎の下、普通なら聞こえるはずのない位置からズオの声が返る。
「
…………
可能なら、」
囁くようにひそめられた声は、それでも最後までしっかり聞こえた。この部屋には二人しかいなくて、空調が止まっていて、とても静かだったから。望まれた通り、腕を伸ばし彼の身体を抱き寄せる。彼の顔が胸に寄せられて、腹の間で繋いだ手が挟まり、脚が絡まる。心臓が壊れそうな速度で脈打っている。
「
……
これでいいですか?」
顔が、身体が熱い。ズオの体温が低くて良かった。彼の顔が目の前にないことも最早救いだった。あったら愛しさから堪らず口づけてしまっていた気がする。
「はい。ありがとうございます
……
嬉しいです」
ズオの手が僕の手から離れて、背に回った。恐る恐るもう片方の手を彼の身体にくぐらせ両腕で抱き締める。ズオが喜びを表すように頬を擦りつけてくる。眠るためではなく忍耐のために目を閉じた。僕の方が、この温度を忘れられなくなりそうだ。
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