生徒会室の扉を開けるとき、静留はいつも、一つ息を深く吐き出す。期待しすぎてはいけない。落ち着かなくては、と。逸る心臓を押さえつけるかのように、熱く熱を持つ息を、体外に押し出す。それは大抵無意味に終わる。扉を開けた途端、きゅっと止めた息を、ほう、と諦めと安堵のものにして吐き出していく。……しかし、今日はどうも違ったようだ。
「静留」
その聴き慣れた声に、静留は一瞬身を硬くして、意識的に緩めた。気まぐれにやってくる手負いの猫は、今日はどうやら機嫌がいいらしい。いつも通りを装い、静留は驚きも不安も、期待すらおくびにも出さず言葉を紡ぐ。
「なつき。なつきがここで起きてるなんてめずらしおすなぁ。もしかして、うちに何か用どすか?」
「ん。まあな」
冗談でかけた言葉は、意外にもすんなりと受け入れられてしまって、戸惑う。なつきはニッと口元を引き上げて笑い、ぴょいと机の上から飛び降りて、入り口から動けないでいる静留の元へと歩いてくきた。
「……なつき?」
なつきの、普段とは違う機嫌の良さそうな様子に、つい不安げな声がこぼれ落ちてしまった。
しまった。
静留がそう思ったのも束の間。一瞬だけ表情を変えた静留を見て、なつきは嬉しさを隠しきれない子供のように笑い、言葉を紡いだ。
「静留、誕生日おめでとう」
「……え?」
なつきの手に握られていたのは真っ赤な薔薇の花が一輪。それは、紛れもなく静留に向けて差し出されていた。
「あははっ、なんだその顔。初めて見たぞ」
「……いけず。うちの誕生日、まさかなつきが知ってはると思てなかったし……ちょお、驚いただけどす」
「あっははは。でも静留もそんな顔するんだな」
「もう、なつき。そない笑わんといて。……やかて、その……おおきに」
いつも通りが、もう崩れてしまっていることはわかっていた。それでも、必死に取り繕うことしかできない。せっかくのなつきからの好意を素直に、手放しに喜ぶことのできない自分が嫌で、それでも……嬉しかった。
自分の想いと、なつきの想いは違う。それはわかっているつもりだった。しかしそれでも。なつきから初めてもらうプレゼントが、薔薇の花だなんて。特別な意味もない。ただ自分を喜ばせたいという一心で選んでくれたに違いないにしても、嬉しかったのだ。ほんの一瞬でも期待してしまった自分の浅ましさを呪っても、それよりももっと。
「……せやけどうち、なつきに教えてへんやったと思うんやけど」
「ああ、生徒たちが昨日噂をしていてな。いやでも耳に入ったんだ。……ま、まあお前には世話になってるし、花くらい渡そうと思ってな。……迷惑、だったか?」
少し不安げな目をして上目遣いに見つめるなつきを、静留は愛おしく思った。このくらいは許して欲しい。そう、誰にでもなく請いながら、なつきの手からようやく花を受け取り、胸に抱いた。
「おおきに、なつき。うち、嬉しい」
きっとなつきは知らないのだと思った。この花を、誰かに渡す意味を。静留は、それでいいと思った。それがいいと、思った。
愛しい人からのプレゼント。それは何よりも嬉しいのに、何よりも残酷で、自分たちの想いが違うという事実が静留の胸に冷たい雪のようにしんしんと積もった。自分は笑えているだろうか。そう静留が、不安覚えてしまうほどに。
きっと友達だと思っているから、なつきはこうやって祝ってくれるのだと、もしも自分の気持ちを知ったら、こんなに近くにはいられないだろうと、静留は胸の中でひとりごちる。この歪んだ想いは決して、なつきに悟られてはならないと思った。あの花園で出会った、澄んだ、強い光を宿していた瞳は、静留だけを映して。日の光のようなあたたかい、綺麗な色を宿して緩む。それを、美しいと思った。そんな綺麗な瞳に、自分は映ってはいけないのではないかとも。
友達。
それは二人を繋ぎ止める絆であり、鎖だった。
ここで満足しなあかん。
そう、頭ではわかっているはずなのに、静留はつい望んでしまうのだ。自分の想いになつきが答えてくれるという、幻想のような未来を。
「なつきにプレゼントもらえるやなんて思てへんやったさかい、なんや嬉しいなあ」
いつもの調子で返せば、なつきは少し照れ臭そうに微笑む。この笑顔を自分だけのものにしたい。そう思ってしまう自分はやはり醜いと思いながらも、この時間だけは、今ここにいるこの時間だけは、玖我なつきという最愛の存在が自分だけのものであって欲しいと、静留は切に願うのだった。
◇◇◇
「静留、誕生日おめでとう」
「おおきに、なつき」
二人きりの部屋で、なつきは静留に甘く微笑んだ。
決して広くはないが、二人で暮らすには十分な広さ。ところどころに存外可愛らしい小物が多い、統一感があまりない部屋。だがそこは二人にとって、とても心地のいい大切な場所だった。
なつきの卒業と同時に、静留となつきは、二人暮らしを始めた。提案したのは、なつきからで、静留はあまり乗り気ではなかったが、最終的にはなつきに押し切られる形で今の生活がスタートした。自分の帰る場所は、静留がいいだなんて。プロポーズのようなことを少し赤く染まった顔で言い放ったなつきに、惚けたように頷くことしかできなかったのは、惚れた弱みだとしか思えない。
なつきのいけず。
何度、胸の内でそう罵っただろう。そんなことを言われて、静留が断ることができるわけがないことは、きっとなつきもわかっていただろうに。
なつきは自分の想いを知っているはずなのに、なぜ。静留の中に浮かんだ問いは、今日この日まで、なつきにぶつけることなく静留の胸の内にある。それでも、どんな関係性であっても、ただ、好いた人のそばにいられる。それが静留にとって一番の幸せだった。
静留は、両手で温もりを確かめるように持っていた湯呑みを置いて、ふわりと顔を綻ばせる。なつきはその甘さを新緑の瞳に映しとり、少し緊張した面持ちで、背中に隠していた、一輪の花を差し出した。
「あら、なつきが薔薇の花やなんて、ふふ。よう似合うてはりますえ?」
「……茶化さないでくれ」
なつきが少し、子供みたいに頬を膨らませて言うから、静留はさらに笑みを深める。
「そういえばあの時もなつき、うちに薔薇の花、くらはったなぁ」
「……覚えていたのか」
「ええ。うちがなつきとのこと、一つでも忘れるわけありません」
「それもそうだな」
なつきは頬を赤くして、照れ臭そうに微笑む。
「あの時はなにも考えず、ただよく見る花を買っただけだったが……今度は違うぞ?」
「……?」
「今の私は、薔薇の花言葉くらい知ってるってことだ」
「……!」
なつきの瞳に灯る熱は、いつか自分がなつきに向けていたものと同じ類のもので、それに気づいた静留は、その瞳を見つめ返すことができず、思わず顔を伏せてしまう。
いつか、こんな日がやって来てくれたらいいと、どれだけ祈っただろう。そんな日が訪れることはないと、何度枕を濡らしただろう。
「お前はわかってなかったみたいだが、二人で暮らそうって言った時から私は……」
そこまで言って恥ずかしくなったのか「お茶でも淹れてくる」と背中を向けたなつきに、静留は振り向けば振り払われてしまうくらいの弱々しい力でしがみついた。
「……静留」
気がついたら静留は、なつきの腕の中にいた。なつきに抱きしめられている。その事実は、静留の思考を奪うのには十分で。
「私だってお前のことが、好き、なんだ。……同じ、意味で。だからそろそろ信じてくれないか、私を」
今までも何度か、なつきが静留に伝えてくれた言葉。それを、静留は「おおきに」と言って流すだけだった。きっと今までと一緒だと思っていたから。下手に期待して、苦しむのはもうごめんだと、隣にいれさえすればいいからと、静留はなつきの気持ちを、いつだって本気にはしなかった。静留は怖かったのだ。嫌われたくない。今の関係を壊したくないと。あの日、一度崩れ去り、それでもなつきは、苦しみ、葛藤の末、静留の想いを受け止めてくれた。静留は、それだけでよかった。報われなくても、ただその想いが、存在を認めてもらえただけで、十分だったのだ。だから、なつきから同じ気持ちを返されるなんて、思ってもいなくて。
「……なつき」
「なんだ、静留」
「……すき」
「私も好きだぞ」
縋り付くように、親指と人差し指でなつきの服の裾を掴むと、冷たく冷え切った手が、あたたかい手のひらに包まれ、さらに強く抱きしめられる。
想いを伝えられただけで満足していたのに。好いた人に想いが伝わって、想いを返されることがこんなにも嬉しいことだなんて知らなかった。ぼろぼろと溢れ出す涙がなつきの胸元を、濡らして、なつきはそれすらも愛おしく感じながら静留を抱きしめる腕に力を込める。
静留の胸の中に、長らく降り積もっていた雪が、なつきの熱で、少しずつ溶けていくようだった。じんわりと広がる温もりを、静留は今度は、腕に力を込めて抱きしめ返した。
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