生ぬるい風が頬を撫でた。わずかに隠すように触れたお前の手は、そのせいかしっとりと汗ばんでいた。汗の匂いがした。香ばしく甘い、そんな匂い。それに誰かが吸った葉煙草の匂いが漂い、エールとともに夜の香りをさせる。人が集まる中心で何かが起こって、誰かの歓声が上がる。音楽が聞こえる。きっと宮廷付きの音楽家が演奏をしているのだろう。私はそんなごちゃごちゃした夜の中、隣にいる男の気配をそっと探った。
「そろそろ花火が上がりますよ」
カブルーは、砂浜で歩きにくそうにエールを配る侍女たちをねぎらってから、海辺に腰掛ける私にそう言って空を指差した。月と星以外には何もない空はそれでもきらきらと光っていたが、花火が上がれば、もっとまぶしい光がやがて空を埋め尽くすのだろう。
侍女たちが、ライオスたちの集まりから離れた私たちのもとに、わざわざ軽食を運んでくる。だがカブルーはエールやそれを断って、そろそろあなたたちも自由にするように、と繰り返し侍女たちをねぎらった。
今日は何度目かの建国祭の日だ。朝は荘厳な儀式がヤアドによって執り行われ、各国の王族や大使たちがもてなされ、昼にはライオスの国民に向けてのパレードが行われ、そして今、陽が落ちた夜にはみなに向けての花火が上げられる。まだ見ぬ美しい風景を想像して、私は小さくため息をついた。
「建国祭は年々派手になるな」
「全部ヤアドの仕業ですよ。……それより良かったんですか? こんな辺鄙なところで。あなたには賓客席が用意されてるのに。あ、これさっき貰った飴菓子です。良かったどうぞ」
カブルーがそう言って、小さなりんごを飴で包んで砕いた菓子を差し出し、私の側に腰掛ける。私はそれに笑って、彼の手を取り「そんなところじゃあキスもできない」と褐色の手の甲に唇を乗せた。
少しだけ、ほんの少しだけ身体が引かれる。でもカブルーはすぐに頭をかいて、「もう少し我慢してくださいよ」と、私の額を撫で、そこに優しく唇を押し付けた。
この国――メリニ国で暮らすようになって、もう十数年が過ぎた。カブルーはよりたくましくなり、私は少しばかり身体の衰えを感じるようになった。
今もルーティーンとなっている迷宮潜りは続けているし、彼とは相変わらずくすぐったい愛を紡いでいるが、私たちは些細な変化を抱いていた。とはいえ、それが悲しいとか、悔しいとか、そういうのじゃあない。彼とともに変化してゆけることが、私は何より嬉しかったのだ。そうして、彼が運営にあたっているこの国の人々が幸せに暮らしていることが、自分が属する国では王権にまつわる争いが起ころうとしているというのに、何より嬉しかった。各国の王族や大使の祝福の言葉は、彼を褒めているような気がして嬉しかったし、パレードの民の歓声は、彼を慕う人々の声を聞いているようで心地良かった。
ドン、と音がして、花火が打ち上がる。カブルーが「もう少しですね」と、楽しそうに笑う。その目尻にはわずかな細かいしわがあって、私は胸が締め付けられるような気分になる。年相応の年齢の変化を見て、私は彼とともに歳月を過ごしているのだと、彼の十数年をもらったのだと、嬉しくて苦しくなる。
「そうだな」
ぱっと花火が開いて、きらきらと星の粒のようなそれがぱらぱらと落ちてきて、その花火の光のシャワーはカブルーの滑らかな褐色の肌を照らす。ライオスがいる、王族や大使が集まる主賓席からは拍手が上がり、庶民たちが集まる場所からは口笛が聞こえる。
エールの匂い、葉煙草の煙の匂い、彼の汗の匂い、甘い、香ばしい体臭。私はカブルーに寄りかかり、目まぐるしく変わる、色とりどりの花のような光を見つめる。そしてようやく、彼から貰った飴菓子を口に放り込む。りんごの甘酸っぱい味、それを包む歯が溶けてしまいそうな飴の味。幸せな駄菓子の味。
そんな私の足元には、取り留めのない、波打ち際の、海辺の不揃いな足跡の名残がある。それはきっと侍女たちがひらひらとスカートをひるがえして歩いた、その名残りなのだろう。でも、それはじきにさざなみに流されてゆく。私はそれを見て、穏やかなそれを見て、私たちもこんなふうに終わってゆくのだろうか、なんて馬鹿なことを考えた。
「小さい頃、花火が上がると嬉しかったな。まるで祝福されているみたいで。ウタヤは迷宮で栄えていましたけど、伝統的な祭りもあって……大きな規模の夏祭りなんかもあったんです。母さんからコインをもらって、友だちと買い食いなんかして。あなたにも見せたかったな、山から見た景色はとっても綺麗だったんですよ」
カブルーが懐かしそうに青い瞳を細める。それを縁取る黒く濃いまつ毛が頬に影を作り、表情を隠してしまう。彼は何を懐かしんでいるのだろう? かつて自分を愛してくれた母親か? それとも、幼い頃の全て?
もしも許されるのなら、幼かったお前を抱きしめてやりたい。私なんかじゃ嫌だろうし、きっと足りないかもしれないけれど、ありったけの愛情をかつてのお前に注いでやりたい。
カブルー、お前の生が短いと言うのなら、私の愛情の全てを持っていってほしい。私がこれから先誰も愛せなくなるように、私に残った欲、愛情という欲全てを、喰らい尽くしてほしい。
藍色の花火が上がる。
ここで十数年暮らして感じたことだが、この国の夏の終わりは花火の藍色に染まる気がする。そして、花火の音に混じる、かつては雑音にしか聞こえなかった、止まない虫の音に染まる気がする。それらは私が思うよりずっと美しくて、この国を何よりも彩っている。
「メリニ国万歳!」
「ライオス王万歳!」
「悪食王万歳!」
酔っ払いが叫ぶ。私はそれを聞いて、この国はきっと安泰だろうと思う。こんなに国民に愛される国はそうない。多くの流民を受け入れてもなお栄えるこの国は、豊かで愛情にあふれ、各国との貿易も盛んで欠けたところがない。それは全てヤアドやカブルー、そして彼らが見つけてきた役人たちのおかげだったが、私はそれがとても誇らしかった。
「カブルー」
私は首を傾げ、愛しい男の名を呼ぶ。空を見ていたカブルーは、私の声にようやくこちらを見つめる。
なぁ、お前はまだ気づいていないのか? 次の花火が打ち上がるまでの短い間に、お前を求めていること。さっき額にしてくれたのよりずっと、熱いキスをしてほしいこと。だからあえて貴賓席に行かなかったこと。
私は、カブルーから貰った飴菓子を口の中で転がしたまま、花火が上がるその時に、一瞬だけ暗くなったその時に、甘いだけのキスをする。カブルーは一瞬驚いたようだったけれど、すぐに私の意を汲んで、繰り返し口付けてくれた。軽く、深く、もっと深く、甘く香ばしい体臭を漂わせて、甘いばかりの口付けをくれる。
もうすぐ夏が始まって、もうすぐ夏が終わる。
解けない魔法があったらいいのにと、私は年甲斐もなく思う。解けない魔法があったら、この男とずっとともにいるのに、と思う。でも、そんなものがもしあったら、お前は動けなくなってしまうだろう。そんなのは、お前は望まないだろう。ともに歳をとり、最後には私に看取られるのが、お前の望みなのだろう。
あと一歩を踏み出すのはいつだって私だ。お前はその先で待っていてくれる。お前を最後まで愛するのは、他でもない私なのだから。
花火の光のシャワーが落ち、歓声が上がる。そんな中で私たちは口付けを続ける。
やがて終わりがいつか来るのならせめて、この花火が終わるまで静かに、静かにキスをしていよう。私が欲しいものはそれだけだ、お前がいるそれだけで、私はそれだけで何もかもを投げ出せてしまう。お前はそれを良しとはしないかもしれないけれど、私はそれでいいんだ。
なぁ、カブルー、だからもっと、深く口付けてくれ。
If you make a mistake, you can cancel it by pressing the reaction.