どこか輪郭の曖昧な季節が終わり、木々や空の色に夏の気配を感じるようになった。特にここ最近は、長袖を着ているとうっすら汗をかくほどに暑い日が続いている。夏本番とまではいかないが、しかし春にしがみつくには暑すぎる季節の到来だ。気温の上昇に伴い、カフェのケースからはパステルカラーが姿を消して、代わりに夏らしい鮮やかな色味のスイーツが並ぶようになった。一足先に夏色を出すスイーツ達をチラリと見て、「そろそろ夏物を出さなきゃ」と思いつつ黄昏色に染まる店内の片付けをしていると、ふと背後から声をかけられた。
「あら、今日はあんたが最後なのね」
「店長、お疲れ様です」
箒を持ったまま店長のいる方を振り返って、にこりと微笑んで挨拶をする。均整の取れたしなやかな体に、鮮やかで豊かな金髪。彫りの深い顔立ちに、舞台女優さながらのド派手なメイク。美形ではあるけれど、男性か女性かよく分からないこの人こそが、このカフェのオーナーであるサンジェルミさんだ。店のライトの下で見ると、より一層その姿が目立っている気がする。
しかし、一体何の用だろう。不思議に思って店長に「何か御用ですか?」と尋ねたけれど、返事はなかった。腕を組んでこちらを見て、黙って何かを考えている店長に、段々と居心地が悪くなる。どうしよう、ちょっと怖い。店長とは十代の頃から交流があるけれど、こうして店長が黙って思考を巡らせた後は大体面倒なことが起こるのが常だから、どうやっても緊張してしまう。
……いいや、面倒と言ったら少し語弊があるかもしれない。私が荒療治だと思っていたことでも、店長はしっかり根回しをしていたことが多々あった。製菓の道に進みたいけど家庭の事情により二の足を踏んでいた私を国外に引っ張り出した時も、きちんと準備をしていた。なぜだか知らないけれど、店長は私より先に家族の同意を得ていたから多分そうだ。
(多少荒っぽくても何でも、いい方向の結果を出すことのできる人だから、人がついてくるんだろうなあ)
でも、拉致まがいのことは流石にやりすぎだと思うけど、と十代の頃を思い出していると、がしりと肩をつかまれた。その、すらりと綺麗な手からは想像できないほど強い力に驚いて、パッと店長の顔を見た。怒っている訳ではないと思うけれど、濃いアイシャドウに彩られた瞳がギラギラと変に燃えている。
あの時——寝起きの私のお尻を比喩じゃなく叩き上げて、国際線の飛行機に押し込んだ時と、同じ色。店長の瞳を見て、今回も苦労しそうだと私が腹を括った瞬間、すごくいい笑顔を浮かべた店長が口を開いた。
「あんたがいるなら丁度いいわ。今夜、知り合いが一枚噛んでるカフェの下見に行くつもりだったから、あんたも一緒に来なさい。そこで、さんざん噂になってるあんたの彼氏の話も聞かせてもらおうじゃない」
「えっ、待ってください。そんなに噂になってるんですか?」
急に立てられた今夜の予定よりも気になる発言に、ぎょっとして店長の顔を見てしまう。というか、どこで噂になっているんですか? 寝耳に水の情報に完全に面食らっていると、相手は小馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
「だって、女を家政婦としか思っていない飯目当ての最悪男に引っかかってはすぐ捨てられてたあんたが、一ヶ月間もしつこくアプローチしてくる男と付き合ったのよ? そんな面白そうな話、ここの子達が話の種にしない訳ないじゃない」
「あ〜、言われてみれば確かにそうですね……」
どうりで、休憩時間中にやたらと恋バナに巻き込まれると思いましたよ。なるほど、そう言う理由でしたか。まさか、自分の知らないところで色々噂されていたとはつゆ知らず、恥ずかしいやら気まずいやら。自然と顔に熱が集中してしまい、ため息をつきながら顔を覆って天を仰いでいると、お腹をペシッと店長に叩かれた。結構痛い。
「まあ、今回の男がアタリであれハズレであれ、全部話してもらうわよ。洗いざらい全部吐いたら、食事代は負担してあげるわ。どうせ今日は暇でしょう?」
「うっ、確かにそうですが……」
髪を手で払って尊大な態度で話す店長に、はっきりと返事ができずに口ごもる。店長の言う通り、今日は誰との予定も入れていない。だから、本来であれば二つ返事でついていくところではある。けれど……店長は本当に根掘り葉掘り聞いてくるから恥ずかしいというか……。そう一人でもじもじと考えていると、業を煮やした店長がギュッと私の頬をつねりながら低い声で脅しをかけてきた。
「はい以外の返事をしたら、あんたが今まで酷い男に散々騙されてきたってこと、ご両親にバラすわよ」
「喜んでお供させていただきます、店長」
「最初からそう言いなさいな、馬鹿ね」
知られたらきっと故郷に引き戻されてしまうから、と黙っていてもらっていた情報を引き合いに出されて、即座にはいと答えた。そんな私の返事を聞いて満足気に頷いた店長を見て、そっとため息を吐く。私の両親を説得したのは店長なので、彼らはこの人に全幅の信頼を置いている。お目付役の店長が小言を言ったら、二人は間違いなく連れ戻しにくるだろうなあと頭を抱えて、のろのろとバックヤードへと戻った。
そのまま、普段よりも若干緩慢な動きで掃除道具を元の場所に戻し、制服から着替えて裏口から外へと出る。戸締りをきちんとして、薄明るい初夏の日差しの中でも輝いて見える店長と合流し、そのまま夜の街へと歩き出した。すっかり日も長くなったし今日は天気もいいので、道には人が多く歩いていた。そういえば、店長とどこかへ出かけるのも、中々久しぶりな気がする。
「そういえば店長、件のお店ってどこにあるんですか?」
「すぐそこよ。ここの角を曲がって……ほらあそこ」
十分か、十五分ほど歩いただろうか。横断歩道の信号が変わるのを待つ間、隣に立つ店長を見上げながらお店について尋ねる。すると、店長は携帯の画面を確認した後、通りの反対側をスッと指差した。薄暗い中、一等星のような眩い光を放つ店先が目に入る。
「あれ、あんなところにカフェなんてあったんですね。こっちの方にあんまり来ないので、全然気が付きませんでした」
「つい最近できたばかりなのよ、あそこ。それなのに、もうSNSや各種ランキングで話題になってる。本ッ当に煮ても焼いても食えない奴が噛んでるだけあって、いけ好かない店」
ウチとはコンセプトが違うからまだいいけれど、お客さん取ったら許さないんだから。ぷりぷりと怒りながら青に変わった信号を渡る店長に、苦笑しながらついていく。店長がここまで警戒しているのだから、きっとあのお店はとても素敵なんだろう。そう思いながら横断歩道を渡って、店長と共に店に入った。
カランカランと鳴ったドアベルの音に合わせて、ふわりとコーヒーのいい香りが漂ってくる。肺いっぱいに染み入るほろ苦い香りに、ほうっと吐息を漏らした。異国情緒溢れる落ち着いた雰囲気の音楽に、天井を金色の光で彩る数々のランタン。まるで、アラビアン・ナイトの世界に迷い込んだようだと少しはしゃぎながら壁のアラベスク模様に見入っていると、店長に突かれた。
「ちょっとあんた、まさか当初の目的を忘れてるんじゃないでしょうね?」
「まさか、ちゃんと覚えてますよ。ただ、ここのお店があまりにも素敵だったので、つい見惚れてしまいました」
「はあ……あの顔以外全然可愛くない男が聞いたら、ニッコニコになりそうな言葉ね」
呆れた様子の店長に腕を引かれて店内を進み、窓際の席に二人で座った。この店にいると、見慣れた通りの景色も新鮮に映るのが、何だか不思議だ。少しそわそわして店内を見回し、やってきたウエイターにそれぞれ注文を済ませてから、店長に促されて最近できた恋人の話をした。恥ずかしいからぽつぽつとしか話せなかったけれど、約束は約束。馴れ初めやら何やらを一通り話し終えたところで、ふーっと息を吐いて水を飲んだ。
「ふぅん。じゃあ、今のところ何もその彼に対して不安なことはないのね」
むしろ、作った料理を美味しく食べてくれる彼ができて、幸せの絶頂ってワケ。コーヒーを飲みながら揶揄うような声色で話す店長に、はにかみながらもこくりと頷いた。
「そ。幸せそうでよかったわ……しかしまあ、あんたって本当に欲がないのね。今時いないわよ、『美味しそうにご飯を食べてくれる人が好き』なんて言う、いっそ怖いくらいに健気な女。ロマンス映画の中でだってとんと見かけなくなったわよ?」
「それに関しては、今まで付き合った人があまり美味しそうに食べてくれる人じゃなかったっていう部分もありますけどね」
へにゃっと顔の力を抜いて困ったように笑えば、店長は何とも言えない微妙な顔になった。しかし、それも無理のないことだと思う。店長には、私のそこそこ酷い恋愛変遷は全部筒抜けだから仕方がない。
でも、全員が全員、最初から酷かったわけじゃない。今まで付き合ったどの人も、最初は私のご飯を美味しいって言ってくれていた。けれど、徐々につまらなそうな顔をし始めて、ついにはご飯を捨てられたり怒鳴られたりすることが増えたのだ。ひどい時は料理ごと皿を投げつけられたりもした。痛かったし怖かったし、何より悲しかった。その時のことを思うと、また少し気分が下がる。
だって、本当に悩んだもの。私の作ったご飯もお菓子も、誰も美味しいって思ってないんじゃないかって、不安でいっぱいになった。まあ、カフェの料理を馬鹿にされて、怒りが勝って百年の恋も冷めたのですっぱりその元彼とは縁を切っているけれど。それに、話を聞いて怒り狂った店長がその元彼を社会的に袋叩きにしてくれたおかげで、もう傷はとっくに癒えている。何より、酷い人に引っかかりまくったのだって、悪いことばかりじゃなかった気がするのだ。
「ああいう目にあったからこそ、ちゃんと『美味しい』って言ってくれる人の存在をより大切に思えるようになりましたし。それに、元彼からの散々な言われようを何とかするために増やしたレパートリーでキッドさんを幸せにできるなら、それでいいんです」
前に、彼を家に招いて夕食をご馳走した事があった。彼が以前食べたいと言っていたミートボールパスタを出したら、目を輝かせて子供みたいに喜んでいたのは記憶に新しい。夜はまだ冷えるから、何か温かいものをと思って一緒に作ったポトフも好評だった。彼はもぐもぐと美味しそうに、しかも綺麗に全部食べてくれた。
それだけじゃない。ポトフのおかわりがあるよと彼に告げたら、空っぽになったお椀を差し出して「もらってもいいか?」と聞いてくれた。あの時は、涙が出るほど嬉しかった。久しぶりに、誰かをいっぱい食べさせてあげたいと思えた瞬間だった。
「美味しそうにご飯を食べる人には、食べたいだけ食べさせてあげたいじゃないですか」
そう店長に微笑んで、ココナッツの風味が香るスポンジケーキのようなお菓子を口に入れる。私はコーヒーは苦くて飲めないけれど、キッドさんはコーヒーが好きだからこのお店を気に入るかもしれない。今度のデートの時に来てみようかなとお菓子を飲み込んで考えていると、店長が何だか今まで見た事ないような顔でこちらを見ていることに気が付いた。
「あんたは甘いというか馬鹿というか……はあ。まあ、あんたが幸せそうならいいんだけどね。その甘さが命取りになるってことを少しは自覚しなさい」
「あはは」
「笑ってんじゃないわよ」
頭痛を覚えたように頭を抱える店長に、思わず間の抜けた返事をしてしまう。すると、店長はなおさら視線を険しいものにして、居住まいを正してから諭すように声をかけてきた。
「いいこと小娘、よくお聞き。あんたの優しさは美徳だけれど、その甘さは人を狂わせるのよ。あんたを傷付けた男たちだって、きっとあんたの優しさに甘えてどこまで許されるのか試したくなった馬鹿共の成れの果てよ。手当たり次第優しくして、片っ端から惚れさせるのはよしなさい」
まあ、こう言ったところで、あんたはその自覚が無いんでしょうけど。コーヒーに口を付けて呆れた様子で話す店長に、曖昧に笑ってみせる。「優しくするな」とはかなり長い間言われ続けているけれど、でも別に誰彼構わず優しくしているつもりは無いのだ。本当に。
ただ、愛には愛を返したいだけのこと。そう考えていると、店長が「それに」とさらに忠告を重ねてきたので、そちらに慌てて意識を向ける。ちゃんと聞いていないと、後で怒られてしまう。
「あんたの話を聞く限り、その彼氏……きっとすごく、ものすご〜く面倒な男よ」
「えっ? 面倒っていうと、具体的にはどのあたりがですか?」
「全部」
まるで内緒話でもするかのように声を顰めた店長に、こちらも声を落として合わせる。すると、店長はぐいっと顔を近づけて、私の目を覗き込んできた。長いまつ毛の下、ぎらりと煌めくブルーの両目に見つめられて、何だか冷や汗が出た。
「その男の言葉にも行動にも、鉛みたいに重い執着が滲み出てたわ。『これは誰にも渡さない』っていう、お気に入りのぬいぐるみを取られまいと癇癪を起こす子供みたいな独占欲がね。あんた、そのうち監禁でもされちゃうんじゃない?」
「そんな物騒な!」
「あら、お生憎様ね。知らなかったようだから教えてあげるけど、ど田舎の最たるあんたの故郷に比べればこの国はどこだって物騒よ」
せいぜい、羽を切り落とされないように気をつけなさい、世間知らずのエンジェルちゃん。鼻を鳴らしてそう話す店長にどう言葉を返せばいいのか分からず、私はケーキの残りを口に放り込んだ。
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