桐子
2024-10-15 23:09:25
2324文字
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黒い雫②


ゲゲ郎は包帯から覗く片目で、水木をじっと見つめる。
「水木か、久しいのう」
そう言って男は穏やかな笑みを浮かべた。だが、その笑みはどこか空虚だった。彼は長い髪を元に戻すと、水木の方へ向かってきた。
「離れよ!」
頭の上で甲高い声がして、ゲゲ郎はそちらへ視線を向けた。目玉の方のゲゲ郎だ。
「お主はわしじゃ。わしなら分かろう、ここはお主のいるべき所ではないと」
ゲゲ郎は目玉の言葉をぼんやりと聞いているようだった。しかし、ふいに笑い出した。ケタケタと耳障りな笑いに、水木は腕の中のねこ娘を守るように抱いた。
「何がおかしいんじゃ」
目玉が険しい声音で問う。
ゲゲ郎はしばらく笑ったあと、さも意外そうに言った。
「わしはお主に棄てられ、長いこと無であった。じゃが、ある時ふと闇の中から囁くものがおってな。お主は鬼太郎の父で、最後の幽霊族のひとり。それなら、お主に棄てられたわしはーーー最早何者でもない」
ゲゲ郎は包帯を引きちぎるように取り払った。
「鬼太郎の父ではないから、わしは鬼太郎を害することができる! 幽霊族でないから、争い事を好まぬ性質など捨ててしもうた! わしはもう何にも囚われることがない、自由の身じゃ!」
狂ったように笑い続けるゲゲ郎に、水木はぞっとした。確かに彼はゲゲ郎ではないのだろう。穏やかで争いを好まない性質が、反転してしまったかのようだ。

「皆殺しじゃ!」

ゲゲ郎が嬉々として叫ぶ。
「人間も妖怪も何もかも滅びてしまえ、我らのように! 子を殺され嘆くがいい、親を殺され恨むがいい、何もかもを奪われて慟哭する様をわしに見せておくれ」
「やめろ!!」
これ以上、懐かしいゲゲ郎の声でこんな恐ろしい言葉を聞きたくない。水木は必死にゲゲ郎に語りかけた。
「確かに人間は恨まれて当然だ。でも、だからってお前は妖怪も人間も滅ぼそうだなんて考えるやつじゃなかったはずだ!」
不意に笑うのをやめたゲゲ郎が、水木に視線を向けた。その目を見た瞬間ーーーぞっと背筋が粟立った。


「お主は妻とわしを見捨てたな」


ゲゲ郎は冷ややかにそう言った。水木の脳裏によぎったのは、古寺に横たわる朽ち果てた二つの遺体だった。
「あ……俺は……
「水木、あやつの言葉に耳を貸すな」
目玉が頭上からそう言ってきたが、水木はそんな声聞こえていなかった。
「悲しかった……寂しかった……お主に置いてきぼりにされ、肉体は朽ちて、妻は死に……信じておったのに」
ゲゲ郎は悲しげに呟いた。
彼の言うことは事実だった。たとえ記憶を失っていたからといって、その罪は永遠に消えることがない。
「ああ、恨めしい……人間!この世の人間全てが!」
ゲゲ郎は再び髪を伸ばし、周囲の建物を破壊しはじめた。
「水木しゃん、危ない!」
一反木綿が叫んだ。ゲゲ郎の髪が、水木の体を絡め取る。そのまま宙へ持ち上げられたかと思うとーーー
「ぐっ……!」
地面に叩きつけられた。背中を強く打ち、一瞬息が止まる。
「水木!大丈夫か!?」
目玉が頭上から叫ぶ。なんとか頷くと、ゲゲ郎はくるりと背を向けて去っていこうとするところだった。
「待て……っ」
追いかけようとしたが、体に力が入らない。
「ゲゲ郎!」
ぴた、と下駄の歩みが止まった。
「俺は……俺はお前に詫びたい。お前を置いていってしまって、本当に悪かった……!」
水木の必死の呼びかけに、ゲゲ郎はくるりと振り返った。
……本気でわしに詫びたいと?」
ゲゲ郎の片目が水木をじっと見つめる。
「ああ、本当だ」
水木は痛む体を起こして頷いた。ゲゲ郎はしばらく考えこんだのち、再び水木の方に向き直る。
「ふむ……そうじゃな。お主がわしのものになるというなら、皆殺しはやめてもよい」
「俺の命なんかでいいなら、いくらでもくれてやる」
水木は迷うことなく答えた。ゲゲ郎が何を考えているのかはわからないが、彼が誰かを傷つけるのを見ているくらいなら、自分の命をくれてやる方がずっといいと思った。
しかし、ゲゲ郎は首を横に振った。
……それでは足りぬな」
そう言って水木の目の前にしゃがみこんだ彼はーーー笑っていた。
「わしはお主の全てが欲しい。女のように足を開いて、わしを受け入れろ。身も心も魂までも捧げると誓え」
水木は絶句した。
ゲゲ郎が冗談を言っているわけでないことは明白だ。彼の言う「全て」とはそういうことなのだろう。
「お前……何言ってやがる……
ようやく絞り出した声はひどく掠れていた。とてもじゃないが信じられない。頭がうまく回らない。
「水木、聞かんでよい。そんな要求、飲む必要など……
「黙っておれ、目玉」
ゲゲ郎は一喝すると、水木の頭にくっついていた目玉を手の中に握りこんだ。
「か弱いのう、ちょいと力加減を間違えたら、握り潰してしまいそうじゃ」
ゲゲ郎はそう言って、手の中で目玉を弄ぶ。
水木は唇を噛み締めて俯いた。目玉を人質に取られた以上、逆らえない。それにーーーたとえ目玉が無事だったとしても、自分が彼の要求に背くことなどできはしないのだ。
……本当に、他の奴には手を出さないんだな」
「水木!」
目玉が叫び声を上げる。だが水木はそれを無視した。ここでゲゲ郎の怒りを買えば、何をしでかすかわからない。それならば自分一人が傷つく方がずっとましだ。
「よかろう」
ゲゲ郎は満足そうに言って、目玉を地面に放り投げた。そして、水木の腕を強く掴む。
「来い」
ゲゲ郎は水木を引きずるようにして歩きだした。
「水木!」
水木を引き留めようと、目玉が悲痛に叫ぶ。しかし、水木は振り返ることなく、ゲゲ郎と共に闇夜へ消えていった。