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桐子
2024-10-14 22:45:08
4655文字
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黒い雫①
赤い瞳が近づいた。見慣れているはずの色彩なのに、そこに浮かぶ色はまるで見たことがない。
「怖いか?」
すり、と頬を撫でる手は冷たい。どれほどの間、この手に触れられたいと願っていただろう。こんな形でも、その願いが叶ったのだ。水木の心臓は、主よりよほど正直に少し速い鼓動を刻んだ。
「怖くなんか」
「そうかそうか、安心せよ。わしはお主を傷つけたりせん
……
お主がいい子でいる限りはな」
「分かった。だから、あいつらには」
水木の言葉は、重なった唇で遮られた。初めて触れた唇は、少し冷たかった。
「ん
……
っ」
ぬるり、と舌が入り込んでくる。歯列をなぞり、逃げる水木の舌を追って絡め取る。
「ふ、ぅ
……
っ」
息ができない。頭がぼうっとする。気持ちいい。もっとしてほしい。
「では、まずはその邪魔な服を脱いでもらおうか」
唇を離すと、男はそう高圧的に命じてきた。
「どうした、できんのか?」
「
……
」
水木は首を横に振ると、震える手でシャツのボタンを一つずつ外しはじめた。なんとかシャツを脱ぎ終え、下も脱ぐ。水木は羞恥に耳まで赤くしながら、とうとう裸体を男の前に晒した。男の片目が、舐め回すように無遠慮に水木の体を見ている。視線だけで辱められているようだ。
「こっちにおいで」
手招きする男に誘われるまま、正面から抱きつくような形で膝の上に乗せられた。
間近に見る男の顔は、かつて哭倉村で出会った頃のままだった。大きな目も、病的なほど白い肌もーーーそして、あらわになった右目も。彼には右目しか残っていないのだから、当然といえば当然なのだが。
「やっと手に入る。お主はもう、わしのものじゃ」
男はそう、幸せそうに笑った。
時は少し遡る。
テレビに映し出される映像と音声を、水木は驚きとともに眺めていた。
「なんだこりゃ
……
」
一夜のうちに、大きなビルや駅、工事現場がぐちゃぐちゃに破壊され、空襲かなにかにあってしまったような場所に変わってしまっている。あまりにも非現実的な光景に、水木はただ口を開けて画面を眺めるしかなかった。
『
……
ここ一週間で起こった謎の倒壊事件ですが、依然として原因は分かっておりません。』
画面が切り替わり、アナウンサーが原稿を読み上げている。
『工事関係者や近隣住民の目撃情報によると、人の出入りや重機の搬入などは一切なかったということです。また、警察によるとなんらかの組織犯罪の可能性もあるとみてーーー』
人の出入りがない、なんて言っていたが、こんなものは人間にできることではない。人智の及ばぬ何かーーー妖怪のしわざではないか。
水木は妙な胸騒ぎを抑えることができず、仕事を休んでゲゲゲの森へ向かった。
鬼太郎なら何か知っているかもしれない。それに、もしかしたらこの事件に鬼太郎たちも巻き込まれているかもしれない。
妖怪の世界へあまり足を踏み入れないようにと目玉から忠告を受けているが、幽霊族の体液を浴びて人より長く生きている水木は、もはや妖怪に近い存在だ。鬼太郎からはいつでも遊びに来てくれと、髪の毛を編み込んだ組み紐をもらっている。おかげで、他の妖怪にちょっかいを出されることもなく彼らの家へ着くことができた。
「鬼太郎、いるか?」
木の下から声を張り上げるも、返事はなかった。
「おかしいな」
いつもならばすぐに鬼太郎たちが出迎えてくれるのだが、今日はその気配もない。それどころか、家の中に人のいる気配すらない。
ますます嫌な予感がして、妖怪ポストの上に止まっていたカラスに声をかける。
「鬼太郎がどこにいるか知らないか?」
カラスはカァ、と一声鳴いて飛び去った。
「おい、待ってくれ!」
水木が慌てて後を追いかけると、カラスは森の奥深くへ飛んでいく。やがてたどり着いたのは、こじんまりとした小屋だった。
「すみません、鬼太郎はいますか?」
小屋の外から声をかけると、扉が開いた。
「水木さん」
ねこ娘だった。彼女は水木の顔を見るなり、ひどくつらそうな表情を浮かべた。
「鬼太郎はいるのか?」
「
……
いるわ」
彼女はそっと、水木を小屋の中に招き入れた。
小屋の中は質素なつくりだった。部屋の中には布団が敷いてあり、砂かけ婆と子なき爺、それに一反木綿が布団を取り囲んでいる。
「鬼太郎!」
布団に横たわっているのは鬼太郎だった。水木は血相をかえ、鬼太郎に駆け寄った。
「どうしたんだ、一体」
「それが
……
」
砂かけ婆が言いづらそうに口をつぐむ。
「
……
わしのせいじゃ
……
」
鬼太郎の枕元にちんまりと座っていた目玉が、絞り出すような声で呟いた。
「わしが、鬼太郎を傷つけたんじゃ」
「親父さん」
「親父さんのせいではないぞ」
子なき爺たちは、目玉を慰めるように言った。
「一体、なにがあったんだ」
水木が問うと、ねこ娘が答えた。
「人間の世界で、次々と建物が壊されてるでしょう」
「ああ」
「妖怪の仕業じゃないかって、鬼太郎と私たちで見に行ったの。そうしたら、鬼太郎が妖気を感知して
……
そこに、親父さんがいたのよ。ううん、正しく言えば、昔の、目玉だけじゃなかった親父さんがね」
水木は思わず目玉を見下ろした。かつて水木がゲゲ郎と名付けた男、鬼太郎のことを案じるあまり、目玉だけになってまでこの世に留まった男。その彼が、また肉体を持って現れたというのか。
「鬼太郎は親父さんを止めようとして、それで
……
」
よく見ると、ねこ娘たちも怪我をおっている。鬼太郎が皆を庇ったのだろう。
ゲゲ郎の形をした何者かが、鬼太郎を傷つけた。水木の中に、震えるほどの怒りが込み上げた。息子を害するなんて、それはゲゲ郎ではない、ありえない。
「説明しろよ、ゲゲ郎」
「わしにも分からぬ
……
じゃが、あれは確かにかつてのわしの肉体じゃ」
ゲゲ郎はひどく混乱しているようだ。無理もない。自分の肉体が突然現れて、息子を襲ったのだから。
「妖怪というのは、塵になってもやがては再生する。考えられるとすれば、あれはわしの右目以外全ての肉体が、魂を得て動いておるということじゃ」
水木の脳裏に、古寺で息絶えた包帯まみれの巨体がよぎった。ぐずぐずに溶け、形を保てなくなっていた肉の塊。埋葬することもかなわなかった。あの肉体がーーー魂を得て甦ったというのか。水木はごくりと唾を飲んだ。
「じゃあ、そいつは
……
本当にお前なのか」
「ああ
……
」
「それなら、お前が言うこと聞かせりゃいいじゃねえか!鬼太郎はお前の息子だぞ!」
「わしとて試みたんじゃ!しかし、あやつはわしの言うことには耳も貸さん
……
それどころか、皆を攻撃してきたんじゃ」
「そんな
……
!」
ゲゲ郎の肉体が甦り、破壊の限りをつくしているならば、ゲゲ郎は息子のためになんとかしなければならないだろう。しかしーーー
「
……
俺になにかできることは?」
目玉にそう尋ねる。彼はしばし逡巡し、やがてこう言った。
「あれは、わしの以前の力をそのまま受け継いでおるようじゃ。鬼太郎が歯も立たん。お主にできることは何もないよ」
水木は拳を握り、俯いた。ゲゲ郎の言う通りだ。鬼太郎すらかなわなかったのだ、戦う力を持たない水木に何ができる。
「
……
水木さん、父さん」
「鬼太郎!」
いつの間に目を覚ましていたのか、鬼太郎がかすれた声で水木たちを呼んだ。
「父さん、ごめんなさい
……
僕が弱いから」
「鬼太郎
……
」
目玉が鬼太郎の枕元にしゃがみこんだ。そして、その丸い瞳からボロボロと大粒の涙を流す。
「わしは
……
わしはお主を守れんかった
……
」
「いいえ
……
父さんのせいじゃありませんよ」
鬼太郎は弱々しく微笑んだ。実際、水木よりも誰よりも無力さを実感しているのは目玉だろう。知恵を貸すことはできても戦う力をもたない目玉は、いつも息子を危険にさらすことしかできない。
「鬼太郎」
目玉は、息子の頬に小さな手を添えた。
「わしは父親失格じゃ。お主に何もしてやれなんだ
……
」
水木はそんな目玉の背中をそっと撫でてやった。子なき爺たちも同じ気持ちなのだろう。皆、静かに目玉と鬼太郎を見つめている。
「鬼太郎はここで寝てなさいよ」
ねこ娘はきつい口調でそう言うと、砂かけ婆と子なき爺たちに向き直った。
「悪いけど鬼太郎をみてて。あたしが親父さんを何とかしてくるから」
「お主一人じゃ無理じゃ!」
砂かけ婆は止めたが、ねこ娘は首を振った。
「どのみち、親父さんをなんとかできるのはあたしたちだけよ」
彼女はそう言って小屋を出ていった。水木も慌てて彼女を追いかけようとしたが、目玉に呼び止められた。
「水木、わしを連れていってくれ。あれはわしじゃ、わしがなんとかする!」
ぴょん、と目玉が水木の肩へ飛び乗った。
「一反木綿、わしと水木を運んでくれ」
「コットン承知」
一反木綿に乗ると、ふわりと空へ舞い上がった。水木はねこ娘の後を追いながら、目玉に尋ねる。
「本当に、お前ならなんとかできるのか?」
「分からぬ。しかし、あれはわしじゃ。わしがけりをつけねばなるまいて」
目玉は苦しげに答えた。その声音から彼の苦悩が伝わってくるようだった。
「ねこ娘はどこまで行ったと~?」
一反木綿の上からねこ娘の姿を探したが、どこにも見当たらない。うろうろしているうちに、すっかり日が暮れてしまった。このまま闇雲に探したところで見つからないだろう。
「おお?」
薄闇に染まった街の上空を飛んでいると、ドォン!という鈍い音が響いてきた。
「あっちだ!」
一反木綿は水木の指し示した方角へ飛んでいった。
近づくにつれ、次第に土煙と煙が濃くなってくる。煙のもとは工事現場だ。作業員らしき男たちが何かに向かって怒鳴り散らしている。
「あれは
……
!?」
土煙の向こうに、人影がうごめいている。その影から伸びる無数の触手のようなものが作業員たちを襲っていた。
「ねこ娘!」
目玉が叫んだ。見ればねこ娘が長い爪で果敢にその人影と戦っている。しかし、あきらかに押されていた。
水木は一反木綿から飛び降りると、ねこ娘のそばに着地した。彼女は一瞬驚いた顔をしたが、すぐにまた人影に向かってゆく。
「!」
気合と共に振り下ろされた爪の一撃を、人影は難なくかわした。そしてそのまま触手のようなものを伸ばし、ねこ娘を弾き飛ばす。彼女の体が地面に叩きつけられた。
「うっ!」
「ねこ娘!」
水木は駆け寄ってねこ娘を抱き上げた。
「水木さん、
……
どうしてここに」
ねこ娘が呆然とした表情で見上げる。怪我をしているのか、その額から血が滴り落ちた。
「親父さんがどうしてもって言うからさ。それより
……
」
目玉が水木の頭上でぴょん、と跳ねる。
「やめよ、この者はねこ娘じゃ!鬼太郎の仲間なんじゃ!」
土煙の向こうで、人影が目玉の声に反応した。
カラン、コロン。
聞きなれた下駄の音に、水木はハッと息をのんだ。
カラン、コロン。
下駄の音が近づいてくる。水木は思わず身構えた。
そして現れたのはーーー確かに、ゲゲ郎だった。
長く伸ばした髪を触手のように蠢かせ、その体をところどころ包帯で覆い尽くしている。だが、愛嬌のある丸い目も、大柄で細身の体つきも、病的なほど白い肌も、なにもかもがかつてあの忌まわしい村で出会ったゲゲ郎であった。彼は黒い着流しを纏い、闇そのもののようにそこに立っていた。
「ゲゲ郎
……
」
水木は呆然と呟いた。
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