細い穴に息が通るような風の音がいやに響いていた。亡霊のように俺の足元をすり抜ける夜神の国の風はうすら寒く、全ては黒曜石に映る景色のような暗闇で、光どころか影にすら大霊に見つめられるような厳粛さがどこかにあった。
夜神の国を訪れたのはけっして観光目的ではない。勇者一行と戦う羽目になった不運な同僚の後始末のために、上司から冥界下りを命じられたのだ。
ここを訪れるのはナンナを『治療』した時以来だが、ここには死と呼ぶにはあまりにぬるい心地よさが満ちている。まるで晩夏の夜風のようだった。なにせ死の国には手遅れなほどアビスの侵食が進んでいて、もはや虚界の一部になっていた。アビスのエネルギーは酸素や船のようにはたらいて、俺のような怪物が死生の間を自由に行き交う愚行を許した。
さて、端役だろうと頼まれた仕事くらいはする。同僚の従者の生き残りを見つけ次第転移の網に放り込んで繋がった先の部下に面倒を任せるのも、ついでに任された夜神の国の現状に関する簡易的な記録も、淡々とこなしていった。何もかもがおおむね順調、だった。
視界の端に血まみれのなにかを捉えるまで、それが知っているものだと理解するまで。
「…………なぜだ?」
物陰に倒れ伏す少年を見つけるまで。
一応、そいつはまだ息があって、心臓は子猫の鳴き声のようにか細い鼓動を繰り返している。見知らぬ人間なら捨て置いた。死した魂を現世に引きずり戻す『慈善事業』をタダでやるほど崇高な道徳心は持ち合わせていない。
だが、血と砂埃のせいで人形のようにざらついた金髪と戦いの痕跡がある異邦の装束はよくよく見覚えがある。紛れもなく殿下の血縁、もといテイワットに名高い旅人。そんな輝かしい勇者がぼろ雑巾のように倒れてぴくりとも動かない。
——最悪だ。見つけてしまった。
見なかったことにしてもよかった。ただ、無視したい理由が一つしかない……面倒事に首を突っ込みたくない……のに対して無視できない理由、それもとどめを刺す理由はいくらでもつけられて、俺はそれを選ばなくてはならなかった。そろばんが頭の奥でひとりでに損得勘定をはじめる。気分と責務が天秤でシーソーをしている。至極単純な二択だが、ここにいるのが俺でそこにいるのがあいつというだけでこここまで複雑になるものだな。
……俺はやがて考えることに飽きて。あたりに部下がいないことを確認してから。第三の選択を取ることにした。
幸い行くあてはある。片腕で抱えられるくらい軽い身体を持ち上げ——連れて行く前に。
「日月前事、だな」
悪いがそれだけは頂いていこう。くすねるんじゃない、いわゆる手間賃だ。呆れるほど物持ちがいい奴だからまだ荷物の中にあるだろう。
……獣肉、ミント、ミント、ミント、漁師トースト。旅人と荷物を抱え直した。
それからしばらく歩いていると、ふと掠れた呻き声が上がった。旅人を見やると微かに目を開け、あたりを胡乱そうに見回している。
「やあおはよう、我が友よ」
その夢うつつとか心神耗弱じみたまなこの焦点が俺に定まった瞬間、旅人は夢の名残を振り切るように目を見開いた。今の俺は本来の姿を使っているから驚くのも無理はない。目が覚めるとアビスの怪物に運ばれていた、波乱に満ちた物語の始まりだな。
「お前の勇敢さは身をもって知っていたが死の国で微睡む恐れ知らずとは流石だな。夢見はどうだった?」
「なんだ……淵上か」
だというのに、また朦朧とした瞳に戻って腑抜けたことを抜かす。相変わらずこちらの調子を崩すのが得意なようだ。
「なんだとはなんだ、怒りを通り越して呆れるな? 俺は烈炎の唱導師、にっくきアビスに仕える怪物だぞ。戦闘は本分ではないが、今のお前を始末する程度なら容易いことだ」
旅人は視線を漂わせる。「納得した、という方が近いかな」
「なんだと?」
「さっき日月前事がどうとか話してる声が聞こえて少し目が覚めて」
「ほう」
「あの本を探してる人の心当たりが淵上しかいなかったから」
知らぬ間に口に出ていたようだ。全部筒抜けだったらしい。それはまずい、全力でとぼけよう。無力な学者にすら容赦しない奴を相手にいさかいを起こすのは得策じゃない。
「知らないな、聞き間違いじゃないか?」
「本当に? 人を騙すと代償が訪れるんじゃなかったっけ」
代償、と軽く口にする少年の声が、刑の宣告のような響きを持って俺の耳に届いた。あの廻焔で俺がどんな目に遭ったか知らないからそんなことが言えるのだろう。というかこいつ本当は元気なんじゃないか。
「…………お前はこの程度の冗談を間に受ける奴じゃない、と俺は知っている。知っていたから騙すつもりは毛頭なかった」
それでいいか? と振り返った途端突き刺さる視線に墓穴を掘ったことを悟った。確かに自白したのと同じである。はじめから逃げ場はなかったようだ——未遂ならば盗炎者は許してくれるだろうか?
「まあそれは後で聞くとして……」
どこへ行くつもり? と、その声が彼の剣と同じくらいおっかないものへと変わる。
「答えるまでもないんじゃないか? お前はアビス教団にとっての不安要素、俺の部下を山ほど斃してる。そして今お前は傷を負って動けない。俺でさえ仕留められる格好の獲物だ。だが、」
「だが?」
「お前を助けてやることにした」
時間が旅人の前を通り過ぎるのをやめたような、そんな沈黙だった。
「——本気?」
「アビス教団がお前をやっかんでいるから、俺もそうだと思ったのか?」
旅人の視線が違うのか、と問いただすように重く刺さる。俺はその浅慮を軽く笑って……この仮面越しに伝わるのかはわからないが……目を逸らして言葉を続けた。
「何度も言ったが俺は端役だ。殿下のことしか考えてないようなやつらとは違うし、俺が何をしようと誰も気にしない。まあ、つまりだ。あいつらと俺を同じと考えるな」
旅人は返事の代わりにため息をつき、沈黙を呼んだ。今の容態では考えるだけで体力を削るようなものだし、どうせ事務官なんぞに大人しく抱えられるような調子では何を聞いてもどうしようもないと悟ったのかもしれない。
天球の中の天球、生命を失った叢、黒曜石の天然の鏡が散らばる空間を通り抜ける。「ところで」と、旅人に問いかける。お前の都合はともかく、こちらには話したいことが色々あるんだ。
「これは純粋な好奇心で聞くが、お前はなぜ死んだ?」
「……教える必要ある?」
「俺がタダで敵を助けるようなお人よしだと思っているのか? 恩人の言うことを一つや二つ聞くのが道理というものじゃないか?」
旅人は「けれど」と声を上げた。
「淵上が本当に俺を助ける気なのかもわからない」
「信用されてないんだな?」
「まあ、うん」
「それでいい、俺の忠告を覚えていたようで嬉しいぞ」
それはそれとして少し……ほんの少しショックだが。長い付き合いだというのに。しかしまあ、聞けなかったこと自体は大した損失ではない。どうせ彼のことだから何かを守るか誰かを庇うかしたのだろう。悲劇的だが、物語だとよくある展開だ。
「というか、淵上が俺を助ける理由がわからない」
「……さあ、なぜだろうな?」
なかなかに痛い質問だ。そういう気分だった、とはぐらかしてもよかったし、殿下の血縁だから、と言ってもよかった。どちらもまったくの嘘ではないからだ。ただし、その答えが旅人にとっての全てになるのだと思うと、はっきりと答える気になれなかった。
俺とのお喋りに飽きたのか、それとも傷に障るのか、旅人はそれきり黙ってしまった。無言でひたすら歩くには少々長い距離を、俺は七神以前の文明にまつわるいくつかの考察を話しながら歩いた。残念ながら旅人は俺の話を聞く気がないようで——それなりに興味深い話をしているつもりなんだが——反応は芳しくなかった。揃いの金髪が印象的なだけで顔つき自体は殿下とあまり似ていないのだが、いかにも無関心そうな目つきとか、生返事の声のトーンとか、そういう態度は少し似ていた。
それからまたしばらく歩き、地図を確認して立ち止まる。束の間の旅の終わりにたどり着いた。
「ほら、着いたぞ」
灰色の枯れ草が風に吹かれる荒涼とした夜神の国の光景が、旅人の金色の瞳に反射した。光が差しているわけでもなければ、盤面を変えるなにかしらの魔法や失われた技術で動く万能の機械があるわけでもない、一見なに一つ特別な点はない場所だ。出発したところとなにが違うんだ、とでも言い出しそうな怪訝な顔だった。
「……本当に?」
だが、唱導師を舐めないでもらいたい。ここの崖下にはナタ、それも集落にほど近い安全地帯に繋がる転移の網を作ってある。ナンナを連れ帰る時に開けた秘密経路だ——通りかかったのが俺で本当によかったな。
「本当だ、俺がお前を騙すなんて命知らずなことをするわけないだろう」
「そうかな……」
訝しげな顔をする旅人の疑念を切るように、この短い物語の終わりのために、俺はひとつ問いかけた。
「さて旅人よ、クイズタイムだ。俺がナタに来ていちばん感激したものはなんだと思う?」
「……急になんで? 話が見えない」
「いいから答えてみろ」
旅人は少し視線をそらしたあと、四分の迷いと六分の猜疑が籠った声で答えた。
「……偉大なる聖龍クフル・アハウ……?」
ほとんど当たりだ。俺のことを意外とわかっているんだな。しかし、今回は————。
「エクストリームスポーツだっ!」
「えっ」
俺は怪我人を転移の網へ向かって力任せに蹴り落とした。金髪と外套が翻って跳ねる。未来までの距離をはかり損ねて呆然とした間抜け面が、俺をようやく見つけて睨みつける。それからいったいなにを叫ぼうとしたのか、肺に籠った空気が声になる寸前のたった一瞬、引き攣った表情に代わり——次を見せることなく旅人は視界から消えた。
「じゃあな旅人。次はいつ会えるだろうな?」
あの自称ガイドが聞いたら「二度と会うもんか!」とフライムのように怒りそうな台詞だが。
それから転移の網が動作完了し、旅人の気配が完全に消えたのを確認した瞬間、俺は水の中から上がったように深呼吸をして、……終わった、と、実感する。予定にない仕事をやり遂げた清々しさが、胸の中で弾けては虚脱感に変わっていく。
——死の国に迷い込んだ勇者が変わったアビスの怪物に助けられ、生還を果たす。奇をてらっていていいんじゃないか? 物語ならな。
だがここは現実だ。これじゃ俺の利益が皆無に等しいじゃないか、なんだって俺はこんな結末を選んでしまったのだろうか。
——考える。旅人を殺さなかった理由は、勝てない相手に挑まないから。たとえ相手が痛手を負っていようと、三度も敗走したやつに仕掛けるなんて愚かな真似はしない。
だが、それだけなら見捨てたらよかった。なにせあいつは俺の部下を大勢倒したし俺を何度も殺しかけたし日月前事は取られたままだ。
しかし、長く続いた因縁もここまでだと思うとそれを失くすのが惜しくなってしまったし、なにより勇者の物語の結末を知ることができなければ……残念な気持ちになるだろう、と思ったのだ。
だから、助けた理由は——あいつのことを、少しだけ気に入っているから。
認めたくないが、他に思いつくか?
最後の問いに最後の解が用意され、満足した俺はその場にごろりと寝転んだ。とにかく疲れたんだ、旅人は俺のエネルギーをこっそり盗む能力でも持っているのではないか。
輪郭を撫で上げる風を受けながら考える。次の休暇は燼寂海へ行こう、と。しばらく旅人に振り回されたから、彼が来そうにないところに行きたい。
けれど、どこへ行っても三つ編みの金髪と翻る異邦の装束を探してしまう気がしていて。俺は今この瞬間でさえ、次に旅人に会ったらなんて言ってやろうか考えている。
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