【カブミス】夜の踊り子

ウタヤの民族音楽の歌手がいる酒場で、ミスルンとともに踊るカブルーの話。

 酒場に出入りするようになったのは、ただ疲れていたから、が始まりだったように思う。家に帰るにはまだ早い、まだ明日に向けて眠りたくない、そんな気分の時、俺は酒場にゆく。気に入りの場所はいくつかあるが、特に好んだのは、もう失われてしまったウタヤの民族音楽が聴ける、若い歌手がいるところだった。
 そこにはミスルンさんを連れてもよく行った。俺の故郷の音楽ですと、まるでミルシリルの献身などなかったかのように、俺は言うのだ。でも、本当の故郷など、俺は知らない。母は俺を産んですぐ婚家を追い出されていたし、故郷に戻ることも許されなかったから。けれど、あの歌手の歌を聞くたびに、俺は幼い頃、飯屋で働いていた母が歌っていた鼻歌を思い出すのだ。穏やかで優しい、それでいてどこか悲しい、そんな歌を歌っていた母を思い出すのだ。
 
 
 今夜も、俺は馴染みの酒場で、ミスルンさんともにエールを飲んでいた。
 杯を重ねるうちに身体は火照り頭はくらくらして、俺はこのままミスルンさんを抱きたいな、なんて馬鹿なことをグラスを傾けながら考えた。というのも、ミスルンさんも酒が回ったのか、白い肌を火照らせ、半分に切れた耳も赤く染まっていたから。
 あぁ、酒で体温が上がってる。こうなってしまっては、あふれ出す感情が止まらない。自分でもよく分からなけれど、俺は恍惚としていて、陶然としていた。全く、厄介なことだ。ちょっと酒をさましに外に出るか?
 そんなことを思っていた時、ミスルンさんは酒を飲み干して立ち上がり、目がくらむほどの光の中で俺に手を差し伸べた。俺は声を失くす。艶を失ったはずの灰色の髪は、そこかしこに置かれたランプで輝いている。夜の闇を重ねたような瞳も、星くずが浮いたようにきらめいている。しわのないまっさらなシャツは、仕事でぐしゃぐしゃにしてしまった俺のそれとは違って、清潔感に溢れていた。
「さぁ、行こう」
「え?」
 俺たちの周りでは、男女が懐かしいダンスを踊っている。笑いながら、ほほ笑みながら、一方では下心を抱きながら。俺はそこに入るのかと思って、少し緊張する。考えてみれば俺はこの人と踊ったことがなくて、母さんやミルシリルから教わったそれをちゃんと出来るかちょっと心配だったのだ。
 でも、俺のその考えは杞憂に終わる。ミスルンさんが続けた言葉が、いやに冷静で、酔っ払いの俺を思うものだったので。
「外に出て酔いをさまそう。水をもらってこようか?」
「え、あぁ、そうですね……
 俺はエールが残ったグラスを傾けつつミスルンさんを見上げ、あぁ、この人はもう他人の世話まで出来るんだ、と思った。ダンスを踊れないのはちょっと寂しかったけれど、それはそれ、これはこれ、だ。
 でも、どうして俺はあなたに惹かれたんだろう。俺にないものを持っていそうだったから? いや違う、ほとんど運命だろう。この人はずっと失ってばかりで、何も持ってはいなかった。俺だってそうだ、大切な仲間はいたけれど、喪失について語ることはなかった。
「どうしたんだ? 何か考えるような顔をして」
「あなたのことを考えていました」
……よく言う」
 それじゃあ、お会計してもらいましょうか。そう言って俺は席を立ち、エールを飲み干す。ミスルンさんはそんな俺に呆れたのか、踊る男女をじっと眺めている。これから二人きりになるのに、少し豪胆だと思う。俺が何をするのか分かっているんですか? 分かっていて、そんなに冷静でいられる?
 俺はポケットからコインを取り出し、テーブルの上に置く。歌手へのチップも考えて、いつもより多めに。その間ミスルンさんは酒場の騒ぎを眺めていて、俺は彼のそんな遠くを見る瞳に、少し寂しくなった。
 どうか、俺をその真っ黒な瞳に映したくなる。あなたはもう、一人で立っていられるのかな。俺が世話をしなくたって、一人で生きていけるのは分かってる。そうなるよう、俺が世話をしたのだから。でも、あなたが望む未来に、俺はいるんだろうか。そんな酔っ払いのたわごとを思い浮かべて、俺はコインを落としそうになる。
「おい、カブルー」
 大丈夫か、とミスルンさんが言う。俺は笑って足を進めて、彼の側に立とうとする。しかしその時、俺よりもずっとほっそりとした腕が、俺のそれに絡まった。俺は驚いて背後を見る。そこにはさっきまでステージで歌を歌っていた歌手がいて、俺と同じ肌の色をした、巻き毛が可愛らしい若い女がいて、彼女はコインをかすめると俺をみなが踊るテーブルとテーブルの隙間に誘い出した。
「ふふ、色男さん、一曲いかが?」
「え、え? 俺?」
「そうよ、あなた、ウタヤあたりの出身でしょう。肌の色で分かるわ」
 歌手はそう言ってステップを始める。俺もそれにつられて、彼女に合わせて足踏みをする。懐かしい歌、懐かしいダンス。しかしミスルンさんは席に戻って、そんな俺たちを見ている。歌手が歌いながら、楽団が演奏をしながら、酔っ払いたちがたむろする場を盛り上げる。やがて一曲が終わり、拍手が巻き起こる。俺はそんな喧騒の中で、愛しい人を探す。
 ミスルンさんはさっきと同じ席にいる。俺は「ありがとう」とコインを渡して、歌手の腕を離した。そして席に座ったままのミスルンさんを後ろから抱きしめて、誰かが口笛を吹くのも気にしないで、彼を腕の中に閉じこめる。
「酔っ払ったのか?」
「少しだけ」
「じゃあもう一度だけ踊ろう。お前と踊っていた女がにらんでる。私にお前を取られたと思っているんだろう。見せつけてやろうか」
 ミスルンさんはそう言って、いたずらっぽく俺の前で口の端をつり上げる。俺の髪をかき分けて、額にキスをして、自分から席を立つ。
「いいんですか? あなたはそういうの、嫌いだと思ってました」
「私だって恋をしてるんだ。ちょっとは馬鹿をやらかすさ」
 ミスルンさんが今度こそ笑う。俺はそれにちょっとくらくらして、このままキスをしてみたいと思う。でも駄目だ、ここはダンスを踊り、酒を飲む場所で、むつみあうところじゃない。
「ほら、カブルー」
 ミスルンさんが俺の腕を引っ張る。俺はそれにめまいがして、この人は俺のものなんだ、と思った。今のミスルンさんは一人でも立っていられるだろう。一人で生きてゆけるだろう。でもそれでも、俺の側にいることを選んでくれる、俺の人生に寄り添ってくれる。こんなに嬉しいことがあるだろうか? いや、ないな。だったら今夜は最高の夜だ。せめて愛撫をするようにダンスを踊ろう。
 俺たちは手を取り合って踊りに参加する。
 歌手は長い髪を撫で付けて、時には声を張り上げて、時には囁くように歌う。
 美しい恋の歌。さよならを告げる歌。愛しい人が過去の人になってゆく歌。そんな歌に、ありふれたよろこびや失恋の歌に、俺は自分の思いを、ミスルンさんへの思いを重ねる。このまま、ずっとあなたを離したくない。ずっとくっついたまま、喜びの踊りの中にいたい。
 そう思ってぎゅうと彼を抱きしめると、まるで宥めるように背中をさすられた。俺はそれに懐かしい母を思い出し、何も恐れるものがなかった頃のことを思い出し、さらに抱きしめる力を強くした。
「お前を離したくないよ、カブルー」
……本当に?」
「嘘は言わないさ。お前の人生を奪ってしまいたいくらいなんだ」
 ミスルンさんが額を俺の胸に押し付けてほほ笑む。耳元には歌手の声、楽団の奏でる音が注ぎ込まれる。そんな中で、俺たちは睦言を交わし合う。
 俺だって、あなたの人生を奪ってしまいたい。いつか別れる身だとしても、焼きごてを当てるように、野蛮にあなたの人生を俺のものにしてしまいたい。
 俺たちはダンスを踊り続ける。今は静かな音楽が流れている。愛しい恋人を思う歌が流れている。そんな中、酔っ払いたちは静かにただ踊り続ける。喧騒はどこかに行ってしまって、静かに、静かに。そう、まるで夜の踊り子みたいに、人々は踊り続け、やがて俺たちもその中の一つになってしまう。
 愛してる、愛してる、愛してる。そんな言葉を飲み込んで、俺はステップに思いを込める。
 夜の踊りは続く。誰かが扉を開けてエールを頼んでも、誰かが疲れて椅子に座っても、俺たちの踊りは続く。もしかしたら、人生みたいに。