まよこ
2024-10-14 03:17:33
9844文字
Public その他
 

蛇の口

見える大学生と見えない天使
ホラーです。男しか出てない

「君、視えるんだって?」
 何が、なんて聞き返すまでもない。物心ついた時からそうだった。
 隠す理由も特になかったけれど、そう尋ねてきた相手が幾つもの影が重なった闇の塊でそれはまさに、僕がいつも”見えるもの”にしか見えなくて言葉に詰まってしまった。瞬きを繰り返して頭上高くまで伸びる影を見上げた。重なる影の形は様々で人間の手足があらゆる方向に突き出ているかと思いきや、植物の蔓がからまり魚のうろこが波打ち、ぼこぼこと曲がった角が突きでて、歪に大きくへこんだ穴には鋭い牙が幾本ものびている。泥、生ごみ、生物の内臓、吐き気がこみ上げる異臭が黒い塊を覆っている。
 手にしていたお昼の菓子パンはいつの間にか床に落ちていた。広い学生食堂のはじっこにある観葉植物の影は人通りが少なくて落ち着く特等席だったのに。こんなものがいるのならもう利用を控えるしかない。こういうものの対応は、気づかないふりが一番だ。
 黒い塊の表面に浮かぶ大量のぎょろぎょろと光る瞳と視線を合わせないように立ち上がった。
 影の中から、にゅっと腕が二本伸びてくる。僕の肩をがしりと掴んで再び椅子に座らせた。
「ひっ……!」
 震える口からこぼれた息は思ったよりも大きな声として発せられてしまった。食堂に居る学生がちらほらとこちらをみている。
「ごめんごめん。でもそんな驚かなくてもよくない?」
 二つの腕は影なんかじゃなかった。大きめのパーカーの袖から覗く指先が、肩口から移動して僕の両頬を挟む。その指先が、目元を隠すほどに伸ばしていた前髪を軽く払う。ぐっと黒い塊が近づいて、異臭が強くなる。食べたばかりの菓子パンを吐き出さないように両手で口を押えた。周囲の空気が重くなり影が覆いかぶさる。異臭が目に染みて真っ暗な視界がさらに滲んだ。べたつく生ぬるい空気がまとわりつく。大勢のなにかが、じっとこちらを見ている。冷や汗がどっと吹き出し背中を流れる。
 揺れる視界で見つめていた闇の中から、天使が現れた。慣れるほどに見ている化物や怪異や死者がいるなら、天使だっているのかもしれない。
 一瞬、本気でそう思ったが、僕の頬を押さえ額がつきそうなほどに近づき強引に視線を合わせてくるモノは、全体的に色の薄い整った容姿の、男だった。聞こえてくる声は男だったから、たぶんそう。じっと見つめるばかりの僕に、彼のふわふわとしたくせっけが肌に触れる。長いまつげに縁どられた瞳は、隠しきれない好奇心できらきらと輝いていた。
「ようやくこっちを見たな」
がっしりと僕の顔を固定して視線を無理やりに合わせ、面白いものを見つけたというように悪戯っぽく目を細めた。
「で、君は霊が見えるんでしょ?」
……は、はい」
 そのおかげで貴方の姿はよく見えないけれど。

 今仁いまにいみと名乗った男は、僕から手を離すと再び闇の塊の中に姿を消した。
 そう、僕は昔から人に見えないモノが見えた。幽霊だとか死者だとか妖怪だとか化物だとか怪異だとか言われるものだったり、名前もよく分からないただそこにあるなんだか嫌なものだったり。だから今この天使かに見えたこの男が全く見えない。僕がよく見る普通の人には見えないモノ達に取り囲まれすぎている、取り憑かれすぎている。何をしたらこんなことになるんだろう。なんでこの人は、この状態で普通に話して動いているんだろう。机を挟んだ向かいの椅子に有象無象の塊が座った。机は半分黒く澱んで闇の中に沈んでしまった。彼が机に置いたコーヒーの容器のロゴマークだけが微かに見えている。
「同じ授業をうけてるやつに聞いたんだ。君が霊を見えるっぽいって。誰もいないところに話しかけてるのを見たとか、何もないところで驚いてるとか、いつもびくびくしてるだとかって噂だったけど。思い切って聞いてみて良かった~」
 楽しげな声だけが聞こえる。こちらはドブのような異臭に耐えるだけで必死だ。やっぱりもうそんな噂が流れてしまっているのかと少し気落ちする。僕は普通の人とそれ以外の見分けがあまりついていない。遅からず誤解は生まれるだろうと覚悟はしていた。相槌を打つタイミングもつかめず黙って聞いていれば、特に気にする様子もなくにこにこと一方的に自分の話を続けていく。どうやら彼は、同じ大学に通う一年生らしい。同級生だ。こんな人がいたとは気がつかなかったけれど、田舎から上京したばかりの僕には知っている人間の数の方が少ない。一足先に上京して同じ大学に通う一つ年上の幼馴染ぐらいだ。
 ややしばらく黙って話を聞いていれば次第にぼたぼたと汗が止まらず、顔が熱くなっていく。背中を丸め、お茶の入ったミニペットボトルを膝の上でぎゅっと握る。昔からそうだ。人と話すことが極端に苦手で、何かを話そうとすると言葉がのどにつっかえてうまく出てこない。他人が話す言葉の速度についていけない。ゆっくり自分のテンポならもう少し楽に話せるかもしれないけれど、それほど人に話したいことがあるわけではない。何かを話そうと思うだけ頭の中が真っ白になっていく。人の話を聞くだけなら好きだ。だから、今の状況はいつもよりまだまし、かもしれない。そんな僕の様子に気がつくそぶりもなく、今仁は話し続けていた。
「ずっと幽霊を見てみたかったんだよねー。怪奇現象?でもいーんだけど。だからさ」
 ずいっと闇が僕の顔の前に寄せられた。生ごみの匂いがする塊から弾む声が聞こえる。
「今から心霊スポットに行かない?」
……はぁ」
 そんな移動する心霊スポットのような状況で?なんて、ちゃんと突っ込めばよかったのかもしれない。
「大丈夫。君は視えたものをオレに教えてくれればいいだけだからさ」
 闇から伸びてきた腕はがっしりと僕の腕を掴んで離さない。


「どうしてちゃんと断らないんだ……
 気がつけばあたりは日が落ち始めている。大学の食堂で心霊スポットに誘われた後、そのまま強引に赤い軽自動車に連れていかれ「君けっこう背、おっきいね~」と助手席に詰め込まれた。座席に背中を丸め多少余る膝を持て余しながらどこだかわらかない山中を走ること1時間はたった頃、トイレ休憩に立ち寄ったコンビニでようやく幼馴染に電話をし助けを求め、開口一番呆れられてしまった。
「ご、ごめん……コウ、でも、あの、なかなか、話が、終わらなくって……
「いい。わかった。迎えに行く。場所は、わかんねぇんだったな。アプリの位置情報いれとけよ」
「うん……
一つ上の幼馴染のコウは先に上京し、僕も通う大学に進学していた。親同士が昔から仲が良く、心配性の親は何かあればコウ君を頼るのよと言っていた。今でも何かあるとすぐに連絡をしてしまう。幼いころから山の中で迷う度に変なもんについていくな、とめんどくさそうに迎えに来てくれた。嫌ならわざわざ来なくていいのにとふてくされて聞いたことがあるが、親に頼まれてんだよと小突かれた。神隠しに会いがちな僕にとってGPSアプリは画期的なアイテムだ。
「いいか。今度からよくわからない誘いは断れ。手の込んだ宗教勧誘か、金取られて山に埋められるのが落ちだ」
幼馴染は僕と同様の見解を述べたのち「いざとなったら早めに逃げろよ」と深いため息を最後に通話を切った。
「ただいま~」
ご機嫌にコンビニ袋を振り回す黒い塊が帰ってくる。
「さて、お楽しみの今から行く場所について語っちゃおっかな」
……はぁ」
 吸ってもいい?とどこから取り出したのか手にした煙草の箱が影に見え隠れしている。同級生……って言っても年齢は分からないし余計な藪をつつくこともないか。車中はずっとゴミ収集車の真後ろでしかなく、今更煙草の煙一つで気分の悪くなりようはない。頷くとわずかに車の窓があけられた。助手席を侵食してきそうな影の塊から煙が漂ってくる。
「この辺の山道は蛇口峠じゃぐちとうげって呼ばれてんだよね。山沿いに道が蛇行してるんだ。知ってる? 蛇とか龍ってつく地名はさ、昔土砂災害があった場所だって話。水害が起きた場所を水神さまが暴れまわった痕だって言ってた名残だったり、土砂崩れの動きがうねうねって蛇みたいにみえるからだったり、諸説はあるっぽいけど。この辺も切り立った崖っぷち多いし、水害で削れたり流れたりでこんなうねってんだろうねー。こんな道だからバイクで走って事故ったりも多い。これから行くのはトンネルなんだけど……
流暢に一息で話し、少しの間ののち煙が闇の中から吐き出された。
「そこに、出るんだって。君はそこで何か視えたら教えてよ」
「出るって、何が……
「でっかい蛇。楽しみだね」
 表情が見えなくてもきっとたいそうな笑顔を浮かべているのであろうと分かる楽しげな声だ。
「あの……なんでそんなものを視たいんです?」
「んー? ひみつ」
 こちらを値踏みする視線を感じる。黒い影から伸びてきた腕は手にした煙草を灰皿ですりつぶして、空いた指先で僕の頬をつつく。
「友達になったら教えてあげる」
 友達になれなかったらこのまま変な宗教の勧誘をうけて謎の儀式の生贄にされて山に埋められるのかもしれない。僕は視線を合わせまいと進む道の先をじっと見つめていた。


 すれ違う車もいない山道を走り抜けていく間に、日はすっかり落ちきってしまった。道の先を照らす車のライト以外に明かりはない。木々は真っ黒な壁となって左右にそびえている。
「とうちゃーく!」
 やがて一つのトンネルの前で車は止まった。コンクリートで固められたしっかりとした造りで、想像していたより古くはない。山沿いに作られたトンネルの中は、点在するライトで照らされている。行く先は吸い込まれるように消えて見通せない。運転席に座る黒い塊は意気揚々と車から降りていく。トンネルに入るのかと思いきや周囲の草むらをがさがさとかき分けていった。慌てて車から降りて山の闇に溶けていくぼやけた影に声をかける。
「え、トンネル……じゃ、ないんですか……
「うん。トンネルだよ。だけどこれじゃなくって」
 立ち止まったらしい暗闇は山と同化して何も見えない。
「もっと昔のトンネル」
 今仁いまにの持つやたらとまぶしいスマホのライトに照らされてもそこに道があるわけではない。草むらをかき分け踏みつけ作られた道の後をなんとか追いかける。伸び放題の草についた水滴に服の裾が重くなっていく。湿った土がぐちゃりと靴の底にへばりつく。土の中で腐った葉っぱの匂いが強くなる。水気の多い土の水分を吸ってすっかり靴の中はぐちゃぐちゃだ。重たくなった足をもちあげ、足の長い草を踏み分け進む。なんでこんなことをしているのだろう。いい加減ついていくのをやめて帰ってしまおうか……そう思った時、草木が少ないひらけた場所に出た。
「あった~。みてみて!」
 明るい声がこちらに投げかけられる。一足先についた明かりがぶんぶんと揺れている。手を振っているのかもしれない。ふらふらと揺れていた明かりはやがて、前方の一点を照らした。つるが垂れ下がり苔がこべりついた岩で組まれた大きな穴が山に空いていた。高さや幅は確かに車は通れそうだ。けれども、山を少しえぐった程度の深さしかないそれはトンネルとは言い難い、ただの穴だ。
「こ、ここが、トンネル……?」
 うろうろと穴の周囲を黒い影が動き回るのを目で追う。こんなところに、何が出るというのだろう。時折がさり、と風でゆれる木々に身をすくませた。ゆっくり音の方へ視線を移す。草木の影も見えない真っ黒な闇がどこまでも奥深く広がっている。目を凝らせど黒一色で動くもの一つ見えないはずなのに、まるで幾人もの人間が立ち並びじっとこちらを見ているような気配を感じる。
「そう、元トンネル。さっき蛇のつく土地って水害があった場所だって話したよね」
なにやら穴の前を動き回り観察しながら、今仁が話し始めた。
「あれの続き、話してあげる。ずうっと大昔、文献で残る程度の昔の話。大雨で山が崩れて村が一つ沈む水害があったんだ。地形の関係かな。山から溢れた土砂が水で押し流されて、村を崩して、蛇行して道を作って、ある一か所へと溜まった。人も材木も草花も土も泥も何もかも一緒くたに、ぎゅうぎゅうに押し込められて連なって、蛇行する蛇の痕だけが残された。全てが流されてしまった村は、やがて深い沼になった」
 ずちゃりと、湿った、泥をはねる音がした。ぬるくまとわりつく泥の匂いが強くなる。湿った音は、一定の間隔で聞こえる。ずり、ずちゃと泥を這いずる音がする。どこから聞こえてくるのだろう。視線を暗い山に彷徨わせる。その音に全く気がついていない今仁いまには構わず続ける。
「それから数年は周囲の村も水害を警戒していた。亡くなった村人達を弔うために小さな塚を築いた。ある日、弔いを続けていた村人が沼に這いずる蛇を見た。沼地と化した村に蛇が住み着くようになっていたんだろうね。だけど当時の記録では、水害で亡くなった村人たちが蛇になったという話として伝わっている」

 気がつけば周囲を這いずる音に囲まれている。逃げたい。どこに。せめて、人、今仁のいる方に向かおうとして、ぬかるむ地面に足をとられた。
 ずるずる、ずちゃ、ぐちゃ。何かを引きずる音が大きくなっている。

「ここはやっぱり地形がどうしても水の溜まりやすい場所なんだろうね。一度崩れた場所は余計に。数年後、再びここは大雨に見舞われた。隣の村も流された。すべては連なり泥と木々と人でできた蛇となって沼へと流れる。
 滅んだ村が呼んでいる。雨が降り、蛇行する土砂を飲み込み沼は大きくなっていく。
 ここは蛇の口だ。
 わずかに残った村落の住民は、蛇を祀って、祠を建てた。やがて全ての村人が山を下り、水害が起きたところで気がつく人間すらいなくなる」

 ずちゃ、ぐちゃ、ずちゃ。
 今仁の言葉は湿った水の音で聞き取りづらくなっていく。水を吸った土の中に足先が沈む。泥の表面を冷たい水が流れていた。

「技術が発達し、車が生まれ、道ができた。大昔に水害があったなんて土地の人も忘れるくらいの月日は流れてた。ほとんど人のいつかないこの山も、人が通るために開発されることになった。山道を整えるために、ここにトンネルが作られた。蛇を祀る名残の祠があったという記録はあったけど、なんでそんなものが置かれてるかなんて調べる人はいなかったんだろうね。柔らかい土を掘り起こし、山を削って岩で組まれたトンネルが作られた。できたトンネルに、祠に刻まれていた”蛇口”の名をつけた。山を迂回しなくて済む。流通も速くなって、ふもとに暮らす人達にもトンネルは使われていた。村の跡地も見つかって、人が住めるように整備されていった。ふもとの開発と合わせて、この辺りにも人が戻りはじめ数年がたった。
 そんな時、忘れられた水害がやってくる。
 山から溢れた泥は、昔と同じように木々も車も家も人も平等に押し流してトンネルを埋めた」
雨なんて降っていないのに、地面の表面を穴へ向かって水が流れている。

「ここは、今はすっかり埋まってしまった蛇の口だよ」

 ずるずちゃずるずちゃと泥の上を引きずる音はだんだんこちらに近づいている。
「ここでは色んな目撃談がある。色んな時代の流されてここに詰まった泥だらけの人たちの姿」
 闇から伸びた今仁の手が、大きく開いた口を埋める土を撫でる。
……あ、あのっ!」
「ん?」
ようやく声をかけることができた。穴の周囲をうろついていた黒い影の動きが止まった。
 何か見えたら、教えて。そう言っていたから。
 さっきからずっと何かが木々の合間に立っていた。明かりなどないのに、人影がくっきりと浮かんでみえる。
 震える指先で、山中を示す。そこには先ほどの人影はなかった。
「あれ……?」
 指をさしたまま視線を彷徨わせる。ずる、と思いがけず大きな音が近くで聞こえて、視線を落とした。
 何かが地面にへばりついていた。ずちゃりと湿った土の上を何かが這いずっている。
「うぁ……!」
 後ずさりしようとし、泥に足をとられて地面に尻をつく。
「話をすると、来るっていうよねぇ」
 すぐ後ろで今仁の声が聞こえた。どん、と後ろに立つ今仁にぶつかりそれ以上後ろに下がることができない。
 人型のなにかが支えるべき骨がないように腕や肩や足がてんでばらばらに動いて泥の上でもがきながらこちらへ近づいてくる。
 泥と土と木と瓦礫と鉄くずと潰れた肉が合わさって蛇行する人間がこちらへ近づいてくる。
「ようやく、何か来た?」
 深い闇が重く背中にのしかかった。背後から腕がのびてきて、あごを掴まれる。視界が固定された。
 嫌だ。見たくない。はやく、にげないと。
 泥の上を引きずる音が止むことはない。ずっと、ずうっと続く泥の蛇がどこまでも山の中からやってくる。
「教えて」
 ヘドロのような影から声がする。
「うっ、ぇ」
 息が詰まって、声が出なくて、血の気が引いて、口を押える間もなく、胃の中のものが口から溢れでた。ほとんど自分の身体を包む影の異臭がまじりあう。おさまらない吐き気に、固形物がなくなってもすっぱい液体が唾液と混じって口の端から落ちていく。服が泥と胃液と溶けかけのパンでどろどろに汚れていく。冷たくて重い影が労わるように背中を撫でるから、さらにえづいて息ができない。ぼろぼろと涙がこぼれ落ちる。
「大丈夫? ほら、ゆっくり息を吸って。何が視えるか、話して」
 逃がしてくれるつもりはない手が頬を掴んで離さない。僕が話すまで、離すつもりはないんだ。
 視界がぼやけて霞んでいるはずなのに、星一つ見えない夜の闇の中だっていうのに、目の前の嫌なものははっきりと輪郭を得て視界から消えてくれない。固定されていなくてもきっと、目の前に迫るそれから目を逸らすことができなかった。肩で息をして、ゆっくり口を開け、目に見えるものを口にした。

「人が、蛇行して、山の奥から、流れてくる」
 暗がりで泥の塊が立ち上がった。
「いろんなものが混じった泥が、立ち上がって」
 そのまますっと、長く、上に、上にのびていく。ぼと、べちゃ、と水分を含んだ重いものが落ちる音がする。
「上に、ずっと、ずっとのびて」
 落ちてくる泥には、赤茶けた肉が混じり、長い髪の毛が土に埋まっている。潰れた腕が鉄くずの合間から生えている。
「削れて、上から降ってくる」
 伸びていく頭部を追うように視線があがる。真っ黒い周囲の影みたいな木に重なって、ずっとずっと上に続いていく。
 真上を向くとどこからが空かわからない暗い色が広がっていって、
 ふっと、
「顔が、」
 顔が、落ちてきた。
 違う。顔なんて元からきちんとそこに備わっているわけじゃない。
 のっぺらとした大きな穴が目の前に迫っていた。
 まるで一飲みにしようと覆いかぶさる、
「蛇の口が」
 大きく開いて、すり潰れた肉と汚泥が混じり光一つ通さない真っ暗闇が、
「落ちて、くる」

 飲み込まれる直前。
 蛇の口は僕の背後をつつむ黒い影にぶつかってはじけた。音も衝撃もなく土色の蛇の身体が縦に真っ二つに裂けた。跳ね飛んだぐちゃぐちゃした液体が顔や服にふりかかる。裂けるチーズみたいにするすると木々や鉄くず、肉の混じった斑な土色の断面をみせて両側へべちゃべちゃと崩れ落ち蛇の肉が地面にたまった。飲み込んではいけないものを口にしてしまったかのように、ぼこぼこと断面が溶けて焼けていた。呆けたように空を見上げていると、腐った肉が焼ける嫌なにおいが鼻につく。

「三日月!」
遠くで聞き覚えのある声が僕を呼ぶ。コウだ。ふっと力が抜け泥の中に手をついた。助かった、んだろうか。
「ミカヅキくんって言うんだ? そういえばまだ名前聞いてなかったね」
 頭のすぐ後ろで嬉しそうな声がする。泥で汚れた僕の顔が、ぬぐうように撫でられる。

「すごーい! やっぱりばっちり視えてんだね。初めて会ったときからずっと気持ち悪そうな顔してる。オレの事見てそういう反応するって本物だなって思ったんだ」
 頭上の闇から、天使の顔がのぞく。真逆にこちらをのぞき込む瞳は、真っ黒な夜空に浮かぶ星みたいにキラキラ輝いていた。
「ありがとうね。君の、その目良い。すっごく良い。ほんとうに、在るんだ。また何か視えたら絶対に教えてね」
 嬉しそうにその目が細められた。
「代わりにオレの秘密も教えてあげる。ガキの頃、神隠しにあったんだ」
 夢なのか現実なのか判然としない状況で単調な声が落ちてくる。
「オレは昔もう一人いたんだよ。生まれてからずっと一緒にいた」
「小学校に上がったばかりだった。空はもうオレンジ色に染まってた。いつものように庭先でもう一人と遊んでいた。正直その時の記憶はない。いつのまにか、もう一人がいなくなって、オレは一人で家の前に建っていた。オレ一人だけだったんだ。もう一人、居たはずなんだよ。周りの大人は誰も知らないって言うんだ。後から親に数日姿を消していたと聞かされた。オレは、オレ達はどこに居たんだろうな。帰ってきたのはオレ一人だけ。もう一人はどこに行っちゃったんだ? オレは帰ってこれたんだから、もう一人だって帰ってこれるはずだろ?それからずっと探している。もう一人に会うためにいろんなことを試した。
知らないことを知るために。居なくなったものを取り戻すために。見たらダメなのモノを見て。聞いちゃダメなものを聞いて。持っていったらダメなものを勝手に持ち帰った。したらダメって言われたことぜぇーんぶ!今ならこの世界にはまだまだ説明のできないことなんてたくさんあることはよく分かる。だけど、結局未だに見つからない。どこ行っても何も視えないんだよ」
 ようやく目的のものを見つけた子供みたいに楽し気に弾む声が応える。纏わりつく深い闇はきっとそのせいだ。この人は色んなダメなものを全部、持ち帰っている。
「視えないモノがみたい理由はそれ。視えないモノを視える人に探すの手伝ってもらおうと思って、ずっと君みたいな人を探してたんだ」
大切な宝物を扱うように優しく僕の瞼を撫でた。
「オレとそっくりなやつのこと、どこかで見かけたら教えてね」


 その後のことはあまり覚えていない。気がつくと全身泥だらけでコウの車の後部座席に横になっていた。運転席に座る呆れ顔の幼馴染は、今仁いまにに会ってはいるようだ。
「お前をここまで連れてきたやつ、送るとは言ってたけど迎えに来たからいいって言ったら一人で帰ってった」
 不愉快さを隠すことはなく吐き捨てるように言った。
「たいした話はしてねえけど、気持ち悪すぎ」
 コウははっきり見える訳じゃないけど、人よりは感じるものがあるらしい。あれだけのものがくっついている今仁いまにとは相性が悪いんだろうな。後部座席の足元には、箒が一本転がっている。払うつもりで来てくれたんだ。昔からコウは、僕の見える世界をすべて払ってしまう。気味の悪くて必要のないものだって。だけど、別に僕は僕に見える世界のことが嫌いじゃない。そう思ってることをはっきり否定はしないけれど、共感も理解もしていない。僕の親に頼まれて危険があれば払うだけ。
 ぼんやりと窓の外へ視線をなげる。草木が風に揺れている。虫の鳴く声が微かに聞こえる。夜と山が作る暗い影が広がっていた。何かを引きずる音も聞こえない。湿った沼地の匂いもしてこない。この山には何もいなくなってしまった。あの天使が引き連れる闇の中に取り込まれてしまったのだろうか。まあいいか、次に会えばわかることだ。
「どうでもいーけどよ。ああいうのには関わるのはやめた方がいい」
 心底興味がないというようにコウは言うけれど、僕は、僕の目をあれほどに必要としてくれる人に初めて会ってしまった。
 僕の見ているものをあんなに奇麗な瞳で心待ちにしている人に会ってしまった。もっと僕の見えているものを教えてあげられたら、もう一人の彼を見つけてあげることができたら、またあの落ちてきそうな星の輝きを見せてくれるのだろうか。