ひさね
2024-10-13 16:15:34
7051文字
Public
 

腐れた死体を流す話

グノレイ死体埋め(埋めてはいない)ss。こっちは正史。レイ視点。
水に流せるもの、流せないものの話。

 死体があった。ハエが集って、眼球に蛆が湧いていた。真っ青だった。胸も腹もぱんぱんに膨れていて、今にも裂けそうだった。饐えた臭いでは表現しきれない強烈な臭いを辿って、入り組んだ路地の奥の奥まで入り込んだら、それが居た。鼻が曲がるという慣用句も事実らしい。
 それに、着ている服もこの辺りでは上等なスーツだった。あくまでスラムの価値基準で言えば、だ。一般的には中流階級、本当に極普通なものだった。良く服を剥がれなかったものだ。それだけ見つかりにくい所で死んだという事だろう。こんな風になってしまっては、べったりと死臭が服に染み付いてしまって、流石に誰も欲しがらないから、本当に上手い具合に死んでいた。
 他人事のように眺めていた。私が探していた人ではなかった。一見して明らかに大柄だった。
 そもそもその人が離れてから、まだ一時間と経っていないのだから、ここで腐れている理由もない。いくら衛生環境が悪いとは言え、そしてここが典型的な砂漠気候で丁度今の、周りをぐるりと囲む塀の影すら一番短くなるような真昼には灼熱になるとは言え、数時間で腐るほど人間の身体は柔ではない。
 そもそも彼は死んでいない、と思う。朝に顔を合わせた記憶がある。それでも断言が出来ないのは、朝は元気に外出したかと思えば、夜にはピクリとも動かないで路地で腐れているなんて事が平気で起こるのがこの貧民街の生活だったからだ。
 当てが外れたものの、一市民としての意識が未だあるからどうしたものかと突っ立っている。

「あー、腐ってんな」

 足音はなく、それでも背後から声がして、ぐるりと振り返る。三白眼の青年がいる。

「グノだ。探してた」

 目当ての人の名前を呼ぶ。ほぼ反射だった。名前を呼ばれた彼は、どうして私がいるのかと言いたげに怪訝そうに眉を寄せて、そしてその通りに言葉少なに尋ねた。

「何で」
「何となく。強いて言うなら退屈だったから」
「だからってこんな所歩いてんなよ、レイ。クソ暑いわ、治安は悪いわ、死体はあるわで特に最悪な場所だって知ってんだろ」
「心配性だね。真昼なら臓物売り飛ばすような輩もいないんでしょ? クソ暑くてくたばっているから」

 ここに迷い込んだばかりの頃、他でもない彼に教わった事をそのまま諳んじれば、彼は大きくため息を吐いた。「余計な事言わなきゃ良かったわ」と悪態もつく。
 そんな彼の嘆きは何も聞かなかった事にして、今度は私から尋ねる。

「グノは何でここに?」
「異臭騒ぎがあったから。川行くついでに来た」
「何で川に?」
……何となく」

 何時も通りに歯切れの悪い返事だった。彼がこの砂漠地帯で希有な、そして何故か周囲に貧民街の報われない住人と何でも売り捌いて成り上がりたい輩が、群がって広がっているあの川に行く時は決まって理由を曖昧にする。そこに疚しい事実があるのは知っていた。口にするのも憚られる最低ラインは世間一般と同じだった。
 きっと異臭騒ぎは何かのついでではなく、本題だった。ここまで来ると彼は、彼自身の認知はどうであれ、本当に自治しているのだと思う。
 グノは私の脇を通り抜けて、つかつかと死体にぶつかるまであと一歩分の距離まで近づき、躊躇いなくしゃがみこんだ。その膨らんだ顔を見つめる。かと思うと首を傾げる。それから、一瞬、間を置いて、「あっ」と声を上げた。行方不明者を見つけたというより、失くした物を見つけた時の驚き方だった。

「こいつ、ここでくたばってたのか」

 呆れたような口調で、それでも若干の親しみが籠もっていた。
「知り合い?」と私が尋ねると、グノは親しみをそのままに、死体に語りかけるように答える。

「ああ、うちのガキ掻っ捌いて売ってた奴。元身内ってよしみで、大分好き勝手やってくれた。最近見ないかと思ったらこんな所で腐ってんのか。何時もと変わんねえな」
「思ったより凄い人だ。凄い悪い人」
「まあ、元々野心というか反発心というか、それだけ妙に強かったからな。こんな所も嫌いだったろうし、後はアイツ、ケントを目の敵にしてたし。まあそこそこに難儀な奴だった」
「自ら矢面に立ちたかったんだね」
「少しトゲがないか?」
「グノもでしょ」

 はは、と一緒に苦笑する。

「でも、俺は今の長と年寄り連中よりはマシだと思う。アイツに対するスタンスだけはな。身内を攫ってく時点で、どっちもカスだが。使い潰されるだけって分かんねえかな」

 彼が吐き捨てた台詞で、あのスラムの老人達の顔、ケントさんを見る時の表情を脳裏に浮かべる。何だか生き生きして年を感じさせない人も、虚ろな目をして譫言を舌に乗せる人もいた。グノが言っているのは明らかに後者だった。

「神とか救いとかをしこたま嫌悪する奴が、いの一番にハマるって事実なんだな」
「苛烈な皮肉。でも同意見。ケントさんの事、信仰対象にする方が悪質で悪手だと思う」

 何でも手放せそうな人だから、とは敢えて言わなかった。そんな人の相棒を長年やってきた彼自身が一番知っている事だったから。

「本当、アイツは悍ましい奴だな」

 そう呟いて、グノは立ち上がる。空けていた一歩分もあっさりと踏み出して、その知り合いのシャツの襟首を掴んだ。蝿がブンブン騒ぎ出すのを数回手で打って、引き摺り始める。死体を掴んだ方の手の甲や袖に中々立ち退かない虫が止まるのを気にもかけなかった。
 何時見ても躊躇いがない。溶けている死体でも、体液にだけは厳重に注意しながら引き摺り倒す。
 膨れた身体が爆発してしまわないか、と夢見がちな疑念が過ぎって、頭を振った。案外、人の肉は厚くできていて易々とは裂けないのだ。
 路地の表へ出てくる。建物がごった返して迷路みたいな街に、太陽が黄色で眩しすぎる光をこれでもかと降り注いでいて、負けじと反射する砂の色がきつかった。暑さは最骨頂に達していた。目の前で熱が揺らいでいる。
 一歩前を行くグノの影は足元に溜まるばかりで伸びてこない。
 彼が歩いた後に砂の溝が出来ていく。私はそれを目で辿る。

「てか、何でついて来てんだよ」

 誰一人歩いてこない、そして誰も住み着いてはいない街道の真ん中で彼は口を切った。

「今回は第一発見者だったから?」
……質問変えるわ。何で何時も来るんだよ」
「グノが居るから」
「何だそれ」

 呆れたような横顔に、何を言おうかとマント代わりの襤褸の下で手をもそもそ動かした。

「それに、人が自治する所を見たかったから」
「どっちも分かんねえな」

 それからグノはくわ、と欠伸をした。ぱたぱたと微量な風にもならないだろうに、死体を持っていない手で顔を扇ぐ。
 そんな平然とした彼に続きの言葉を投げる。

「やっぱり警察無しで処理するの、不思議な気がして、どうしても。……それ、見つけた時、警察でも呼ぼうかと思った。私も探されている身だから、止めたけど。あとは、こう言って良いかは分からないけど、酷い裏切りをした人を何で運ぶのかなって思ったから。聞いてみたいと思った」
「そういう事か」

 漸く合点がいったと言うように、一人で深く頷いている。そして彼はあっけらかんと答えた。

「呼んだって意味ねえよ。こいつも戸籍ないし、公的に存在しない奴は存在しねえんだから、居ない奴が死んだって言った所で、死んだって認められないだろ。存在しない奴が死ぬ事は絶対ねえんだから」

 恨み言を吐き捨てるようだった。
 彼は根本的な誤解をしている。無戸籍であれ、この法治国家なら、死体が、身体があるならば存在を認める仕組みになっている事を彼は知らなかった。
 それも無理はない。目を伏せる。
 この国は王家と二大貴族の内の一つが政治闘争をしている。ずっと、何十年も続いている不毛な争いだったのだが、統治が蔑ろになるまで表面化したのはほんの最近、十年程前の事だ。事の発端は二大貴族のもう片方、どちらかと言えば王家と協調してきた方の家の当主が突然、跡継ぎを決定すると言い出した。そして激しい跡継ぎ争いが始まって、今も続いている。要は、政治どころではなくなった。そうしたら、ストッパーが居なくなったのを良い事にもう片方の家が増長し始めた。容易い話だ。国民には内部を覆い隠してしまっているから、全く分からない事実だろうが。
 そして今がある。誰も彼も目の前の闘いしか見ていない。それしか見られないのだ。闘争がこちらを捉えている内に、逃走しようと目を逸らせば死ぬから。
 だから、この国はこのスラムの自治ができない。死体を引き摺るのは何時もスラムの住人だ。グノの誤解は正真正銘、この国の事実だった。
 迷路のように並び立つ、家主の居ない家々を抜ければ、一気に視界が広くなる。主要な町と正反対に出る場所だったから、地平線が見える。それよりずっと手前に川があった。
「それに」と外に出るなり、グノは声を潜めて、不意に言った。

「元は身内だったからそのまま捨て置くのは、良くない気がした」

 彼は淡々と述べる。身内の概念が広い彼らしかった。
「それもそうか」と呟いて、頷いた。

 ***

 川に着くと、グノはずっと後ろ手に引き摺っていた死体を、薄く濁ったお世辞にも綺麗とは言い難い水面に、ドボンと投げ入れた。青く腫れた身体は一瞬沈み、それからまたぷかりと浮いて、川の流れに身を任せていった。下流に流れていって、別の街の中を通って、海へ行く。
 案外流れが早く、あっと言う間に黒い点になって、見えなくなった。
 普段ならグノは洗うべき場所を洗うために、すぐに動くのだが、今日は川の流れ行く先を見つめていた。沈黙が流れる。
 消えていった死体の行く末を思う。きっと誰もあれを見つけないのだろう。海への道中、至って普通の街を通るが、見つかるのだろうか。きっと見つからない可能性が高い。仮に発見されたとて、身元不明の死体として回収されるしかなく、あれの罪業と生涯を誰も知らないし、知ろうとはしない。死体が流れてきた所で誰も、何も気が付かずにそのまま海の藻屑か土の中へと消えるのなら、矢張り存在しないも同然なのかもしれない。

「レイ」

不意に沈黙が破られる。

「何」
「死体、見慣れているのか。……全然狼狽えないのがずっと引っかかってた」

 出し抜けで文脈もない問いにちょっと眉を上げる。少しだけ驚いた。彼自ら私の事情を尋ねる事は珍しかった。

「流石に腐った死体を見るようになったのはこっちに来てから。貴族は穢れ意識だけは妙に強いからさ。競争相手をこっそり殺したら、腐る前にこっそり片付ける。だから、まあ、状態は違うけど間違ってない」

 答えに窮する事はない。正真正銘、事実であるし、それに加えてとある貴族の苛烈な跡継ぎ争いのおかげでここに流れ着いた事は既に彼に教えていた。だから態々誤魔化す必要もなかった。
 ちゃんと誠実に答えたつもりだが、グノは視線を川に向けたまま、眉根を寄せて神妙な顔をした。何処か引っかかって納得がいかないようだった。
 じっくりと考えた末、彼は慎重に疑問を言葉にしていく。

「こっそり殺すって事は、自分じゃやらないって事だろ?」
「うん。お母様は珍しく私を使わないで、何時も切り捨てられる人を使っていた」
「だったら跡取り候補だったお前が頻繁に見るのは、筋が通ってなくないか。一回や二回なら、まだ偶然で済んで分かるんだが」

 ここでグノの言いたい事がやっと分かって、つい声を上げて笑ってしまった。彼は根本的な誤解をしている。
 奇怪な物を見るような三白眼が私の顔を捉えた。

「私はこっそり片付ける方はやってたよ。殺された後の遺体を、埋めてた」
「それでも肩書と仕事が見合ってない気がするんだが」
「それも誤解。後継者は私じゃない。お母様だった」
……どういう事だ? 跡継ぎの権利は子にしかないんじゃなかったのか」
「それは建前の話。本格的に争い始めたとき、私はまだ六歳。末の弟は四、五歳。一番上の兄も十五歳だった。しかも皆、母親は違う」
「あ、あー。やっと分かってきたわ」

 引っかかりが解けたようで、彼が私の先の台詞を引き継いだ。

「全員政治を仕事にするには、十五でも流石に早すぎるのか。だからどの母親が代わりにやるかが問題になる」
「そういう事」
「面倒臭すぎる。そんなに熱上げる意味あんのか?」

 極めて率直な批判にまた笑ってしまう。本当にその通りだ。可笑しな話だった。初めからこの後継者争いに意味はない。少し考えれば分かる父の真意も、熱を上げてしまった当事者には分からないのだろう。
 だから、常に死体があった半生だった。無駄な事ばかりやっていた。

「要は私はくじ引き券とか切符と同じ。お母様の権利資格でしかなかった。その権利資格が自立して動くなら都合良く使うよね。悪知恵ばかり働かせて徳には頭を働かせやしない、頭の血の巡りが悪い牝狼だったから自然な事だよ。お陰で墓穴を掘るのは得意になった」

 あの人の事になるとどうにも止まらなくなる自覚はあったから、頭を振って打ち止めにした。その意図はグノにも伝わっている。寄る辺ない手が頭を掻いて、彼はポツリと「えげつない悪態だな」と苦笑した。
 だから、と私は言葉を継いで接いで、話題を戻す。

「埋めようかと思ってた。さっきの人、見つけて警察呼ぶのを止めたとき」
「それは道具がなきゃ無理な話だな。ここらの砂なんか熱すぎるか冷たすぎるかのどっちかで、人の手で掘れる限界もたかが知れてる」
「本当にね。その通り。だから、川に流すのを初めて見た時、こんなやり方もあったんだなって感慨深かった。だからついて行くのかもしれない」
「そう繋げてくるか」

 彼は乾いた笑い声を上げて、額の汗を手で拭って服に擦りつけた。
 水辺に居るとは言え、太陽が余りにも眩しいから涼しさの欠片はちっともない。目の前の川をもう一度見てみれば、死体を押し流した事も忘れたかのように、水がさらさら穏やかそうな顔をして流れていた。

「水に流すなんて、誰に教えてもらったの?」

 口を衝いて出た疑問でまた、間が空く。グノに視線を戻せば、かちりと目が合った。ずっと私の顔を見ていたらしい。そのままじっと、互いが互いを見つめたまま、二呼吸分、声も発さずにいた。

「ケント。アイツが」

 彼は自ら沈黙を破って、そしてここで言い淀んだ。気まずそうに小さい瞳が逸れていく。その訳を私は既に承知していたが何も言わない。揺れる瞳がちゃんとこちらに戻ってくる事を知っていた。
 グノは伏し目になって、一呼吸置いて、それから予測通りに目を開けた。

「アイツが、俺が殺した奴を捨てるのに使った。それで覚えた」

 握りこんだ左手が微かに震えている。過去の殺人、と言うには決定的な要件を満たしていない事実を口にするとき、彼は何時も良心の呵責の中にいる。
 その悲壮に、助け舟を出したい気持ちがないではなかった。

「じゃあかなり昔から知ってたんだ。十歳ぐらい?」
……そうだな。大体、そんぐらい」

 彼はまた川へと、川の流れる先へと目を向ける。遠くに流そうとして、そして流れていった死体を偲ぶように見つめている。
 そして、低く小さく呟いた。

「逃げられれば充分だった。捌かれそうになったからって、刺す必要はなかったのにな」
……どうだろう。よく分からないや。私がその場にいた訳ではないから、何とも」
「冷たい奴」

 言葉に反して、グノは眉を下げてふにゃりと、柔らかく笑った。
 結局の所、どれだけ罪ではないと第三者がうるさくまくし立てても、彼の中ではちゃんと罪なのだ。もう既に答えは出ている。閉じた輪のように、彼自身の中で全て完結して、完了した出来事だった。
 だから彼はこれを誰にも背負わせないし、私も背負うつもりはなかった。
 彼の罪も彼の所有物に違いない。川の濁流では流せないからこそだった。
 故に私が出る幕はない。誰の出番もない。彼は彼自身の手で、自分を救っていく。

「でも好きでしょ。こういうスタンス」
「ああ。腹立つぐらい好きだわ」

 私が悪戯に煽れば、皮肉るような台詞が返ってきて、目を細める。傍らで彼はあくびをして、伸びをして、死体を引っ張っていた腕を伸ばしていた。何時もの調子がすんなりと戻ってきたようだ。
 だから、眩しくて仕方がなかった。

「じゃ、手ぇ洗うから先行ってろ」
「え、嫌だ。ついてく」
「こんな暑い中、そこまで付き合う必要ねえって」
「必要とか必要じゃないとかじゃないから。で、何処で洗うの」

 グノの空いている腕にしがみつけば、彼はじっとりとした目で私を見る。それも知らんぷりして、腕を引けば、彼は観念したように、そして若干呆れたようにため息を吐いた。
 でも何も言わない。腕を振りほどきもしない。そのまま彼は歩き始めた。だから私はそれを了承と捉えて、彼の歩調に合わせようと大股で歩けば、不意に速度が緩まった。結局、私にとっては無理のない歩幅で進む事になった。
 そのまま二人で、川の流れに逆らう方向へ歩いていく。
 黄色い砂の上に影が二人分、丁度伸び始める頃だった。