長く勤める教員生活だがここまで人気のないこの講義を心の底から楽しそうに聞く学生は初めてだなと、講義の声は途切れさせないままに人一倍熱心に耳を傾けボロボロのノートにメモを取る男を見た。
それなりに世間の荒波に揉まれた果て、心身ともに擦り切れて人様に決して吹聴できない仕事から足を洗って気がつけばこの大学に席を置いてから随分と経つ。前職が役に立っているのかいないのか、学者の端くれとしてそこそこの役職について教養の講義を受け持った訳だが、学生たちからはつまらないだの声を聞いていると眠くなるだの、たいそう大不評だった。
そうは言ってもオキーフとしてはこれが仕事なのでなぜ必修なのかと嘆く学生の声を無視して例年の如く前期科目となった授業で朗々と講釈を垂れる訳だが。そうして教壇にたった時、その男は突然として目の前に現れた。
開かれた最高学府と呼べば聞こえはいいが、言い換えれば部外者でも出入り自由という事で。必修科目として大講義室で行う授業、ただでさえ受講者が多いのに出席もとらないとなれば紛れるのは容易かっただろう。授業初日から最前列に陣取ったその男は周りの学生より少し年上に見えたが、興味深そうに目を瞬かせる姿がやけに印象に残った。
初めは手ぶらで話だけ聞いていた男は数回の授業をこなした後、手元にお世辞にも新品には見えないボロボロのノートとバイト先のものなのか企業ロゴの入った筆記具をこさえてやはり最前列に陣取った。当たり前の顔をして混ざっているものだから、周りも気にした様子はなかったが学生名簿に名を連ねていないあの男が在学生でないことは確かだった。
本来ならもぐりだと分かった時点でつまみ出すべきなのだろうが講義の邪魔をしないのなら学びたい者は好きに学べばいい、というのが俺のスタンスだ。古い考えに準拠した対応だったが、授業料だ校内の治安だの色々考えればキリがない。他の教員に話を聞いてもどうやらあの男は俺の授業にしか潜り込んでいないようなのでまあ、いいだろう。物好きもいるもんだなとは思うが。
一つ惜しいと思うことがあるとすれば、学生ではないあの男にレポート提出の義務はなく、あんなに必死で手を動かし錆色の目を輝かせて自身の糧にしているだろう講義の結実を拝めない事だけだ。
その男は雨の日も風の日も、飽きる事なく最前列に陣取った。講義の最中、気がつけば目が離せなくなるほどその男は爛々と輝きをまとって見えた。
その日は突然訪れる。
試験週間前に学生たちに課したレポートを採点する為に研究室に戻ると提出締め切りを過ぎたレポートボックスに、ノートからページをそのまま千切った様相で何とか端だけでもと処理された無惨なレポートがポツンと、けれど存在を主張するように収まっていた。Wordで出力されるレポートよりも味のある手書きのそれは前職で馴染みが深く妙に手に馴染んだ。
名前もなくクセの強い字で書き上げられたレポートを夢中になって捲る。たかだか教養の講義をして、私を見てくれ、と必死に募るような書き味に思わず読み入った。ノートの両面6ページをびっしり埋める文字はまさに暴力と言って良いだろう。
婉曲的に、あなたの話をもっと聞きたい、と締められたあの男の激情に思わず感嘆して空を仰ぐ。惜しい、と思った。これほどのものを書きあげる人材が学びの機会を得られないのはあまりにも、惜しい。
後期の説明を含めて授業は残り2回、来季の説明が主になる最終講義に出ない可能性を考えればあの男を捕まえるチャンスは明日しかない。
個人に入れ込むタイプでは無いと自負があった、公私混同なんてもってのほかだとも思う。ただ、ここであの男を手放しては後悔が残ると、長年連れ添ってきた信頼のおける自身の勘が告げていた。
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「そこの錆目の男、話があるから残れ」
まさに立ち上がって退室しようとしていた男がギクリと体を跳ねさせて驚いた目でこちらを見やる。指でちょい、と呼びつけてやると観念したのかとぼ…と落ち込んだ足取りで教壇の前にやってきた。
目も合わせずに斜め下の床をじっと見て、男は死刑宣告を待つ。退室する生徒の雑踏が止んだ頃、潤んだ目で男はようやく口を開いた。
「バレてないとは……思ってはなかった。いつかこんな日が来るとは思ってた…」
もぐりがバレたのだから突き出されるのだろうかと心底落ち込んだように肩を落とし姿に慌てる。
「初めからお前は目立っていたし、突き出すならもっと前にやってる」
思っても見ない言葉に床のシミばかり見ていた男は勢いよく顔を上げ初めてオキーフの目を見た。錆色の目が期待に揺れてやはり爛々と輝いている。間近で見てその顔が甘く整っていることに初めて気がついた。
「給付奨学金を使え、金がないんだろう」
あれだけのレポートがかけるのならこの大学で上位の成績を収めることは容易い。であるなら返済不要の奨学生として通うことも出来るだろう。
差し出した来年度の推薦状を見て驚き目を見開く男は思わず受け取ろうとした手を引っ込めて泣き出しそうに目を伏せた。
「高校出てないんだ、色々あって」
だから受験資格もないのだとまた床のシミを見つめる男の肩に思わず手を置いて告げる。
「見るに、お前は全く学んでなかった訳じゃないだろ」
「高校2年くらいまでは」
「なら間に合うな、次の大検出願までまだ余裕がある」
「あの、」
「勉強は教えてやる。だが今後のもぐりはやめておけ、俺の講義以外では庇ってやれん」
男が口を挟む隙を与えず淡々と話していると動揺したのか肩に置いた手に自身の手を重ねて困惑した目で見あげてくる。
「何故、そこまでしてくれるんだ?」
「惜しいと思った、お前まだ学びたいんだろ」
そういう若者には機会が与えられてもいいだろう。何せ俺は暇なのだし、この半年見てきたお前になら快く手伝う気もおきる。
錆色の目を何度も瞬かせながら、男は小さい声で「ラスティだ」と名乗りまるで甘えるような目でこちらを見あげてきた。
「本当に貴方に甘えてしまっても良いのか?」
返事の代わりに手を差し出す、顎で握手を促せば慌てて男はその手を握り返してきた。
「オキーフ先生」
口の中で音を確認するように何度か名前を呼びかけられる。
「ずっとあなたのことをそう呼びたかった」
差し出した手を強く握りながらラスティは出会ってから初めて安心したように微笑んだ。
これからよろしくと楽しそうに目を細めたラスティと同居する事になったり、ラスティの叔父と一悶着あったりするのだが、それはまた別の話だ。
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