えのうえ
2024-04-30 19:57:55
2974文字
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線路は続くよどこまでも

チャイマより派生。公平と兎馬のむかし短話。

 担当産科医は初め、腹の中にいる兎馬とうまをみて「女の子です」と言ったらしい。両親は、もちろん信じた。信じて、ピンク色のおもちゃやフリル付きのベビー服、うさぎのぬいぐるみを買い集めた。さあ準備は万端だ、元気な女児よいつでも来い、という状態になったところで、兎馬が生まれた。「おめでとうございます、元気な男の子ですよ」と助産師が告げた時、父は「え?」と戸惑い、母は朦朧とした意識の中で赤子の生殖器を視認した。「女の子ちゃうんかい」と声を漏らしたともいう。
 とはいえ、両親もさすがに退院の頃には思考を切り替え、生まれてきた我が子を幸せにしてやろうと真っ当な親のそれにはなったようだが、女の子を迎えるために作り上げた家はどうにもならない。特に母の中に流れる関西人の血が、買ったものを手放し、再度別のものを購入する、ということを許さなかった。「あんたに似て、可愛かえらし顔しとるから大丈夫やろ。ほら、本人もそれでええ言うとるわ」
 そのため、幼稚園に通い出すくらいまでの兎馬は、殆ど女児にしか見えず、実際に親戚連中も暫くの間勘違いをしていたようである。

 兎馬にとって第一の転機は、小学五年生の時、両親が離婚したことだ。母方の実家に移り、転校という人間関係の強制リセットを余儀なくされた。だしの味がする天津飯や、薄いうどんつゆ、目の前で日常的に繰り広げられる漫才じみた会話など、その変化は目まぐるしかった。
 第二の転機は、中学三年生の秋。せっかく世界が己の肌に馴染んできたと思った時だった。母がギャンブルにはまり、借金を作り、膨らませ、アパートの階段から飛び降りた。幸か不幸か、二階と三階の間からであったこと、母の身体が常人よりもかなり頑丈であったことから、大事には至らなかったが、兎馬は父親の元に送られた。進学希望先を大阪の工業高校から、東京の、それも聞いたこともない商業高校のものへと書き換えなければならなかったのは、何よりの苦い思い出である。
 その後より今に至るまで、兎馬はずっと東京にいる。

 女児の兎馬、エセ関西人の兎馬、金髪ロン毛だったりアフロだったりした兎馬、というように兎馬が兎馬という名でなかった時、ヒョロでガリだった時しか知らぬ者たちは、現在の己を見ても気が付かない。例えば、配達の関係で一度訪れたカットハウスの店主、毎年クリスマスに顔を合わせるフライドチキン屋の店員、兎馬が週一で通う歌舞伎町の中国語教室の生徒などがそうだ。皆、各分岐時点での関係者であったが、声をかけてくることも「あれ」や「もしや」といったような顔をすることもなかった。
 これまでの、いわば転てつ器による進路変更さながらの強制的な転機たちに、それなりの文句はある。が、いくら恨み言を言ったところでパッとしない半生は、パッとしないままだ。むしろ、今の稼業を考えれば似合いであるな、と兎馬は毎朝電車を見るたび思った。


 フラワーショップトーマに客が来る。その男性は、店中で美しく光る花々を一瞥することなく、真っ直ぐ足早に歩を進め、兎馬の前で止まった。
 中堅ブランドのビジネススーツ。手荷物はなし。それとなく観察し、人物像にあたりをつける。「お」と胸中で呟いたのは、その顔に薄っすらと見覚えがあったからだ。高校時代だな、とわかればインデックスを目印に記憶を探る。そうだ、図書委員だった己と借りに来た彼。今と同じ具合にカウンター越しだった。彼がいつも格闘技関連の本を手に取っていたことまで鮮明に思い出す。
 男性は、スーツの腰ポケットから名刺を取り出し、「コモダ出版政治部の大野だ。あんたがトーマだな」記憶より少し低い声で言った。
「ええ。フラワーショップトーマの店主の、トーマです。干支の兎に競馬の馬でトーマ」
「あんたの本職の方で、話を聞きたいんだが」
「もちろん。どなたかお誕生日ですか。歓送迎会……というには時期外れだし、プロポーズか、自分用か。ご希望に沿ったブーケを用意いたしますよ」
 兎馬がとぼけると、男性は「まさか」と鼻で笑った。「議員の木津熊を知っているだろう。あいつが半年前、あんたにどういう依頼をしたのか。それを聞きに来た」
「何のことやらさっぱり。記者ならご本人に直接取材されたらいかがです?」
「無理だ。昨日ビルから転落して、ついさっき息を引き取った」
「あらら。それは、それは。ちなみに転落って、何階からですか」
「三階だ」
「そっかぁ」言いながら、兎馬は再び脳内でインデックスを探る。木津熊、木津熊と二度ほど唱えたところで、痩身の男性の姿が浮かぶ。身体の線と同じくらい細い縁の眼鏡をかけた、初老の男性だった。同党議員の、いわゆる黒い交際について確証を得たいと相談された。あんまりおすすめしませんよ、ウチではお受けできませんと断ったが、独自で調査を進めてしまったのか。
「残念ですね」
「全くだ。故人の無念を晴らすためにも、ご協力願いたい」
「あまりおすすめしませんよ」木津熊に言ったのと同じ台詞を吐く。「もしかすると、あなたも、同じ目に合うかも」
 兎馬の言葉に、男性は眉間に皺をよせた。「公正公平なあなたには信じがたいかもしれないですけど、世の中って灰色でできてるんです。突付けば泥が舞って、黒になる」
「いろいろと……知ったような口ぶりだな」
「そりゃあまあ、都内のことは何でもござれと謳っているくらいですから。あなたが──公平さん・・・・が本当は記者ではなく刑事なことも知ってます。配属は、そうだな……新宿中央署とか?」
 男性が、公平が、胸ポケットに手を入れた。そして黒革無地の手帳を取り出す。中を開き、「当たりだ」と吐いた。
「捜査協力を拒んだら逮捕とかあります?」
「さあ。だが、回答によっては検討の余地がある」
「うーん。じゃあ、ご希望の情報は、対価に応じて提供可能ということに。扱いに注意していただければ、その用途はご自由にどうぞ。ただ、代わりといっちゃなんですが、お互い嘘はナシというのを、ルールにしましょう」
「了解した。俺が知りたいのは、木津熊があんたに何を依頼したかと、その結果だ。どんな情報を木津熊に売ったのか、もしくは売らなかったのか」
 兎馬は頷いた。公平からメールアドレスを受け取り、取引の遂行を約束した。「代金は」との問いには、黙って店内右側を指さした。モンステラの植木鉢。二万円と消費税。「初回割引サービスです。今後ともご贔屓にどうぞ」と笑いかければ、公平は表情を固くし、財布から紙幣を取り出した。
「安すぎて怖いな」
「まあ。お金は取れる相手からってのが、ウチのサービス理念ですから」

 大きな植木鉢を抱えた公平の背中に向かって「あ、そうだ」と兎馬は言った。「ウチのこと、どうやって知ったんですか」
 公平が振り返り、笑う。
「俺は刑事だぞ、基本に忠実に捜査すれば真実へと辿り着く。そういうもんだ」
「捜査のイロハに暴力の行使なんて書いてないと思うけど」
「知ってるなら聞くなよ」

 兎馬の頭の中で、高校時代の記憶がスライドショーとなって巡る。パッとしないが、それこそが青春と言えばそうだろうと、公平の後ろ姿を見ながら思った。
 電車のガタゴトと走る音が、辺りにこだましていた。