千代里
2024-10-11 12:58:33
11781文字
Public リーブラ短編
 

クガネとお風呂と浴衣の話


(どうしよう……
その日、ヴィエラ族のトゥーリは人生最大と言っても過言ではない窮地に立たされていた。
とはいえ、彼女が立つ場所は危険地帯ではない。足の下には板が張られているし、頭上には屋根が広がっている。おまけに、近くからは人の団欒の声も聞こえる。命の危機は限りなく薄く、その意味では彼女が陥った窮地は命に関わるものではない。
だが、これは間違いなく窮地である。
トゥーリは目の前にある籠に入っているものを手に取り、広げてみる。その手には自分がが身につけるにはあまりに大きすぎる衣服が一つ。
(どうしよう……
先ほどと全く同じ困惑の声と共に、トゥーリは己の体に視線を落とす。
そこには、湯上がりで少し湿った一糸纏わぬ己の肢体があった。均整の取れた肉体は、冒険者らしく程よく筋肉がついており、名のある彫刻家でも簡単には彫り出せないような美しさがある。だが、今のトゥーリには己の肉体美など何の助けにもならない。
「これ、どうすればいいの……?」
自分の体には、どう見ても合わないだろう、とても大きな羽織もの。湯浴みをする前に着ていた服は洗濯のために受付に渡した後で、今のトゥーリが着られるものはない。
すなわち、今のトゥーリがいる場所は。
(助けて、お姉ちゃん……
脱衣所に、着替えもなく。あるのは着方もわからない、体に合わない謎の衣服のみ。
思わず涙目になって、今はここにいない双子の姉にトゥーリは助けを求めてしまった。

◇◇◇

時の針を少し巻き戻そう。
ヴィエラ族の冒険者であるトゥーリは、同胞の年若い青年ーーエレルトと共に東方へと足を向けていた。それ自体はエレルトの思いつきのような気遣いのような提案からであり、行く当てが特になかったトゥーリは無邪気な若者の申し出を二つ返事で引き受けた。
光の戦士と呼ばれる英雄のおかげで、かねてより難所と謳われていた海域もずっと安全になったという船員の言葉通り、トゥーリたちは大きな障害に出くわすこともなく、すんなりと目的地ーー東方唯一の玄関である街『クガネ』にたどり着いた。
冒険者の常として、二人は冒険者に仕事を斡旋している場所、いわゆる冒険者ギルドに赴いて掲示されている幾つかの依頼を確認した。続けて交通手段の確認やら必要な資材の買い出しやらをした後で、行きの船で仲良くなった船員に教えてもらった宿にたどり着いた。
「おお……おおぉ! なんだこれ!」
部屋に案内されたエレルトの第一声は、まずこの歓声だった。
「エレルト、そんなに大きな声を出すものではないわ。でも……確かに全く見たことのない内装ね」
「西方から来られた方は、そうやって皆さん驚かれるのですよ」
案内を担当していた宿の従業員は、部屋につくや否や、目を輝かせるエレルトを微笑ましいものを眺めるかのように見つめていた。
草を織ってできた絨毯のような敷物に、横に広いのに高さは随分と低い、風変わりな形の机。おまけに、紙でできているように見えた仕切りは、従業員が横に引くとーーなんと前に開くのではなく横に開いたのだーー奥には布団や衣服が置かれた空間があった。
早速部屋の探検を始めそうなエレルトを座らせながらも、トゥーリは好奇心で胸が疼くのを抑えられなかった。
宿の従業員から施設に付属する設備の説明や、食事の手配についての説明を受けた後、
「天海楼には及びませんが、当宿も大浴場を完備しております。昼にご利用の場合は特段の申し出は不要ですが、夜遅くのご利用の場合は、受付に一言お声掛けをお願いしております。着替えが必要でしたら、受付にお申し付けください」
足を折りたたむ器用な座り方をしていた従業員は、滑るように体をずらし、部屋の奥にあった戸ーーこちらはガラスを使った木戸だったが、これまた横に開いたーーを開き部屋と庭を仕切る仕切りを開いた。
「お庭にはこちらから出ることもできますので、よろしければ散策をお楽しみくださいませ。お部屋には、東方の様式について記載した資料も用意しております。こちらも、よろしければご利用ください」
従業員はその後もいくつか説明をすると、これまた滑るような足取りで部屋を後にした。
従業員がいなくなると、エレルトは机の上に載せられていた紙束ーー先ほどの説明にあった資料と思しきものを広げ、
「なあ、トゥーリ。これ、何て読むんだ? たしか、ふ、フス……?」
「え? あ、ああ……フスマ、かしら。不思議な発音ね。紙でできた扉のことですって」
そこには、西方地域ーーエオルゼアでも使われている文字が横に並び、トゥーリたちには見慣れない家具やら建具やらの説明が書かれていた。縦に綴られた見慣れない文字は、東方地域の文字だろうか。
「あれ、フスマっていうのか! じゃあ、この机は?」
「ちゃぶだい、かしら。座って使うテーブルのようね。ラザハンでもたまに似たようなものを見かけたわ。少し値段の張るお料理を出すお店では、そういうものがあったの」
「ふーん? 前から思ってたけど、飯を食うのにどうして台がいるんだろうな」
エレルトは、つい最近までは故郷の森の中で、里を守る護人として生きてきたヴィエラ族だ。ヴィエラ族は伝統を重んじる生活を良しとしている。すなわち、机や椅子といった『無くても生活できる家財』がない里も多い。エレルトの生活にも、どうやらそれらの家具は存在しなかったようだ。
もっとも、今のトゥーリは文化の差よりも、他に気になっていることがあった。
「エレルト。ちょっと、聞きたいのだけれど」
「ん?」
聞きたいのだけれど、と言いながらもトゥーリはなかなか肝心の質問をしなかった。どうしたのかと、エレルトが彼女の様子を伺っていると、ようやくトゥーリは虫が囁くような声で言った。
……私たち、もしかしたら臭っているんじゃないかしら」
「へ?」
褐色の肌をかすかに赤く染めて、トゥーリは自分の腕に鼻を近づけ、すんすんと嗅いでいる。エレルトの感覚では、特段悪臭は覚えていないが、トゥーリは珍しく眉尻を下げて弱った顔をしていた。
「あの従業員さん、水浴び場の説明をたくさんしていたでしょう。宿に来てすぐに水浴び場の説明をするなんて、普通はほとんどないじゃない」
「ああ……。確かに、言われてみればそうだよな。おれたちの方から聞いて、教えてもらうことが多かったっけ」
「そうでしょう? 宿に到着してすぐに教えてもらうときって、大抵私たちがひどく汚れているときだったわ」
たとえば、大雨に降られて泥水まみれになっていたときなどは、宿に到着早々、こちらから切り出す前に水浴び場を教えてもらうことはある。今回も同様の事例ではないかと、トゥーリは焦っていた。
彼女の主観では、自分たちは船旅の後ではあるが分かりやすく汚れているわけではない。ならば、考えられるとしたら、体臭がひどく臭っていたという場合だ。臭いというものは厄介なもので、悪臭を放っている本人は気付かないことが殆どなのである。
知らず知らず、自分が悪臭を振り撒いていたのでは、と思うとトゥーリは顔を赤くしたり青くしたりしていた。
「でも、店に行ったときは何も言われなかったけどなー」
「お店の人は冒険者に慣れているから、何も言わなかっただけかもしれないわ」
「じゃあ、気になるなら、水浴びしてくるか。ほら、夜じゃないなら使い放題って言ってたし!」
使い放題とは言ってなかったが、日が高いうちならば従業員に余計な手間を取らせなくていいという話だった。昼に水浴びをする者も少なかろう。ならば、悪臭でこれ以上恥をかくこともあるまい。
「ええ。ついでに、服の洗濯もお願いしておきましょう。船の上で、すっかり潮風に塗れてしまったでしょうし」
トゥーリはもう一度、悲しげな顔になって自分の腕に鼻を近づける。幸か不幸か、トゥーリの鼻はそこから如何なる異常な臭いも感じ取ってくれなかった。

***

かくして、トゥーリは受付から着替えを貸してもらい、大浴場に足を向けたのだった。
浴場に入ってすぐ、トゥーリは目の前の光景に呆気に取られてしまった。
まず彼女を圧倒したのは、視界を覆う湯気ーーすなわち、浴槽を満たす大量のお湯の存在だ。見るからに水温の高そうな液体に満たされた浴槽を前に、トゥーリは一度たじろいでしまった。
(どうして、わざわざ水を熱するのかしら……?)
だが、疑問はそこでは終わらない。浴槽の中には、何人もの人々が肩まで湯に浸かり、のんびりと談笑していた。
気温が高い地方では、水浴びついでに泳ぐこともあるが、クガネの気候は穏やかであり、わざわざ湯の中に長逗留する理由がトゥーリにはわからない。一糸纏わぬ姿で老いも若きも問わず、湯の中に浸かっているのは、トゥーリの目からは、かなり奇妙なものに思えた。
とはいえ、いつまでも突っ立っているわけにはいかない。東方の水浴びもとい湯浴びの作法はさっぱりだったので、トゥーリはたまたま同じタイミングに入ってきたララフェル族の旅行客の真似をすることにした。
(なるほど。先に体を湯で清めてから、他の方が入っている沐浴の場所に移動するのね)
手順を確認してから、トゥーリは受付で借りた桶を使って、汲み取り用の湯がはってある場所の湯を中に入れる。体を洗う場所はトゥーリの常識から考えると、かなり広く取られており、一人一人が小さな椅子を使って腰を下ろし、ゆっくりと体を清められるようになっていた。ところによっては、水桶しか置かれていないような水浴び場もある宿も存在するのだから、これはかなり至れり尽くせりである。
これまた受付で貸してもらった洗髪用の錬金薬を使うと、面白いほどに髪が泡立ち、トゥーリはしばし弾ける泡の感触と真っ白の彩りを楽しんだ。桶に入っているお湯を何度か変えながら髪の毛を洗い流した後は、貸してもらった石鹸でざっと体を洗う。
ここまで洗えば、間違いなく体の臭いは消え失せていることだろう。これで用事は済んだと、トゥーリが泡を流して脱衣所に戻ろうとしたときだった。
「ちょっと、そこのお嬢さん! 体だけ洗って浸かっていかないつもりかい? そんなんじゃ、すぐに体が冷えちまうよ」
「えっ」
「若いんだから、体冷やしちゃだめだよ。ほらほら」
浴槽で団欒に興じていた、顔に皺を浮かべた老女たちが笑顔でトゥーリに手招きをしている。彼女たちの申し出を断ることもできず、トゥーリはおずおずと浴槽へと近づいた。
「あの、私は」
「長い耳だねえ。見慣れない種族だけれど、西から来た旅行客かい?」
「あ、はい。そうです。今日、ここに来たばかりで」
「それなら細かいことは気にする必要ないさ。ほら、ここに入った入った」
老女たちに促されるままに、トゥーリはおずおずと浴槽に足をつける。
(大丈夫かしら……
湯気が出るほど熱い湯に体を長時間浸した経験が、トゥーリにはない。故に、先ほどは警戒の意味もあって、さっさと外に出ようとしたのだ。
老女たちが納得してくれたらすぐに出ようと、トゥーリは意を決して湯に体を浸し、
……!」
最初、全身が感じた熱に、トゥーリは飛び上がりそうになった。それほどまでに、湯の温度は想像よりも高かった。
だが、直に体が湯の温度に慣れていく。そうすると、程よく体の凝りがほぐれ、こわばっていた部分にまで熱が届くような心地よさが彼女を満たしていった。
「不思議……。こんな熱いお湯の中にいた経験はないはずなのに、何だかとても落ち着くわ」
「そうだろう、そうだろう。クガネまで来て、風呂に入らずに帰るなんて、私の目が黒いうちは許さないからね」
老女の茶目っ気混じりのウインクを受け取り、トゥーリは小さく頷き返す。実際、この心地よさを味わわずに部屋に戻るのは、知った後となっでは勿体無いと感じてしまう。
老女たちはトゥーリが風呂を堪能している間、余計な言葉は挟まないでいてくれた。おかげで、トゥーリは初めての入浴体験を静かにじっくりと味わうことができた。
最初は熱くて耐えられないと思ったお湯も、五分もすれば丁度よい温度に思えてくる。少し体が熱くなりすぎたと思ったら、水深が浅い部分に移動して体を外気に当てて冷ますといいと教えられた。実際、その通りにすると、程よい涼感がトゥーリの全身を包んでくれた。
そうして、思った以上に長く風呂を楽しんだ後。トゥーリは、名残惜しくも風呂に別れを告げて、脱衣所に到着してーー。
人生最大の窮地に立たされていたのだった。

「この服、私の体にサイズが全く合っていないわ。それに、ボタンもなければ、前を留めるための紐もない……
トゥーリが持っている衣服は羽織ものの形状をしていたが、このようなボタンにない服にありがちな、衣服に縫い込まれた付属の紐は見あたらない。一緒に渡された長い紐状の布があるが、まさかこれで羽織を留めるのだろうかとトゥーリは首を傾げる。
その紐もあまりに長く、トゥーリの胴を二周させてもなおあまりある。どうしたものかと、トゥーリが生まれたままの姿で途方に暮れていると、
「おや、あんた。そんな素っぱだかのままでどうしたんだい」
先ほど、トゥーリを浴槽に誘ってくれた老女たちが脱衣所に姿を見せていた。湯気でよく見えなかったが、彼女たちの半分はアウラ族だったようだ。鱗の生えた白い尾をゆるやかに振りつつ、彼女らはトゥーリの持っている服に目をやっている。
「あの。これ、私には大きすぎるみたいなの。このままでは、裾を引きずってしまうわ」
「あら、そう? ちょっと見せてごらんなさい」
「ほら、お嬢ちゃんはこっちに立って」
素肌に先ほどの羽織ものを軽く纏っただけの老女たちは、トゥーリを脱衣所にあった大きな姿見の前に引っ張っていく。
ヒューラン族の老女は、トゥーリが持っていた羽織を手にとると、早速トゥーリに合わせ始めた。だが、トゥーリが危惧していたように、その裾はかなり床に余って落ちている。
「裄(ゆき)は足りてるね。丈も十分だし、ちょっと折ればなんとかなるだろうさ。ただ、これ、男物じゃないかい?」
「え、男性用なんですか」
男性用だとしたら、よほど背が高い種族向けだろう。トゥーリは、自身の背丈が並の種族の男性より背が高いと自負していた。その自分が着られないとなると、いったいどれほど大きな種族がこの宿を使うのだろうか。
「おおかた、あんたが随分と背が高くていい女だったから、合う浴衣がなくて男物を出してきたんだろうさ。西方からの客も多いし、今度、うちも背の高い女性用の浴衣を売りに出すかねえ」
「おや、商売の話かい? じゃあ、あたしは大きな着物の仕立てに使える反物を用意しようかね」
「あの、これ、私の着丈に合うものに変えてもらえるように、受付の方にお願いしてきてもらえますか」
トゥーリが勇気を振り絞って依頼を口にすると、なぜか老女はきょとんとした顔でトゥーリを見つめている。
何かおかしなことを言ったかと、トゥーリは自分が羽織らせてもらっている衣服に視線を落とし、口早に状況を説明する。
「これ、丈が合っていなくて、床に裾がついてしまっているの。このままでは歩いただけで裾が汚れてしまうわ。それに、前を閉じる紐もなくて」
「ああ、心配しないでいいよ、西方から来たお嬢さん。こいつはね、こうやって着るものなのさ」
そう言うと、老女たちはてきぱきとトゥーリに羽織ものを着せつけていく。
裾が余っていると思った羽織を折りたたむようにして裾の高さを整える。次に、裾の高さが決まったと思いきや、長すぎると思っていた用途不明であった布をしっかりと腰に巻きつけていく。トゥーリでは持て余すばかりだった布は、何重も腰に巻かれた上で、トゥーリの見覚えのない結び方で結ばれた。すると、それは想像以上にしっかりと、裾を折った羽織ものを固定してくれた。
「ほら、これで大丈夫さ。脱ぐときは帯ーーこの布の結び目を解けばいいんだよ」
老女にぱんぱんと背中を叩かれて、あらためてトゥーリは姿見に映る自分に視線をやる。そこには、見慣れない藍色の羽織ものーーもとい浴衣に身を包んだ自分がいた。白に染め抜かれた草花の模様はトゥーリが見慣れない写実的かつ繊細なものだ。
一見するとただの羽織ものに見えたそれは、前を合わせた状態で藤色の帯がしっかりと固定している。後ろを振り向くと、帯は蝶リボンのような結び方をされていた。
「すごい……。この服は、こんなふうに着るのね。全く想像もできなかったわ」
「そうだろうねえ。慣れないうちは、何度も部屋で練習するといいさ。着付けの方法なら、この宿なら部屋に置いてあるはずだよ」
「ありがとう。探してみるわ」
トゥーリは西方風に一度礼をして、さっそく部屋に戻って資料を探そうと決意の拳を握りーーそのまま固まった。
「エレルト。ちゃんと、着替えができてるかしら……。もしかして、裸のまま外に出てきていないわよね……?」
トゥーリ以上に外の世界に慣れていない青年が、この複雑怪奇な衣装を着られるとは思えない。素っ裸のまま外に出てきて、受付の女性に悲鳴をあげさせていないかと、トゥーリの顔は再び真っ青になった。

***

自分の連れに全裸で彷徨かれていると危惧される、その少し前。当の本人のエレルトは、トゥーリ同様、浴槽の片隅で足を伸ばしていた。
「水浴びじゃなくて、こっちの人は湯浴びをするんだなあ」
しみじみとそんな感想を呟きながら、エレルトは自分が腰を下ろしている浴槽の反対側でくつろいでいる他の利用客たちに目をやった。
ほとんどが老齢の人物ばかりだったが、その中に一人だけ、見た目はエレルトと同年代に見える薄藤色の髪をした青年がいる。彼は、風呂に入って早々、身を清める前に浴槽に入ろうとしたエレルトに、
「風呂に入るなら、先に体を洗ってもらえませんか」
と、注意をした人物でもある。言葉こそ丁寧だったが、彼の言葉には棘がはっきりと滲んでおり、エレルトは自分がどうやら東方における無作法を働いたらしいと知ったのだった。
「水場の扱い方は、里の人同士でも流儀が違ってたもんなあ。こっちでは、陸で体を洗うのが先ってことか」
ヴィエラ族の里でも、やれ先に体を洗えだの、さっさと水の中に入ってひまてまの、瞬きを十度する間に片づけろだの、各々でやり方が異なっていた。この地でも、同じようにこの地ならではの流儀があるのだろう。
……トゥーリもいないし、他に何か間違いをしてないといいんだけど)
注意をしてくれるならまだ良い方で、知らぬ間に恥をかいていたら目も当てられない。
最悪の場合、そうとは知らずに禁忌に触れてしまっていて、命を代償にしろと迫られる可能性だってある。エレルトも、禁足地に足を踏み入れたものは問答無用で命を奪っても構わない、と師匠から聞かされていた。
ならば、現地にいる人間に、この水場付近の礼儀だけでも聞きたいところではあるが。
……そうは言っても、周りにいるの、爺さんばっかなんだよなあ、これが」
体を縮めて、少しばかり顔を湯につけながら、エレルトは不服げに呟く。
年配の人間に話しかけるのが苦手なわけではない。エレルトは、どんな人間であろうと遠慮なく自分の意見を伝えるられる自信がある。ただし、その言葉遣いはどうやら『年配の人物向け』ではないらしいと、この数ヶ月の旅でエレルトは痛感していた。
『お前、外に行くなら絶対自分より年配に見える人間に、自分から声をかけるなよ。特に、森で育った護人には絶対にな』
それが、エレルトの師匠であるダン・ディト=セトラスからのエレルトへの忠言だった。初対面の老爺に声をかけるという行為は確実に師匠の忠告を無視することになる。
思考の末、出た結論は一つ。
「さっき注意してくれた縁もあるし、ついでだからあの人に聞くか」
エレルトはざぶんと湯から立ち上がると、浴槽のお湯をかき分けるようにして、とある人物の隣に腰を下ろす。誰あろう、先だってエレルトの無作法を咎めてくれたミッドランダーの青年だ。
「あのさ。ちょっと聞きたいんだけど」
気軽な調子で声をかけると、幸いなことに、青年はこちらを一瞥してくれた。無視されるという最悪の結末には至らなかったので、ひとまず安堵した後、
「この場所で気をつけなきゃいけないこととかあるなら、教えてくれないか? 先に知っておいた方がいいかと思ってさ。おれ、この街に来たの、今日が初めてで、分かんないことばかりでさ」
エレルトなりに事情を説明して、次は青年の反応を待つ。彼はふんと小さく鼻を鳴らすと、
……先ほども言いましたが、東方では湯に浸かる前に体を洗います。あなた方の慣習では、どうかは知りませんが」
「おれの里だと、さっさと洗ってさっさと出て行くって人が多かったなあ。祭りの時は、めちゃくちゃ長く浸かってたけど。それで、他には?」
「湯船の中で泳ぐがない。特に、今のように利用者が多い時は」
「あ、そっか。危ないもんな。水場なのに窮屈だけど、それも仕方ないか」
エレルトの感覚はどうやら青年のそれと異なっていたようで、奇妙な生き物を発見したかのような目つきで見られた。尤も、エレルトはその程度でめげるような繊細な性格はしていない。
「体を拭く布などは湯船に入れないこと。洗い場で走り回らないこと。……それくらいですかね、気をつけることは」
「ん、分かった。気をつける。それにしても、こんなに長く、灯りもあるのに日の高いうちからに湯に浸かるなんて、東の人はみんなこうなのか?」
森を出てから、エレルトも水浴びの機会は何度か得ていた。だが、それは井戸や近場の川で手軽に済ませるものだ。泳いで魚を獲るわけでもないのに、長らく水の中に浸かっているのはエレルトとしては時間の浪費のように思えてしまう。
すると、二人の会話を聞いていたのか、雑談をしていた老爺の一人がエレルトの方を向き、
「そりゃあ、湯に入るのは気持ちいいからなあ」
「体を温めるのは、血の巡りを良くするっていうからのう。それに、ほれ。この湯にもそれなりに薬効があるっちゅう噂があってなあ」
「薬効……飲んだら効果があるってことか?」
錬金薬のようなものかと思いきや、老爺はカラカラと笑いつつ首を横に振る。
「浸かってるだけで効果があるってもんだよ。肩こり、頭痛、手足の痺れ……あとは古傷が痛む時もよく効くって話だったかなあ」
「へー。傷跡にも効くのか」
エレルトは、自分の体のあちこちに残る傷跡に視線をやる。あいにく、急激に癒えるようなことはなかったが、心なしか、引きつれた感覚が弱まったような気もする。
そのまま、老爺たちが己の武勇伝に話を咲かせ始めた頃合いを見計らったかのように、エレルトが話しかけていた薄藤色の髪の青年が湯から立ち上がった。
彼がエレルトに背を向け、浴槽から出ようとした。その矢先、
「何だ、そっちの若えのは随分と背中に傷があるな。背中の傷は武士の恥だぞお」
「最近は、気骨のある若者が減ってきておるからのう。わしらの若いたきは、ほれ、稽古をつけても背ぇ向けて逃げるやつなどおらなんだのに」
何気ない老爺の野次に、一瞬青年の動きが止まる。だが、彼はすぐに何事もなかったかのように、洗い場に足をつけ、出入り口へと向かっていく。
「東じゃ、背中の傷って恥って言われてんのか?」
「おうともさ、兎の若えの。背中に傷が残るってことは、負けて逃げるときにつくってことだからな」
老爺がうむうむと頷くのを聞いて、しかしエレルトは首を傾げていた。
「おれの所じゃ、背中の傷は誉れって言われてたな。だってほら、先に女とか子供を逃して自分が一番後ろにいたら、どうしても背中に傷がつくじゃんか」
少し頭が痛くなってきたので、浴槽から体を引き出しながら、エレルトは森に残った師匠の言葉を辿る。
「だから、背中に傷がついてる奴は、誰かを守るために最後まで残ってたやつだって言われてるんだよ」
でも、こっちじゃ違うんだな、とエレルトは老爺たちに頷いてみせてから、洗い場に足をつける。着地と共にいつものように勢いよく走りかけて、先ほどの青年の忠告を思い出し、どうにか足を前に出す速度を緩めた。
出入り口から脱衣所に戻ると、冷えた外気が火照った体を包んで何とも気持ちいい。このまま駆け出したいところではあるが、流石に全裸で外に飛び出すほどエレルトも恥しらずではない。なお、トゥーリと出会った直後に一度やらかして、こっぴどく叱られたのは流石にまだ覚えている。
「えっと、着替え、着替えっと……
受付から洗濯のために預けた衣服の代わりにもらった着替えを取り出し、袖を通す。そこでエレルトは一度首を傾げた。
「これ、前を留めるものがないぞ」
前が開けっぴろげにならないように布を引っ張って閉じてみようにも、紐もボタンもないのであっという間に前面が開いてしまう。かといって反対側から袖を通せば背中が丸見えになる。
どうしたものかとエレルトが首を捻っていると、
「それ、貸してください」
感情を極力殺したような声が、横から聞こえた。見れば、先ほど水場の使い方を教えてくれた薄藤色の髪の青年がエレルトの隣で、彼をじろりと見つめていた。彼はすでに着替えを終え、冷めた目線をエレルトに向けている。
「ん、いいよ。何か使いたいのか?」
「俺が使うんじゃありません。見ていられないんですよ、そのみっともない着方が」
「あ、やっぱり着方、間違ってる?」
「間違ってますよ、どこをどう見ても。帯も締めずに、一体どこに行くつもりですか。捕まりたいんですか、露出狂として」
言葉を入れ替えるような独特の話し方で言葉をぶつけながら、青年はエレルトの羽織ものに帯と呼ぶ布を巻き付けていく。緩みや弛みのないように布を伸ばしてから、帯を強く締める手際に迷いはない。あまりにキツく締められたせいで、内臓が出そうになった気もするが、今はぐっと堪える。
一通りの着付けを終えて、最後に帯の周りに撓んでいた布を伸ばすと、ようやく青年はエレルトの側から離れた。
「へー! こんな風に着るのか。なあ、さっきのやつ、どうやったんだ?」
「練習すればできますよ。意味はないですけれどね、自分でやらなければ」
「それもそっか。そういえば、おまえ、面白い話し方するな。それも東方風なのか?」
…………
不躾がすぎたかとエレルトが内心で冷や汗をかいていると、青年は着替えの入った籠を片手に廊下に続く戸に手をかけた。このまま無視されるかと思いきや、
……商人がいたんですよ。こういう、風変わりな話し方をする商人が。うつったんです、小さい時から一緒にいたので」
「へえ。面白いな、そんな商人が東にはいるのか」
そのまま出て行こうとする青年を、エレルトは慌てて受付から借りた道具を片手に追いかける。
「なあ、おまえ、名前なんていうんだ? おれは、エレルトっていうんだ」
旅先で知り合いを得ることは、よくあることだ。これも何かの縁だと、青年の後を追いかけて名乗ったものの、彼はエレルトを一瞥して、
「名乗るような名前はありません。それよりも、先ほどのようにみっともない真似を他でもしないでくださいね」
しっかりとエレルトに釘を刺してから、彼はすたすたと廊下の奥へと消えてしまった。着慣れない浴衣に足を取られてエレルトがもたついている間に、その後ろ姿はどんどんと見えなくなっていく。
「エレルト!」
代わりに、聞き慣れた涼やかな女性の声に、エレルトは垂れた長耳をそちらへと向けた。
「トゥーリ! どうしたんだ、そんな慌てた様子で」
「あなたが、何かとんでもないことをしてないかって、心配して……。でも、すごいわエレルト。あなた、その服が一人で着られたのね」
「いや、違うよ。手伝ってくれた奴がいたんだけど……
エレルトが廊下の向こうを見やっても、もうあの青年の影は見えない。同じ宿に泊まっていたならば、また会うこともあるだろうか。
「とりあえず、まずは部屋に戻って少し休みましょう。その間に、私はこの伝統衣装の着方をマスターするわ」
「へえ、トゥーリはこれ、気に入ったのか? なんか、足のあたりがすーすーして、おれはちょっと慣れないんだけどなあ」
「同席していたお婆様から教えてもらったのだけれど、こういうのは郷に入っては郷に従えと言うそうよ。その土地に来たのなら、土地の慣わしに従わないと」
自分の故郷の慣わしすら、度々しくじっている自分にそのような器用な真似はできるだろうかと、エレルトは一瞬遠い目になる。
だが、気を取り直し、トゥーリの後を追って彼は廊下を歩き始めた。
嗅ぎ慣れない不思議な木材の香りに、これまた異国情緒を思わせる香の匂い。それらを満喫しつつ、自室にたどり着いたエレルトは、早速覚えた異国の戸ーー『フスマ』を開いたのだった。