溶けかけ。
2024-10-10 20:51:17
5789文字
Public ほぼ日刊
 

夢喰いハクリュウ

悪夢を見るフリーナと悪夢を食べるヌヴィレットのお話。

 フリーナは走っていた。後ろから追いかけてくるのは衆の水。足が縺れて転んだフリーナの体に水がまとわりつく。 水は数多の人の姿に形を変えるとフリーナを水底へと引きずり込んだ。

「ねえ、フリーナ様。なんであの時助けてくれなかったの?」

 フリーナは自身の悲鳴で目を覚ました。
 粗い呼吸を整えていると、ダン! と大きな音がして部屋の壁が叩かれた。 

「ご、ごめんなさい……

 隣人が壁越しにも分かるほど大きな舌打ちをした。もはや慣れたやりとりにフリーナは詰めていた息をそっと吐き出した。
 フリーナは悪夢を見ている。――もう何ヶ月もその状態が続いていた。



「君は、十分な睡眠を確保しているのか?」

 エピクレシス歌劇場の使用許可を取るための書類から目を離さずにヌヴィレットがフリーナに問いかけた。彼は手慣れた様子でパラパラと書類の束を捲る。やがて、確認作業が終わったのかゆっくりと顔を上げた。鮮やかな朝焼けがフリーナを射抜く。

「して、どうなのかね?」

 さて、どう答えたものか、とフリーナは頭を巡らせる。目の下の隈、悪夢――懸念事項は多岐に渡るが、どれもヌヴィレットに話すほどのことでもない気がして口を噤んだ。

「君の部屋の灯りが遅くまで点いていることは知っている……私の思い違いであるのなら、そう言ってくれて構わない。君が照明を点けたまま寝るような人種であるのならね」

 ヌヴィレットは机からは朱肉を取り出すと判子を手に、ぺたん、ぺたん、と判を押していく。どうやら、フリーナの用意した書類に不備はなかったようだ。

……実は、海灯祭の後からホラー系の映影の依頼が増えてしまってね。ほら、僕って怖いのが苦手だろ? 照明を点けたままじゃないと眠れなくなってしまってね」

 ヌヴィレットはじっとフリーナを見つめた。
 これはある種の賭けだった。先ほどのフリーナの言葉は半分嘘で半分本当だ。これからフリーナは半分の嘘を本当にするために演じなければならない。共感性の強い水の龍王を出し抜くために「ホラーを見て眠れないフリーナ」を作り上げ、自身もその役に頭の先からつま先まで浸かるのだ。

「まったく……勘弁して欲しいよ。いっそ、怖いから出来ないと断ってしまおうか、なんて思う時もあるんだ」

 即興にしては我ながらなかなかの出来なのではないだろうか、とフリーナは自画自賛した。彼は僅かに目を細めたあと、「そうか」と一言呟くと興味をなくしたように手元の書類に目を落とした。勝利の神はフリーナに微笑んだのだった。



「辛いだろう……苦しいだろう……君たちを不幸にしたのは紛れもなく僕だ……

 フリーナの周りの純水精霊たちが怨嗟の声を上げる。彼女はそれを静かに聞いていた。純水精霊がフリーナに襲いかかる。一人、また一人とフリーナにのしかかり、彼女はずぶずぶと水の中へと落ちていく。

 どうせ、醒めれば何も残らないんだ。

 フリーナはしっかりと純水精霊を見据えた。純水精霊の群れの隙間から真っ青な空が見えて、何となく手を伸ばす。

 ぱきん、ぱきん……

――――……え?」

 空が――割れた。そう、表現するしかない状況にフリーナは困惑する。空の裂け目の向こうは真っ暗な世界で、そこから一匹の白い龍が勢いよく水の中へと飛び込んだ。

 にげろ! にげろ!

 純水精霊たちが蜘蛛の子を散らすように水の中を逃げ惑う。龍はそんな純水精霊たちを追いかけ回し、一人残らず喰らい尽くすと偽りの空と海に齧り付いた。

「や、止めるんだ!」

 やっとのことで理解が追いついたフリーナが龍の首元にしがみつく。龍はフリーナを物ともせずに悪夢を喰らっていく。

 もぐもぐ、むしゃむしゃ、ごくん。

 悪夢の破片を咀嚼しては嚥下を繰り返していた龍は一欠片も残さずに食べ尽くすとフリーナの顔に冷たい鼻先を押し当てた。

「うわっ……なんだい……?」

「くるる……

 円な瞳がフリーナを見つめる。その瞳はまるで褒めろと言わんばかりに爛々と輝いていた。
 その純粋無垢な瞳に龍への苦情を頭の中で考えていたフリーナの毒気が抜かれる。

「もしかして、僕を助けてくれたのかい?」

「きゅう……!」

 その通りだと龍が鳴いた。フリーナは少し考える素振りを見せた後、ゆっくりと龍の鼻先へと口づけた。

「きゅっ……!?」
 
……ありがとう、助けてくれて。こんなお礼しか出来なくてすまないね。――でも、もうこんな危ないことはしないでくれ。キミに万一のことがあってはいけないからね」

 龍の鼻先を撫でながら、フリーナは考える。
 テイワットはその土地の性質上、龍に関する伝承が数多く残っているが、数百年間生きてきて夢を食べる龍の話は見たことも聞いたこともない。

「キミはどこから来たんだい?」

「きゅう、きゅう」

 龍は落ちてきた裂け目を鼻先で指し示した。

「キミ、何か隠してるんじゃないだろうね?」

 フリーナの追求に龍は首を傾げると、何を勘違いしたのか、フリーナに絡みついた。つるつるの白い鱗は案外柔らかく、気を抜くとすぐに取れてしまいそうなほどだ。

「ぐるる……

 龍はフリーナを中心に渦を作ると尻尾の先でぽんぽんと細い体を軽く叩いた。一定のリズムで叩かれて、フリーナの目蓋が重みを増していく。

「待って……僕、まだ話したいこと、が……

「きゅう……きゅきゅ……

 龍の鳴き声が歌うかのように低音と高音を行き来する。フリーナは龍に見守られながらゆっくりと眠りについた。


「朝……

 どうやら、夢の世界での眠りは現実世界での覚醒に繋がっていたらしい。フリーナはのそりと体を起こす。鳥の囀りが窓の向こうから聞こえ、穏やかな陽光が部屋の中へと入り込む。
 フリーナが大きく伸びをした。久々の良眠だった。



 その日以来、龍は度々フリーナの夢の中に現れた。龍は悪夢に溺れるフリーナを掬い上げ、あるいは助け出すと、フリーナと戯れて帰っていく――そんな交流が数ヶ月続いたある日のこと。

「ぐるるる……っ!」

 龍はいつも通り、夢の世界にやってくると悪夢に溺れていたフリーナを掬い上げ悪夢を食べ始めた。全ての悪夢を平らげた龍は、しかし、突如として苦しみ始めた。何処かが痛むのか、長い体を捩らせながら呻く龍にフリーナが駆け寄った。

「ヌヴィレット……!」

「きゅういっ……!?」

 龍が朝焼け色の小さな瞳を大きく見開いた。やっぱり、彼はヌヴィレットだったのだ。

「痛むのかい!? 誰か連れて来るから、待っててくれ!」

 フリーナら宛もなく駆け出した。

(考えろ……! 考えるんだ、フリーナ。どうやったら現実世界に帰れるのかを……
 ここはフリーナの夢の中。ならば、空だって飛べるはず。

「届け……!」

 大きく跳躍して、自分が空を飛ぶ姿を想像する。途端にフリーナの背には翼が生えた。これならば、とフリーナは精一杯に翼をはためかせてヌヴィレットが開けた穴へと飛び込んだ。

 フリーナが飛び起きる。どうやら、目論見通り現実世界への帰還を果たしたようだ。

「ヌヴィレット……!」

 息つく間もなく、フリーナは裸足のまま、鍵もかけずに飛び出した。目的地はメロピデ要塞――ヌヴィレットがフォンテーヌで最も信用する医師がいるところだ。
 夜のフォンテーヌをフリーナが駆け抜ける。恥も外聞もかなぐり捨てて、フリーナは医務室の扉を叩いた。

「シグウィンはいるかい!?」

 ベッドで横になっていた囚人、今まさに治療中の看守、皆が一様にフリーナを凝視した。ばたばたとフリーナの後ろから忙しない足音が複数追いかけてきて、同じように医務室の前で停止した。

「シグウィンさん、ご無事ですか!? こちらに賊が向かったとの情報が……――フリーナ様!?」

 真夜中の侵入者を捕らえようと看守たちが医務室に集まった。経験豊富な看守たちもまさか、元水神が夜中にやってくるなんて思っていなかったのか、フリーナを見て瞠目した。

「皆、落ち着いて、今お茶を淹れたのよ」

 混乱した状況の中、唯一シグウィンだけが冷静だった。



「フリーナさん、傷口を治療するからそこに座ってくれる?」

「そんなことはいいからヌヴィレットを……!」

「ここは俺の庭だ。幾らフリーナ様とはいえ、勝手はやめてもらおうか」

 苛立つフリーナを咎める声が飛んでくる。入口へと視線を向ければ公爵――リオセスリが立っていた。

医務室ここじゃ看護師長の命が最優先なんでね。従わないのなら出ていってもらう」

 それでは、ヌヴィレットを助けられない……! フリーナは歯噛みをするとシグウィンの言う通りに腰掛けた。

「酷い怪我……少し染みると思うけど我慢してね」

「そんなの別に……っ、!」

 フリーナの足は鋭利なものでも踏んだのか深い切り傷が真っ直ぐと刻まれ、少なくない量の血が流れていた。シグウィンがフリーナの足に水を掛ける。たったそれだけなのに足は燃えるような痛みを訴えた。
 フリーナは持ち前の演技力で痛くないかのように平静を装う。そうでもしないと叫び出してしまいそうだった。
 

「はい、治療はおしまい。暫くは安静にするのよ。それとお風呂上がりにこの薬を毎日塗ってね」

 シグウィンは素早く治療を終えると、フリーナに水を向けた。フリーナの話を聞いた二人は驚いていたようだったが、話が終わると即座に動き出した。

 数分後、往診道具の入った鞄を携えたシグウィンと足に包帯の巻かれたフリーナを両腕に抱えたリオセスリがフォンテーヌを疾風の如く駆け抜けていた。

「すごい……

 景色がびゅんびゅんと流れていくのをフリーナは自身の髪を押さえつけながら眺めていた。

「公爵は足が速いのよ」

「二人とも、喋ってると舌噛むぞ!」

 彼はあっという間にパレ・メルモニアへとたどり着くとフリーナとシグウィンを降ろした。フリーナが頼りない足取りで、それでも誰よりも早く扉にしがみつくと、執務室へと一直線に駆けていった。

「ヌヴィレット!」

 執務室には机に突っ伏して藻掻くヌヴィレットがいた。フリーナが悲鳴を上げて、ヌヴィレットの名を縋るように何度も呼んだ。後ろからシグウィンと公爵が追い付くと、シグウィンは慣れた手つきでヌヴィレットの診察を始める。リオセスリは気が抜けたようにぼんやりとへたり込んでいるフリーナを担ぐとソファへ下ろして出ていった。



「軽い消化不良ね。お薬を出しておくからしっかり飲むのよ」

 フリーナがヌヴィレットの方を勢いよく向けば、ヌヴィレットはフリーナの視線から逃れるように顔を背けた。
 二人の後ろではリオセスリが慣れた手つきでお茶を淹れていた。



「じゃあな、お二人さん」

「じゃあね、ヌヴィレットさん、フリーナさん。二人共、お大事に」

 リオセスリは挨拶を、シグウィンは小さく手を振ると踵を返して歩き出した。

「さて、君の足の包帯について申し開きはあるかね?」

 二人の姿が見えなくなった途端、ヌヴィレットはフリーナへと視線を移した。先ほどまでの和やかな空気は何処へやら、ヌヴィレットを中心とした周囲の気温が数度下がった気がして、フリーナは組んでいた腕を擦った。

「別に……大したことじゃないさ……

 フリーナは露骨に視線を彷徨わせた。ヌヴィレットの眉間に皺が寄る。

「大したことじゃないというのなら、私にも話せるのでは?」

 フリーナが黙り込む。まさか、家の鍵すらかけていないなんて言ったら、彼の眉間の皺が更に深まってしまう。
 言い訳を頭の中で考えていたフリーナの体がふわりと持ち上がった。

「なっ……!? 離せよ!」

 ヌヴィレットがフリーナを横抱きにして足に触れた。

――いっ…………

「痩せ我慢などせず、さっさと話せばいいものを。これはメロピデ要塞に行くときに?」

 フリーナは観念して頷く。ヌヴィレットがフリーナの足を労るように撫でた。今度は痛みを感じないほど弱い力で。

…………キミだって……! キミだって……僕、ヌヴィレットが死んでしまうんじゃないかって……怖かった……

 消え入りそうな声でフリーナが言った。ヌヴィレットはフリーナを抱き寄せて、青みがかった銀髪を撫でた。

「すまない……君に怪我をさせるつもりはなかったのだ……

「もう金輪際、僕の悪夢を食べようなんてしないでくれ……

 フリーナが鼻をすんすんと鳴らす。僅かに赤みがさす目元には薄っすらと涙が滲む。

「それは……悪いが出来かねる」

 ヌヴィレットは考える。もし、またフリーナが悪夢に魘される夜があるのなら――ヌヴィレットは何度でも同じ選択をするだろう。

「キミなぁ!」

「ゴホンッ……それより――君は何故、あの龍が私だと分かったのだ?」

 ヌヴィレットがあからさまに話題を変えた。フリーナは呆れながらも彼の質問に答える。

「なんだ、そんなこと?」

 自身の変装が完璧だと思っていたヌヴィレットは首を傾げた。ヌヴィレットの姿のまま夢の中に入り込めばフリーナは絶対に拒絶するだろう、と思いあの姿になることにした。フリーナは猫などの可愛らしいものが好きだと記憶していたので絶対に露見しないと思っていたのに。

 疑問符を浮かべるヌヴィレットにフリーナは笑いかけると首元に巻かれていたジャボに触れた。

「これ――外し忘れていただろう? それで、キミだとすぐに分かったんだ」

 ヌヴィレットの脳裏に雷が落ちる。彼は顎に手を当てると考え込むように腕を組んだ。

「なるほど……それは盲点だった……

 次からはジャボを取り外しておかねばならないな、と呟くヌヴィレットを見つめるフリーナ。

「なんて、それだけじゃないけどね」

「ほう? では何故?」

 フリーナは口の前で人差し指を立てるとたっぷりと間を開けてから照れくさそうに笑った。

……ひみつ!」