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まよこ
2024-10-10 18:04:34
2771文字
Public
神田
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海におぼれる
2800字程度。昭和初期の話
登場人物:神田
今から十年
……
二十年は昔のことだろうか。彼と出会ってからそれ程の年月が経っているはずだが、今でも、あの瞳が脳裏に焼き付いてはなれない。初めてその姿を見た時は、山の怪かそうでなければ悪霊の類かと思った。それほどに何処か冷たい印象をまとった少年だった。そう感じたのは第一印象だけで、話してみれば人懐っこくも生意気な子供らしい子供だったけれど。当時、田舎の村を渡り歩いて薬の行商をしていた私は、それほど真面目な働きぶりでもなく、暇をつくっては趣味の釣りに勤しんでいた。仕事道具を詰め込んだ行李を背負って歩く道中、常に良い釣り堀がないかと山道を入っていたものだ。そうして見つけたのが、とある田舎の村近辺にある山中の川だった。この辺りは冬場ともなれば深い雪に覆われてしまう。楽しめるのは夏のわずかな期間だけだ。
山奥の木々に囲まれてぽっかりとひらけたそこは適度に涼しく、風が葉を揺らす音と水が岩間から落ちてくる音が静かに響く。大小様々な岩に阻まれ、なだらかに水が流れてくる上流の様子はよく伺えない。川幅は広く、清んだ水の中を魚影が通り過ぎていく。人の気配もなく開放的な気分になって、濃い山の空気を大きく吸いこむ。伸びをした姿勢で上がった視線の先。川にせり出した岩場の上に、彼は座っていた。
十そこらの子どもだ。
肩にかかる程の黒い髪。何の光もはじかない真っ黒な瞳がじっとこちらを見ていた。片膝を立てて座る汚れた紺の薄い着物から、骨ばった足がのぞく。誰もいないと思っていたところにふいに現れたように居たものでたいそう驚き、盛大に声を上げる。きょとんとした間ののち、声をあげて笑う幼い声が聞こえた。
「なに? 怖いものでもみたのかよ?」
声を聴けば少年だと納得する。山奥で出会うにはどうにも不釣り合いに整った顔は、気安い言葉がなければ十分に”怖いもの”に見えただろう。色の白く不健康そうな子供は、深い色をした黒目がちな瞳を細める。
「おっさんも釣り?」
穴場だぜここ。思いがけず無邪気な笑顔で言われ、時折ここに訪れるようになった。
彼もいつでも居るわけではなかったが、大抵は岩の上で、細い竹に糸をつけ虫を括り付けただけの釣竿を片手に持ち、ぞんざいに糸を垂らしていた。捕れた魚はそのまま川に帰すか岩場に放り投げるばかりで、持ち帰っている様子はない。投げ捨てられた魚にすばやく駆け寄り貪る山の動物達を何が楽しいのか、よく笑顔でみつめていた。声をかければ、相応に応えてくれる。気分が乗っているらしい時は肌寒い話を聞かせ人の反応を楽しんでいるようだ。どこか厭世的で白けた態度は老成した大人と話している気分にさせられたが、子どもにありがちな残酷さや無邪気さが垣間みえるのを微笑ましくも思った。
そうした緩やかな交流が続いたある日のことだ。その日も岩場ですでに釣り糸を垂らしている彼に軽い挨拶をし、釣り道具の準備に取り掛かった。
ばしゃん。
なにか重いものが水中に落ちる音を聞いた。顔を上げると、岩場に居たはずの少年の姿がない。水面に波紋ができている。一瞬、水面に黒々と何か渦を巻いているように見えた。名前を呼ぼうにも、未だ聞いていなかったことに気がつく。
「おーい!」呼びかけた声は、ただ木々にこだまするだけ。
……
人をからかうのが好きな彼のことだ。今回も趣味の悪い冗談だろうと思えたが、ざわざわと皮膚を嫌な予感が伝う。飛び込んだ川の底に沈んでいく彼の姿があった。
着物の襟をつかみ、水を吸って重くなった身体を引き上げ河原に横たえ声をかける。
「おい!大丈夫か?」
じっとりと濡れた衣類は、皮膚に張り付いてその細い体の輪郭を際立たせる。血の巡っていない真っ白い頬に、濡れた髪がはりついていた。ゆるく開けられた両の瞼の隙間に、吸い込まれそうなほど暗い闇が揺らいでいた。
海だ。冷たく暗い底のみえない夜の海。
まつげについた水滴がぽたりと落ち海の表面を撫でる。まるで動く様子のないその冷たい身体を前に、さあと血の気が引いて、どくどくと鼓動が激しくなる。ずいぶんと呆然と眺めていた気がしたが、時間にしてみれば一瞬だったのだろう。そっと手を伸ばし、顔に張り付く髪をかきあげる。瞼の奥の深い色を覗きたくなって、両手で頬を包むように触れた。瞬間、びくりと肩を震わせ、げほげほと壮大に咳き込み水を吐き出した。
瞼がゆっくりと開く。茫洋とした黒い瞳は、川の水か涙で潤み珍しくぱちぱちと光をはじいた。あたりを確かめるようにゆるく見回し、端から水をこぼしなら口を動かす。
「
……
また
…
しんだのか
…
?」
また死んだ?混乱しているのだろうか。無理もない。ひとまず動き出したことに安堵して、目線が落ちる。億劫そうに立てた膝からするりと裾が落ちて、不健康に骨ばった膝小僧と肉の薄いももがのぞいている。肌触りのなめらかそうな脛が水滴を弾く。浅く整える息に合わせて胸が上下している。
「わりぃんだけど
…
火おこせねえ?」
冷てえ、と立ち上がり帯を解こうとする手を止めるように掴んだ。黒目がちの瞳が訝しげにこちらを伺うより早く、彼の右肩を押す。足場の悪い川原に平衡を崩し、その視線は私に辿り着く前に空を仰いだ。軽い身体を掴んだ帯ごと宙に浮かし、そのまま再び川の中へと押し込んだ。ごぼごぼと空気が水を泡立たる。見開かれるかと思ったその目は、一層細められた。暴れる足が腹を蹴り上げるのもかまわず、押さえる手に力を込める。細い腕に掴まれた腕に爪が食い込む。もとより肺にある空気は少なかったのだろう。喉の奥まで水で浸せば、何かをいいたげに動かす口からあふれる泡は止まる。細い体は力なく沈み、その瞳は薄く閉じられたままだ。冷たい水の中で、その深い海の底よりもなお暗い瞳をもっとよく見たかった。腰を押さえていた手を伸ばし、瞳を覆う瞼を撫であげる。
ふいに、左肘に強い衝撃がはしった。見れば尖った石が突きでている。外側から鋭い打撃で砕かれ力の入らなくなった腕の下から、押さえていた身体が居なくなった。続けて、こめかみに鋭い痛みが走る。熱いものが額に流れ落ちてくる。ばちゃ、と赤く濡れた石が浅瀬へ投げ落とされた。頭をおさえ見上げた先に、両手に抱えた岩を振り上げる少年がいた。
冷たい夜の空気で目が覚めた。誰もいない山中で、獲物の息の根が止まるのを待っていた動物達の目だけが不気味に光っている。あれから何度あの川に足を運ぼうと、彼がやってくることはなかった。いつも何処へ帰っていったのかも知らない。岩に阻まれた上流なのだろうか。この深い山の中なのだろうか。帰る場所はあったのだろうか。
あれから十年か、二十年。
幾度試そうと、あの冷たく暗い夜の海を再現できずに居る。
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