【カブミス】あなたの背をたどる

ミスルンのことを思って夢精してしまったカブルーと、そんなカブルーをいつものように訪ねてくるミスルンの話。

 ジリリリ、と、目覚まし時計が鳴った。
 その音に、俺はうめき声を上げながら、手をふらふらとゆらめかせスイッチを探す。でも寝起きの身体はうまく動かなくて、耳に障る音は鳴り続ける。ミスルンさんがくれたドワーフ細工の美しく、高価な時計だったけれど、眠い時はとても憎くなる。もう少し夢の中にいさせてくれって、そう思ってしまう。
 そうだ、そういえば夢を見ていたんだっけ、と、俺は時計の縁を指でたどりながら思い出す。確か俺は大切なことをしていたような気がする。俺というか、俺たち、ミスルンさんと俺は、何かすごく大切な話をしていて、そして答えを出さないまま、いつものようにベッドになだれ込んだのだった。
 夢の中で、俺はいやらしいことをしていた。ミスルンさんの背中をたどって、いやらしいことをしていた気がする。揺れている銀色に光るまつ毛、あなたの心に触れたいのに、触れられるのは身体だけだ。それってすごくもったいない気がする。あなたの心に触れたい、あなたの言葉を書き残したい。日記なんて、もうつけちゃいないけれど。
 そうこうするうちに意識が浮かび上がって、俺は下半身に違和感を覚える。ベッドの中でその正体を探っていると、俺ははっとして目覚めた。血がさぁっと下がる。目覚ましの音が鳴れば使用人がすぐにやってくるって言うのに、俺はなんてことだろう、夢精していた。あの人に会わない日が続きすぎて、そんなことをしていた。
「最悪だ……何歳だよもう……
 使用人が来る前に、自分で洗わなくちゃいけない。そう思い、俺はもうさほど眠くもない目を擦って、手早く着替え、浴室に向かった。
 
 
 朝のどたばたが終わって、俺はいつもより少し遅れて黄金城に与えられた一室、宰相補佐に与えられる執務室で仕事をしていた。
 しかし今日はどういうことか人の出入りが多く、いつものように気が休まる時間がなかった。それでも今や城の名物になっている美味い食事はとったし、ヤアドに従って各国の大使に顔を売ることができた。充分、悩むことのないほど充実していたように思う。それでも寂しく、何かが欠けているように思ってしまうのは、あの人が側にいないせいだろうけれども。
 ミスルンさんは、まだ迷宮に潜っているのだろうか? 探索終了の連絡が来ないってことはそういうことなんだけれども、俺はそれが極端に寂しくて、まるで運命に引き離されているような気すらして、ため息をついた。なんにしろ俺は極端な男なのである。ロマンチストと言い換えてもいいかもしれないけれど、ミスルンさんがいないと、何かが足りない気がして、そして仕事にもなかなか身が入らなかった。
 羊皮紙の束が置かれた机の上には、さっき侍女が入れてくれたハーブティーがある。爽やかなオレンジの香りのする、名前は忘れてしまったけれど今城内で流行っているそれ。俺は気を引き締めようと冷めてしまった液体を口に含み、また羽根ペンを持ち、インク壺をひっくり返さないよう気をつけてペン先をインクに浸した。
 今日は、忘れぬうちにヤアドと共に面会した、各国の大使の記録をつけねばならない。新興国のメリニにいちいちやって来てくれる大使は少ないから、大切にせねばならない。友好国を増やして、他国に攻め入られないようにするために(これは背後に北中央大陸がついているから気にすることはないのかもしれないが)。
 そんなふうに仕事をしながら、俺は思わずあくびをする。まだ眠いんだろうか? 侍女たちのように早起きをしているわけでもないのに? なんだか、堕落している気がする。あの人がいないから、しゃっきりしないのかな。
 俺はペンを置き、顔を手のひらで覆う。
 夢の中で、ミスルンさんはなんて言っていたんだっけ? 背中を辿った時、彼はどんなふうに俺に語りかけてきた? カブルーと名前を呼んでくれた? それとも、それすら声にならなかった?
 なんだか、腰がむずむずする。まだ仕事をしなくちゃいけないのに、欲を発散したいと思ってしまうなんて救われない。もう何日ミスルンさんに会っていないんだっけ? 三日? 四日? エルフの時間感覚はトールマンよりもゆったりしているというけれど、そんなに離れて、あの人は俺が恋しくならないんだろうか? 悪魔に食われて欲が消え去った人とはいうけれど、二人でじっくりと身体を開き合う時、あの人にもその萌芽が目覚めてきている気がしたから、多分、一人きりになっても、俺を思ってはくれるのだろうけれども。
(あぁ、仕事をする気にならない……
 早くあなたに会いたい。
 早くあなたに触れたい。
 早くあなたと手を繋ぎたい。
 それからたっぷりとキスをしたい。
 俺は悶々として、下半身を触りそうになって、いや、ここは執務室だ、と、誰がいつ入って来るかもしれない場所で自慰をするリスクを考える。でもやっぱり悶々として、朝夢精したというのに俺はどうしようもない欲に引っ張られていた。
 ミスルンさんが地上にいて、俺も仕事が忙しくない時は毎日のように共寝していたから、あの小柄で傷だらけで、それでも美しい身体を毎日のように隅々まで検分出来ていたから、いざ離れてしまえば欲が暴走してどうにもならなくなってしまう。でも、こんなの誰にも相談出来ない。恋人が仕事で忙しくてムラムラするんですなんて、そんな馬鹿げたこと、誰にも言えない。
「あぁ、ミスルンさんにキスしたい……
 あの薄い、ちょっとかさついた唇を唾液で湿らせて、ぺろぺろと舐めて、柔らかくなったら歯で感覚を確かめて、最後に舌を入れて粘膜を感じたい。挨拶のようなキスがしたい、いやらしいキスがしたい、ベッドの中でするような、そんなキスがしたい。外でするような、軽いそれでもいいけれど。
「へぇ、私と」
「はい……。って、え?」
 懐かしい声。少し低くて、でもまだ若い青年のものにも、少年のものにも似ている声。俺に抱かれる時の甘い声とは違う、いや、それもいいんだけれど、きっぱりと自分の意思を持って立つ人の声。俺はそれが何よりも好きだったけれど、あれ、これは幻覚だろうか? いや、夢の続きだろうか? 俺はいつの間にか眠ってしまった?
 ほっぺたをつねる。すると目の前で丸めた報告書の束を持ったミスルンさんは、少し呆れたふうに俺を見つめた。
「久しぶりだな、カブルー。変わりは……少しあったようだが」
「夢でしょうか?」
「いや、夢じゃあない。ほら、城の大時計もそろそろ鳴る。仕事も終わりだ、お前は疲れているんだろう」
 ミスルンさんはそう言って、俺の机の上に報告書を載せた。それがあっては仕事は終わらない。いや、あなたがせっかく帰ってきたんだから、仔細のチェックは明日に回してしまってもいいのだけれど。
 ミスルンさんが机に腰かける。俺はそれをじっと見つめる。夢の中にいたミスルンさんより、今の彼は美しかった。
「今日、あなたの夢を見ました。背中をたどってた、いつまでもそうしたかった。そよ風の中にいたんです。あなたのまつ毛が揺れて、それがとても綺麗で」
「まだ夢の中にいるのか? ……じゃあ、続きをしてやろうか?」
 ミスルンさんが椅子に座る俺に、寄りかかってくる。俺たちは顔をぐっと近づけて、どちらからともなくキスをする。ミスルンさんは迷宮に潜っていたからか少し埃っぽくて、でもいつもの甘い香りもさせていて、俺は頭がおかしくなりそうだった。夢にまで見た人が今ここにいる。
 そろそろ大時計が鳴るってことは、もう人がここには来ないってことだ。夢の続きをしても、きっと誰も咎める人はいない。
 俺たちはキスをする。何度も角度を変えて、繰り返し。
 時計が鳴る。
 もうみなの仕事が終わる。もう誰も、俺たちを邪魔できない。久しぶりに会った恋人たちを邪魔することなんて、誰もしないだろう。