それは赤だった。
母が「逃げて」と叫んだ。
揺らめく炎と飛び散る鮮血。硝煙の香り。
あの時から俺にこびりついて離れない香り。
母の白魚のような細い腕が、俺の頬に伸びている。
それは冷たいぬくもりを伴っていた。
母の口が動く。
場違いに柔く微笑むその口元に気を取られて、やけに音が遠かった。
あの時、母はなんて言っていたのだろう。
ただとても気持ち悪くて、
吐き気がした。
◆
それからどうしたのか思い出せない。
気づいた時には走っていた。
背後から「ガキが逃げた!」と怒号が響く。
ごうごうと立ち上がる炎の中を駆け抜ける。
走って走って、煙が口の中に入ってきた。
噎せて、足がもつれた。
膝を擦りむいた。
また、赤だ。
目元が熱い。視界が揺れる。
それは悔しさからだろうか、それとも怒りだろうか。
悲しみという感情はなんだったか。
その熱さは頬を流れ落ち、ぼたり、と。
膝を濡らす。
だが、なんの力もない子どもにはそんな感傷すら許されない。
父がよく狼と鹿の話をしていた。
走れなくなった鹿は死ぬしかないのだと。
この時の俺は鹿だった。
脇腹に鈍痛が走った。
それから空が見えた。
蹴り飛ばされたのだと気づいたのは、その数秒後。
「手こずらせるなよ、ガキが」
追ってきた男の手の中には鈍くひかりをはなつ銀色が見えた。
厭な汗が背中を濡らす。
ああ、この後の予想なんて簡単につくのに、体が動かないな。
せめて何か言ってやろうと口を開けてみたが、肺にうまく空気が入らないから、大袈裟な咳が出ただけだった。
それからすぐに、予想は現実になる。
固いものが肉に食い込む音がした。
「ぁ
……」
直感的に死ぬ。と理解した。
相手は愉しむために刺したのではなく殺すために刺したのだ。
たぶん、あと一秒もすれば自分はこの世に居なくなる
厭だ。
死にたくない。
死にたくない死にたくない死にたくない。
こんなところで。
こんなチンケな奴に。
俺はこんなところでは終わらない。
──殺してやる。
それは目の前の男に対してだったかもしれないし、
別の誰かだったかもしれないし、
世界の全てに対してだったかもしれない。
聞こえたのは獣のような咆哮だ。
まるで産声のようなそれは、
たぶん自分が発したものだった。
「あ゛ァぁあああッ!!!!」
子供相手に油断していたのだろうか。
それとも獲物が反撃してくるとは予想してなかったのだろうか。
男の手からナイフを引き抜くのに手間はかからなかった。
銀色が弧を描いた。
それは男の首の頸動脈を捉える。
人間の構造など知らない。
ナイフの心得などない。
だが本能的に、俺はヒトという生き物の急所を理解していた。
ブチリと厭な音がした。
生ぬるい”赤”。
視界が真っ赤になった。
…それから黒へ。
◆
おそらく限界だった。精神も体力も。
しかし幸運にも覆いかぶさった死体は隠れ蓑となった。
やがて朝が来て、抗争は終わっていた。
俺はあの紅い夜を生き抜いた。
「
……大した度胸だ。やっぱりお前の息子だよ、アレク」
最後に聞こえたのは俺の養父の声で、仇の声で。
殺した男の声だ。
・・・
「
…………っ」
「クソ、忌々しい」
「わざわざこのようなものを見せずとも
……、俺がこの夜を忘れることはない」
「あの時の記憶こそが、記憶だけが、今の俺を作っているのだから」
「
…………全て覚えて、
…………」
「
…………あの日は、月が出ていたんだったか?」
いや、そんなことどうでもいいな。
すぐに思考をやめた。
参考資料:
▼特徴表 6-5 [急所を見抜く]
▼Chips
ヴィクター設定
If you make a mistake, you can cancel it by pressing the reaction.