今日はイチノがオレの家に来る。休みの前日、時刻は夜。バイトや部活が終わってから集合する。月末に開催する、いつもの映画鑑賞会だ。しかし、今オレは落ち着きを欠いている。何故かと言うと、今までとはイチノとの関係性が違うからだ。
先週から、オレとイチノは恋人になった。
今までも一緒にいた。なのに恋人同士だと考えると、途端にどう過ごしていいか分からなくなる。まず、どんな顔してイチノを出迎えればいいんだ。初めて大学に足を踏み入れた時よりもソワソワと浮き足立つ。
(どうしよう、とりあえず掃除でもするか?!)
浮つく気持ちを落ち着かせるため、風呂場の掃除を決意する。
綺麗な浴室に気分がよくなり、風呂にお湯を張る。ゆっくりしたいけど入浴剤がなくなったんだどうしようか、水音を聞きながら考えたところで気が付く。よく考えたらウチに泊まる時、イチノはシャワーが殆どだ。
(凄くしたがってると思われないか!?)
そう思ってしまうと途端に焦りが生まれる。無意識だったにせよ、手が早いと思われないか。もしかしたらイチノを不安にさせてしまうかもしれない。それでは困る。
オレはロマンティックな雰囲気を作って、そっと手を重ねて見つめあって、それからゆっくりキスをするんだ。会った瞬間抱きしめたいとか、一緒にお風呂に入りたいとか、考えていてもすぐしたいわけじゃない。
(オレのベッドでイチノと愛し合いたいとかそんなのはまだ早くて……!)
頭の冷静な部分とは裏腹に、イチノにしたいあんなことやこんなことが思い浮かぶ。するとじわじわと体に熱が篭っていく。これからイチノが来るというのに大変だ。茹だる頭を風呂の所為に、頭を振り慌てて風呂場から立ち去る。そしてイチノに関係の薄いものをと考え、大学の教科書に向かう。
夕食の前にイチノが来た。
講義の復習を十二分にした効果が出たようだ。多少ドキドキしながらも、いつも通りローテーブルで向かい合って夕飯を食べる。そして同じソファに隣り合って映画を見る。
2曲目に入ったエンドロールを眺めながら、感想を言い合う。バスタブがあんな使い方されるとは思ってなかった、と言ったところでふと思い出す。
「そういえばシャワーはどうする?」
「オレはエンドロール最後まで観てようかな。家主さん先どうぞ」
「わかった、じゃあオレ先行ってくる」
更衣室兼洗面所の扉を開くとやけにじめじめも蒸し暑い。服を脱ぎ浴槽の蓋を見て、お湯を張っていたことを思い出す。手を入れるとお湯の温度がやや下がっている。
(まあ、すぐ出ればいいか)
さらにお湯が冷えないよう蓋を閉めると体を洗う。シャンプーを手に取ったところで、浴室にイチノの声が響く。
「松本〜、入るよ〜」
強めのノックと共に脱衣所へ入ってくる音がする。
「えっ、あっ!ちょっと待ってくれ!」
展開が早い。まだ心の準備ができてない。オレはイスから尻を浮かせたまま視線を泳がせる。
(とりあえず逃げないと……!)
混乱した頭は、直前まで持っていたシャワーヘッドに手を伸ばす。違う、今はいらない。しかし掴んだ手が離したのはフックの上じゃない。浴室内にガァンと大きな音が響く。
「松本?」
「なっ、なんでもない!」
とりあえずシャンプーだ。洗い流そうとして蛇口を捻る。力加減を間違えてシャワーが暴れだす。顔面にお湯を浴びるが手は洗えた。慌てて風呂蓋を引っ剥がすと、勢い余ってぶつかりまた大きな音を立てる。
「ちょっと大丈夫!!?」
間一髪。ちょうど浴槽に飛び込んだところで、慌てたイチノが扉を開く。ただ次の瞬間、驚きに目を見開く。
「うわっ」
浴室内には放置したシャワーヘッドが床に転がり、噴水が起こる。イスは扉の全開を妨げ、風呂蓋は半端に飛び出している。取り繕おうにも辺りは滅茶苦茶だ。
イチノは警戒した様子でオレと惨状に視線を飛ばす。
「強盗!?虫!?」
虫ぐらい自分でどうにかするが、無駄に不安にさせるのは本意じゃない。張り付いた喉を開き必死に声を張る。
「ちっ、違う!慌てただけ……!」
イチノはもう1度危険がないことを確認すると、心配そうに眉を寄せる。
「どうしたの……?」
「……か、……かくれんぼ……?」
混乱した頭は働かない。自分で言っておいて、流石に無理がある。視線から逃れようと体を捩り股間を隠したことで、イチノからの疑念が薄れる。
「……じゃあ、オレも混ざろうかな。一緒に入れてよ」
「いや、オレもう上がるからっ」
「なんで。さっき入ったばっかじゃん。松本なんか心配だし」
それに、とイチノはオレの顔から浴槽に視線を移す。
「お風呂、そのために用意してくれたんでしょ」
「……違わねえけど違う……」
風呂は熱くないのに頭が茹だり言葉尻も揺れる。尋問されてる気分だ。
「嫌?」
悲しそうに見つめられれば言葉に詰まる。
「ぅ、…………狭いぞ……?」
「いいでしょ。一緒にお風呂、入ってみたいもん」
洗い終わった?の問いにもう終わったと嘘を吐いた。まだ髪は洗ってないが、洗いっこをする勇気はない。
頭を洗うイチノをぼんやり眺める。そういえば風呂で髪が伸びたイチノを見るのは始めてだ。けど洗ってしまえばもう後は一緒に入るしかないわけで。
イチノが全身洗い終わる前に、覚悟を決める。
「じゃあ、お邪魔します」
「……望むところだ」
増えた1人分の体積に、お湯がナイアガラのように溢れ出す。
「なあ……、なんか違くねえか……?」
「なにが?」
嬉しそうなイチノの息がオレの肩甲骨の下に当たる。イチノがオレを立たせた後浴槽に座り、オレはその上でイチノに背中を向けている。
「えー。松本がオレの腕にいるの最高なのに」
こんなしっかり抱きしめられるんだよ?イチノがオレの背中に頬擦りをする。
「いや抱きしめるというより……」
コアラとかセミみたいな、と思い浮かぶが口には出さない。
座りが悪くて尻を捩れば、イチノの筋肉が張るのが分かる。体の間隔を開けても、心臓の音が聞こえそうなぐらいドキドキする。
だけどこの状況は、いつもの身長差にイチノの脚が上乗せされる。イチノの気配が至近距離にあるのに、振り向いてもイチノの姿が見えない。
「イチノ、嬉しいけど寂しい……」
「じゃあこっち向いてくれる?」
「それはまだ早い」
即答する。正面で向き合うのは刺激が強すぎる。多分、心臓も理性も保たない。しかしこれだと物足りなく感じる。
「オレもやりたい」
今度はオレの脚にイチノが座る。するとオレのふとももの分身長差が縮まる。
「わ……いいな、これ」
振り向いたイチノは不満そうだ。
「オレがずっとやりたかった」
オレの目の前、目の高さにイチノの顔がある。想像以上にいい。幸せが広がる。ただそれ以上に、心臓がバクバクする。緊張で息ができない。ボールみたいに跳ねる心臓が飛び出そうだ。
(やばい。うれしいけど、こんなにイチノが近くていいのか!??)
風呂という関係上、2人とも当然裸だ。刺激が強すぎるから密着はしない。お湯を隔てるから、体の正面に感じる熱がイチノの体温か風呂の蒸気か分からない。しかしオレの脚は上に座った時よりも強く、イチノの重さと感触を伝える。
そして少し体を離した分、イチノの肌や首筋、筋肉の盛り上がりがよく見える。正直、目の毒だ。天井を仰いで心を落ち着けようとする。
山王だと共同の風呂で、これよりも密着することはあった。その時もぎゅうぎゅう詰められながらイチノにドキドキしていた。しかしこんなにも感動はしなかった。
オレは薄目になりながらも、イチノの姿を焼き付ける。いつもふわふわしたイチノの細い髪が水に濡れてしんなりしている。しかし1部が乾いたのか、ぴょこんと飛び出ている。指で弄んでみると、シャンプーではない香りに気が付く。
(ウチのシャンプーを使ってるのに、違うのはイチノ自身の匂いかな……)
「……もと、」
ぼんやりとしたイチノの声がする。
「ねえ、くすぐったい」
こそばゆそうな声だ。イチノの振動に合わせて、額につくつくと柔らいものが当たる。なんだろう。
「ふふ、っ……ちょっとタンマ」
一瞬イチノの体が強張ると口調に強さが出る。ぐいっと肘で押されると、その力強さに肋骨が痛む。すると視界が鮮明になる。どうやら夢中になりすぎていたようだ。目と鼻の先にイチノのうなじがある。額に触れていたのは髪だったのか。
気が付くと、オレの腕はイチノの前でしっかりと握られている。イチノにはくっ付くなと言ったのに、オレは欲望のままに密着している。
「ごっ、ごめん!」
ホールドアップとともに、思わぬ大声が出る。嬉しさとは違う意味で心臓が跳ねる。早まった。嫌がることをした。喉が凍り付き二の句が告げずにいると、浴室は静寂に包まれる。
「……そろそろ出ようか」
沈黙を破ったのは、イチノの硬い声だ。自分のせいとは言え、冷や水を掛けられた気分だ。
「っ、ごめん……」
ただ次の瞬間、イチノがくしゃみをする。
「ごめん、ちょっと寒い」
「……!」
言われてみれば、大分お湯の温度が下がっている。いや、確かにひんやりしてるとは思っていたけど、集中と緊張で気が付かなかった。
このままいると腹を下してしまう。イチノにシャワーで温まって貰う間、オレは体を拭き暖房を点けに行く。衣装ケースから冬物の上着を引っ張り出すと、イチノに羽織って貰う。
そのまま一緒にいようかと思ったものの、イチノに髪洗ってきなよと浴室に戻される。なんでバレたのかと聞くと、松本の匂いが濃かったからと言われ驚く。恥ずかしいので素早く、だけど念入りに洗ってくる。
温めた牛乳はいるか湯たんぽはいるかと、台所とリビングを往復する。そんなオレを鬱陶しがることなく、イチノはされるがままになっている。
「風邪じゃないのに世話焼いてくれるんだ」
マグカップを両手で包みながらイチノがほほ笑む。
「風邪になってからじゃ遅いだろ」
「ふふ、タバコ忘れた甲斐あったかも」
「タバコ?」
オレの前で吸わないから忘れていたが、最近始めたと言っていた。
「そう。ベランダで吸おうかと思ったら洗面所に忘れてて。でも思わぬ成果」
「あっ……そ、そうだったのか……?!」
洗面所と脱衣所は同じ部屋だ。用があったのは一緒の風呂でなくタバコだった。点と点が線で繋がる。道理で自分から入ってきた割に不思議そうな顔だったわけだ。
「うわっ……」
気付いた瞬間顔が熱くなる。
「……すまん……早とちりした……」
このまま顔の熱で溶けてしまいたい。しかし、イチノの声は弾んでいる。
「全然。むしろ嬉しかった。それとも松本はもう嫌?」
「そんなことない!……むしろ、またやりたい」
食い気味に反論するも、要望は尻すぼみになる。そんなオレにイチノの顔は緩んだままだ。
「正直、恋人らしいことするまで全然かかると思ってた。松本絶対奥手だと思ったから」
今度洗うのもやりたいな。嬉しそうに見つめられると、胸が高鳴り暖かい気持ちになる。
「イチノが望むなら、いくらでもしてやりたい。イチノのか、彼氏らしくさせてくれ」
イチノは吃った宣言に笑顔を見せるも、でもちょっとショックだなと溢す。
「松本、こういうの苦手だと思ってた。誰と付き合いたいとかエロい話とか乗らないし」
「そりゃ……興味ないことねえよ。ただ、……考えると緊張して……」
オレとしては、雑誌を広げて大っぴらに話す方が信じられない。しかし、イチノは呆れたように肩を竦める。
「そうだった。松本ムッツリだもんね」
「そんな訳ねえ……訳じゃないけど、好きなやつには尽くしてやりたいだろ」
「理想高い感じ?」
「さあ、わからねえ」
性に対し開放的でないと思う。しかし理想が高くとも彼氏としてすべきことだし、羞恥や乖離があるなら精進すればいいだけだ。
「でも、イチノがしたい事あるなら言ってくれ。できるだけ叶えてやりたい」
「そっか。じゃあ、一緒に寝るとか?」
「いっ……!」
一瞬びっくりするが絶対そういうことじゃない、勘違いするな。
「……大丈夫……、タイムを出す時はあるかもしれないけど」
平常心を装いながらぼかして答える。するとイチノは分かってなさそうに首を傾げる。
「なんで?」
可愛い。けどやめてほしい。理性で抑えてるだけでオレだって男だ。頭ごと視線を逸らし、気を付けてほしいの意味を込める。
「おっ……襲っちまわねえように……」
イチノの息を呑む音がする。見ると目がわずかに見開かれるから、すぐに弁解のような言葉を重ねる。
「し、心配しないでほしい!信憑性に欠けるかもしれねえけど、イチノがいいって言うまで、手は出さねえから!」
イチノは1度口を小さく動かすと、笑みを浮かべて言い切る。
「松本なら大丈夫だよ」
「ああ、約束する……!」
イチノにこれから毎回風呂に入ろうと誘われ、葛藤するのはまた来週の話だ。
どちらも抱く気なイチ松の話。
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