しくるの納戸
2024-10-06 22:09:19
6676文字
Public レグリ
 

カーテンのうちがわ陽炎

レグリ/HGSS以降
気も病から。

 一人暮らしを始めて以来、初めての風邪だった。
 頭を僅かでも揺らすたび、大鍋をお玉で叩いたようなグワングワンと喧しい響きが、鼓膜の奥にこだました。首から上が熱くて熱くて仕方がないが、肩より下は得体のしれない寒さにまとわり付かれている。
 寒いのに、布団はイヤに湿っていた。
 体温計など持ち出さなくとも明らかだ。
 紛うことなき発熱である。
 まずいな、とぼやいてグリーンは慎重にベッドを抜け出す。ひんやりとした朝のフローリングが足裏に心地よかったが、歩こうとする度に、歪んだ平衡感覚が足の着地点を何度も見失わせた。
 フラフラと覚束ない足取りの主人を見かねてか、ベッド脇のチェスターに置かれたボールたちがカタカタと動き出す。グリーンが右足を反対に引っ掛けてもつれた瞬間、その内のひとつが完全にボールから飛び出して、壁にぶつかりそうになった肢体を六本の腕のうち半分で支えた。
……わりーな、カイリキー」 
 謝罪の声は弱弱しく、掠れている。
 真っ直ぐ立つことすら難しいのか、完全に体重を任せきりにする主人を心配そうに見下ろしながら、カイリキーは余っていた手に握っていたモンスターボールを差し出した。促されるがままにグリーンが開閉スイッチを押せば、中から出たのはフーディンだ。
 フーディンは潤んだ両眼を見つめて、その霞がかった思考を読み解こうとする。しかしその前に、熱を持った手のひらがフーディンを制した。
「ポケギアと、おいしい水……わかるか?」
 贅沢を言えば着替えも欲しいところだが、棚にどの服があるかグリーン自身も思い出せていない状況で、フーディンには頼めない。だが、服以外の頼んだものについては、サイコキネシスによってすぐにグリーンの元へと運ばれた。
「流石」
 フーディンは当然だと言うように鼻を鳴らして、それから勝手にボールの中へ帰っていく。床に転がるボールは、グリーンがしゃがみ込むまでもなくカイリキーが回収した。一緒にグリーンの身体も宙に浮く。
 手持ちに抱えられてベッドまで戻される姿は、まるっきり子供のようで恥ずかしいが、拒否できるほどの体力はグリーンにはないので好きにさせた。どうせ、誰に見られるわけでもない。
 タマゴを扱うように恭しくベッドへと逆戻りにされたグリーンは、布団に潜り込みながらポケギアを操作する。スピーカー耳に押し当て、三コール。
「もしもし、オレだよ……あ、分かるか? そうだよ。別に、大したヤツじゃねーけど、今日は休むぜ。挑戦者は、お前らで止めといてくれ……は? いやいい、来るな。看病なんて、いらねー。大したヤツじゃないって、言ってるだろ……ただの風邪。ああ。だから、本当に大丈夫だって、しつこいぜ……じゃあ、伝言よろしくな」
 姿が見えずとも煩いほど伝わる、ジムトレーナーからの気遣わしげな雰囲気を素気無く振り払って、グリーンは通話を切る。
 直後、通話中我慢していた咳が押し出されるように肺から次々溢れた。
 これはこの年になって初めて知ったことだが、咳には中々の体力を使う。
「ッゲホ……あー、ろっこつにひびくぜ」
 取り繕うことを止めたか細い声が、静かな部屋でぽつんと響いた。
 静寂を嫌って放った筈の言葉が、むしろ余計に空白を強調してグリーンの心臓を逆撫でする。
 グリーンは、立ち上がった時まず最初にカーテンを開けなかったことを後悔した。
 分厚い遮光性の布が外の明かりを断ち切って、薄暗い。
 窓も開けていないから、自分の湿気た呼吸だけが足元に溜まっていく。
 耳鳴りがしそうな密室に、ゼェ、ゼェと死にそうな呼吸だけが産まれては霧散した。
 一瞬だけ棚の上のモンスターボールに意識が向いたが、思い直して外に出すのは止める。ただ寂しいという情けない理由で、相棒たちに迷惑を掛けるわけにはいかなかった。
 グリーンは、上手く力の入らない指先で何とか「おいしい水」のペットボトルを開けると、喉仏を伝う滴が寝巻きを濡らすのも構わず流し込む。
 飲み終わったら口元まで布団を引き上げて、堅く目を瞑る。
 さっさと寝てしまえ。
 そうすれば、この家にはグリーンひとりしかいないのだと、突きつけられることも無くなる。


 グリーンが最後に熱を出したのは、まだマサラの実家に暮らしていた頃──セキエイ高原でのチャンピオン戦から、少し経った頃である。
 この頃はまだ、レッドに負けた悔しさと突きつけられた己の未熟さに頭を酷く悩ませていた。
 レッドのピカチュウが頬袋をパチリと鳴らしたのを見て即座にギャラドスを交替させてしまったが、きっとギャラドスだったら、ボルテッカー一発分耐えられた筈だ。図鑑に載ってる『ギャラドス』ではなく、目の前で戦っていた、自分のギャラドスなら。それに、その後だって……なんて何十回と頭を巡るIFは、後悔の渦を描いてグリーンの思考を引き摺り呑み込もうとする。
 ここ最近はずっとそんなことの繰り返しだった。
 ご飯を向かい合わせで食べる姉が、いつも心配そうな視線を向けていたことには気付いていたが、素直に後悔を吐露して甘えるには、プライドと後ろめたさが邪魔をした。かといって祖父や、あの日からボールに閉じ込めたままの相棒たちと真っ直ぐ向き合うにはまだ覚悟が足りない。
 遠慮なく八つ当たりをして、後悔すら吹っ切れそうなバトルが出来る唯一の相手は、自分を置いて旅に出たらしい。姉からそれを聞かされたときは、幼馴染に挨拶すらせず薄情なヤツだと喉まで文句が出かかったが、そもそも、情けないと自覚する姿も見られたくなくて、窓もカーテンも締め切っていたのはグリーンだった。
 だから誰にも寄り掛かれないままひとり、出口も収穫も無い、ただ反省する為だけの反省を延々と繰り返しているうちに、擦り切れた幼い脳みそが発火したのである。
 夕飯の時間を告げる姉の呼び声に、ダイニングへ向かおうとした足が突然縺れて、情けなく部屋に倒れ込む。ベタン、と床に張り付いた音が階下まで響いたのか、間も無く姉が名前を呼びながら階段を駆け上ってくる音を聞きながら、グリーンは遅れてきた目眩と熱さに目を閉じた。
 次に意識を浮かばせた時には、すぐ近くからシチューの匂いがして、目を瞑ったままでも姉が近くにいることが分かった。水を遊ばせる音が枕元に聴こえた後に、ひんやりとした布の感触に目元を拭われる。
……ねえ、ちゃ」
「あら、起きたの。食欲はある?」
 問いかけに首の動きだけで否定を返せば、姉は「水だけは飲んでおきなさい」とグリーンの上半身を細い腕で起こした。拍子に額から濡れタオルが落ちたので、おぼつかない両手で今度は剥がれないように押さえつける。
 ベッド脇のローテーブルの上から、姉がコップを取ってグリーンの口元に押し当てた。カサカサの唇を薄く開くとひんやりと冷たい水が喉を潤した。氷もなく、汗をかいてすらいない水なのに、やけに美味しく感じたのは、それだけ熱が高い証拠だろう。
 水を飲むと頭痛が少しだけやわらぐような気がした。
「そろそろ熱出す頃かな、って思ったのよ。あなた慣れないことすると、すぐ体調崩しちゃうんだから」
…………ごめん、」
「どうして謝るの」
  もやがかった思考でなんとか今の状況を理解して、声を絞り出した謝罪はしかしぴしゃりと跳ね返される。
「だって、心配、」
「心配なんてしてないわ、あなたがさせてくれなかったじゃない」
 グリーンの言葉を丁寧にはたき落としながらも、姉はいつものように微笑んでいる。
 怒ってはいないが、熱を出した弟に容赦する気も無いらしい。
 グリーンは観念して、次の「だって」を紡ぎかけた唇をつぐんだ。
……ありがと」
 コレを素直に伝えるのは、複雑な年頃としたは恥ずかしいけれど。ごめんなさいの代わりを声をすぼめながら言えば、ようやく姉は納得したらしい。
「さぁ、飲んだら寝なさい。起きたらご飯よ」
「眠くねーし」
「目を瞑って考えごとでもしていれば、すぐに眠っちゃうわよ」
 グリーンの手からコップを奪った手が、腫れぼったい目元をそっと塞いだ。
 ひんやりと心地よい感触と、追い討ちを掛けるような、優しい、鈴のような声。
「楽しいこと、やりたいことをたくさん考えるの」
「やりたい、こと……
 グリーンは目を閉じる。
 一番に浮かんだのは、勇敢で優秀な相棒たちの背中だった。
 彼らにちゃんと謝って、ありがとうと言って、皆で悔しかったと叫びたい。
 それから、また修行して、リベンジを果たすのだ。
 相棒たちの奥で、ひらりとはためく赤色。
 そうだ。まだ、また、あの全てを燃やし尽くすようなバトルがしたい。
 今度は、見せかけの矜恃も下らない意地もしがらみも捨てて、あのバトルの楽しさをぜんぶ素直に受け止められる筈だから。
 だから、もう一度戦いたい。
……れ、ど」
 戦わなくったって、もう一度遊びたい。もう一度話したい。
 もう一度。
 もう一度──顔を見せてくれ。
 さびしいだろ。
 
 
 差し込む日差しの明るさに、グリーンは目を覚ます。
 窓から入り込む風が涼しくて心地よい。
 頭痛は、眠る前よりうんとマシになっていて、その代わりというべきか、喉の渇きを非常にはっきりと認識させられる。呼吸の苦しさに口を開けて寝たのかもしれない。
 水を取ろうと頭を傾けたところで、特徴的な赤色が視界に映った。
…………レッド?」
 ベッドサイドの椅子に腰掛けて、レッドがまじまじとグリーンを見詰めていた。
 膝に置いた両手の拳が張り詰められていて、普段のグリーンであれば、危篤の面会じゃないんだぞと即座に笑い飛ばしただろうが、今の状態では、ぼんやりとその様子を目に留めることしか出来なかった。
 いつの間に帰って来ていたのか。
 眠っていた時に見た夢よりも大きくなっている。
 レッドは、グリーンが目を開けたのを確認して、あからさまにほっとした表情を向けた。
 おそるおそる右腕を伸ばすと、すぐに頭が手に届く位置まで下げられる。
 荒れて乾燥気味の頬に触れれば、ひんやりと手のひらに吸い付いた。
 冷たいが、ゴーストポケモンの冷ややかさではない。
 ならばこれは長い別れの挨拶ではなく、熱が見せた陽炎でも無い。
 そのことに、グリーンは少しだけ、安堵する。
「おまえ、どこ行ってたワケ」
 痛みは無くなったが、相変わらずふわふわと浮いているような思考のまま尋ねれば、シロガネ山、とやけにあっさりとした返事が来た。
「なんだ……随分近場じゃねーか」
 そんな近くにいたのに、ずっと全然気がつかなかった……これは、口には出さないけれど。
「死んでんじゃ無いかって、こっちはヒヤヒヤしてたんだよ」
「心配してくれてたんだね」
「いちおー、ライバルとしてな……まあ、元気でよかったぜ」
「そうだね。お前は、元気じゃ無さそうだけど」
「うるせーよ、お前のせいだ」
「言いがかりだ」
……なんでお前、そんなとこいたの」
 グリーンの質問に、レッドは瞠目する。
 なんでそんなに驚くんだよ、その疑問を言葉にするより、レッドが戸惑いがちに答える方が早かった。
「仕事終わったから、荷物を戻しに行っただけだけど……あれ、今週帰るって伝えてなかったっけ」
 首を傾げるレッドを眺めるうちに、グリーンの頭に違和感が膨れあがる。
 その表情を見て、レッドは、ああ、と数回頷いた後、微笑みを浮かべた。
 随分と大人びた表情だった。
「懐かしい夢でも見てたの、グリーン」
……………………あ?」
 グリーンはゆっくりと瞬きをする。
 瞬きを繰り返すほどに目の前、および頭の中は明確になっていき、そしてグリーンはようやく、正しい状況を思いだす。
 ……どうやら、初めて熱出した時の記憶と混ざっていたらしい。
 ここは実家ではなく、トキワシティ内に借りたグリーンの部屋だ。
 姉の看病など受けていない。枕元にあるのはガラスコップではなく、眠る前と同じ、フーディンに取ってもらったペットボトルのおいしい水である。
 締め切った窓のせいで滞留していた空気と、寝汗でぐちゃぐちゃに湿ったシャツだけが誰かの手によって新しいものに替えられていた。
 唯一の容疑者がここに居ることだって、おかしいことではない。
 ここにいるレッドは年単位の行方不明者ではなく、まず第二の住居であるシロガネ山に旅荷物を置いてからトキワシティへ帰宅の報告に向かうという、いつものルーティンをしただけの、一ヶ月のシンオウ出張を終えたばかりの男だ。
 恐らく、先にトキワジムでジムトレーナーからリーダーは休みだと告げられ、家のチャイムを鳴らしたが出なかったから、合鍵を使ったのだろう。ベッドサイドに置き去りにしたポケギアには、レッドからの着信が二、三ほど残されているに違いない。
 なんで、なんて訊くまでも無いのだ、本来なら。
……あーーーーーー……
 そこまでを把握して、グリーンは重たい両腕で顔を覆った。
 レッドの無邪気な笑い声が、覆った腕を潜り抜けてグリーンを刺す。
「なんでそこにいたの、なんてあんな怖い顔で言っちゃうってことは、ぼくがカスミに亡霊扱いされてた頃かな? まだマサラに住んでた?」 
「忘れろ」
「やぁだよ……あはは、ぼく、あの頃のグリーンと会話しちゃった」
「だから忘れろ、お前は何も見てない。お前の前にいるのは目を開けた瞬間から完璧なグリーン様だ! 分かったな!」
 凄みながらグリーンは勢い良く上体を起こしては、途端に鐘を叩くような目眩に襲われて身体のコントロールを失う。眠って幾分かマシになったとはいえ、グリーンの体温はまだ平熱には程遠かった。
「! おっと、」
 当然のようにぐらついた身体が、慌てて手を伸ばしたレッドに掬われその胸元に落ちる。
 代謝の良いレッドは平熱が高く、ただでさえ熱さに茹だるグリーンには、あまり心地の良い場所では無かった。抱き留められた後、くつくつと笑う振動がシャツ越しに伝えられたことも含めて。
 腕の中で眉を顰めるグリーンに気づいているのかいないのか、レッドは呑気に頬を緩ませてる。
「分からないし当分忘れないよ。不完全なグリーンなんて、色ちがいポケモンよりレアなんだから」
「当たり前だ。誰がよりによってお前にヘタな姿……クソ、本当に、忘れろ」
 グリーンの口は先ほどから同じ言葉を繰り返すばかりだ。普段ならば意識しなくともするする出てくる言葉たちが、舌の奥で絡まっている。そのもどかしさ、苛立ちにグリーンは口の奥を噛み締めた。
 拙い反論など軽く笑い流して、レッドはあやすようにグリーンの背をたたく。
「まあこれも、無理したツケのひとつだと思ってさ、」
 それから背筋を登って手のひらは、グリーンの頭頂部に添えられる。髪を撫でるためというよりは、動かされないよう押さえつけるような手つきだった。
……今度こそ心配ぐらいさせてよ」
 グリーンは目を見開く。
 レッドの手によって表情を見ることは叶わなかったが、見えなくとも手に取るように描ける、情けない声だった。
 この男は、図太いようで意外と繊細だ。
 連絡も寄越さず行方をくらました三年間のことを、それなりに反省しているらしい。
 それから、それなりにグリーンを大事にしたがっているらしい。
「レッド」
 悪かったよ、と言いかけた唇をグリーンはすんでのところで飲み下した。
 姉の教育を受けておいて良かったとつくづく思う。
 お陰で、掛けるべき言葉を間違わずに済んだ。
「ありがとな」
……うん」
 どういたしまして。
 柔らかな声が降った。
 グリーンの頭部を押さえる必要が無くなった右手が、再び背中をあやす作業に戻る。
 一定のリズムを奏でる振動と、それより少し早いテンポの心音に挟まれて、グリーンの瞼が自然に下された。
 意識がとろとろと途切れていく。
 ――起きたら、帰って早々幼馴染みの看病をさせられた男におかえりを言う。
 それからカントーの地でいの一番の勝負を仕掛けるまでが、旅を終えるルーティンだ。
 それは可愛い後輩にも譲れない二人の無言の約束事であった。
 草むらにボールを放つ夢を見るグリーンの髪を、レッドの指先と、街のそよ風がくすぐった。