Privatter+
Font
Serif
Sans Serif
Color
Light
Dark
auto
Font size
Large
Medium
Small
Language
Japanese
English
Sign in with Google
Sign in with ID and password
Account ID
Password
Sign in
Forgot password?
Create account
不知火白夜
2024-10-06 17:59:14
30136文字
Public
Clear cache
二人の旅路:1日目
十真とヴェルナーが2人で京都を旅行する話。
……ですがまだ旅行らしい旅行を何もしていません。
年代設定は2011年頃を想定しています。
秋に珍しく長期休暇が取得できる
――
大学の准教授たるヴェルナー・クラインがそれを知ったのは春先のことだった。
思えば、ヴェルナーの周囲でその時期に纏まった休みを取得する人はやや少ない。国や地域によっては10月や11月に『秋休み』を取得する人もいるが、ヴェルナーがその手の休みを取得したことは稀だった。本来長期休みはバカンスに最適な夏や、クリスマスシーズンの年末が多い。しかし、細かい事情は置いておいて、纏まった休みが取得できると言うことは非常にありがたいことでもあった。
その理由は、単純に休養に充てられるということもあるが、それだけではない。長く交際する外国人の恋人との逢瀬のための貴重な期間になりうるからだ。
そうと決まれば行動は早い。ヴェルナーは休憩時間にすぐさま恋人の十真にメッセージを送った。
『やあトーマ。突然だけど、秋に纏まった休みが取れそうなんだ。だから、その時期に会うことってできないかな? 場所はリヒテンシュタインでも日本でもいいんだけど』
突然の申し出であり、しかもこれまでの逢瀬と異なる時期だ。断られることも想定していたが、十真からの返事は思ったよりも早く、かつ、ヴェルナーにとっては嬉しいものだった。
『連絡ありがとう。すごく嬉しいよ! こっちも合わせて休み取るから大丈夫! 二人で旅行でもしよう』
恋人からの明るく前向きな返事を目にしたヴェルナーは、大学の敷地の片隅で小さくガッツポーズをした。
連絡をしてから数日後の休日の昼間。旅行の計画を立てるため、ノートパソコン上にダウンロードしたオンラインメッセージアプリにて十真とやりとりを行った時のこと。ヴェルナーは、今回の旅行の希望として真っ先に『日本の京都に行ってみたい』という提案をした。
その言葉に、モニターに写る十真は驚いた様子で目を丸くし、少し間を置いてからぎこちなくドイツ語で言葉を返した。
『えっ、ヴェルナー
……
京都来るの? なんか
……
珍しいな』
ヴェルナーは、一人暮らしをする自宅のリビングにて、パソコンやスケジュール手帳、日本の名所を検索したページを開きつつ『そうかもね』と短く返した。
それに呼応するように十真が言葉を続ける。
『だって、その
……
ヴェルナーはあんまり日本に行きたいって感じじゃないだろ。だから意外で
……
』
「
……
うーん、まあ、そう言われるとそうだね。
……
でも、別に興味がないとか行きたくないとかじゃないんだよ。ただ、何というか、ちょっと思ったことがありまして
……
」
『
……
思ったこと?』
実はこれまでヴェルナーが日本に行った回数はかなり少ない。学会が日本で開催される際に訪れた経験が数回あるのと、およそ5年前に一度日本を訪れ、十真と共に東京を観光したことがあるだけだ。
今までのケースでは夏や冬に十真にヨーロッパに足を運んでもらい、リヒテンシュタインやスイス、もしくは近隣国で観光しのんびり過ごすことが非常に多かった。何故なら十真自身が旅行好きであり、ヨーロッパの様々な国を観光することを非常に楽しんでいたからだ。
だがそれを理由に十真に多くの負担を強いるのも不公平であるし
――
十真は気にしていないと言うが
――
それに、公平さを除外しても、15年も交際しているのに恋人の家に訪れたことがないというのはどう考えても奇妙だろう。
そう、ヴェルナーはこれまで愛する人が生まれ育った『長野県』のことも、現在住居を置いている『京都府』についても何も知らない。これは妙で、かつ勿体ないことなのではないかと思った訳である。
だから、今回の休暇にて彼の住む街やその近くを自分自身で見て回りたくなったのだ。
「
――
とまあ、そういうわけで、今回は日本に行ってみたいなあという感じでして
……
。それで、できたら、今トーマがいる『キョート』の方に行ってみたいなって。だめかな?」
ヴェルナーが眉を下げつつ発したその言葉に、十真は大きく息を吸って感嘆の反応を示した後『ほんとに!?』と力強く反応を見せた。その後、何やら日本語で一言二言呟いた後、高揚感溢れる声を響かせる。
『えっ、ほんとに!? い、いや、嬉しい、嬉しいよ
……
! そっか、京都、来てくれるんだ
……
』
「うん、遅すぎて
……
今更すぎて、申し訳ないけどね。それに、案内をお願いすることになるかも知れないけど、大丈夫かな?」
『もちろん! 京都なら僕も案内できるところあるし大丈夫だよ。ただ、人気スポットが多いからどこ案内するか迷うけどね」
「よかった。あ、場所は有名どころだけでとってもありがたいからね」
「それでも多いんだよな、京都は」
「そ、そっか
……
。
……
あ、あと、トーマの家にお邪魔することになるかもしれないけど、それもよかったかな」
かすかに不安げな声色で発された言葉に、十真は嬉しそうに力強く言葉を返す。
『もちろん! ずっといてもいいし、一日だけで他は旅館やホテルに泊まるってのもありだよ。というか、やっと家にヴェルナーを招待できるってのは嬉しいよ! ただ、一人暮らし向けのアパートだから
……
そんなに広くないしベッドも狭いかもしれないけどね』
「そんなの気にしないよ。じゃあ、ちょっとお邪魔するね」
『うん!
……
でも、その、スイスの空港から東京の空港に行くとなると
……
僕の家は結構遠いけど大丈夫?』
「大丈夫だよ。トーマだって大変な思いしていつも来てくれてるんだから」
『そっか
……
じゃあ、その、掃除して、あと酒も準備しとくからな!』
「ありがと。でも、そんな無理しなくていいからね?」
あれやこれやと心配する十真だったが、ヴェルナーの返答に少し安心したのか、溌剌とした笑みを浮かべて話す彼に微笑みながら返した。
そうしてヴェルナーが京都へ向かうという方針で確定し、二人は旅行の計画を進めたのだ。
それから出発予定の日まで、ヴェルナーは非常に気持ちが浮き立っていた。
教員としての仕事や研究に集中できているときはまだいいが、休憩時間や一人の時にはふと旅行の約束を思い出し口元が綻ぶ。それを他人に見られ指摘なんてされた際は少々恥ずかしい気持ちを抱いた。他にも、十真との関係を知る友人には『若者みたいだな』と笑われたが、若者だろうが中高年だろうが楽しみに待っているものがあれば、笑みも零れるし気持ちも若返るというものだろう。
その証拠の一つとして、いつものように髪を切りに行くだけでなく、白髪交じりの銀髪を、普段と少し異なる色で染めた。服もあれやこれやと悩み、ファッション誌を読んだり友人に聞いたりしながら新しいものをいくつか新調し、更に忙しい合間を縫って運動量も少々増やし、減量も試みた。折角恋人に会うのだから、少しでもいいふうに見られたいという気持ちは、例えふくよかな50代の中年男性でも同じだ。
超遠距離恋愛というのも、改めてヴェルナーの気持ちを燃え上がらせたのだろう。まるで恋する少年少女のような気持ちを抱えつつ、指折り数えて恋人と会える日を待ち続けた。
約束の日からおよそ半年が経過したある秋の日。出発当日の昼頃のこと。ヴェルナーは荷物の確認をした後、まだ時間に余裕があることを確かめてから、自身の身なりを整える時間を設けた。
洗面台の前で顔を洗って髭を剃って、髪や眉も少々整える。少し前に染めた髪色も上手く馴染んでいるし、この日のために買った服も悪くはない。恋人の十真はかなり身なりやファッションにこだわりがある人だ。そのため、隣に立つヴェルナーも彼にふさわしい姿でいたいと思った。
「
……
よし、変じゃないね。行こう」
鏡で己の姿を確認し小さく頷く。キャリ-ケースの荷物やショルダーバッグに入れた貴重品、そして十真への大切なプレゼントを確認し、それらを手に外に出た。
秋も深まってきた時期故に外は肌寒く空も薄暗い様相を呈していたが、それに反してヴェルナーの気持ちは非常に温かく晴れやかだった。
リヒテンシュタインの自宅からおよそ一時間半程自家用車を走らせチューリヒの空港に行き、そこから搭乗手続きをし飛行機に乗る。ビジネスクラス故に席自体は広々としておりリラックスもできる。機内で豪華な食事を堪能し、一度ヨーロッパ内のとある国にて乗り継ぎ、そこから改めて日本の東京へと飛行機は飛び立った。
最初に飛行機に乗った翌日の夕方、合計約15時間半のフライトを経た飛行機は、予定通りに東京に着いた。乗客は順に飛行機から降り、入国審査を受け荷物を受け取り空港に降り立つとそれぞれ到着ロビーへ向かっていく。ヴェルナーも荷物を受け取ったあとは、高揚感を抱きながら、人々の合間を縫って到着ロビーへと足を向けた。
多くの人が行き交い、また出迎えに訪れる到着ロビー。辿り着いたその先に、多くの利用客に紛れながらもヴェルナーの最愛の恋人が着物を身に纏ってにこやかに微笑んでいた。
190㎝はある背丈にがっしりとした体つき。濃紺の着物に濃い灰色の羽織。栗色のくせのある短い髪に眼鏡。彼こそ、ヴェルナーが長年交際を続ける恋人、市河十真その人である。年齢は40歳でヴェルナーより11歳年下だ。彼を目にした瞬間、ヴェルナーの顔が晴れやかになる。
「トーマ! 久しぶり! 会いたかった~!」
「久しぶり! 僕も会いたかったよ。長旅お疲れ様!
……
あれ、ヴェルナー髪染めた? 色が違う? それになんか服の雰囲気も違う気がする」
「あ、うん。ちょっと普段と違う色で染めてみたんだよね。あと服も新しいのにして
……
気づいてくれて嬉しいよ、ありがとう」
「そりゃ気づくよ! へぇ~
……
凄く似合ってるよ。かっこいい」
「ほんと? よかった。トーマもその着物似合ってるよ」
「そう? ありがと」
約一年ぶりに出会えた恋人に抱きつきたくなる衝動をぐっと押さえて、ヴェルナーは小さく手を掲げハイタッチのポーズを取る。すると十真も笑みを浮かべて片手を上げてハイタッチをする。両者の手が強く触れ合ってパチンと弾けたような音がした。続けて、彼がヴェルナーの髪色や衣服に言及するものだから、嬉しくなってつい破顔する。自分なりに頭を捻った見目を褒められてほっと安堵した。もちろん十真も相変わらずかっこいいものだから、思ったことをそのまま口にすると、彼も嬉しそうに微笑んだ。それだけで胸の内がほわっと温かくなる。
そうして一頻り再会を喜び合った後は、周囲の人たちの邪魔にならぬよう気を配りつつ人の少ない場所に移動する。ここからの予定は、特急列車で移動し途中で新幹線に乗り換えて京都駅に向かい、そこから乗り換えて十真の家の最寄り駅まで移動して、十真の車で家へとお邪魔させてもらう予定だ。日本に来たから終わりではない。ここからまだ時間がかかり大変なのだ。
ヴェルナーは今後の予定を思い返しながら、十真に続いて歩いていく。
「いやぁ、流石に15~16時間のフライトは疲れるね。ビジネスクラスで比較的くつろげるとはいえしんどいよ」
「そうだよなあ。ずっと座りっぱなしだしな」
「うんうん。それに、若い頃はもうちょっと平気だったのに、俺もおじさんになったんだなあって」
「あー、まあ、とはいえ若者でも16時間のフライトはきついと思うけどね」
自虐と共に苦い笑みを浮かべると、十真も眉を下げてそう返した。その後、十真は『そういえば
……
』と短く声を上げた。少し歩みを遅くして、ヴェルナーをちらりと見やる。
「ヴェルナー、何か食べたいものある?」
「え? 俺はトーマが作るご飯なら何でも好きだからなんでもいいけど
……
何で?」
突然の質問に首をかしげつつそう返すと、一瞬嬉しそうな反応を見せた十真が慌てて取り繕う。
「そう思ってくれるのは嬉しいけど
……
そうじゃなくて
……
。えっと、ここから僕の家までまた3時間以上かかるんだよね。だから、何か食べるか買うかした方がいい気がするなって思ってさ。だから、なにか食べたいものあるかな~って思って。特急の時間もまだ余裕あるし」
「え、あ、そういうこと?
……
うーん、そうだなあ
……
」
自分の勘違いに少し恥ずかしくなったが、それは脇に置いておくとして
……
3時間以上という具体的な数字にヴェルナーは頭を悩ませる。東京から京都までの距離と所要時間に着いては、計画を立てている際に十真から聞いた。これが結構遠く、今いる空港から十真の居住地まで実に600キロメートル以上ある。そう思うと何も腹に入れず食べ物も持たず移動するのもいかがなものか。機内食も食べたが、いくらか時間が経過しているためある程度腹も減っている。そう考えて特急までの時間で軽食を取ることにした。とはいえ、ヴェルナーはこれといって食べたいものも思いつかないため、店のチョイスは十真に任せることになり
……
結果、適当な喫茶店で20~30分ほど食事休憩をしたのだった。
食事を終えた後は特急に乗車し、空港の駅から新幹線の駅までおよそ1時間移動する。そこから京都駅まで約2時間、そこから更に電車で約30分ほど移動し、十真の家の最寄り駅に到着。そして駅近くの駐車場に停めた車で移動すること数分。漸く、十真が住むアパートに辿り着いた。日本に到着したのが夕方だったこともあり、もうすっかり周囲は暗く、空も黒や紺の塗料を広げたようでもあった。時間は23時近くになっており、いつの間にか随分と時間が経ってしまっていた。
アパートは洋風でシンプルな外観の2階建てで、十真はこのアパートの1階の部屋に住んでいるのだそうだ。1LDKほどの部屋で、一人で生活するには充分らしい。
駐車場に車を停めて荷物を下ろす。季節柄やや肌寒く感じる中、十真が玄関を開けて荷物を運び込み、続けて『入って』とジェスチャーで示す。それに従い中に入ると、短い廊下部分の突き当たりに風景画が掲げられており、左側にはリビングへの扉があった。
十真がそちらの扉を開け、部屋の電気を点けて部屋へ入っていくので、ヴェルナーもそれの後を追う。
「お邪魔しまーす
……
」
「はーい。あんまり広くないけど、良かったらゆっくりしてってくれな」
リビング
――
もとい、リビング・ダイニング・キッチンが一体になったその空間は、偏見もあるかもしれないが男の一人暮らし部屋にしては随分と清掃が行き届いていた。
リビングルームのスペースにあるのは床に敷かれたラグマットに、ローテーブルとソファ。小型ではあるがテレビも置かれ、細々した小物は棚などに綺麗に収納されている。また小さいが観葉植物も置かれており、葉の色合い等から手入れは行き届いているようだった。キッチンは比較的広く、冷蔵庫や食器棚といった基本的なものだけでなく、様々な便利道具も揃っているらしく、料理が趣味の十真にはよいだろう。その他キッチンの奥には別の部屋への扉があり、その向こうは寝室だそうだ。
交際から随分と経過してから訪れた恋人の家に、ヴェルナーは高揚感と初々しい緊張感を抱く。
「ここが
……
トーマの家か
……
」
ゆっくりと発されたその言葉に、洗面所で手を洗ってきたらしい十真が呆れたように言う。
「なんだよそんなしみじみして。何の面白みもないぞ? あんたの家に比べたら狭いし」
「いや、狭い広いの話じゃなくて
……
やっと来られたから、さ。なんだか嬉しくて」
「そっか。まあ、僕も嬉しいよ。漸くヴェルナーのこと呼べたし。
……
あ、荷物適当にその辺に置いていいから。あと一回ちゃんと手洗ってきて。洗面所あっちだから、使ってくれていいから」
「え、あ、うん、わかった。
……
ついでにトイレ借りていい?」
「もちろんいいよ。トイレは洗面所の隣な」
ヴェルナーの発した『嬉しい』に十真が頬を緩めたのも束の間、彼はすぐに洗面所を示して指示をする。突然の切り替わりに少し驚いたが、とりあえずヴェルナーはそれに従い、適当に荷物を置いてお手洗いを借り、きちんと手も洗った。
その後は、羽織を片した十真が台所にてつまみの用意を始めたためそれを手伝い、ちょっとした飲み会の準備を行う。
シャワーで汗を流したい気持ちもあるが、まずは腰を落ち着けてゆっくり休み話したいという気持ちが勝った。二人ともそんなに大量に酒を飲む気はない。いつもの調子で軽く飲む程度ならきっと平気だろう。それに、空港のラウンジで一度シャワーは浴びている。そんなわけで二人で酒を飲もうということになったのだ。
酒は赤ワイン、おつまみはバゲットにチーズやハム、野菜を載せたブルスケッタと呼ばれるものと、牛肉にチーズを載せてオーブンで焼いたものだ。どちらも赤ワインと食すのに丁度良いだろう。これに付け合わせの白菜とツナを混ぜたサラダも添えて、気づけば想定より豪華な食卓になった。
ちなみに、あれこれ作って時間がかかりそうではあるが、一部の食材の下ごしらえは出発前に済ませていることと、十真本人の手際の良さからさほど時間はかかっていない。
ヴェルナーとしては、もう深夜に近いのだからスーパーマーケットやコンビニで買った適当な冷凍食品でも良かったのだが
……
そこは十真のこだわりだったのだろう。
ちなみに『ヴェルナーの口に入るものはやっぱできる限り僕がちゃんと作りたいんだよね』
……
というのが十真の談である。
皿に盛り付けたおつまみをリビング部分にあるローテーブルに並べた。続けてソファに腰を下す。ソファは男二人で座っても充分に余裕がありそうなものであり、二人で座っても余裕があるようにと考えて選んでくれていたのだろうかと一瞬考える。もしそうだとするならばなんだか嬉しい。
続けて十真はヴェルナーの隣に腰を下ろし、折角だからとヴェルナーのワイングラスに赤ワインを注ぐ。トクトクと注がれるワインは葡萄の色合いが鮮やかで実に芳醇ないい香りがした。
別にわざわざお酌をしてもらう必要はないが、たまにはいいだろう。ありがたく注いで貰って、今度は逆にヴェルナーが十真のグラスにワインを注ぐことにした。一瞬驚いた十真だったが、折角だしとお酌を受け入ることにしたようだ。ヴェルナーは十真のグラスにワインを静かに注いでからボトルをテーブルに置き、手にグラスを携える。お互いにワイングラスを手に持ったのを確認してから、穏やかな表情で十真が口を開いた。
「さて、改めて長旅お疲れ様ヴェルナー。暫く日本でゆっくりしてってね」
「うん、ありがとう。数日間楽しもうね」
「はーい乾杯!」
「かんぱーい」
チィン、とグラスが軽く重なり合う音を響かせて、二人が静かにワインを呷ると、上品な味わいが口いっぱいに広がる。ヴェルナー好みの味で一気に飲み干してしまいたくなったがそれでは勿体ない。一口二口飲んでグラスから口を離した。
「
……
これ、美味しいね。結構俺好きかも」
「そう? よかった! 今までのヴェルナーの傾向から考えたけど、口に合うか分からなくて不安だったんだよな。よかったよかった。あ、つまみも、口に合うと嬉しいんだけど」
「そうだよね、じゃあこっちもいただきます」
ヴェルナーの反応に安堵したのだろう、目を細めた十真はその後テーブルに置かれた品々を指さした。ヴェルナーはもちろんそれらもありがたくいただくつもりであるため、ひとまずトマトやバジルが載ったブルスケッタを手に取ってかぶりつく。トマトや調味料のさっぱりとした味わいにニンニクの風味が非常に良く、いくらでも食べられそうな気さえした。はっきりいって、とっても美味しい。
「おいしい! 美味しいよ、これ!」
「ほんと!? よかった
……
!」
「うん、すごく美味しい! なんかいくらでも食べられそう」
「そう思ってもらえると嬉しいなあ。 やっぱり他人に食べてもらう時って大丈夫かなあって不安になるからさ。ヴェルナーに出すものだから気を使ってはいるんだけどね」
「トーマが作るご飯って、なんでも全部美味しいから大丈夫だけどねえ。というかこの香りって何だっけ? 日本の調味料とはなんか違うような
……
」
「え? あぁ、バルサミコ酢かな。少しだけ入れたから」
「へぇ
……
俺使ったことないや。トーマはすごいねえ。色々使ってて。あ、こっちのチーズのももらっていい?」
「別にそんなことは
……
あ、いいよ、どんどん食べて」
実をいうと、ヴェルナーは、正直料理に対するこだわりは特にない。美味しいものを食べたいという気持ちがないわけではないが、凝ったものを作る気はあまりないし、ほぼ毎日同じものを食べていても平気だ。好きな食べ物も嫌いな食べ物もあるが、食べられるものなら何でもいい、総合的に見て食事のバランスがとれていればそれでいいといった感じである。それでも、ヴェルナーは、十真が作ってくれる料理だけは特別に好きであった。それは単純に料理が美味しいことだけでなく、やはり愛する人が丹精込めて作ってくれたものだからという特別感もあるのだろう。それに加えて、キッチンで楽しそうに料理をしている様などを見るとなんとも暖かい気持ちになるのだ。
――
あぁいう時のトーマって、結構可愛いんだよなあ。
恋人視点でそんなことを思いながら、チーズやハムが載ったブルスケッタに、肉とチーズのオーブン焼きも白菜とツナのサラダもどんどん口へ運んでいく。そうして、気がつけばつまみの量は残り僅かになっていた。
「おつまみも美味しいし、ワインも美味しいし、最高だねえ」
「そりゃ良かった」
「気づいたら俺かなりの量食べてるけどよかった?」
「大丈夫! 自分の分は確保食べてるし、ヴェルナーがたくさん食べてくれるの見てるの楽しいから!」
「そっか、まぁ、それならいいか」
「何だったら他のおつまみも作ってくるけど」
「え、いや、それは
……
うーん、とりあえずいいかな! お腹いっぱいになってきたし」
「そっか。じゃあ、また食べたくなったら言って。僕、ヴェルナーのためならなーんでもご飯作っちゃうから」
「ありがとう。じゃあ、その時はその時でリクエストするね」
上機嫌で微笑み体を寄せる十真に、一瞬ドキリと胸が高鳴った。酒のせいもあるのか、彼は随分と陽気で、甘えるように接触しヴェルナーの膝の上に置かれた手に触れる。このくらいの接触で激しく高揚するような時期はとうに過ぎたが、やはり密に触れ合えると嬉しいものである。
十真の言葉に耳を傾けつつぼんやり胸に温かいものを感じる。途中で、そういえば、十真はヴェルナーが食事を堪能している様を見るのが好きだったはずだと思い出した。ヴェルナーがそういうことを感じた経験は少ないが、言いたいことはわかるし彼に楽しんでもらえているならいい。ヴェルナーだって、大切な人に喜んでもらえることは喜ばしいことなのだから。
それからおよそ一時間後、ワインやつまみを楽しみほろ酔い状態になったヴェルナーは、十真にひたすら愛の言葉を囁いている真っ最中であった。
ローテーブルにはカラになったワインボトルが鎮座し、並べられたいくつかの皿はオリーブオイルやドレッシングが残る程度で、すべて綺麗に完食されている。
そんな状態で、ヴェルナーはソファに座る十真の肩や腰を抱きひたすらに愛をぶつけている光景が展開されていた。
「トーマ、好きだよ、愛してるよ。ほんと、俺にとっては最高の人だよ君は。かっこいいし可愛いし、若い頃の君も可愛くて良かったけど今の君も美形で素敵だよねえ」
「そ、そりゃどうも
……
」
「おじいちゃんになってもかっこいいんだろうなあ君は」
「そ、そういうあんただって
……
」
「ん? 何?」
「
……
えっと、ヴェルナーも、今も昔も
……
かっこいいよ」
「んふー、ほんと? うれしいなぁ」
十真が耳まで赤くし、更に目線を泳がせてぎこちなく返す。ヴェルナーは、こういった彼の初々しい反応が可愛らしくて非常に好きだった。
これも、年に一度や二度しか会うことができないというのも大きな要因かもしれない。しかし、電話越しやモニター越しでも、直接でも愛しい気持ちを伝えれば十真は彼なりに言葉を返してくれる。そう思うと初々しい反応でもなんでも嬉しいのだ。
「かわいいねぇ、トーマは。かわいいよ」
「あ、ありがと」
「可愛い可愛い、よ~しよし」
「
……
今日のあんた、大分酔ってるな?」
ふわふわとした不思議な気持ちになっているヴェルナーは、子供をあやすように十真の頭を撫で、頬に触れる。すると呆れた様子の十真がそんなことを呟いた。そう言われて自身を顧みると、確かに普段の十真とのやりとりと比べて随分気分が高揚しており、それを惜しげもなく表に出している気がする。
「んーそうかも。やっぱり久々に会えたし、トーマの家だし、気分上がっちゃったのかな。お酒の量や度数はいつもと変わらない筈なのに、すごくふわふわした気持ちだから」
「そっか
……
。でも、その、明日観光できるか?」
「観光できるよ! 大丈夫! まあ、できなかったらトーマと一日いちゃいちゃするのもありかなって思ってる」
「それもありかも
……
。
……
いや、でも昼食は店予約してるから、少なくともそれには間に合うように起きような!」
「そうだった、ごめんごめん。大丈夫、ちゃんと起きるから」
「思い出してくれたならいいよ。明日も楽しみだな」
「うん、そうだね」
ふわふわと笑っていたヴェルナーが、慌てて眉根を下げて謝罪を口にすると、十真は眉根を下げて柔らかく笑みを浮かべてそう返した。少しばかり困らせたのはこちらなのに、そんな風に優しげな笑みを浮かべる彼はなんとも可愛らしく思えてしまう。だからつい、愛おしげに思いながらじっと見つめて片手で頬をなぞった。
続けて暫く彼の頬をぺちぺちふにゃふにゃと触った後、何気ない素振りでぽつりと『キスしていい?』なんて問いかけると、その質問に十真は驚いたように短く声を漏らす。恐らく改めて聞かれると思わなかったのだろう。十真は数秒沈黙したあと、緊張した様子で小さく『いいよ』と返した。
それを受けて、ヴェルナーは少しだけ距離を詰めると両頬にそれぞれ手を添えて徐に目を閉じ唇を重ねた。十真も、静かに目を閉じてそれを受け入れる。思えば、二人きりの状況になってからこのようなわかりやすい愛情表現をしていなかった。空港ではあんなに抱擁したい気持ちに駆られていたというのに、再会してから時間が経ったからだろうか、それとも食事に夢中になっていたからだろうか。ヴェルナーにもよく分からなかったが、折角二人きりで存分に愛し合える状況なのに、なにもしないというのはもったいない気がする。
ヴェルナーは、柔く重ねた唇を少し離してから、もう一度口づけをする。途中、ワインの味をほのかに感じながらちゅ、ちゅと小さな音を響かせて更に唇長く重ね合わせ、ゆっくりと離し、火照った心持ちで彼を見上げる。
「
……
トーマ」
「
…………
ははっ、なんだよ」
「愛してるよ、トーマ」
「
…………
僕も、あ、愛してるよ」
普段あまりはっきりと言ってくれない十真が、照れくさそうに返してくれた。それが嬉しくてつい破顔し、もう一度口づけをしてそのまま覆い被さるように抱きつく。
その行動に十真は一瞬戸惑ったように眉根を寄せたが、嫌悪感ではなくどうやら重たかったためらしい。自分に負担のないようにソファの上で姿勢を整えてから、ヴェルナーの体を抱き寄せ、短い髪を撫でる。そんな状態で恋人に甘えているとついつい気分も開放的になるが、愛の言葉だけでなく普段極力口にしないようにしていた想いも表に出てしまう。
「トーマ、好きだよ、愛してるよ」
「うん、ありがと。僕も好きだよ。ヴェルナーのこと愛してるよ」
「
……
ねぇ、俺のところに来てよ。一緒に住もう。結婚はまだできないけど、パートナーシップはあるし、トーマならこっちでも充分やっていけるよ」
「あ
……
えっと
……
そう言ってくれるのは嬉しいけど
……
」
「
……
ごめん、まだ無理だよね、ごめん」
「あ、いや、こっちもごめん」
ヴェルナーの言葉に、十真は顔を曇らせて慌てて謝罪を口にする。何も、十真はヴェルナーと生活するのが嫌だと言っている訳ではない。十真だってもっと傍にいたいと思ってくれているそうだ。では何故『まだ無理』なのか。それには事情がある。
十真には何人もの甥姪がおり、彼はその子達の面倒を見なくてはならないのだそう。その子たちは姉二人の子供が多く、姉達が非常に多忙なため面倒を見るのを押しつけられているという状況なようだ。しかも月に数回というような頻度ではなく、週に何度も。いや、ほぼ毎日というべきか。
十真は、平日には仕事終わりに同じ市内にある長姉の家に向かい、甥姪の様子を見たり家事を共にこなしたり、保護者向けの連絡に目を通すことが多いという。更に週末は大阪府にある次姉の邸宅に行き、次姉の子供達の習い事の送迎などをするのだそうだ。甥姪は皆しっかりしており家事も兄弟姉妹で分担しこなしているというが、まだ学生で未成年の子も多い。それ故に定期的に様子を見に行かないと心配なのだろう。
しかも普段の家事等だけでなく、十真がいじめ問題や受験問題に対応したこともあるといい、彼の負担が多すぎるのではないかと心配になる。
ヴェルナーは、十真が甥姪の面倒を見ていること自体に文句を言う気はないが、しかし、十真が過度に負担を負う必要はないのではと考えているし、そのせいで彼自身のやりたいことが後回しになるのはいかがなものかと考えてしまうのだ。
別に何もヴェルナーは『トーマは必ず俺と一緒になりたいと思ってくれているはずだし、それを最優先すべきだ』なんてことを考えている訳ではない。ただ、甥姪のことを優先しすぎて十真本人の私生活に悪影響を及ぼしているのでは良くないと思ってしまう。そもそも、甥姪は十真の子供ではないし、その負担は本来十真が過度に負うものではない。
別に、甥姪の親である長姉夫婦や次姉夫婦がすべて負担しろと言いたいわけではない。周囲を頼ることも問題ない。ただ、限度があるだろうと言いたいだけだ。
そんなことをあれやこれや考えながら、ヴェルナーは十真に身を預ける。
「
……
その、別に、トーマが全部やらなきゃいけないわけじゃないからね」
「それは分かってるよ。でも、甥っ子と姪っ子のことは心配だし。
……
成人してる子もいるけど、大半が未成年だし」
「そっか
……
あれ、トーマの甥っ子と姪っ子って全部で何人いるんだっけ」
ヴェルナーの問いかけに、十真は思い出すように目線を上に逸らし人数を確認する。
「えーっと
……
11人だね。そのうち、近くに住んでて僕がよく様子見に行ってるのが9人。遠方にいるけどどうしても心配で気にかけてるのが1人って感じかな」
「多いねぇ。
……
あれ、後の1人は?」
「あぁ、その子は見た感じ何のトラブルもないし、親にすごく大事にされてるお嬢さんだから、言うほど気にかけなくても大丈夫そうっていう感じでな。こっちが知らないだけの可能性ももちろんあるけど
……
兄貴のところの娘さんだから、警戒されて親族の集まり以外で関わらせてくれなくて」
「へぇ
……
何でだろうね、邪なこと考えてるって気にしてるのかな? トーマがおかしなことするわけないじゃんか」
「そうは言っても父親だから、娘のことが心配なんだろ。
……
僕としてはその心配の気持ちをもう一人の方にも向けてやってほしいけども」
「
……
トーマの家って、すごく難しい問題をたくさん抱えてるよね」
「まぁ、ね。色々あって疲れるよ。でも、甥っ子と姪っ子のことは好きだし、兄貴と姉さん達のことも嫌にはなれないし。腹は立つけど」
「そっか。トーマは優しいね」
「そうかねえ、ただ兄貴や姉さんたちに逆らえない弱っちいだけなやつな気がするけどな」
「うーん、でも俺も姉さんや兄さんには反抗しにくい時あるし
……
弟ってそんなもんじゃないかな」
「んーそっかあ」
軽い口調で言葉を交わしながら、自然とお互い手を握り指を絡める。体格のいい十真のゴツゴツした手を触るのも久しぶりである。そういう感覚を改めて確かめながら、ヴェルナーは何でもない調子で十真の言葉に返答する。先ほどの返答はお世辞でも何でもない。ヴェルナーも弟かつ次男の立場故に似たようなことは経験しているのだ。
そうして、真面目な空気感から落ち着いた雰囲気を経て、再度少し真剣さを帯びた言葉を呈する。
「ねえトーマ。トーマってとっても優しい人だし、君がそうやってお兄さんやお姉さん達に気遣ったり、甥っ子や姪っ子の面倒を熱心に見てるのはいいことだと思うよ。でも、それとは別にトーマはやりたいことやっていいはずだし、それに、その
……
いつか俺のところに来てくれる気持ちはあるん
……
だよね
……
?」
「そりゃもちろん。まだ厳しいけ、どヴェルナーと一緒に生活したいとは思ってる。僕が年取っても一緒にいたいって思ってるのは、ヴェルナーだけだよ」
「そう
……
それなら良かった。嬉しいよ」
十真の前向きな回答に、ヴェルナーは内心胸を撫で下ろした。ちなみに、ヴェルナーが『俺のところに来て』という言い方をしているのは、同棲するなら十真がリヒテンシュタインに移住する方が良いだろうと両者ににて話し合って決めているからである。
さて、ヴェルナーは十真からの返答を受け安堵したあと『渡したいものがある』と言って一旦十真の元を離れる。十真は突然のその行動に不思議そうにしていたが思い当たったようで、なんとも恥ずかしそうな、気まずそうな顔をしている。
そして十真自身も一言断りを入れてからソファから立ち、少しローテーブルの位置をソファから離し、彼も何かを取りに自室へと向かった。
突然なんだと思われそうであるが、実は二人は、この日のためにとあるプレゼントを用意していたのだ。タイミングは微妙かもしれないが、どうせなら一日目のうちに渡しておきたいものだからだ。
ヴェルナーは、自分の鞄の中から箱を取り出した。これが、今回の十真への贈り物であり、自分にとっても重要な契約の品である。それを見つめて、ふぅと短く息を吐いた。自分からこの状況に持って行ったのに、なんだか胸の鼓動が早くなったような気がする。
再度、己を落ち着かせるようにもう一度ゆっくり息を整えて、ヴェルナーはソファに戻り腰を下ろす。すると戻ってきていた十真がやや照れくさそうに小さな袋を片手に立っており、ヴェルナーが声をかけると我に返ったように慌ててソファへと腰を下ろした。
これから何を渡されるか理解している十真はカチコチと体を硬くしてしまっている。これもこれで可愛らしいと思うが、少し緊張をほぐしてもらいたいと思い、ゆっくりと声をかける。
「あー
……
トーマ、大丈夫? 緊張してる?」
「へぁ!? あ、いや、だ、大丈夫
……
! えっと
……
僕もちゃんとプレゼント用意したから
……
受け取ってくれると嬉しいな。
……
でも、その、まずは
……
言い出しっぺのそっちから、でも
……
いいかな
……
」
「うん、ありがとう。
……
じゃあ、改めて
……
」
声かけに肩を跳ねさせた十真だったが、そのおかげで少し気持ちがほぐれたらしい。恥ずかしそうにしながらもヴェルナーへと行動を促す。
ヴェルナーは小さく頷きソファから降りると、片方の膝をついて、先程とは打って変わって実に真剣な面持ちで小さな箱を開き、ソファに腰を下ろしたままの十真に見せる。そこには男性向けのプラチナリングがひとつ中央に収まっている。白銀の指輪には小さなライトグリーンの宝石が埋め込まれており、非常に高価な品であることがありありと分かるだろう。
ヴェルナーが膝をついたあたりから目を丸くして明らかに動揺していた十真だったが、指輪を見せられると驚き戸惑った後に頬を幾許か赤らめる。口角も上がっているように見えて、嬉しいという気持ちが隠しきれていない様子である。
少なくともマイナス感情は見受けられない。そんな様子にヴェルナーも嬉しく思うが、ここで破顔している場合では無い。一旦気を引き締めて口を開く。
「トーマ、今はまだ正式に結婚は出来ないし、それどころか一緒に住むことも出来ない。けれども、俺は、君の事を愛してるし、共にいるなら君がいい。だから、これを
……
契約の品として受け取ってほしいんだ。」
「
……
うん」
「とはいえ、これは受け取るのは強制じゃないし、絶対指に嵌めてもらわなきゃならないわけでもない。でも、受け取ってくれると
……
俺は、嬉しい」
「
……
うん、もちろん、ありがたく受け取らせてもらうよ」
明らかに喜ばしさを面に湛えている十真は、ゆっくりと返事をした。
実は、今回事前にプレゼントとして指輪などの記念品を交換し合おうではないかという話をしていた。というのも、十真と交際して15年経つが、ヴェルナーは先の見えない不安をずっと抱えており、それが今回の話に繋がるのである。
恋人たる十真のことはもちろん心底愛している。少なくとも現状は彼以外の相手と愛を誓う気は全くない。しかし、いつになったら一緒になれるのか分からないし、周囲から見たら同性カップルであるということを差し引いても『15年も交際している相手がいるのに結婚どころか同棲する様子も一切ない』というのは少し不思議な光景だろう。
事情を知る友人は不安に思いつつ見守ってくれているが、中には『本当に恋人はいるのか』『なにか騙されているのではないか』と心配する者もいる。大きなお世話だと思うが、心配する相手の気持ちも少しは分かる。
あと数年待てばきっと十真と一緒になれる
――
そう思って生活しているものの、甥と姪がある程度成長しないと十真も保護者として安心できない。それに、十真の姉たちがきちんと保護者としての役割を果たしてくれるようになるのがいつかも分からない。かといって十真は与えられた
――
いや、押しつけられた『責務』を放り投げる無責任なことをする人ではない。
だからこそ『愛の証』として、かつ高価な品を贈呈し合えるほどに信頼関係を築いた恋人がいることの証明としてなにかそういったものを交換し合おうと考えたのだ。
……
まぁ、そもそも十真の姉たちが保護者としての責任を果たしてくれる人であれば何も問題はなかったはずではあるが、そこは過度に考えないでおく。ヴェルナーが話にしか知らない十真の姉達に腹を立てるのは勝手だとしても、それを十真本人にぶつけるのはあまり褒められた行為ではないことくらい理解している。
閑話休題。そんなこともあり、旅行の計画を立てていた日のとある場面で、ヴェルナーは自室のリビングにてそんなことを口にした。突然の提案にも関わらず、モニターに映る十真は、肯定的なリアクションを露わにする。
『ヴェルナーの言うことも分かるよ。確かに僕たち、プレゼントはし合っててもそんな高価なものはなかったし、それこそ指輪はなのはなかったもんね。だけど、その
……
ヴェルナーを不安にさせてるのは悪かった
……
』
「別にいいよ。トーマにはトーマの事情があるし、それに、その、この指輪だのなんだのってのは俺のわがままだから、いいのかなって思うんだけど
……
」
『別にいいよ。寧ろ、そんなくらいの我が儘ならしっかり叶えてみせるよ』
「ふふ、ありがと。優しいねトーマは。
……
じゃあ、俺に指輪プレゼントしてくれるってことでいいんだね?」
『うん、大丈夫!
……
まあ、流石に、日本で昔言われてたみたいに"給料三ヶ月分"みたいなことは厳しいかもしれないけど
……
それなりの指輪は贈れるはずだから!』
「ありがとう。嬉しいよ。
……
あ、もちろんそんな高価なものを要求するつもりはないからね。ていうか何給料三ヶ月分って
……
」
『僕が子供の頃からそういう広告の文言みたいなのがあるんだよ、日本には。まあ、実際はそんなの気にしなくていいって言われてるけどね』
「そうなんだ
……
まあ、でも、ほんと、トーマが無理のない範囲でいいからね。そもそもこっちに来るまでもお金かかる訳だし
……
」
『ありがとう。まあ、実際用意するとしたら、相場に則ったものにするつもりだけどね』
安堵させるように目を細めたトーマを見て、ヴェルナーはついつい頬を緩ませた。その後金額も少し話題にしたが、実際ヴェルナーはそんなに高額なものを求めていない。
やはり『愛の証』たるものを贈り合うという場合は指輪が多いだろうし、婚約指輪という体で用意するなら高価にもなりがちだ。だが、ヴェルナーが欲しいのは『気持ち』だ。例え
数千スイス・フラン
数百万
の高価な指輪を受け取っても、愛情が皆無なら無意味である。それなら、微々たる金額でも気持ちのこもったものを受け取りたい。
自分自身の気持ちも明確にしたところで、念のため十真本人の気持ちも確認する。
「トーマはやっぱり指輪ほしいって思う?」
『ん~
……
どう答えるか悩むな。そりゃもらえたら嬉しいけど、絶対欲しい訳でもない。だけど、指輪を嵌めてたら本当に恋人いるんだって思ってもらえる可能性もある。
……
いや、でも、そういうことの為に指輪嵌めておくのも変だしな
……
』
画面内で十真が思案する様子が見える。やはりあれやこれやと細かいところを考えてしまうらしいが、ヴェルナーとしては『欲しいか、欲しくないか』で決めてもらっていいものだった。
しきりに悩む彼にそれを伝えると、十真は漸く『だったら、欲しいかも
……
』とぎこちなく返した。彼の気持ちが聞けて満足である。
「了解。じゃあ指輪のサイズとどんなのがいいかだけまた教えて」
『うん。それじゃ後でヴェルナーもサイズと好きなデザイン教えて』
「はーい」
にこやかな笑顔と共に発された陽気な声を聞き、少し安心する気持ちを抱いた。しかし、時に、ふと考える。『指輪さえあれば自分は安心できるのか?』
――
と。
何故自分自身が先の見えない不安を抱えているか
――
それは、やはりいつ十真と同居できるかが分からないためだ。そう思うと、やはり指輪だけではいけない、もっと踏み込んで具体的なことを訊ねなければならない。
話に一区切りついたところを見計らってヴェルナーは、とある話を切り出した。
「トーマ、ちょっと真面目なことを聞きたいんだけど、いい?」
『
……
いいよ、何?』
ヴェルナーから発せられた落ち着いた声色に、十真も少々顔つきや姿勢を正す。真剣な話だと察したのだろう、声の調子もどこか真摯さを帯びている。
十真のその態度を受け手、ヴェルナーは徐に口を開く。
「君は、指輪を交換することは受け入れてくれた。それはとっても嬉しい。ありがとう。
……
けど、よくよく考えたらそれだけでは安心できないんだよね。だってさ、その
……
指輪あっても、同居できる時期が明確になったわけじゃないから
……
さ
……
」
『あー
……
そう、だよね』
「とっても我が儘で申し訳ないんだけど、なにか、目安があると、ちゃんと安心できるかもしれない
……
」
『別にいいよ。言いたいことは分かるし、そりゃ不安だよなって思うから。にしても、目安、か
……
』
「まあ、トーマが俺と同棲する気持ちがあるなら、だけど
……
」
『そこは大丈夫。僕も一緒に生活したいとは思ってるから』
「
……
それなら良かった」
迷いながらも発された自身の気持ちに、十真も画面の向こうで当惑したように眉を寄せて頬杖をついた。そしてヴェルナーが添えた言葉には当然のように肯定的な言葉を返す。少なくとも不快感を抱いているわけではないようだし、同棲したいという気持ちは一致している。だが、いきなり目安を示せと言われても困るだろう。幾許かの罪悪感を抱きながら、怖々と言葉を続ける。
「例えば
……
その、トーマが面倒見てる子達の中で一番幼い子って何歳なの? あと、その子が成人するまで何年かかるの?」
『えっと、一番幼い子は
……
10歳だね。それで、成人するにはあと10年かかる。今の日本の成人年齢は20歳だから』
「そうなんだ
……
。うーん、自分から例えに出しておいてなんだけど、流石に10年は待てないかも
……
。俺60歳超えちゃうし」
『だよね。それはそうだろうなって思うし、そこまで待ってもらうつもりはないよ。僕もここから10年はきついし。
……
だけど、その子が高校卒業するまでなら8年、義務教育が終わるまでなら5年だから、そのどっちかを区切りにすればまだいいかも』
「そっか
……
」
十真の明示した期間はどちらも比較的長い。しかし、10年待つよりはよっぽどいいし、こうして一つの区切りができるとお互い将来の見通しが分かりやすくなり、行動も起こしやすいだろう。そうなると、ヴェルナーが提示する答えは決まっている。
「そっか、じゃあ
……
5年でどうかな。一つの目安。それを最長期間として、トーマも動いてもらうって感じで
……
」
『うーん、5年か
……
』
その言葉に、十真は一瞬悩ましげな顔つきをした後でなにやら日本語で言葉を零した。続けて数秒思案するような面持ちに変えて沈黙していたが、暫く経過したところで短く肯定する。
『それなら、いけると思う』
「本当!?」
『うん。あと5年なら、僕も余裕持って動けるし準備もしやすいと思う』
「本当に? 大丈夫そう?」
『うん
……
きっと大丈夫だと思う。
……
まあ、もしかしたら厳しいところもあるかもしれないけど
……
でも、5年もあれば一番幼い子も、少なくとも中学は卒業するから大分手が離れるし、もしかしたらその間に僕も家族に打ち明けて姉さんとも話し合いができてなんとかなるかもしれないし
……
。そうでなくとも、同棲に向けて動くには充分余裕持ってやれると思う。うん、きっといける!』
不安げに問いかけたヴェルナーに、十真はしっかり頷いた。長々と羅列された言葉から察するに、やはり不安はあるのだろうが、けれども、改めて力強く頷いてくれたことにより、ヴェルナーも少し気持ちが落ち着くような感覚があった。
「じゃあ、一応の目安としてあと5年俺は待つね。6年目は待たないから」
『わかった。
……
ちなみに、もし、6年目に突入したらどうなる? もしかして
……
別れるのか?』
「まさか! そんなことはしないよ。ただ
……
高頻度で急かす感じになっちゃうかもね。まあ少なくとも別れるってのはないよ」
『あ、あぁ
……
そっか
……
。ま、まあ、いくら別れないと言ってもそんなことにはさせないけど! 折角区切りをつけてくれたし、5年もあるんだからなんとかしてみせる!』
「それを聞いて安心したよ。俺も過剰に急かしたいわけじゃないからね」
十真のことだ、少なくとも故意に嘘を吐くつもりはないだろうしなんとか動いてくれるはずだ。ただ、十真がヨーロッパに来ることはほぼ確定しているとはいえ、すべてを彼に任せて自分は何もしないのも忍びない。こちらも改めて海外からの移住者がすべき手続き等を確認しておこうと、タスクメモに追加した。
それから、改めて指輪について確認し合い、お互いに指輪のサイズや好みのデザインを伝えた。金額のことを考えると決して安いものではなかったが、一年に一度会える大切な人であり、かつ記念の品となれば、少々値が張るのも致し方ない。
唯一の懸念点はジュエリーショップで自分のものとは異なるサイズの男性向けの指輪を買うときに怪しまれないかという点だけであったが、実際は特になにもトラブルはなく杞憂で終わったのだった。
さて、長くなったが、十真が指輪を渡された光景に戻る。
リビングルームにて、ヴェルナーから手渡された指輪を、十真はゆっくりと箱ごと手に取った。こういった長い経緯もあり指輪を渡すことは既に伝えていたため、彼も心構えはできていただろうが、いざ渡してみると本当に受け取ってもらえるのかという不安がどうしても心の中に居座っていた。そのため、まずはこうして受け入れてもらえて静かに胸を撫で下ろす。同時に、バランスを調整するため、片方の膝を立てた状態から、一旦両膝を立てた姿勢に変えた。本来はきちんとプロポーズが終わるまで片膝を立てている方がいいのだろうが、少ししんどくなってしまったのだ。
十真は自身の手のひらに置かれた小さな箱を見て詠嘆の溜め息を吐き、軽い笑みを零した。蓋が開けられた箱の中央にはプラチナリングが収まっており、それを見た十真が口の端を緩めて小さく笑った。
「ははっ、ほんっとに指輪だ
……
マジモンじゃねぇか
……
」
「そりゃそうでしょ。おもちゃの指輪なんて持ってこないよ」
「
……
高いんじゃねぇの」
「何を言うのさ。これはある意味婚約指輪なんだよ? 婚約指輪買えないくらいに困窮してるってことはないよ」
「それも、そうか」
「うん。さて、トーマ。返事は? 俺と一緒に居てくれる?」
ヴェルナーは再度片膝を立て、表情を正して問いかける。すると、十真は少し間を開けてから、照れくさそうな笑みを浮かべてこう返答した。
「もちろん、喜んで。僕はヴェルナーが許してくれるなら、ずっとあんたの傍にいるよ」
柔らかく言葉を零した十真が、明かりの元で目を細め改めて礼を述べた。いつになく嬉しそうに微笑んでおり、穏やかな雰囲気が垣間見える。
それが嬉しくてヴェルナーもつい微笑んだ。続けて、ヴェルナーは十真が手に持つ指輪を指して問う。
「それ、俺が嵌めてもいいかな」
「うん、じゃあ、お願いするよ」
依然として照れくさそうに眉を下げる十真は、じゃあと一呼吸置いて一旦指輪を戻してから右手を差し出してくる。これにヴェルナーはやや驚いた。手を差し出してきたことに
……
ではない。右手を出されたことに少し驚いたのだった。
ヴェルナーの認識では婚約指輪や結婚指輪というのは左手の薬指に通すものだったはずだ。もちろん、東欧やドイツなど地域によっては右手に着ける習慣の国もある。しかし、日本では左手が多いはずだ。
そこがどうしても気になり、恐る恐る指摘すると、十真はあぁ、と息を零してきごちなく返す。
「うーん、なんとなく婚約指輪は右につけたいなって思ってて
……
僕の中の勝手な考えというか。左につけるのはまだ違うかなって
……
」
「
……
ふーん? まあ、トーマがそれでいいならいいよ。じゃ、失礼して」
正直あまり納得できてはいないが、十真の中で線引きがあるのだろう。そこまできつく指摘するものではないし彼がいいならそれで良い。
ヴェルナーは、箱から指輪を取り出して、一定の緊張感と共に十真の右手の薬指に静かに装着した。プラチナリングとライトグリーンの石が彼の大きな手に輝きと彩りを添える。
十真は、それを目にして僅かに顔を緩めたあと、手をかざすように上げて指輪をじっくりと眺める。
「うぉー
……
はは、すごいなあ、指輪貰っちゃった
……
」
「どう? 気に入ってくれた?」
「うん。とっても気に入ったよ。最高の気分!」
喜色満面といった笑みを浮かべる十真の様子を見ると、ヴェルナーも指輪を贈った甲斐があるというもの。ついつい顔が緩み胸の内が温かくなる。最初は心の内にある不安から提案したものだったが、実際は単純に指輪を贈りたい、喜ぶ恋人の顔が見たかっただけなのかもしれない。
なんてことを考えながら、ついていた膝を戻して床からソファへと座り直し、手元にあった箱をローテーブルに戻す。ついでに暫し長めに片膝をついていたからか、床に着けていた箇所が少し痛くなってしまった。
多少痛みを気にするように擦っていると、それに気づいた十真が一瞬困ったように顔を曇らせる。
「あ、膝痛かった? 大丈夫か?」
「ちょっと痛かったけど大丈夫。気にしないで。すぐ収まるよ」
「それならいいけど。しかし別に片膝つかなくてもいいのに
……
」
「何言ってるの。プロポーズするならあのポーズが定番でしょ」
「それも
……
そうか」
「そうだよ。
……
さて、じゃあ、次はそっちかな」
「
……
うん、そうだね。
……
じゃあ、えーっと
……
暫しお待ちを」
「うん」
十真はソファの片隅に置いてあった袋から箱を取り出し、緊張しているのかふぅと小さく息を吐いてからソファから一段降りる。どうやらヴェルナーに倣って膝をついてくれるらしい。その光景に胸をときめかせながら、彼の言葉を待つ。
十真がケースの蓋を開ける。そこにはヴェルナーが見せたものとは異なる輝きのホワイトゴールドのリングがあった。リングの一部がウェーブのあるデザインになっており、デザインもシンプルである。
それを見せ、頬をやや赤く染めながらも真剣な顔つきでヴェルナーを見つめた彼は、力強い声を発する。
「ヴェルナー!
……
僕は、ヴェルナーのことを一番愛してるし、貴方とずっと一緒にいたいと思ってる。だから、その証拠として
……
よかったら、指輪、受け取ってください!」
「もちろん! ありがとう、嬉しいよ。
……
じゃあ、折角だし、トーマも俺の指に指輪着けてよ」
「うん、分かった。いいよ」
開かれた箱がずいっと差し出され、ヴェルナーはその想いを受け入れた。続けてにこやかに左手を差し出す。十真はどうあれ、ヴェルナーは左手に指輪を着けるつもりでいた。指輪に関してはここまで来て受け取らない選択肢はないし、自分の希望を汲んだ上でこれを選んでくれたのだと思うととても嬉しいし、ついつい頬が緩む。
十真が緊張した面持ちで左手の薬指に指輪を嵌めて、手の甲に軽く唇を落とした。可愛らしい愛情表現にたまらない気持ちになる。
そしてホワイトゴールドのシンプルなリングが、ヴェルナーのふくよかな指に添えられて煌めく。ウェーブのあるデザインも相俟ってヴェルナーの手によく似合っており、ついほくほくとした気持ちになった。ふにゃふにゃと頬を緩めて目線の先にあるリングをじっと眺める。
「ふふ、嬉しいね。俺が言い出したこととはいえ、やっぱり恋人から指輪貰うって特別な体験だねえ」
「喜んで貰えて何より。こっちもありがとな、指輪、すごく嬉しいよ」
ソファに座り直した十真がうっとりした声色で話して体を凭れされる。手を伸ばして右手に着けられた指輪をまじまじと見つめており、本当に言葉通り、彼が喜ばしく感じていることを改めて認識した。体にかかる重みは決して軽くはないものの悪い気はせず、寧ろもっと彼のことを身近に感じたくて肩を寄せる。
体を寄せた際に、十真と目が合った。お互いに瞳をじぃっと見つめ合ってからどちらからともなく目を細めて唇を重ね合う。一度だけでなく二度、三度と何度も口づけをする。肩に添えていた手を頬にやると、そこに軽く十真が手を重ねてきた。手のひらの温かい温度の中に僅かに冷たい指輪の感覚が伝わってくる。そのまま貪るように口内を味わい尽くしてふと口を離し薄く瞼を開けると、十真も同じように目を開けていて、蕩けた瞳と視線が合った。彼は目を細めてから更に口づけをしヴェルナーの体へ手を回し抱擁される格好になる。
「『はー
……
最高、幸せ
……
』」
「
……
ん? 日本語? ごめん、なんて言った?」
「あ、ごめんごめん、幸せだなあって言っただけ」
一瞬聞こえた聞き取れない言語を聞き返せば、十真は慌ててドイツ語で言葉を返す。そこで出てきた『幸せ』というワードに、ヴェルナーは耳を傾けると、抱擁されながら、十真は心底満足げな声色でゆっくりと言葉を続けていく。
「恋人家に呼べて、おつまみとはいえ僕が作ったご飯も食べてくれて、指輪も交換できてさ。なんか、めっちゃいいなあって。将来どうするかってことも僕の中で見えてきたし、お互いのためにも、いい方向に向けたのかなって
……
」
「なるほどね、そう思ってくれたなら嬉しいや。
……
俺も、最初は自分の我が儘かもって思ったけど、結果的に良い方向に行ったなら、よかったのかな」
明るめの茶髪に指を通して目を細める。自分のも行動も肯定されたような気がしたことや、幸せを純粋に喜んでくれる彼のことがなんとも愛らしく思えた。
十真は、最後にもう一度ヴェルナーに軽く口づけをしてにこっと微笑む。何だろうと思っていると、ちらりと壁に掛かる時計に目を向けて『そろそろ寝るか』小さく呟いた。
彼につられてヴェルナーも時計を見やる。壁にあるそれはとうに天辺を過ぎ、それどころか深夜1時が間近になっている頃だった。
一瞬、もうそんな時間かと驚いたが、冷静になれば納得だ。ヴェルナーが日本に着いたのがおよそ18時半頃。そこから食事休憩をして十真の家に向かい、到着したのが23時前、そこから十真と酒を飲み始め近況報告や雑談に花を咲かせて更に指輪交換なんかもしていたのだから、そんな時間にもなる。そう意識したら途端に眠気が襲ってくるような、そんな感覚さえ合った。
「
……
いつの間にか、結構時間経ってたんだね」
呆然と呟くヴェルナーの傍から、十真が徐に立ち上がって移動しぐぐっと伸びをする。動きに合わせて呻き声も発され、続けてヴェルナーの呟きに言葉を返すように言葉を発した。
「だな。そろそろ片付けるか。んでシャワーして寝よう。明日もそんな急がなくてもいいけど、昼は予約した店に行くのだけは外せないからな」
「はーい。明日のそのお店ってどんなのが出るんだっけ」
「料亭の和食だよ。ご飯と吸い物といろんなおかずが出る予定。ついでに個室だからゆっくり食事できるよ」
「へぇ、楽しみだね。
……
あ、俺も片付けやるよ」
「ありがと。じゃあグラスをシンクに下げといてくれる?」
「うん、もちろん」
ローテーブルに置かれた食器やボトルを片付けながら、十真が答えを返す。ヴェルナーも十真の指示従い、使用したグラスをシンクへと運ぶ。
今回十真が予約した料亭は日本人だけでなく外国人観光客にも人気の店なのだそう。英語が話せる仲居がいるとか、英語で書かれたメニュー表があるとか。もちろん訪れる外国人観光客全員が英語を話すわけではないが、そういう対応があると助かる外国人観光客も多いだろう。
実際、ヴェルナーも英語が併記してある方が楽である。母国語はドイツ語だが英語も習得している。ドイツ語が難しいなら英語でコミュニケーションがとれると非常にありがたい。今から料亭での食事が楽しみだ。
さて、それから食器等を片付けた後は、十真に促され先に歯を磨きシャワーを浴びることにした。自身がそういったことをしている間に皿洗い等をするらしい。そんなに任せていいのかと少し気になったが、十真がいいというのだからお言葉に甘えよう。
「お湯をバスタブに入れないんだね」
「もうこんな時間だしなあ。それにあんたはシャワーのが楽だろ」
「確かに。
……
じゃあシャワー室借りるね」
「はーい」
その返事を耳にしながら、ヴェルナーは自身の荷物からバスタオルや寝間着、旅行用の歯ブラシ等を取り出して洗面所へ向かった。
「トーマ、シャワーありがとね。さっぱりしたよ。
……
あれ」
およそ15分後、シャワーを終え寝間着に身を包んだヴェルナーが部屋に戻ると、十真はソファに座り込んでうつらうつらと舟を漕いでいた。別段驚くことではない。もう充分深夜帯であるし、しかも京都から関東までの往復というかなりの大移動をさせ、更に食事の準備までさせた。ヴェルナーが認識しているだけでもかなりの労力を割かせている。それに十真のことだ、ヴェルナーを招待するということで部屋の掃除等も気合いを入れたかもしれない。そう思うと疲弊し眠ってしまうのも致し方ないことであるし、それだけのことをしてくれた彼に対してありがたいやら申し訳ないやら、複雑な気持ちになる。
ヴェルナーは、このまま寝かせておいていいものか少々悩んだが、試しに傍に寄り恐る恐る声をかけてみる。
「トーマ~
……
」
「
……
んん
……
」
「トーマ、起きて、俺シャワー出たよ。トーマもシャワーした方がいいんじゃないの」
「ん
……
」
ソファの横にしゃがみ込み続けて声をかける。呼びかけに反応するということはヴェルナーの声は聞こえているのだろうか。しかし、起きない。別にこのまま寝かせておいてもいいのかもしれないが、ここは十真の家だ。家主が眠りについてしまえば、この後自分は何をどうすればいいのか分からない。眠りにつくにしても、自分もソファで寝ていいのかどうか、それすら判断に悩む。
それに、逆の立場なら折角恋人が起こしてくれたのに目が覚めなかった、恋人用の寝床をきちんと提供できなかったというのはかなり悔やまれることだ。
……
ついでに言うと、無防備な様で眠っている彼のことを見ていると、なんだかドキドキしてしまう気持ちもある。
そのため、再度十真に声をかけて体を軽く揺すってみると、漸く朧気ながら十真が薄く瞼を開く。
「
……
トーマ、起きてよ」
「
…………
うん
……
ん、んん?
……
ヴェルナー
……
?」
「うん、おはよ」
「おはよ
……
?
……
ん、っえ、あ、僕寝てた!? うわ、ごめん!」
「大丈夫だよ。深夜だし疲れてたろうし、寝ちゃうこともあるよ」
ヴェルナーの呼びかけにぼんやりと目を開けた十真は、朧気に言葉を発する。現状がよく分かってない様子で数秒呆然としていた彼だったが、突然ハッとして力強く目を見開き体を起こした。慌てた様子で謝罪をして口元に垂れる涎を拭う。
その様子がなんだか可愛らしくて、つい微笑ましい気持ちになった。幼い子供を見守る保護者のような気持ちにも近いだろうか。
……
まあ、実際には邪な気持ちも含まれているのだが。そんなだから、更に続けて申し訳なさそうにする十真に対し、余計なことを言ってしまう。
「いやいや、でも、ごめん
……
悪かったな、起こしてもらって」
「別にいいよ。寝てるトーマ可愛かったし、ユカタがはだけてるのもあってちょっとセクシーだったから」
「なっ
……
あんた僕みたいなおっさん相手に何考えてんだよ
……
すけべ親父め」
「おっと。でもまぁ
……
好きな人相手だし? それに俺からしたらトーマは若いんだからさ」
「
……
まぁ、別にいいけど
……
。
……
じゃあ、折角起こしてくれたし風呂入ろうかな。
……
あ、そうだ」
「ん?」
ヴェルナーの発言にやや顔を赤くしながらもソファから立ち上がり、風呂場に向かおうとしていた十真だったが、ふと何かを思い出したのか短く声を上げた。何だろうと思っていると、十真はヴェルナーの方を向いて一つ質問をあげる。それは、寝床についてのことだった。
「えっと、そういやベッドについてなんだけど
……
やっぱヴェルナーは床に布団敷いて寝るのは嫌だよね?」
「え、うん
……
そうだねえ。キャンプで寝袋で
……
って訳でもないし、出来れば避けたい、かも」
「だよなあ。そうなるとやっぱり今回はヴェルナーはソファで寝るか、ちょっと狭いけど僕と一緒にベッドで寝るか
……
になるんだよね」
ヴェルナーの返答に、十真は手で順に数字を示しながら提案する。床で寝ないならばソファで寝るか十真と共にベッドで寝るか。それなら二人でベッドで寝る方がいいが、十真としてはベッドが狭いため不安に思うらしい。曰くセミダブルだから男二人で横になると結構狭くしっかり睡眠が取りにくいのではということだった。確かに長旅で疲れてまともに眠れないのは困る。しかし、ヴェルナー自身は寝つきはいい方だし他の相手ならともかく十真が相手なら多少狭くても平気かもしれない
……
そんな気持ちからベッドで眠る方を選んだ。それに、折角恋人の家にいるのに別々に寝るなんて寂しいものだ。
「いいよ別に。確かに狭いかもしれないけど、俺は割とすぐ眠れるから多分大丈夫でしょ。それに、トーマがいいなら、俺は一緒に寝たいけどな。
……
それともやっぱり俺の体型からして厳しい、のかな?」
「いや、多分、そんなことはないと思うけど
……
そんなこと言うなら僕だって体大きいし。
……
うん、分かった。じゃあ、一緒に寝よう。掛け布団は用意してるから、とりあえず寝室案内するね」
「うん、ごめんね、ありがとう」
そんなわけでキッチンの奥の別室に続く扉の向こうへ案内される。引き戸を開けたその先は、寝室となっており、十真の言うようにセミダブルのベッドがあり、シンプルな書き物机や本棚も置かれていた。一見すると物が少なく、多趣味な十真にしては簡素な部屋だと思ったが、どうやらアウトドア用品は広々としたウォークインクローゼットに仕舞われているらしい。
――
ここで、普段トーマは寝てるんだね
……
。
そんなことを思いながら寝室に足を踏み入れて見回していると、ウォークインクローゼットの片隅に畳んで仕舞っていたという掛布団や枕を取り出した。
「ヴェルナーは枕にこだわりはあったっけ?」
「いや、特にないよ。とりあえずなんでもいいかな」
「それならよかった。でもこれ、固さ合わなかったら言ってくれていいからな。そのときはなんか対応考えるから」
「うん、ありがとう」
十真は、ヴェルナーに壁側か反対側かどちらがいいかを確認する。ヴェルナーはどちらでもいいと答えたため、十真は少し考えてヴェルナー用の枕を壁側に置き、その隣に自分のものを並べて置いた。そして、それに合わせて掛布団をベッドに敷く。これでとりあえず寝床の確保は出来たということか。
「ありがとうね、準備してくれて」
「いーえ。じゃあ僕は風呂入るから、ここでのんびりしてていいよ。えーと、ドイツ語とか英語とかの本もあるから読んでてもいいし、先に寝てもいいし
……
そんなに部屋荒らさなかったら何してもいいよ」
「うん、ありがとう。
……
じゃあちょっと部屋見せてもらおうかな」
「いいよ、どうぞ。
……
それじゃ」
「うん、ごゆっくり」
部屋に関する説明をしてからその場を後にした十真を見送って、ヴェルナーはベッドに腰を下ろす。ゆるりと部屋全体を見渡し、部屋に置かれた家具を一つ一つ見ていく。今座っているセミダブルのベッドに、枕元に置かれた収納つきのサイドテーブルの上には小さな照明がある。その他には、書き物机やいくつかの本棚が見受けられる。少し距離があったため立ち上がって机の上を見てみると、そこにはノートパソコンや雑誌、何かのテキストが置かれたり本立てを用いて並べられたりしているのが分かった。仕事で必要になるものもあるみたいだが、ドイツ語や英語に関する試験のテキストも置いてあり、なんだか感慨深く思う。
――
トーマのドイツ語レベルなら充分ドイツ語圏で生活も仕事もできると思うけどなあ
……
。勉強熱心で凄いなあ。俺も日本語勉強した方がいいのかなあ。
日本語がほぼ読めないため多くは判断ができないが、勉強熱心な十真のことは尊敬に値する。それこそ、ほぼ日本語が読めない自分が少し後ろめたく感じるほどには。
続けて本棚を覗き込む。全四段で構成された縦長の大きめの棚には、日本語で書かれた小説だけでなく、彼の言うとおりドイツ語や英語の本もある。タイトルや裏表紙のあらすじからして歴史小説だろうか、ドイツ語で書かれたハードカバーの本を手に取ってパラパラと捲ってみた。文字もそこまで小さくなく読みやすそうだ。20代の軍人が主人公の小説で、十真もこういうのを読むのだなあと驚く気持ちに加えて、これは自分も楽しめるものだと思った。
ベッドに腰を下ろして静かに本を読み進めることおよそ十分強、すっかり本に集中していたヴェルナーは、寝室に戻ってきていた十真になかなか気づけなかった。
「
――
……
ナー、ルナー
……
ヴェルナー?」
「
……
ん? あ、あれ!? トーマもうシャワー出たの? 早くない?」
認識の外から響いた声が、ヴェルナーの意識を正気に戻す。驚きに一瞬肩を跳ねさせ紙面から顔を上げると、意外そうな目つきでこちらを見やる十真がそこにいた。淡い水色の浴衣を身に纏った彼は、ヴェルナーの言葉を受けてやや不思議そうに言葉を返す。
「そうか? 15分くらいは経ってると思うけど
……
本に夢中で意識してなかったんじゃないかな?」
「あー、そうだったのかも。これ結構面白かったからさあ」
「そうだろ? この、主人公の空気読めない行動が良くも悪くもいい味なんだよな」
「だよね。史実通りではないところもあると思うけど、ね」
ぱたんと本を閉じ、十真の言葉を肯定しながら本を元の位置に戻す。そうしてざっくりと本について触れると、彼は嬉しそうに顔を輝かせる。まだ序盤しか読めていないが、彼の言うとおり主人公が空気を読めず突拍子もない行動を多々繰り返す。現実にいたらイライラする可能性があるが、史実を元にした歴史小説であるし、主人公としては存分に動いてくれる方がいいだろう。
「それはまあ、結局は創作だからな。
……
というか、何、もしかして暫く本読みたい?」
ヴェルナーが少し本について語ったからだろうか、妙に困ったように眉を下げた十真がそのように疑問を口にするが、これには流石に否定する。もう時間も遅いし、ここで本格的に読書を始めてはいつまで経っても眠れない。
「いや、もう流石に眠いし、この本はまたいつか自分で探して読むよ。だから特にやることがなければもう寝るのでもいいかなって」
「そっか、じゃあさっさと寝るか」
十真が短く言葉を返して、ベッドを少し壁側から離す。2人で寝るスペースの確保のためだそうだ。枕と掛け布団は既に置かれているため、それに合わせて布団に寝転がる。他人のベッドに横になるなんてなんとも不思議な気分だ。
「んじゃ、寝るか。電気消すぞ」
「うん、おやすみ」
十真が、扉付近の壁にある照明のスイッチを消す。パチンと音がして煌々と照らされていた部屋が一気にふっと暗くなる。暗い室内を十真が歩く音がして、彼がサイドテーブルに何かを置いた音
――
恐らくメガネを置いたのだろう
――
がして、隣に入ってきたのが分かった。腕が軽く触れ合って、ギシ、と動きに合わせてベッドが軋む。
「
……
狭くないか?」
「少し、狭いかも」
「今からでもソファで寝ていいぞ」
「嫌だよ。こっちの方がいい。それに、体勢変えたら少しマシになるよ」
暗闇の中、十真の低い声が響く。少し不安げに発されたその言葉を無意識に肯定すれば、彼は少し申し訳なさそうにソファで眠る提案をした。しかし、やはりこちらの方がいい。体勢を変えて仰向けから横向きに眠るようなポーズをとると、こちらを気にかけるようにしていた十真と目が合った。暗闇ではあるが、距離が近いからか何となく分かる。メガネをかけておらず、視力が悪い故に少し目付きが鋭くなっているけれども。
「トーマ、俺の顔見えてる?」
「何となく。距離近いからな」
お互い向かい合って横になる体勢でじっとお互いを見つめ合う。ヴェルナーから擦り寄るように軽く足を触れさせると、十真は一瞬目を丸くし呆れたように笑う。
「すけべオヤジめ」
「それはある意味お互い様じゃないの」
「それは
……
まあ
……
そうかもしれないけど
……
」
彼の言葉に軽く返すと、十真はまるで痛いところを突かれたように表情を変化させる。なんとも可愛い。いい年したおじさんがおじさん相手に何を思うのかと思うところもあるかもしれないが、愛する恋人相手なのだから話は別である。ヴェルナーにとっては、自分よりも若く優しい素敵な恋人なのだから。
そして、じっと十真の銀灰色の瞳を見つめて、ふと口を開く。
「
……
ねぇ、キスしていい?」
なんとなく、キスがしたくなった。このタイミングだから所謂おやすみのキスと言われるものだろう。気持ちの赴くままに言葉を発すると、僅かに驚いた様子の十真は、柔らかく表情を緩めて肯定する。
「
……
いいよ。となると、このままじゃやりにくいよな」
「あ、ごめんね、気をつかわせて」
「いやいや」
十真はゆるく否定するような仕草をしてから、よいしょ、という短い掛け声と共にゆっくりと体を起こす。同時にヴェルナー自身も体を起こすと、その向かいで正座のような体勢をとった十真は、歓迎するように両手を広げた。
おいで、と言われて、やおらに距離を詰めたヴェルナーは、彼の逞しい体をぎゅうと抱きしめる。薄いシャツや浴衣越しに温かい体温が伝わる。シャワーを浴びてからそれほど経っていないこともあってか、それともお互いに高揚感からかなんだか普段より温度が高いように感じられた。
力強くハグをしてから、少し距離を離して十真の頬や肩に手を置いてどちらからともなく目を閉じて唇を重ね合った。真っ暗な中だからか少しだけ口の位置がずれたような気がした。
唇を離して暫し無言で見つめ合い、再度触れるだけのキスと優しいハグをして、改めて『おやすみ』と言い合う。こんな深夜に、寝る前に何をこんなにも盛り上がっているのかと自嘲したくなるがまあいいだろう。ヴェルナー自身も満足したし、気分良く眠れそうだ。
ほわほわした気持ちで横になり。掛け布団を被る。横で同じように布団を体に掛けた十真の様子を見つめながら微笑ましい気持ちで呟く。
「付き合ってくれてありがとうね、トーマ。嬉しかったよ」
「いいよ別に。まぁ、僕も嫌じゃなかったし」
「よかった。ありがとう、嬉しいよ。
……
愛してるよトーマ」
「
……
ん、僕も」
「ふふ。
……
んじゃ、今度こそおやすみ」
「うん、おやすみ。明日
……
いや、今日? 楽しみだな」
「そうだね。二人でいっぱい観光しようか」
「うん、もちろん」
横になりながら目線を合わせて明日
――
というよりはもう『今日』の話ではあるのだが
――
そう約束をし、ヴェルナーは実に幸せな気分で眠りについた。
それはもう、ベッドの狭さなんて気にならないほどに。
Reaction
If you make a mistake, you can cancel it by pressing the reaction.
Custom color
Reset color
広告非表示プランのご案内