しくるの納戸
2024-10-06 11:41:05
10851文字
Public レグリ
 

帰路

レグリ/FRLG殿堂入り後~HGSS
やさしくってすこしこわい、やさしいからとてもこわい。



 ライバルとの激闘からちっとも落ち着いてくれない興奮と、『殿堂入り』の文字に連なる自分の名前にじわじわと湧き上がる喜び。
 頭を浮かすような余熱を引きずりながらマサラに戻る。
 久しぶりに見た母さんは玄関を開けてぼくを見るなり、泥まみれで汗くさいシャツなんてまるで気にしないとでも言うようにぼくをつよくつよく抱きしめてくれた。
 母さんに抱きしめられたことなんてうんと幼いころ以来で、その時より母さんの体が小さくなっていたことを知って、ぼくは、シオンタウンでもならなかったホームシックというものを、そこではじめて実感した。
「お腹すいたでしょう、作っちゃうから先にお風呂に入ってきなさい」
 すぐ上から投げかけられたその言葉が、口調が、旅に出るまで毎日聞いていたものと何ひとつ変わらなかったから、少し狭くなった湯船を塩辛くしてしまったのはナイショだ。
 お風呂からあがったぼくを待っていたのは、ほかほかの湯気を立てるぼくの好物で、再び滲み出す視界をごまかすように皿に貪りつく。
 旅の中では一日で次の街に着けないことも、バトルに負けておこずかいがすっからかんなことも沢山あるから、旅をするトレーナーは必然的に自分のことは自分でやらなくちゃいけなくなる。それはぼくも勿論例外じゃなかった。
 それどころか、グリーンに嫌味を通り過ぎて同情されてしまうくらいぼくの自炊スキルといったら散々で、初めて作ったびしゃびしゃのカレーの味は、一生忘れることが無いだろう。
 だからこそ、突然帰ってきた息子の好物をとびきり美味しく作れる母さんがどれだけ偉大なのかを思い知る。
「おいしかった、ごちそうさま」
 スプーンの裏側に残った汁気すら残すのが勿体なくて舐め取りながらそう言えば、母さんは目をぱっちりと大きく開いて、それから少し照れてみせた。
「あらまぁ、大きくなっちゃって」
 お腹いっぱいでしあわせな気分で潜り込んだ布団は、おひさまの匂いがして、ぼくはやはり、しあわせな気持ちでねむりについた。
 夢も見ない、深い深い、ねむりだった。
 
 
 翌朝、起きてすぐ手に取ったのはベルト式のボールホルダーだ。いつものように腰に着けると振動を感じ取ったのか、六つのモンスターボールがカタカタと震え出す。
 特に一番手前のボールは、すぐにでも勝手に外に出てしまいそうな様子をただよわせていて、ぼくが苦笑しながらちょっと待ってよ、とボールの表面を撫でてようやくマシになった。
 階段を駆け下り、リビングを通り過ぎてスニーカーの靴紐を結んでいると、台所から母さんがびっくりした顔をだす。
「もう行くの」
「違うよ。すぐそこ、こいつら出してあげたいから」
 お昼前には家に入るよ、と言えば、気をつけてね、と背中に声が掛かった。
 気をつけてね、なんて。シルフカンパニーに行くんじゃないんだから。
 それでも変わらずぼくの身を心配してくれる気持ちがくすぐったくて、帽子を少し深めに被って顔を隠し、ドアに手を掛ける。
「行ってきます」
 外は快晴だ。
 ほのかな潮風のにおいがする。
 ヤマブキやタマムシみたいな大都市じゃないから、朝ともなると人影もほとんどない。
「みんな、出ておいで」
 右手に三つ、左手に三つ握ったボールを空に放り投げると、静かな空に相棒たちの鳴き声が響き渡る。
 一番最初に飛び出したのは、やはりと言うべきかピカチュウだ。
 ぼくとヒトカゲが一番最初に捕まえた、頼りの一番槍。ボールの中が嫌いでバトルが大好き。戦う時はぼくがボールを投げるより早く肩から前線に降り立ってしまうから、こいつだけやたらと育ってしまった。
 昨日の、グリーンとの戦いが終わってから今まで、身体を休ませるために皆にはずっとボールの中でねむってもらっていたけど、案の定、こいつにとってはストレスだったみたいだ。
 パチパチ電気袋を光らせながらご機嫌で芝生の上を弾むそいつに手を伸ばすと、ぼくが触れるように電気を抑えてくれる。
「お待たせ、退屈させちゃったね」
「ちゃぁ」
 全くだ、そう言わんばかりにピカチュウは、ギザギザのしっぽでぼくの腕を叩いてきた。
 その隣に目をやれば、自分も撫でてとねだるようにラプラスが長い首を垂れている。
「ラプラスもありがとう」
 チャンピオンのグリーン、そしてその前に立ちはだかった四天王たち。両方の戦いの中、ラプラスのふぶきに何度救われたか分からない。攻撃範囲の広さゆえ、飛び回る相手に正確に当てるのは難しい技だというのに、ラプラスはそのどれも、ぼくの指示に従って命中させてくれたのだ。
 労いをこめてあごの下を撫でると、ラプラスはご機嫌に鳴いた。そしてするり、と頬をぼくの頬にすり付ける。
 ひんやりとして気持ちがいい。
 ついうっとり目を閉じると、反対の頬にはポカポカした温もりが触れた。
 いつの間にか、ぼくの背後にリザードンが立っている。この温もりは、彼の頬だったらしい。
 ぼくの最初の相棒。ヒトカゲのうんの小さな身体からは想像出来ないくらいに大きく、たくましくなったっていうのに、甘えんぼうなところは相変わらずだ。
 二本の角のあいだを指先でくすぐるように撫でる。リザードンはバサリと翼をはためかせ、風が舞った。
 ピカチュウが飛ばされないようにラプラスにしがみついた奥で、仰向けでねむっていたカビゴンは、気持ちよさそうにあくびをもらす。そのお腹の上でポリゴンも目を閉じていた。電気鼠の夢を見てるのかな。
 カビゴンのあくびにつられたのか、だんだんぼくもねむたくなってくる。
 カントー広しとはいえど、野生のポケモンと戦闘になる可能性、他のトレーナーや住人からの反応を考えると、こうやってみんなを自由に外に出せるような場所は限られているから、こういう時、何もないマサラはぼくの手持ちにとっては良いところだと思う。
 お昼になるまで遊ばせておこう。
 そう決めて、芝生の上にあぐらをかいて空を見上げた。
 時々太陽が遮られて、プテラの翼型の影が落ちる。

 雲ひとつない空を自由に飛び回る様は、古代でのありさまを想像させた。
「──あら、レッドくん?」

 うつら、と舟を漕ぎはじめたところで、背中に見知った声が投げられて背筋が伸びる。
 鈴のなるようにきれいで、やさしくて、けれど意志の強さがすけるようなお姉さんの声。
……ナナミさん」
「やっぱりレッドくんだった」
 一番道路の入り口で手を振っていたナナミさんは、振り返ったぼくがレッドだと確信を持つと、長いスカートを風にゆらしながらこっちへ向かってきた。ガーディが誇らしげにその後ろをついてくる。
「昨日はお疲れ様、ゆっくり休めた?」
「あ、あの……はい」
 ナナミさんの変わらずやさしい微笑みを直視出来ず、思わず視線を下にそらすと、きのみが沢山入ったカゴが目に入る。
「お菓子の材料を買いにトキワへ行っていたの。そうだ、レッドくん時間ある?」
 ぼくが頷くと、ナナミさんは嬉しそうな笑い声をあげて、良かった、と言った。
 その言葉に嘘や曇りは一切無さそうで、ぼくは、尚更何とも言えない気持ちにさせられた。
 ナナミさんのいるグリーンの家は(本当はグリーンのじゃなくて、グリーンとナナミさんの家だけど)、きれいに手入れされた庭から年中いい匂いがする。ぼくらは水を浴びて生き生きと光る草花の間を通り、家の横をぐるっと回った。
 いつもは部屋に入れてくれるのに、と戸惑いながらナナミさんとガーディの後についていけば、裏庭のガーデンテーブルに案内された。
 草花に囲まれた小さな芝生の空間に、二人掛けのガーデンテーブルが置いてある。
 思い出した。昔グリーンの家に遊びに行った時は、テーブルの代わりにビニールプールを用意してくれていた場所だ。
 うながされるままイスに腰掛ければ、さっきの場所で各々くつろぐぼくのポケモンたちが見えた。ボールに仕舞わなくてもいいわ、と歩きながらナナミさんが言ってくれたのは、こういう理由だったのか。
「朝ごはんは食べたかしら?」
 ナナミさんは座らないまま、ぼくに問いかける。
「ま、まだ」
 今朝は早くポケモンたちを外に出してあげたい気持ちでいっぱいで、朝ごはんにまで頭が回らなかったと正直に言えば、ちょうど良かった、とナナミさんは手を合わせた。
「パンを焼いたのだけれど、ひとつ多く作りすぎちゃったのよ。迷惑じゃなければ食べていってくれる?」
 そう言われて断れるぼくでは無い。ためらいなく頷くと、クスリと軽やかに笑われた。
 少し意地汚かったかもしれない。
「良かった、このまま捨てちゃうのは勿体無くって」
 ちょっと待っててね。
 そう言ってナナミさんは、勝手口から家の中に消えていく。
 背中が完全に見えなくなって、ようやくぼくは、肩から力を抜いたのだった。
 言い訳をすると、ナナミさんのことが怖いわけではない。
 むしろすごくやさしいし、彼女が怒ったり怒鳴ったりするのを一度も見たことがないくらい、穏やかな人だった。
 じゃあ何でって言われると、多分、ぼくはこわいのだ。
 ぼくは、グリーンに勝ってしまったから。
 もちろんグリーンに勝てたことは、すごくすごく嬉しい。
 負けたグリーンに同情もしてない。
 あいつの悔しさは、あいつだけのものだから。
 だけど。
 きっと誰よりも、博士よりも、グリーンの近くであいつを応援していたのはナナミさんだから。
 だから、ナナミさんの気持ちが、こわい。
「レッドくん、レッドくんはジャムとハチミツどっちが好きかしら」
 ガチャリ。
 こころが何も整わないまま裏口の扉が開く。と思えば、少しだけ開けられた扉の隙間から、声だけが降ってきた。
「えっと、はちみつが、いい」
 ちょうどナナミさんのことを考えていたから、動揺して声が裏っ返しになりそうになりながら、なんとか返す。
「ハチミツね」
 そうしてまた扉は閉じられた。
 なんだかさっきから、ナナミさんばっかりに動いてもらっている気がする。
 ご飯をごちそうになるんだから、本当ならぼくだって手伝うべきなんだろうけど。
 それこそ、いつもはぼくが言い出す前に、ナナミさんやグリーンが「すこし助けてもらえる?」とか「おまえも動けよ、レッド」とぼくに簡単な手伝いをさせてくれた。
 きっと二人は、じっと座っていたらいたたまれなくなるぼくの性格を、よく分かっていたんだと思う。
 それに、裏庭じゃなくていつものダイニングの方が、ナナミさんも楽なのに。そう思ったのも束の間、ダイニングだとグリーンと鉢合わせてしまう可能性に気がついて、やっぱりこっちで良かったと胸を撫で下ろした。
 撫で下ろしてから、気がついた。
 いや、むしろぼくは、どうして今まで気がつかなかったんだろう。
「お待たせ……あら?」
 二度目の蝶番の音に、ぼくはうつむいていた顔をあげた。
 よほど勢いがあったのか、ナナミさんがまばたきを繰り返している。
 どう言葉を切り出せばいいだろう。迷って口をパクパク間抜けに開け閉めしているぼくの前に、牛乳入りのコップとお皿が置かれる。
 温め直されて少し湯気を立てる、ラッタ色の、ハチミツの甘いにおいのするパン。
「これ、グリーンのだったんじゃないの」
 ナナミさんがグリーンのために焼いて、それで、食べられなかったパンだ。
 ナナミさんは困ったように眉を下げて、ぼくの問いが、正解だと教えてくれた。
「あの子ったら、せっかく焼いたのにいらないって言うのよ。困った子よね、こういう時は、いっぱい食べてゆっくり眠るのが、いちばんなのに」
 ……だから裏庭だったんだ。
 家の中だとグリーンに鉢合わせるから、だけじゃまだ足りない。
 グリーンの部屋はこの逆側だ。
 だからグリーンの部屋からぼくの姿が見えることはないし、逆に、ぼくからも部屋にいるグリーンの姿は見えない。
 ポケモンをボールに入れさせなかったってことは、きっと、後の理由の方が重いんだろう。
「グリーン、泣いてた?」
 ぼくの真向かいに腰掛けたナナミさんは、マグカップから一口すすって、肩をすくめた。
「さぁ、どうかしら。あの子、もし泣いてても人には知らせてくれないわ」
「いつ帰ってきたの」
「昨日の、うんと遅い時間よ。きっと道草してたのね」
…………
 ぼくは想像する。
 昨日、ぼくに負けたグリーンが傷ついたあいつのポケモンたちを抱えて、セキエイ高原を降りていく姿を。ぼくが母さんの温かいご飯を食べている間も、夜の暗いトキワの森を、ふらふらと歩くグリーンの姿を。
 その表情をぼくは見られない。
 ナナミさんが、ぼくにその顔を見ることを許さなかった。
……ナナミさん」
「なぁに」
「ぼくのこと、怒ってる?」 
 ナナミさんはその瞬間、すごくすごく驚いた顔をして、それから、ちょっと意地悪そうに微笑んだ。こうすると、グリーンによく似ている。
「怒ってるって言ったら、どうするの?」
「あんしんする」
 怒っているかと聞いた時には考えていなかった言葉がするりと口から飛び出して、自分でもびっくりした。
「ぼくはグリーンのライバルだから、今あいつのそばで心配してなぐさめてあげられないから、ナナミさんがいて良かった。ナナミさんがグリーンのこと心配してぼくを怒ってくれるなら、怖いけど、あんしんする」
 怖いけどあんしんする、なんて言葉は矛盾してるんだろう。
 でも、これがぼくの、真ん中にある気持ちだ。
「怒るわけないわ……優しい子ね、グリーンにも見習ってほしいくらい」
「ぼくはただ、グリーンが好きなだけだよ」
 言ってから少し恥ずかしくなって、逃げるようにトーストにかじりつく。あまくてやさしい味。
 きっとナナミさんが、グリーンにあげたかった味。
 ナナミさんはぼくに牛乳のおかわりを注ぎながら、あら、と返した。
「好きな子に優しくするというのも、難しいことよ。好きな子に自分を見てもらいたくて、でも素直になれなくて意地悪しちゃう子だっているんだもの」
「博士みたいに?」
「まぁ、おじいちゃんに意地悪されたの?」
「ぼくじゃなくて、グリーン」
 ぼくらが戦った後、グリーンが博士に言われていたことを伝えると、ナナミさんは曲げた指先を唇に当ててくすりと笑った。
「レッドくんの『安心した』ってそういうことだったの。グリーンが、おじいちゃんの言葉を気にして傷ついてると思ったのね」
 ぼくが頷くと、ナナミさんは少し考えるそぶりを見せて、マグカップを置く。
 グリーンの部屋がある方向を一度見て、それから真っ直ぐぼくを見る。
 それは、ナナミさんにこっそり地図をもらったとき、ぼくに「グリーンをよろしくね」と言ったときと同じ顔。
 グリーンのお姉さんの顔だった。
「あの子はただ博士に怒られたっていうだけじゃヘコまないわよ。頑固だもの。気にしているってことは、きっと思うところがあるからね」
…………
「大丈夫。まだもう少しヘソを曲げてるかもしれないけど、じきにいつものお調子者に戻るわ。だから、あの子の機嫌が直ったら、また遊んでもらえない?」
 ぼくは間髪入れずうなずいた。
 何度もうなずいた。
「ぼくもグリーンと遊びたい」
「ありがとう」
 おかえりなさい、レッドくん。
 ナナミさんの手が、帽子の上からぼくの頭をなでて、目の奥が熱くなる。
 なんだか泣いてばっかりだなぁ。
 にじむ視界の中で、ナナミさんはぼくら二人に優しく微笑んでいた。


「──で、それが何で三年の行方不明に繋がるんだよ」
 トキワシティに位置するマンションの一室。
 肩になごり雪を乗っけているレッドに、ホットミルク入りのマグカップを差し出しながらグリーンは眉を顰める。
 レッドの来訪は今朝の明け方、普段のグリーンならまだ夢の中にいるような時間だった。
 ポケギアの着信音をアラームと勘違いして何気なくボタンを押し、直後耳に流される懐かしいどころでは無い声に、十万ボルトを頭に食らったが如く覚醒へ引き摺り出されたのが一時間前。
……そっか、元気なら良いんだ。じゃあ、』
「おまえトキワ寄れるな?」
 またね、と言い切られる前に選択肢のない問を投げつけ、十分あれば、との十全な返事にベッドから飛び降りて客を迎え入れる準備をし始めたのが三十分前。
 そして、宣言通り着信から十分でチャイムを鳴らしたレッドに、自身の目覚めの一杯のついでだと前置きしながらミルクを温め、自分の向かいに座らせて一息つかせながら、行方不明の動機や三年間の生活状況について問いただしているのが現在である。
「だって、きっと次に遊ぶ時はまたバトルだろ? グリーンなら絶対、前回のぼくの弱点を見つけてくるだろうし、だからぼくも、次におまえに会うまでに強くならなきゃ、って思って……
 納得いくまで修行してたら、あっという間に時間が経っちゃった。
 一応本気で反省はしているらしく、肩をすぼませて語るレッドに、グリーンは毒気を抜かれる。
 三年も経って自分も随分と丸くなった……否、昔からレッドに対しては怒りっぱなしでいられなかった気がした。レッドの纏う雰囲気は彼の母親に良く似て、相対する全ての人やポケモンの心を穏やかにしてしまうようなのだ。
 動機の内容に浮かれたわけではない、決して。
……ったく、相変わらずなヤツ」
 まあ、反省してるならこれ以上責める必要もない。
 グリーンはポーズだけの溜息をついて、自らのコーヒーを啜った。
 砂糖もミルクも入れない、少し濃い目のブラックコーヒー。
 最初は見栄の為だけに苦味を我慢して飲んでいたが、その味に慣れてからは朝のルーティンには欠かせなくなっていた。お湯を沸かす間に準備を進めていたもう一つのルーティンも、そろそろ頃合だ。
「朝メシ食べてねえよな」 
「たべてない」
 レッドの返事を読んでいたように、オーブンが軽やかな音を立てる。
 準備がいいね、とレッドが笑うのに、要領がいいんだよと返したグリーンは立ち上がり、後を追おうとするレッドを手だけで制してキッチンへ向かった。
 オーブンから取り出した二つの食パンにそれぞれ井の字の切り込みを入れて、シンオウ地方から取り寄せたお気に入りのハチミツをたっぷりと掛ける。これがグリーンの姉なら、ジャムかハチミツか律儀にレッドの好みを訊いてやるのだろうが、グリーンにその優しさはない。これはあくまで自分の朝食のついでなのだ。
 しかし、構わずレッドは目の前にトーストの皿を置かれた途端にふにゃりととろけた笑みを浮かべた。
……なんだよ」 
「ううん、いただきます」
 グリーンの訝しげな視線を受けても、崩しきった笑みを崩さないままレッドはトーストを頬張る。長いこと帽子を被っていたせいで、彼の髪はぺたりと額に張り付いていた。
 それを指先で剥がしてやってから、グリーンもひとくちを齧る。
 来客用に取っておいたハチミツは、姉の愛用とは違う味だがこれはこれで美味しい。
 目の前で黙々と食べ進めるレッドにはこの差は分からないだろう、全く残念なことだ。
 グリーンは内心で憐憫と揶揄を同居させながら、そういえば、と口を開く。
「良くポケギア持ってたな」
 レッドの口の中は甘いパンでいっぱいになっており、返事までは五秒ほど要した。
「ヒビキが渡してくれた」
「ヒビキ? ジョウトの?」
 グリーンは脳裏に、一昨日グリーンバッジを渡した新人トレーナーを思い浮かべる。
 確かに彼はカントー・ジョウト両地方のバッジを十六個全て集めた実力のあるトレーナーだが、グリーンバッジを手に入れたのは、つまりシロガネ山への入山許可を得たのは、ほんの二日前なのだ。
「いつの間にそんな仲良くなったんだ?」
 レッドがシロガネ山にいたというのはポケギア越しに聞いていたが、まさかそんな短時間でポケギアを贈るような仲にはならないだろう……というのはグリーンの常識で考えればの話だ。
 しかし、経歴といいバトル中の眼差しといい、ヒビキはどこかレッドに似ているものを持っているから、二人通じ合うところがあったのかもしれない。
 グリーンが納得したのも束の間、直後にレッドによって推測は否定された。
 何故か顔色が悪い。
「ナナミさんから預かったんだって」
「は? ねえちゃん? ねえちゃんが何でおまえにポケギアなんて、」
「うん。ぼくもそれが気になってさ、ナナミさんに掛けてみたんだよ。そしたら……
 レッド曰く。
 ナナミの声は非常に柔らかかったらしい。
 すごくやさしい声で第一声に『おとうとは元気?』とレッドへ訊ねて、それだけ。
 三年間どこに居たのかも、何があったのかも、母親に連絡を済ませたのかも詰問することなく、ただそれだけ。
 それだけなのに、レッドはその裏に底冷えするような空気を感じ取って、背中を冷や汗でびしゃびしゃにしたと言う。
「あれを聞いたら、セキエイでグリーンと戦った後のは、本当に怒ってなかったんだって分かるよ……ぼく、すぐバレるって分かってたのに『はい』って、言うしか、なくて」
 段々萎んでいく声。青くなるレッドの背後に、笑顔のナナミが浮かぶ。
 良くも悪くも、グリーンとその姉、ナナミはオーキド博士の孫として昔から注目を浴びる機会が非常に多かった。優しく穏やかなだけでは、ただ立つことすらままならない。それにナナミは長女であったから、己より小さい弟を守るんだと殊更気丈に振る舞う姿を、グリーンはいつもしがみついた背中から見ていた。
 涙が武器なら、笑顔は鎧よ。
 隙だらけなのはいけないわ。
 昔、苛立ちに顔を歪ませるグリーンの頬を撫でて諭した姉の言葉だ。
 この言葉を体現するかのように、ナナミは心の底でどんな感情を渦巻かせていようが表情は凪いだ水面のように静かで、一見しただけでそれを悟らせることはない。
 しかし、レッドはオーキド家の姉弟との付き合いも長いのに加え、他者の感情に敏感であった。
 生来の気質のようなものに加えて、トレーナーとのポケモンバトルを続ける中でそれはますます磨かれている。チャンピオン戦の後、修行場所として無意識に、人気の無いシロガネ山を選ばせるくらいには。
 そんなレッドだからナナミの水面の奥を、その中の温度をうっかり覗き込めてしまったのだろう。そして覗きこんでしまったからこそレッドは、ナナミの中に『中身が覗けてしまう』ほどの渦を抱かせたのが自分だと知って、どうしようもなく恐怖した。
 ──ざっと、そんなところだろう。
 幼馴染の心理状態を完璧になぞってみせたグリーンは、つまらなそうに鼻を鳴らした。
「ふーん? あんな時間からモーニングコールしてみせたのは、三年も放ったらかしたライバルへの誠意じゃなくて、ねえちゃんに脅されたからってだけかよ……
 頬杖をついてレッドから目を離し、大袈裟にため息をついてやると途端にレッドは慌て出す。
「ち、ちがうよ! 確かにきっかけはナナミさんだったけど、ナナミさんの口からグリーンのことが出たら、ぼくの頭の中はグリーンのことでいっぱいになっちゃって、何してるのかな、元気かな……声聴きたいなって、そのことしか、考えられなくなって、それで」
「あーあーもういい! もう充分だ!」
 一瞬で頬が茹だる感覚に襲われながら、耐えきれなくてグリーンは叫ぶ。
 弁解を途中で止められたレッドは、何が何だか分からない、という風にグリーンを見ていた。
 レッドを揶揄うつもりだったのが、いつのまにかグリーンの方が振り回されている。これは昔から度々良くあったことだ。
 それも完全に無自覚なのがタチ悪い、とグリーンは思っている。
 ただ、振り回されっぱなしでは済まさないのがライバルのプライドであった。
「まぁいいけどさ、」
 グリーンは一度そこで言葉を区切り、残りこれだけとなったパンの欠片を一気に口に含んでしまう。
 ハチミツの甘さには飽きたとコーヒーで飲み下すと、あの頃と同じく、レッドより少し大人なのだと背伸びが出来た。背伸び分の胸を張り、努めて意地の悪い笑みを浮かべてやる。
 頬から赤みが引いていないのを自覚したまま、それでも見た目だけは頑丈な鎧を纏えば、レッドは何が飛んでくるのかと身構える。
「怒ったねえちゃん、怖かった?」
 レッドには悪いが、グリーンはあの姉の弟を十四年もやっているのだ。レッドが覗き込んだ怒りは、まだ最大級には程遠いだろうことを知っている。
 姉も祖父も、昔からレッドには甘かった。だから彼女が本気の怒りをレッドにぶつけることはない。
 あの日だって、グリーンを王座から引き摺り下ろしただけで怒るわけがないのにな、と話を聞きながらグリーンは思っていたのだ。
 だから、ナナミの感情の一部を受けた今、もう一度問うてやる。
 レッドは、その日のようには即答しなかった。
 三秒置いて、少し考えて、口を開く。
「やっぱり、あんしんする」
 怖いけどね、と片頬を掻いて付け足しながら。
「そのつもりは無かったけど、ぼくはグリーンを傷つけたでしょ。グリーンがうれしい時も、悲しい時も、ぼくに怒っている時すら隣にいなかったこと、ナナミさんが怒ってくれて、そりゃ怖かったけど、安心した。ナナミさんは、おまえを傷付けたやつをちゃんと怒ってくれる」
……図太さも相変わらずなこって」
「いや? ぼくはただ、おまえが好きなだけだよ」
 二度目の揶揄もあえなくカウンターを決められたグリーンは、今度こそ頬が、どころか頭が沸騰しそうになって思わず両手で顔を覆った。
 こんな顔を一秒以上、レッドに見せたくない。
 過去の話としてならば、子供特有のストレートな愛情表現として受け止められたが、十四歳という殆ど大人の年齢から受け取るその言葉は、グリーンにとって意味が重たすぎた。
 例え、発言者本人に自覚が無かったとしてもだ。
 意味もない悔しさを抱いて覆った指の隙間から恨めしげにレッドを睨もうとすれば、どうしてか今度はレッドも少し頬を染めていて、グリーンの中にどうしようもない感情が規則性もなく膨らんでいく。
「あー……クソッ」
 グリーンは、片手だけを顔から外して真っ直ぐ伸ばした。
 指の先が、傷んだ髪に触れる。
 瞠目したレッドの髪をぐしゃぐしゃに撫でれば、彼の目は途端に歪んだ。
 似た表情を、涙の中に沈めて。
 
「おかえり、レッド」
「ただいま、グリーン」