しくるの納戸
2024-10-05 21:15:49
10621文字
Public 狛日
 

コープス・リバイバー1

狛日/普通に高校生をやっている軸のサキュバス枝×ヴァンプ向。
恐怖と期待はどこか似ている。

 スローモーションのようだった。
 押しボタン式の信号機が青に替わるのを待ってから白線へ踏み出したはずの日向の横目に、雨によって滲んだヘッドランプの、くすんだ黄色が飛び込む。そこから一秒遅れて、絶え間無く注ぐ雨音の隙間から、慌てたように鳴らされたクラクションが耳を劈いた。
 逃げなきゃ。
 脳の後ろ側は緊急回避を急かしてけたたましく警鐘を鳴らすのに、反して日向の身体は、横断歩道を三分の二程進んだ場所で立ち竦んだまま指一本動かす事も出来ず、夏の正午のような眩さが自分を吸い込んでゆく光景を、他人事のように眺めることしか出来ない。
 引き攣るようなブレーキ音の割に一向に緩まる気配のないスピードで突っ込んでくる巨躯は息をする暇もなく鼻先まで迫って、漸くそれが白の軽トラックであることが分かる。
 アレグロを刻むメトロノームよろしく忙しく往復するワイパーの奥には、ピアスだらけの耳の下、頭に巻いた白タオルからちくちくと伸びるもみあげに繋がる、豊かな無精ひげを拵えた運転手の中年らしき男も見えた。
 薄汚れた白のタンクトップから伸びる浅黒く逞しい腕は片腕しかハンドルには使われず、金色のスマートフォンを握ったまま、それを右耳に押し当て今の今まで通話をしていたのだろう運転手は驚愕の表情でこちらを見ていた。
 だがもう遅い。
 日向にとっても彼にとっても、全てが手遅れだ。
 いつの間にか力の抜けていた指先から、桜文様が散らされた傘が滑り落ち、枯葉を遊ばせた泥まみれの水たまりの中で、逆さに転がる。
 直に当たる水滴の冷たさと、ランプの照射範囲から外れて全身を覆うようになった大きく威圧的な影は、日向に嫌と言うほど『死』を突きつけた。
 ああ、俺死ぬんだ。
 こんなところで。
 無個性で画一的で何とも無様な凡人のまま。
 背筋を突き抜ける恐怖から逃れるように、日向は、まだ寮でなく実家で暮らしていたある日に、母に告げられた言葉を思い出していた。

「実はね、母さんは吸血鬼だったのよ」

 他愛もない日常のひと時だ。
 お玉で鍋のシチューを掻き混ぜて、学習塾から帰った日向を背中で迎えた彼の母は、「そういえば今日はハロウィンだったわよね」と前置きしてからそう言った。
 それから彼女は悪戯が成功した子供のように笑ったので、日向は母にしては珍しい冗談だなと思いながら、はぁ、と返すだけだったけれども。
 それでも、今ならば思う。
 もしその言葉が本当であったら。自分にも吸血鬼とやらの血が半分でも混じっているならば。
 ここで死ぬことは無かったんじゃ、ないか。
 ──なんて。
 余りに現実から飛躍しすぎた空想は、乾いた笑みへと変わって日向の顔面に張り付き。

 直後、凄まじい衝撃と共に意識は途絶えた。




「ねえ……
「聞こえる……?」
「ねえ、大丈夫?」
……だいぶ参ってるみたいだね?」
 誰かが呼ぶ声で意識が浮上する。
…………ぅ、え……?」
「あ、起きた」
 薄らと目を開けた日向は、消毒液の匂いと全身を包む奇妙なむず痒さに気が付く。
「あ、れ」
 俺は死んだはずじゃ、まさかあれは夢だったのか。日向はうまく回らない頭で意識を失う前の記憶をまさぐるが、出てくるのはトラックに轢かれる直前の絶望的なヴィジョンと、確実に日向の身体を貫いた致死量の衝撃だ。
 これが夢でないとするならば。
「俺、助か、生きてるのか……?」
 誰にともなく呟けば、麻痺していた感覚が、前触れもなく一気に覚醒する。
「い────っいいいいいい!?」
 痛い。
 痛い痒い痛い痛い痒い痒い痒い。
 痛い痒い痛い痛い痒い痒い痒い痛い痒い痛い痛い痒い痒い痒い痛い痒い痛い痛い痒い痒い痒い痛い痒い痛い痛い痒い痒い痒い痛い痒い痛い痛い痒い痒い痒い痛い痒い痛い痛い痒い痒い痒い痛い痒い痛い痛い痒い痒い痒い痛い痒い痛い痛い痒い痒い痒い痛い痒い痛い痛い痒い痒い痒い痛い痒い痛い痛い痒い痒い痒い痛い痒い痛い痛い痒い痒い痒い痛い痒い痛い痛い痒い痒い痒い痛い痒い痛い痛い痒い痒い痒い痛い痒い痛い痛い痒い痒い痒い痛い痒い痛い痛い痒い痒い痒い痛い痒い痛い痛い痒い痒い痒い。
「ぁ、がっぐううううう、あ、かはっ───」
 余りの苦しさに酸素を求めて息を吸えば、肺がミシミシと歪んだ音を立てて痛い。自らを庇うように抱き締めれば、瘡蓋まみれの腕が疼いて痒い。
「うぅ、うぐぐぐぐ、っふ、く…………………………。」
 何十分、何時間かも分からない長い長い拷問のような時間を只管耐え忍び、やっとのことで日向は呼吸を平常通り行えるまで落ち着くことに成功した。
 そして、このタイミングを見計らったかのように声が掛けられる。
「落ち着いた?」
「ああ…………、っ!? だ、誰だ!」
 咄嗟に日向は頷いて返事をした。しかし知り合いの誰とも一致しない、更に言えば先程、夢うつつのときに聞いていた気がする、その程度の声が近くでしたことに驚いて仰向けだった半身を飛び上がらせ、声の方向──左に振り向く。そうすれば、日向から然程遠くない場所に立って日向を見下ろす青年がいた。
 ぱっと見たところ年齢は日向と同世代のようだ。
 男性からの評価は分かれるところだろうが女性受けしそうな、繊細に整った病的なまでに白い顔立ち。細い輪郭を縁取る、ふわりと秋空の雲のように掴み所のない白髪が目につく。
 肉付きの悪い胸元が余ってしまうゆるいTシャツと、こちらはかっちりと丈に合った黒いデニムパンツ、そして上にゆるく羽織ったモスグリーンのコートはつい今しがたまで外出していた証拠だろうか。
 上半身だけ起こしたまま青年を見上げて、呆けた表情で固まる日向に、青年は心から可笑しそうにして、緩く曲げた人差し指を口元へと押し当て、笑う。
「あははっ、今更? まあボクみたいな蛆虫のことなんて、認識するにも値しない、か」
 そうして一点の曇りもない爽やかな表情と、それとは裏腹な重苦しい自虐を向けられ、日向はたじろぐ。
「え、いや、そこまでは……
「気にしなくていいんだよ、だってキミ、自分の状態すら認識できてないみたいだしね」
 そう言われてはっとする。
 慌てて自分の姿を確認すれば、ブレザーとネクタイ以外は自分の制服を全て纏った状態で、ワイシャツと飛び跳ねた泥と、赤黒い液体が付着して所々破けてはいたが、事故の名残であろうそれら以外に異常は見当たらない。腕は血の滲んだ包帯や絆創膏が貼られているが、数が足りなかったのだろうか、いくつか瘡蓋、そして生傷がそのまま空気に曝されている。首や顔も同様であった。
 周りを見渡すと、自分が居るのは白いシーツとアイボリーの柔らかな毛布の間、更に言えば大きなベッドの上に先程まで身体を預けていたことになる。青年はそのベッドの下、枕側に近い場所に腕を組んで佇んでいる。
 ベッドのサイズに比例してその部屋も大層広く、家具の少なさ、そして四方を覆う壁の白さから無機質な印象を受けた。ベッドの右隣は四角い焦げ茶の木枠でくり抜かれ、奥にはまた違う部屋が広がっている様だったが、残念ながら日向の首と視力では、その奥の部屋の様相までは分からない。
 その枠の向こう、つまり部屋の右端にはそんな希少な家具の中の一つ、黒く存在を主張するコートラックに、ワイシャツやスラックスと同様、所々泥と血に塗れた日向のブレザーが、赤いネクタイと共に掛かっている。
 青いナイロン生地の中央に堂々たる白い校章が鎮座するボストンバッグも、そこから少し視線を前に動かした右側の壁の中央辺りにある、ライトベージュの革製らしきソファの上に無造作に置かれていた。
 身の回りを一通り確認した日向は、それから再び視線を狛枝に戻し、当然の疑問を口にする。
「ここ……何処だ? お前は一体、何者なんだ?」
 そして青年は当然のように答えた。
「ボクは狛枝凪斗だよ。そしてここはボクの部屋だ」



 
 青年──狛枝凪斗は続ける。
「因みに次に用意してあるだろう疑問に答えるとね、キミがここにいる理由は何てこともない。只の偶然で、ボクが散歩の途中にたまたま倒れているキミを見かけたから、拾ってきただけだよ」
……は?」
 途端に低い声で警戒心を顕にする日向に、狛枝は両の手の平を日向に晒して「ごめんごめん」と宥める仕草を見せる。
「ボクごときゴミクズなんかが『拾った』だなんてまるで……犬に対するみたいな表現、許されるはずがなかったね」
「そこじゃない!」
「え、何が?」
 恍けた反応を返す狛枝を、日向は寄せた眉に不信感を込めて睨む。
 狛枝に怯む気配は微塵もなかったが。
「お前は今『ここは自分の家』で、『たまたま倒れていたキミを拾っただけ』と言ったな」
「そうだけど、それが?」
 日向は畳み掛けるように詰問した。
「だったら答えろ、あの時は既に夜十一時を回っていた、しかも雨が降っていて、近くにコンビニがあるわけでもない。そんな状況で散歩の途中に偶然って、本気で言ってるのか? そしてその時俺は既にトラックに轢かれていたはずだ。散歩っていうことは徒歩なんだよな? 見たところ筋肉なんて無さそうなお前が、意識のない人間をどうやってここまで連れてきた。そもそも、轢かれて血塗れの人間を運ぶべき場所はここじゃないだろ? どうして病院に運ばない? どうして救急車を呼ばない? ……お前の目的は一体何だ」
 日向の、刺すような視線を下からいっそ直向きに受けて。
………あは」
 狛枝は、尚も笑った。
「あっははははははは! ふふっ、あはは、あはっ!」
「何が可笑しい」
「可笑しいのは間違いなくキミだよ、面白いこと言うんだね!」
……どういう事だ?」
「まあ、普通あんな場所を散歩してたまたまキミを見つけられる訳がないっていうのにはボクも概ね同意だけどね。そこはボクをボク足らしめる要素なんだ、悪いけど見逃して欲しい。それと、ボクがどうやってキミを運べたかって、それは勿論、背負って運んだんだよ。あれ? でもそれを訊くってことは、もしかして気付いてないのかな?」
「何がだよ」
「まあいいか、それよりね」
 日向の問いかけを無視して、狛枝は身を屈めた。顔の距離がグッと近くなって、目の前の均整のとれた顔立ちは、いっそ不気味だ。
「キミさっきさ、『何で病院に運ばないのか』って訊いたね」
 そして、狛枝は日向にとって衝撃的な言葉を口にする。

「そんなの、キミみたいな《吸血鬼》を病院に連れて行ける訳ないでしょ?」

「──は?」 
「そっか、キミもしかして純粋なヤツじゃないんだ。今まで自覚なかったってことかな? だとしたら、それを悟らせなかったキミのお母さん、かお父さんかもしれないけど、素晴らしい判断だと言わせてもらうよ」
 もし周囲にばれていたらキミとっくに殺されてたもんね。
 勝手に納得して頷いている狛枝に、日向は見開いた眼をイワシのように泳がせる。
「殺されっ!? い、いや、そ、そんな訳ないだろ……嘘だ」
「まだ分からないの?」
「分かるかよ!!!」
 何を言われているか分からない。
 分かりたくない。
 必死に否定する虚勢の裏側に、母の声がこびりついて離れない。
 じつはね。かあさんは、吸血鬼、だったのよ。
「そんな、あんなの、嘘で、吸血鬼なんて、そんな馬鹿なこと」
「現実逃避するのは自由だけど、普通の人間だったら轢かれた時点で死んでるよ。それがさぁ、そんな瘡蓋と傷だけで済んでるんだよ? 骨一本折れてないことを疑問に思わなかった?」
 狛枝の指摘に言葉が詰まる。
 そういえば、そうだ。
 日向の身体は、痛みと傷跡こそ多くあれ、骨や内臓に関して違和感が微塵もない。
 それどころか。
「嘘だろ……瘡蓋が……
 先程まで。右腕の中央に大きく線を描いていた瘡蓋が、まるで何事も無かったかのように綺麗になっている。それに気が付いてしまえば、体中に散らばっている数々の傷が時間を追うごとに小さくなってゆくように見えるのも、最早気のせいだとは言えなかった。
 それっきり青ざめて黙りこくってしまった日向の感情を表すようにつむじで見事なお辞儀を披露する癖毛を、狛枝は至近距離からまだ見ている。
 そして唐突にはぁー、とわざとらしい溜息をついた。
「あのさぁ、キミ」
……なんだよ」
「何で喜ばないの?」
「は?」
 日向は伏せていた顔を上げる。狛枝の灰色の瞳には、ただ純粋な疑問が浮かべられている。
 ──何で、だって?
 理解不能と言った風に投げられた疑問に、日向の頭に白い閃光のような怒りが燃える。
 しかし。
「だってキミ、生きてるじゃない」
 激昂のままに狛枝の胸倉を掴もうと振り上げた腕が、中途半端な位置で止まった。
…………あ」
 日向を窘める冷水が降ってきたような、そんな感覚だった。
 狛枝の声は、決して日向を責めるものではない。だが、だからこそ、日向に冷静さを取り戻させた。
……そっか」
 日向は頷いた。
「生きてる」
「うん、そうだよ」
「そうだよな、吸血鬼だったおかげで生きてるんだもんな……悲観的になる必要は、ないんだよな」
「そうそう、寧ろ悲しむ暇なんてないよ。大変なのはこれからだし」
 上体を元の位置に戻し、日向との距離も先程の状態に戻した狛枝は、彼の顔をいてぱちくりと目を瞬かせる日向ににっこりと微笑む。
「大変って……
「勿論、日光に当たれないとかにんにくを食べれないとかそんなのは無いから安心していいよ、あれは魔女狩りの理由づけに近しいものだしね。ただ、」
「た、ただ?」
「血は吸わなきゃねぇ」
…………
 日向の顔が、苦々しいものに変わる。
 随分ころころと表情が変わるんだなぁ、そんな感想を内に閉じ込めて狛枝は言う。
「キミの場合はハーフだから、頻度も量も純血のそれより少なくていいとは思うけど。それでも一週間に一回は血を飲む必要があると思うよ。キミは生き返る為に相当力を使っちゃっているし、吸血鬼として目覚めたばかりだし、数日間は血への渇望が止まらなくなるんじゃないのかなぁ」
「ぐ、トマトジュースじゃ駄目なのか?」
「それ色だけじゃない」
「だよなぁ……
「しかもそれを、世間に知られてはいけない」
 追い打ちをかけるような狛枝の言葉に、日向の身体が硬直した。
「記憶を失わせる術なんてないし、誰にも知られないように『食事』を行うのは大変だと思うよ。ボクのようなサキュバスならともかく、日向クンは吸血鬼だからセックスでなあなあにも出来ないもんね……
「ああ、そうだな──って、さ、サキュバス!?」
「そうだけど、そこはどうでもいいでしょ」
「良くないだろ!? 大体セッ……ぁ、ぅ、くす……って」
 言うことすら恥ずかしいのか、日向は見開いた目を右下へ泳がせる。蒸気を真っ赤な顔から立ち上らせるその様子は、狛枝の口から吐き出される、直接的な単語に対する動揺が、明らかに見て取れた。
 反対に、狛枝の方はそのような表現を用いることに微塵の躊躇いも無さそうだ。サキュバスである狛枝にとって、セックスは単なる『食事の手段』以上のものでないからかもしれない。心底どうでもよさそうに話を続ける。
「ああうんキミが免疫無いことが分かっただけ良かったよ。そんなことより、キミは自分の『食事』の心配をしなきゃ」
「あ、そういえばどうやって……
 日向は顎に手をやって考え込む。目を軽く瞑り、身体をゆりかごの様に揺らす。これは彼が考え事をするときの癖だった。
 狛枝の興味深そうな視線を受けながら時間にして3分弱。日向は目を開いた。
「────絶望的だぞ!?」
 推理は繋がらなかった。
 顔面蒼白で狛枝を見遣る日向に、一段と柔らかくさせた声が落ちてきた。
「そうだよね、今まで普通の人間として生きてきた日向クンに、人にばれないように、しかも定期的に血を吸うなんて難しいんだよ。だからこそ大体の吸血鬼一族は医療関係者だったりするんだけど、キミはどう見てもそうじゃなさそうだしね」
「だったら、」
「そこで、ひとつ提案があるんだ」
 狛枝が、日向の座るベッドの淵に腰かける。
さっきまでは分からなかったが、どうやら二人の身長はほぼ同じようで、狛枝がシーツに腕をついて日向に詰め寄ると、丁度目線が同じ高さで絡み合う。
「キミは吸血鬼、ボクはサキュバス。お互い『食事』に気を遣う者同士だ」
 覗きこむように迫られて思わず喉を鳴らした日向の瞳には、狛枝の、美しい笑顔が映り込んでいる。
「だったら一週間に一度でもさ、お互いを餌にすればいいんだよ──ねぇ」

「ボクと契約しようよ、日向クン」

 白い悪魔だ、日向はそう思った。




 錆びた外付け階段をなるべく音を立てないように上り、二階建ての安アパート、その右奥にある部屋の鍵を開ける。
 日付が変わって二時間は経ったであろう頃、日向はやっと自宅に戻ってきた。
 サムターン錠を後ろ手に閉めて、日向は電気も付けずに手荷物を全て廊下へ投げ捨てる。そして白く無愛想な鉄扉に寄り掛かると、そのままずるずると玄関にへたり込んでしまった。
 体育座りような格好で尻を思いっきり土間に着けてしまっているが、砂や泥で制服が汚れてしまうことへの危惧は無かった。それ以前に血塗れのぼろ布同然のこれを学校には着て行けない。
 それに、替えがあった。
 日向は、立てて曲げた膝を両腕で抱え込むと、乱雑に投げ捨てた荷物に視線を向ける。教科書と弁当箱、バイト用の制服を詰め込んだボストンバッグの下敷きになるような状態の、ベージュの紙袋。その中に入っているのは、日向の通う希望ヶ峰学園の制服だ。
 但し、狛枝の。
『ボクってすぐ制服を駄目にしちゃうから、替えはいっぱい用意してあるんだ』
まさか同じ学校だなんて、運が良かったね。
 そう言って、帰り際に紙袋を押し付けてきた狛枝が、現実をシャットアウトするように閉じた瞼の裏にこびりつく。
 同時に他のことも連鎖的に思い起こされて、日向は膝の間に額を埋めて唸った。
「うううううう、何なんだよ、アイツ……
 その顔は、暗闇でも分かる程に真っ赤だ。
 日向は呟く。
「あの変態野郎……

 あの後。
 契約を持ち掛けられた日向は、何で自分の名前を知っているんだと訊く暇もなく口を塞がれたのであった。
 狛枝の、唇で。
 思えば今まで日向の人生は健全を地で行くもので、女の子とこういった甘酸っぱい体験をしたこともない。つまり狛枝に奪われたアレが紛れもない日向のファーストキスだった。
 いや、この際ファーストを初対面の、自称サキュバスの男に奪われたことは不問としよう。
 大分腑に落ちないが。渋々、百歩譲って、不問とする。
 だが日向が許せないのはそこからだ。

……口、開いて』

 狛枝の、吐息混じりの声が頭に蘇る。
 あの時一回目のキスが奪われてから、息を吐く間もなく何度も唇が押し当てられた。上唇を舌でなぞられ、下唇を食まれ吸われて、未知の感覚に背筋を震わせる日向に狛枝が囁いた言葉である。
 混乱に支配される日向にはそれに対する正常な判断も下せず、ただ声に促されるまま口を開けば、新たな感覚に襲われる。
 ぬるりと口腔内へ滑り込んだ舌の、生暖かく濡れた感触。
「──っんん!?」
 歯列をなぞり頬の内側をねぶる長い舌に、日向は驚いて自分の舌で押し返そうとしたが、それは自分から狛枝へと舌を絡めに向かうのと変わらなかった。
 そうして一度絡め取られてしまえば、もう駄目だった。
「ぁ、ぅ、あぅっふ……は、」
 気持ちいい。
 キスしているのは可愛い女の子じゃなくて、日向と背丈が同じ男なのに。他人の舌を口の中に入れているのに。それなのに堪らなく気持ちいいのは、狛枝というサキュバスの力のせいなのか、単に彼のキスが上手いせいか、それとも自分が恋愛経験のない男だからなのか。
 そんな、頭をぐるぐる回る言い訳も、口中を長くとろける感触を持つ舌で舐めて這い回られ、だらしなく飛び出た舌は綺麗に並んだ歯に、又はつやりと潤った唇に悪戯を仕掛けたように食まれ、吸われて、更に舌同士を擦り合わせて伝った溢れる唾液を啜られれば。
 濁流のように押し寄せる快感と言う痺れと、流れ込む狛枝の唾液の甘美な雫、鼓膜を通して脳髄まで浸食してくるぴちゃぴちゃという淫靡な水音と信じられないくらい甘ったるい自分の喘ぎ声、それら全てに白く塗りつぶされて、やがて消える。
「っふう、ひ……んんっく、ふ、ぁ、あ……
「ん……あは、随分気持ち良かったみたいだね?」
 お陰でいい夕飯になったよ。
 てらてら光る銀糸を張らせて漸く唇が解放された頃には日向の腰はすっかり砕けてしまったので、ベッドの上に逆戻りしかけた上半身を掬い取った狛枝の腕に、そして引き寄せられた薄い胸に寄り掛からなければならなかった。
 「お前……っ」
 狛枝の行動の意味が分からず、胸に凭れたまま上目で睨みつけようとしても、潤ませた瞳ではうまくいかない。文句は、白く細い人差し指に簡単に差し止められた。
「今のが、ボクら《サキュバス》の食事」
「はぁ!?キスが!?』
「キスというより、ほら、キミ今『気持ちいい』って思ったでしょ? ボクらのご飯はそういった快楽の感情、手段は主にセックスだけどね!」
「ひ……ってことは契約って!」
「勿論キミみたいな初心な子に最初からセックスしようなんて言えないよ。ボクがキミに血を提供する代わりに、キミにはちょっと気持ちのいい思いをしてもらう──これってキミにとって凄く都合のいい契約だと思うけど?」
「だからって直ぐに頷けるかよ、それにこ、恋人でも無いのにこんなこと……!」
「じゃあ恋人になろっか?」
「か、軽々しく言うな!! っもう帰らせてくれ!!」
 顔を真っ赤に、日向は狛枝を今出せる渾身の力でなんとか突き飛ばすと、よろよろとベッドから降り立ち、コートラックへ向かう。覚束ない動きを暫し見守った狛枝は、困ったように眉を下げて、しょうがないね、と呟いた。
 それから、木枠で縁取られた空間の奥に進むと、日向がブレザーを着終えるタイミングで紙袋と共に部屋に戻り、ソファの上のバッグと重ねて日向に手渡したのである。
「いらない、制服代なんて払えないし」
「お金は履いて捨てるほどあるから、心配しないでよ。それに、受け取らずに困るのは日向クンだよ」
「さっきも言おうと思ってたんだが、何で俺の名前を知ってるんだ?」
「定期券、バッグに付けてあるやつを見ただけだよ。中身は見てないから安心して、泥棒だと思われたくないし。あ、あと」
「まだ何かあるのか?」
「ここからじゃ帰れないでしょ、送るよ」
…………いい」
……分かったよ、送るのは玄関までにするね」
 狛枝はふう、とため息を吐いた。それから日向を連れて一緒に木枠の奥へ進む。
 奥はどうやら中心的な部屋の様で、四方の壁すべてが木枠によって他の部屋と繋がれていた。そこには、大きなソファとテーブル、そして大画面の薄型テレビが鎮座していたが、そこには用もなくさっさと通り過ぎて、真正面にある木枠から玄関に到達する。
 土間の中央に並べて置かれた日向のローファーは、小さな傷は付いていたが無事なようで、日向はそっと息を漏らした。
 足早にそれを履いて扉を開けようとする日向を、狛枝が再度呼び止める。
「日向クン、焦らないで」
「はぁ?」
「どうやって帰るの? ここ何処か分かるの?」
「地図アプリ使えば……
「電源」
 日向は無言で鞄を漁ってスマートフォンを取り出し、そしてしつこくボタンを押しても沈黙を続ける画面を見つめて、無言のまま鞄に戻した。
 決まりが悪そうな顔である。
「ちょっと待ってて」
 狛枝は、靴箱の上部に置いてあった白い正方形のスタンドメモから一枚を抜き取り、隣に立てられたボールペンでさらさらと何かを描き出す。
「ここから最寄駅までの地図。キミの住所は分からないから、そんなに遠くないことを祈るしかないけど」
 渡された地図を眺める。駅名には見覚えがあった。
 安心から日向は内心で胸をなでおろす。
「ここなら徒歩でも帰れそうだ……悪い、助かった」
「気にしないで、それに、キミが契約を結ぶ気になったら、それ使ってもらうことになるかもしれないし」
「なっ!?」
「さ、あんまりのんびりしてるといくら徒歩で帰れるとしても日が昇っちゃうよ」
 その話まだ続いてたのかよ!? 日向の言葉はまたしてもニコっと笑った狛枝によって、両肩を掴まれ、対面の状態から半回転、ドアの方を向かされながら遮られる。
「お前が引き留めたんだろ……まあ、その、助けてくれたことはありがとう。でも、契約はしない」
 縦に長いドアノブに手を掛けた日向は、振り返ることなくそう言った。だから狛枝の表情は分からない。
 しかし、声だけは何となく寂しそうにも、日向に同情を向けるようにも聞こえた。
……そっか。じゃあ、見つからないように頑張って吸ってね。ボクはいつまでも待ってるから」
「吸わない……ように我慢する。というか、普通の食事は出来るんだよな?」
「ん? ああ、人間の食事は支障ないと思うよ、ハーフだし。ただ、それも完全な代わりにはならない──覚えておいてね日向クン」

「目覚めちゃったキミはもう、決定的に人間じゃない」



……分かってる」
 寒々しい狭い玄関で、一人膝を抱えた日向は、去り際に放ったその言葉をもう一度繰り返した。
 これから自分はどうなっちゃうのか、その不安よりも何より先に。
 キスの形をとった食事だけで胸を締め付けるような感情に溺れた自分が情けなくて、狛枝の元へ自分から飛び込んでしまえば、彼によって次はどれ程の快楽を吸い出されてしまうのか。恐怖のような、得も知れぬ何かがぞわぞわと額にこびりついていた。
 朝はまだ遠い。