意識が闇の中から浮かび上がる。体の芯から湧き上がる熱に、寝汗で寝巻きがじっとりと肌に張り付いていた。喉の奥がひりつき、唇が乾いて割れそうだ。
目を開いても、部屋の中は濃紺の闇に包まれている。まだ時計の針が夜中の三時を指しているのが、青白い月の光で朧げに見えた。
耳元では、八左ヱ門の寝息がすうすうと穏やかに流れている。その音が、静寂の中で不思議なほど鮮明に聞こえる。波打ち際の小石を、優しい波が撫でているかのような、規則正しいリズム。頬にかかる彼の吐息は、本来なら生温かいはずなのに、妙に冷たく感じられた。それは朝霧のように、心地よく肌を濡らしていく。
じわじわと体の中心から湧き上がる違和感に、眉をひそめる。頭がぼんやりとして、思考が靄の中を彷徨っているようだ。シーツに触れる肌が、どこか過敏になっている。
「ん……」
ゆっくりと体を起こした。頭がくらくらする。口がからからに乾いていた。とりあえず、水、あとトイレ……
用を足して、廊下に足を踏み入れた瞬間、体温を測り忘れたことに気がついた。小さな溜め息が、静寂を破る。
基礎体温は目覚めてすぐに測らなければ意味がない。体を動かしてしまえば、正確な数値は得られないのだ。
「無理に計る必要はないけどね。当てにならないことも多いし」なんて伊作先生は言っていたが、ここ数日は毎朝起き抜けに欠かさず体温を測り続けていた。(八左ヱ門の寝起きのキスにより数回は失敗していたのだが)"それ"がいつ来るのか、その不安が胸の奥で渦を巻いていたからだ。
抑制剤をやめてから一週間。発情期の兆しは、まだ見えない。その事実に、ほっとするような、どこか物足りないような、あやふやな思いが胸を締め付ける。八左ヱ門との新たな関係に踏み出す準備が、本当に自分にできているのだろうか。廊下に立ったまま、月明かりに照らされた窓の外を見つめた。夜の静けさで中にビル街の灯が煌々ときらめくように、自分の鼓動が妙に大きく聞こえた。
「……」
手を洗うと、水の冷たさが、微睡んだ意識をはっきりとさせる。寝起きに感じた違和感が輪郭を帯びる。なんとなく息苦しくて、お腹が張る。下してはいなかったけれど、と顔を上げると、洗面台の鏡に映る自分と目が合った。瞼の上には三重の皺が刻まれている。ああやっぱり浮腫んでるのか、全身が怠く、重い。熱い?冷たい?いや、どっちも?体の中で冷たさと熱さが層になっているような感じがする。火照る表面の下の血は冷えていて、でもさらにその内側では何かが蠢いている。熱が、まるで生き物のように蟠っているかのようだ。
これって、もしかして――
「風邪ひいたな……」
鏡に映る自分は、いつもより頬が紅潮していて、目がとろんとしているのに異様にぎらぎらと輝いているように見える。頭を軽く振ってみたけど、体の芯で燻る熱は、消えることはなかった。
「どした、兵助」
ベッドに戻ると、寝ぼけ眼の八左ヱ門にぼやけた声をかけられた。暖色の光が、目を擦る彼の輪郭をぼんやりと照らしている。
「風邪ひいたと思う。伝染したくないから部屋に行く」
「お、ええ? 熱測った?」
「測ったらより具合悪くなりそうだから」
寝起き端に案じた声をあげさせて、申し訳なくなる。でも、そんな大したことじゃないよ、と続きの言葉を紡ぎ出すのも億劫なほど、喉がひりつく。さっき水を飲んだばかりなのに。言い終わらないうちに、大きな手のひらがぺたっと額に当てられた。
「……いつもより熱いような……」
いつもは温かい彼の手が、今は涼やかに感じられて、不思議なほど心地良かった。手のひらから、恋しい匂いが漂ってくる。乾いたお日様の香り、そして彼自身の匂い、と、あと、甘い香り……?冷たく感じるのに、あたたかい、いや、熱い、この掌が欲しくなって、彼を見つめる。優しい薄茶色の瞳に、自分の輪郭がぼやっと映る。ああそうだ、こんなふうにもっと、自分だけを──
「兵助?」
八左ヱ門の声に、冷や水を打たれて我に返る。意識が霧の中から引き戻される。あ、これ、本格的にまずいかも……
「……どうせ休みとってるし、大丈夫。部屋、いく」
「ん、分かった。布団敷くの手伝うよ」
「いい、自分でやる」
優しい申出をなぜか断らなきゃいけない気になった。
自分で、自分の手で成し遂げなければ。この熱を鎮める拠り所を作らなければ。本能が囁くままに、立ち上がった。
足取りも怪しく、やっとの思いで部屋に辿り着く。クローゼットの扉を開けると、懐かしい香りが漂ってきた。日々の生活が染み込んだ、柔らかくて温かな匂い。
震える手で布団を引っ張り出し、床に広げる。布団なんてあまり敷いたことはないのだが、まるで幼い頃から繰り返してきた習慣のように自然に思えた。
ふかふかのそれに倒れ込むと、日向の残り香が静かに俺を包み込んだ。それは、幾度となく感じてきた安らぎの匂い。好きな香りに包まれる心地よさ。
目を閉じれば、八左ヱ門との日々の記憶が瞼の裏に浮かぶ。彼のそばにいる時の安心感、何気ない仕草の温もり。ずっとずっと怖さと隣り合わせだったそれが、今は何の弊害もなく受け取れることが、嬉しくて、ぽっと心が暖かくなる。しみこむような安心感に身を委ねて、ゆっくりと意識を手放していった。熱に浮かされた頭は、慣れ親しんだ香りに癒されていくようだった。
最後の意識が途切れる寸前、体の奥底で何かが目覚めようとしているのを感じた。けど、それを考える力はもう残されていなかった。
意識の向こうから誰かに名を呼ばれた。まるで遠い記憶の中の音のように、懐かしくて、でもしっかりと現実味を帯びてそこにある。
へーすけ、なあ、へーすけ。
熱い。眠い。聞こえてるってば八左ヱ門、もうすこし寝かせてくれよ。言葉を紡ごうとしても、喉から漏れるのは掠れた吐息だけ。渇いた唇が震える。
「兵助、」
「ん」
「兵助、聞くだけ聞いて。俺ちょっと行くけど、すぐ帰ってくる。今日はもう外出るなよ、絶対だからな」
「うん」
言われなくても分かってるよ。こんな怠いんだから出られないよ。思考が水中で漂うように、ゆっくりとしか動かない。
「ピンポンも出るなよ!! 宅配はボックスに預けてもらうようにしとくから」
頭がふやけて、聞こえる言葉が水面下で揺れる海藻のようにぼやける。現実が夢と混ざり合い、境界線が曖昧になっていく。うん、とか、あーとか。意識の海から掬い上げた音を、なんとか口から零す。すると、八左ヱ門が長い沈黙の後に、ため息混じりの声を漏らした。
「……なあ。ここ、俺の……いや、いい。用事済ませたらすぐ帰るから、じゃあな、寝てろよ!」
ガチャガチャバタバタと喧騒が遠い潮騒のように耳に届く。すぅっと息継ぎすると、甘い匂いに脳が痺れて、また意識が溶ける。なんか、おなか、すいた、かも。でも、それよりねむい。穏やかな波に揺られながら、ゆっくりと眠りの海へ沈んでいった。
**
病院の受付を済ませ、診察室に入るなり、善法寺……伊作先生に呆れたような視線で迎えられた。どうやら俺の単独来訪は想定外だったらしい。居心地が悪くなって目を逸らすと、机の上に置いてある骸骨のぬいぐるみと目があって、(どんな目的で置いているんだろう?正直怖い)さらにやるせない気分になる。
「もう、次は二人で受診してって言ったのに」
「あ、違くて、話し合ったんです! で抑制剤やめてるんですよ」
「おや」
伊作先生の目が丸くなった。その表情がゆっくりと和らいでいき、やがて優しい微笑みに変わった。
「そっか。良かった」
安堵と喜びが滲む言葉に先生の笑顔に、緊張が解ける。
「それで? どうしたの?」
彼は軽く咳払いをすると、姿勢を正してこちらを見つめ直した。机の上で指を組み、少し身を乗り出す。
「なんか、そのヒート? 起こってるとは思うんですけど、よく分からなくて」
「分からないって?」
眉がわずかに持ち上がった。真剣な眼差しで俺を見つめる。だが、その瞳の奥には、どこか楽しげな光が宿っている。この人、この職業が天職なんだろうな。
「甘い匂いがして、巣作りして、すごい求められるのがヒート……ですよね?」
「うん、まあ雑に……一般的に言うとそうだね」
俺は兵助の姿を脳裏に描く。桃色に染まった頬、汗が浮かぶ熱い額、いつもはキリッとしているのに、湿気に曇った瞳。でも、欲情とかそんな感じじゃなかった。むしろ眠たげな幼子のような……大きな目をうるうるとさせて、ぼんやりと俺を見上げていた。匂いはもうよく分からなかった。
「でも、兵助は違うみたいで」
言葉が、自然と口をついて出た。
「甘い匂いはしないし、俺のこと求める風ではないんです」
「匂いはね。嗅覚細胞の遺伝子多型とかあるから一概には言えないんだけど……ってこれは聞きたい話じゃないよね。巣作りの方は? あれは大多数、ほぼ百パーセントに認められるんだよ」
「……番の服とかを寝床に集めるんですよね」
カタカタという音が診察室に響く。カルテに書き込んでいるのだろう、キーボードに向かって指を走らせながら、彼は頷いた。
「服じゃないんですけど、俺の部屋で、俺の布団で眠るのって……」
「それが巣作りだよ! αの体液が付いたものを自分の近くに置く、というのが定義だからね」
伊作先生はくるっと椅子を回してこちらを振り向く。その目には切迫感が宿っている。
「早く帰ってあげて! あの兵助が抑制剤やめてる、ってことは君も知ってると思うけれど。ヒートに対して思うところがあるみたいだからね、彼。一人にする時間が長いのは良くない」
俺は言葉に詰まる。あれ、巣作りなんだ。やはりヒートは起きている。早く帰らねばとも思うのだが、ここにきた目的を果たさねば。
「でも兵助、自分にヒートが来てると気づいてなかったみたいなんです。あんなに怖がってたのに」
「ああ……まあだって抑制剤飲んで何年だっけ……」
伊作先生は驚いた様子も見せず、もう一度パソコンの画面に目を向けた。カチカチと、マウスをクリックする音が十回ほど響く。兵助のカルテを遡っているのだろう。息を潜めて待った。
「うん、十年間ヒートを止めてるからね」
「……すごく怖がってたんです、だいぶ普段と様子違うんですけど、あれ気づいたらすごく本人傷つくんじゃないかって。だから、なんか抑えるような薬……」
あの雨の日の光景が蘇る。
震える双肩。潤んだ瞳からこぼれる大粒の涙。紅潮した頬を涙が幾筋も伝い、ときおり漏れる嗚咽が雨音に掻き消される。真っ赤に腫れた唇は、何かを必死に堪えるように引き結ばれていた。その痛々しいまでの泣き顔を思い返すと、鋭い痛みが走る。鼓動が早鐘を打った。
「薬ねえ」
うーんと唸り、考えこむ。
「まあ、兵助の場合は実際に乱暴とかされたわけじゃないからなあ」
答えをもらえないもどかしさに、指先が震える。膝を掴む手に力が入る。やきもきする心臓の音が、耳元でドクドクと響く。
「オメガ性の人間が体の変化についていけてないことは珍しい話じゃないんだ。そりゃそうでしょ、ずっと勃起が止まらなくて尻の穴が濡れて、物欲しくて仕方なくなる。そんなの嫌じゃない?しかも大体思春期真っ只中に起こるんだよ」
……あの完璧主義な兵助だ。自分の意思だけではどうにもできない身体の変化に戸惑い、それでも誰にも相談できず、ただひとり欲望に蝕まれる。きっとあの端正な顔を歪めながら涙を流して、どうしようもなく昂ぶった欲望に翻弄され、理性を失いかけながらも必死に堪えて。触れてほしくて、愛してほしくて、だけど満たされることなく。そんな兵助を想像するだけで、心臓は痛むようにきゅっと縮み上がった。
「まあ兵助の場合、その一回のヒートあとずっと止めてたからついていけないのは大人になった今でも同じなんじゃない?……たぶん十年前と同じようにね。そこに必要なのって、薬じゃなくて……」
ぐちゃぐちゃに感情をかき乱されて、すすり泣く兵助に、どんな言葉をかければいいのか。
伊作先生の言葉を聞いた瞬間、全てのピースがはまった気がした。兵助に必要なのは薬なんかじゃない。自分だ。ちょっと前までは体は求め合っても、心はすれ違ったままだった二人。ようやく本当の意味で向き合える――そう確信した。
「先生、ありがとうございました。兵助に必要なもの、わかりました!俺、帰ります!」
立ち上がりざま、カバンを手に取る。
待ってろ兵助、今すぐ行くからな。もう二度と、あんな風に一人で泣かせたりしない。心の中で誓いを立てながら、駆けるように診察室を後にした。
「はーい。お大事にね。またなんかあったら予約とってねー……あ、言うの忘れちゃったあ。抑制剤で止めた後のヒート、すっごく重くなるんだよね。……ま、あの二人なら大丈夫か。ね?コーちゃん」
伊作先生に別れを告げて、会計を済ませて、我武者羅にクリニックを飛び出した。決して遠くはない道のりだというのに、今日に限ってその距離が果てしなく遠く感じられる。心の内で兵助への想いがせり上がるたび、足に力が篭って加速度がつく。
このまま、早く家に着かなければ。ただその一心で道を駆け抜け、人ごみをかきわけ、赤信号をくぐり抜けた。澄み渡る蒼穹に、雲ひとつない。木々の梢を揺らす風に、夏の名残と秋の気配が交差していた。
タワーマンションのエレベーターに飛び乗り、兵助を想う胸中を、上昇を知らせる機械音音がいっそう焦らせる。
怯えてないかな、過呼吸とか起こしてないかな、そんな想像が八左ヱ門の心を掻き乱し、胃を絞り上げた。
部屋の前まで辿り着いて、鍵を取り出す。震えてて上手く鍵穴に入らない。日頃は怠慢で、二つあるうちの一つしか占めていないのだが流石に今日は両方閉めた、それが仇になって時間がかかる。がちゃがちゃと焦った手つきで鍵を回し、ようやくドアを開けると、途端に強烈な甘い香りが鼻腔をくすぐった。
ほのかに漂う程度だった昨日とは違って、まるで部屋中に充満しているかのよう脳髄の感覚を圧倒する。その濃密な香りに誘われるまま、恐る恐る足を踏み入れる。
「……は、兵助っ……」
部屋に入るなり、八左ヱ門の目に飛び込んできたのは、見慣れた白い布団の中で、頬を染めて静かに眠っている兵助の姿だった。長い睫毛の影が頬に落ち、わずかに開いた薄い唇からは時折甘い吐息が漏れる。花の中に埋もれた親指姫のようだな、と思った。先ほどから立てている物音や八左ヱ門の足音にも、後ろ手に扉を閉める音にも微動だにしない。嗅覚と視覚とで脳が刺激されて、愛おしさでいっぱいになった。
そっと足音を殺し、彼の横にひざまずく。まどろむ兵助を覆う強烈な甘い香りに誘われるまま、八左ヱ門はゆっくりとその顔に唇を寄せた。真っ白な肌に口づける。まるで白雪姫に口付けする王子のように、そっと唇を重ねる。
触れた瞬間、まるで甘露を吸うかのような蜜の味が口の中に広がった。至福の味に、脳が痺れるような感覚。いつものクセで、兵助の唇をべろりと舐めると、途端に長い睫毛がはばたいた。
「ん、はち……?おかえり、」
緩慢に開かれた黒曜石のような瞳。自分の姿が反射してどきりと鼓動が跳ねる。
「ただいま」
兵助の唇にもう一度口付けた。最初はぼんやりとしていた兵助も、次第に我に返ったのか身体をよじらせ始める。甘い吐息を弾ませながら、戸惑いを覆い隠すようにもごもごと言葉を紡ぐ。
「あ、こ、戸籍」
「は?」
「今日、お前が籍入れたいって言ってた日だ、ほら、いかなきゃ」
そう言って八左ヱ門の腕から逃れようともがく兵助を、いっそう強く抱きしめる。
「こんな状態で、無理だろ、今日じゃなくていいじゃん」
自分がこの日がいいと言った口で、その舌で当惑した表情を見せる兵助の頬を這う。
「ふぇ、でもおれ、楽しみにしてたのに」
不満げに口を尖らせる兵助の仕草が、愛おしいと同時に歯痒くもある。触れた指先から伝わる熱を感じながら、なおも逃げ惑う兵助の身体の奥に巣喰っているものが読めたような気がして、苛立って、火蓋が切られた。
兵助は自分の、ただ俺だけのものなのに。独占欲が沸騰するように高まり、馬乗りになるようにしてぎゅうと抱き締めた。まってぇ、と不安げな抵抗の声が上がるのも、構わずに。ぴたりと密着させた胸の鼓動が、互いの要求を雄弁に物語っているのに。この想いに耳を傾けずにいられるわけない。胸に迸る情熱に突き動かされるまま、焦がれる唇に噛み付いた。内側を抉るように侵入し、互いに唾液を交換するたび、蕩けるような熱が喉の奥に灼けた。
「ん、む」
「っは、いや?」
遮るように顔を背けた兵助に問いかけると兵助は、いやじゃないと言葉を継いだ。
「やじゃない、けど、まって、お腹すいた、おれ」
「お腹……?」
意味が飲み込めずにオウム返しする。緩んだ瞳には、本当の空腹を訴えるような純真さが宿っている。
「お腹、うん、からっぽで、早くいっぱいにしたい」
あどけない言葉に、自分の中で合点がいった。
お腹を満たしたいと言いながら、それが何を意味するのかわかっていないのだ、兵助は。体は正直に欲求を訴えているというのに。眠そうにしていたり、空腹を訴えてみたり。人間の三代欲求は、残る一つだ。
「へーすけ、まだわかんない?」
からかうような調子で問いかければ、不思議そうな顔でことっと首を傾げた。純粋無垢な仕草に理性が陶酔する。ああ、たまらない。これが、これこそが、俺だけのものなのだと、どこか獣じみた声が脳髄をくすぐった。
「ここ、俺の部屋だよ、兵助の部屋じゃない」
事実を告げれば、兵助の目が見開かれる。
「あ、え……?あ、ほんとだ、八左ヱ門の部屋、ここ、ま、間違えた」
「間違いじゃないよ、これ、巣作りだよ」
「す、巣作り……?」
聞き慣れない言葉のように、すづくり、すづくりと反芻する。まるで初めて耳にするかのような反応だ。
「兵助、すっごくいい匂い、目は蕩けて、顔は真っ赤で、……言っていい?言うね、発情期、来てるよ」
言っていいものかなんて昨日の夜から考えて、ようやく音に出して言葉にした。赤く上気した頬が一気に血の気を失った。青ざめた顔に浮かぶ狼狽を、左の胸が痛いほど愛おしく感じる。
「あ、や、やだ」
赤い唇から震えるように零れた言葉に、首を横に振った。
「やじゃない」
「やだ、欲しくなるの、こわい」
双眸に揺らめく恐怖に、胸が痛む。幼い頃に一度だけ味わった快楽の記憶が、彼の中で怯えに変わってしまっているのだろう。
「俺は兵助のことずっと欲しかったよ」
囁くように言葉を紡ぎ、頬に口付ける。ぴくりと震える肌に、切なさがこみ上げた。
「兵助も俺のこと欲しがってほしい、欲しがられて欲しい」
返事を待たずに、首筋に唇を這わせた。びくんと体を跳ねさせる兵助に構わず、敏感な肌を味わうように舐め上げ、歯を立てれば嬌声が上がる。
「んっ、あっ……!は、ち……」
熱を孕んで蕩ける声は、恐怖だけからではない。お互いの想いが繋がり始めているのを、はっきりと感じ取った。兵助の肌から立ち昇る誘因香に誘われるまま、うなじに噛みつく。
ぐっと引き絞まる喉から漏れる嗚咽に、征服感がうずく。
触れるたび高まる体温、口付けるたび色を濃くする朱、そのすべてが八左ヱ門への欲求を雄弁に物語っている。
「いた、あぅ……っ」
堪えきれないとでもいうように弓なりに背を反らせ、兵助が掠れた声を上げる。その表情は、もはや恐怖ではなく、切ない陶酔に満ちていた。
「番い、なれたね、へーすけ」
ようやく心も体も結ばれた喜びに、震えた声が喉から出た。
これから何があろうと、絶対手放すことなどない──そう心に誓いながら、更に深く兵助に食らいついた。
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