【カブミス】初めての息

港の飲み屋で、女将にミスルンについてのろけるカブルーの話。

 あんなに激しかったメリニの波も、大陸が浮き上がってきたことで大分穏やかになった。そしてそのせいもあって、メリニはまたたく間に交易の一大拠点となった。今はまだ、後ろ盾となる北中央大陸の西方エルフが主な交易相手だが、他にも多種多様な種族たちがさまざまな公益品を抱えて、この国にやってくる。一旗あげる夢を見て、この国で幸福になる夢を見て。現代のおとぎ話の主人公みたいな、我が悪食王のお膝元で、幸せになることを祈って。
 
 
 俺たちは朝っぱらから変装をして(と言っても頭からローブを被っただけだが)、海辺の町に来ていた。
 もちろん遊びにじゃない、いつも通り仕事にである。しかし、多種多様な人種が混ざる人混みをかき分けて歩く俺に与えられた仕事は特になかった。そう、正しく言うと、今日は単純にミスルンさんの付き添いだったのである。そんなことで休みをとってしまった俺も俺だが、ちょっとした小旅行みたいで嬉しかった。とはいっても、彼は今日、女王からの書状をお忍びで受け取りに、メリニで一番大きな港にやって来ていたから、お忍び旅行なんて甘ったるいものではなかったが。
「どうして外交官公邸か、黄金城で受け取らなかったんです?」
「お前も政治家なら分かるだろう? ことを大袈裟にしたくないからだよ」
「大袈裟にしたくないって、怖いことを言うなあ……
 俺たちはそんな会話をしながら、海がさざめく音を聞きつつ、荷下ろしをする海辺の男たちを眺めた。俺は彼らの足元を見る。沈み込む土地の上を、屈強な男たちの足が歩く。手にはさまざまな形のコンテナがあり、それは次々に手渡を続け、整地された土地の方に運ばれてゆく。俺たちはそんな彼らにぶつからないように気をつけて、物売りをする、小さな子どもたちの間を歩いた。酒場の呼び込みをする、酒焼けした声の主人たちの声を背景に歩いた。
 ミスルンさんがエルフの女王から受け取る書状の内容は気になったが、別にこちら側、メリニ側が不利になるもの出ないことだけは、彼の表情から分かったのでまぁいいだろう。俺を付き添いに連れて来たことからも、書状はきっと平和的なものなのだろう。それをどうして、公にしないのかは分からなかったが。
「この国はまだ発展途上ですが、それでもずいぶん豊かになりました。あなたの国のおかげですよ。パッタドルさんにお礼を言わないと」
「私には言わないのか」
「もちろん、あなたにも言いますよ。あなたがこの国のために心を砕いてくれていることも、ちゃんと知っていますから」
 俺は腰をかがめ、ローブで顔を隠すミスルンさんを覗き込む。彼は不服そうな顔をしていたが、それでも俺に遠回しに礼を言われて気分を害したわけではなさそうだった。
「あぁ、エルフの小舟が来る。……私は迎えに行ってくる。お前は酒場で一杯ひっかけて待っていろ」
 じゃり、と音を立ててミスルンさんが海辺に近づく。
 彼の視線の先、遠くを見ると、停泊しているエルフの大艦隊から、小舟が一隻こちらに近づいて来ているのがわかった。海の匂いが強くなる。潮風が、ミスルンさんの灰色がかった銀の髪をなびかせ、絡みつく。
「分かりました。いい子にしてますから、早く帰って来てくださいね。仕事が終わったら一杯俺が奢りますから」
「楽しみにしてる」
 ミスルンさんが笑って(なんと笑って!)足を早くして、近づいてくる小舟の方に歩く。俺はそれを見送り、商船の群れから荷下ろしをする男たちを遠目に、酒場が連なる方へ歩く。
 さっき言った通り、この国はまだ発展途上だが、それでもずいぶん豊かになった。それは主に後ろ盾となってくれた西方エルフのおかげだったけれど、この国に集う人々の力でもあった。そんな国が俺は好きだ。そしてその好きな国に、愛しい人が滞在して暮れることが、俺はとても嬉しかった。
 
 
 小さな酒場で注文したのは、一杯のエールだった。俺は身分がバレやしないか冷や冷やしたけれど、朝っぱらから飲む人々は酩酊している人がほとんどで、俺がこの国の宰相補佐だと見抜く者は誰もいなかった。
 恰幅のいい女将が、片手でエールを持ってくる。それからこの港でとれた小魚を揚げたものも、一品サービスだと言って。俺はそれをありがたく受け取る。しかし彼女はすぐに俺から離れず、しらふの人間が珍しいのか、それともこれもサービスなのか話しかけてきた。
「あんた、さっきのエルフにフラれたのかい? 色男さん」
「違いますよ、あっちは仕事です。俺は休日。仕事が終わるのを待ってるんです」
 俺は乾いた喉にエールを注ぎ込む。
 本当は、俺は今日休日じゃない。ミスルンさんの付き添いでもない。休暇を取るため、明日一緒に女王の書状を受け取るため海辺の町に出かけるとヤアドに言うと、彼を監視しろとの命を受けたのだ。まぁ、俺はそれを無視して酒を楽しんでいるわけだが。
「しかしエルフは綺麗だね。今度生まれ変わるなら、あの透き通った顔になりたいもんだよ」
 女将が笑う。誰かが酒場に入ってくる。それは海辺で働いていた男たちで、彼らが一仕事終えたことを俺は知った。
「あの人は特に美しい、俺の大切な人なんです」
「へぇ、どれくらい? 色男が駄目になっちまうくらいいいのかい?」
「出会って、時を重ねて、ようやく息ができるようになったって感じるくらい」
 俺はエールが入ったグラスを傾け、見ず知らずの女将にそう言う。
 本当に彼に出会うまで、俺はうまく息ができなかったのだ。何かが欠けている気がしたし、優しい人たちはいるのに、何かが足りない気がした。そこで出会ったのがミスルンさんだった。最初のうちは運命だなんて思わなかった。迷惑なエルフだと思った。でも時を重ねるうちに彼の秘密を知り、傷を知り、どうしてか目が離せなくなった。そしていつの間にか俺は恋をして、その時初めて息ができたのだ。ずっと海で溺れていたところを、美しい精霊に救われたように。
「へぇ、熱烈だねぇ。そんなにいい人を一人にしていいのかい? 誰かに取られちまうかもよ」
「あの人は頑固で、厄介な人でもあるから、なかなか人に靡かないんですよ。それにみんな本当の美しさに気づかない。俺だけが知ってるんです」
……確かに私は頑固だが、厄介だとは知らなかったな」
 その時、頭の上から声がかかった。俺よりずっと年上とはなかなか分からない、低いけれど涼やかな声。甘くて、俺と二人きりになると熱を持つ声。
「そこから聞いてたんですか? もっと前から聞いてくれてたらよかったのに」
 俺はそう言って、女将にエールをもう一杯と頼む。すると彼女は「あいよ」と、他の客たちからも注文をとりながら去ってゆく。
「知ってる、私と会うまで息をしてなかったんだろう?」
「そうですよ、いつもずっと苦しかったんですから。あなたに会えて、それが変わったんですよ」
 俺は隣に座ろうとするミスルンさんの腕を引いて、耳元に囁く。悪魔に半分にされたそれは痛々しいが、欠けたそれは美しくも見えた。欠落の美しさだ。
「私もかもしれないな」
 ミスルンさんが言う。
「私も、そうかもしれない」
 首を傾げ、ミスルンさんが笑う。俺はそれに笑って、あぁ、もっと一緒にいたいって思う。女王の書状なんてどうでもいい。家に帰ったらミスルンさんは仕事をするんだろうが、今日の俺は仕事が休みだ。彼を引っ張って、ベッドに引きずり込むのもいい。
 女将がエールを持ってくる。俺たちはそれを受けて乾杯する。人々は笑っていて、あたりには喧騒が満ちる。
 笑い合っていよう、出来たら帰って抱き合おう。
 この酒はただのスパイスだ。
 あなたの目がとろけるとき、俺はそれを見ていたい。