九時五十四分、開店準備で慌ただしいポアロのドアベルが鳴った。ポアロの開店時刻は十時、朝の六分は眠たい昼下がりの一秒に相当する。
そんな忙しいタイミングの来訪者に梓は一瞬手を止めるも、すぐに開店準備に戻った。誰がやって来たかぐらい、探偵ではない梓でも想像がつく。
「おはようございます、毛利先生。ホットコーヒーのモーニングのセットですか?」
「なぁんでお前はすぐわかるんだよ」
「あはは、僕は毛利先生の一番弟子ですからね。このくらい朝飯前ですよ」
「頼むもんに弟子が関係あるかよ」
「先生が他人を観察する……ほら、探偵には観察眼が必要だって言っていたじゃないですか」
パスタの計量にもやしのひげ取り、二人の恒例の会話を聞きながら梓は手を動かす。
喫茶店にしてはメニューの幅が広く、さらにピーク時に客側が求める回転効率が高いポアロでは、昼のピークに向けてすべきことが多い。一見地味で面倒なこれらの作業もその一つだった。
「あーもうわかったよ、ホットコーヒーとモーニングのセットな」
「はい! 梓さん、ホットのモーニング一つです」
「はあい」
普段と変わらない安室の声に、梓は食パンの袋を片手に返事をした。カウンターと通路の向こうから新聞を開く音が響く。オーダー終わり、会話終了の合図だった。
「モーニングは僕が作るので、梓さんはコーヒーを入れてもらえますか?」
カウンター越しに安室が話しかけてきた。背の高い安室が身を乗り出して話しかけると、子供のこそこそ話のような感覚がする。
「僕の淹れるコーヒーは苦すぎると、毛利先生に言われているので」
新聞を捲るふりをしてこちらを見る視線に梓は気がついた。暫く、といっても二、三秒視線を泳がせて口を開く。
「すみません。私、まだ仕込みが終わっていなくって。ほら、まだ開店前だから」
「あ、そうだった」
安室の視線が外れたのをいいことに、梓はソファー席に向かって思いっきり頬を膨らませる。そのくらい自分で言いなさい、と顔にあからさまに書いたせいか、慌てて新聞を捲る音が響いた。
素直になれないのは、言いたいことを言えないのは私も一緒だ。誰かに言ってもらおうともせず、ただただ飲み込んでばかり。知られていない感情は、そこに存在しないに等しい。
食パンの袋を渡してから、極めて普段通りの声で梓は言い返す。
「もう、安室さんまで毛利さんのフライングに流されちゃダメですよ!」
「あはは、つい。僕が対応するので今回は見逃してください」
「今回だけですからね、毛利さん!」
新聞の後ろからゴホン、とわざとらしい咳音が響いた。
キッチンの中央でアイスコーヒーを準備している梓の左右を安室が行き交う。ポアロのキッチンは決して広くはない。客席数を考えれば十分、いや十二分だといえる。それでも狭く梓が感じるのは、マスターがいれた機材の多さだとか、隣に立つ男の体格の問題だった。
元から機材の多い、凝るタイプのマスターだった。ムースフォームを作る専用のものだったり、碌にケーキを出していない時からなぜかある電動泡立て器だったり。もはや梓ですら最後にいつ見たかわからないものも棚の奥底にある。ポアロの歴史を知るものと言えば聞こえはいいが、要はそのがらくたたちで圧迫されている節があった。
そんな物たちを片付けようと、ポアロの大掃除を銘打って定休日に三人で予定を合わせたことがあった。ハロウィンのかぼちゃの置物をしまう空間が必要だと梓が言い張り、安室が加勢し、マスターが折れて開催決定。そんな経緯で立てられた計画は、安室の長期欠勤であえなく中止になった。一人足りなくても大丈夫だといくら主張しても、梓一人ではマスターを言いくるめられなかった。
本当に、マスターは安室さんに弱いんだから。
ため息とアイスコーヒーのセットを冷蔵庫にしまう。右側のコンロから目玉焼きが油の上でパチパチと水分を飛ばす音と、遅れて食欲を刺激する匂いがした。
「半熟ですか?」
「ええ」
「いいなあ、お腹空いてきちゃう」
「今日の賄いはモーニングプレートでどうでしょう」
得意げな、けれど小さな声が梓を惑わせる。ちょうどいい塩梅に火が通った半熟目玉焼きにパリパリのソーセージ、生野菜と即席お手製ドレッシング、それから耳はカリカリ中はふわふわのトースト。シンプルなメニューながらも、梓は随分前から虜になっていた。
昨夜シャワーを浴びていた時の案は特製オムライス、もしくはお手製パスタ。最後までねだらずに私が作っても、とか殊勝なことを考えていた。そんな思いを一掃するこの香りに、一人ぐらついていた。
「……梓さん?」
「今、頭の中で戦争が起きているんです」
「それはまた物騒ですね」
「安室さんの絶品モーニングプレートを食べたい私と、お手製オムライスを食べたい私の」
真剣な顔で、それこそラストのデザートを決める時と同じぐらい揺れながら、梓は言った。
フライパンいっぱいに広がる黄色い卵で消えるバターライス、半熟卵を吸ったトースト。脳内の天秤に載せられた二つは、どちらかに偏ることなく釣り合っている。
「あはは、そういうことですか」
「もう! 大戦争ですよ、どっちも捨てがたくって」
慣れた手つきでフライパンが火から上げられ、野菜の載った皿に並べられていく。梓から見ても熟練された動きは迷いの一つもない。湯気の立つそれは、いつの間にか淹れられたコーヒーと共に颯爽とキッチンから出ていった。
換気扇から徐々に消えていく香りが、天秤をゆっくりとモーニングプレートへ傾かせる。賄いのはずが、梓の中では最後の晩餐のようだった。
師弟コンビがああだこうだと普段のノリを見せる中、ドアが音もなく開いた。
「おはよう、梓ちゃんに安室くん……と、いらっしゃい」
「おはようございます……って、あれ?」
現れた人間、ことポアロのマスターに梓と安室は二人揃って首を傾げた。それもそのはず、今日のポアロのシフトはオープンからクローズまで梓と安室の二人きり。マスターは私用で閉店間際まで顔を出せないと昨夜連絡があったばかりだった。
「ちょっと時間できたから先に置いておこうと思って。安室くん絶対開けちゃダメだからね」
開けようとしたら梓ちゃんも止めてよ、と続けながらマスターはバックヤードに消えた。
フォークの刺さったソーセージが口の中に消え、片手を顎に当てたまま歩く安室が梓の隣に戻る。バックヤードから物音がすることを除けば、普段通りのポアロ。ふと見上げた時計が十時七分をさしていた。
新たなお客さんもなく、追加オーダーも持ち帰りやデリバリーの注文もない。仕込みも終わってしまった以上、ポアロの店員の二人は暇を持て余していた。安室に見せるなと言われた以上、目の前でバックヤードのドアを開けるわけにもいかない。ちらついていた蛍光灯が取り替えられ、妙に綺麗なシンクの前で梓はぼんやりと立ち続けた。
フォークが皿と擦れる音と共に鳴っていた物音が止まり、バックヤードのドアが開いた。隙間の奥は梓が朝入った時と大して変わらないように見えた。
「ふう。じゃあまた夜に来るから。よろしく」
「はあい」
来た時と同じように静かにドアを開ける背を見送る。マスターは夜まで戻らない。三人いたってしょうがないよ、とのらりくらりと梓の要望は避けられてしまった。
閉店までの時間を指折り数える。日数を数えていたのが今朝時間になって、きっと夕方には分になる。際限なく刻んでも引き延ばすことは出来ない。左中指の爪が手のひらに刺さった。
「ご馳走さん」
新聞をたたむ音と同時に声がした。一瞬動きの遅れた梓の背後を安室が通り抜ける。毛利さんにはきっと安室さんの方がいい、などと適当に言い訳をしてキッチンを出た。
「安室君は」
「なんですか? 毛利先生」
「いや、何でもない」
「そう言われると気になるんですけど……あ、お会計は――円です」
「何でもねえよ」
硬貨が触れる音すら聞こえる店内で、二人の曖昧な会話が続く。何を意図しているのか、梓にはさっぱり理解できなかった。
「元気でな」
「ええ。毛利先生も」
使用済みのスプーンにドレッシングと卵黄の跡の残るプレート、一滴も残っていないコーヒーカップ。順にトレイへ載せる間に、会計も別れも済んだようだった。ドアベルの音に慌てて振り返る。
「ありがとうございました」
安室の声に遅れるようにして、梓も普段通り声を上げる。片手を揺らしたスーツの背がガラス越しになり、数秒で死角に消えた。
ドアガラスに映るレジの後ろに人影がないことに気がついた。ゆっくりと首を回し、カウンターの向こうに視線をやる。そこには綺麗に九十度、額がカウンターにつきそうなまま動かない安室の姿があった。
敬意、謝意、その他諸々。込められた感情を想像しようとして、止めた。同じカウンターの内側にいるわけでも、エプロンを付けずにカップを持っているわけでもない。二人のどちらの立場にも慣れなかった。
載せたものの分だけ重くなったトレイと、開店したてで軽い足。キッチンまで数えた歩数は二十歩にも満たない。梓が調理台にトレイを置くと、音が鳴りそうな勢いで安室が振り向いた。
「片付け、ありがとうございます。洗います」
「いいんですか?」
返事の前に梓の手元からトレイが消えた。そして続くシンクに、食器にぶつかる音。まだ冷たい水が少しずつ安室の手を、手首を濡らしていく様子が見えた。
「ほら,梓さんにはピークタイムに頑張ってもらわないといけないので」
「もしかしたらハムサンドとオムライスが飛ぶように出るかもしれないじゃないですか」
「あはは,それは困るなあ」
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