삐약さん翻訳
2024-10-01 16:00:01
11102文字
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小片 8





37. <加虐>



 表面張力は、液体が溢れだすか否かの状態を保っていることだと定義できる。いまにも溢れそうに丸く張った液体は人の心をひやひやさせるが、まるでからかうようにふるふると踊りながら柔らかく低姿勢を見せている。

 手違いで水がなみなみと注がれたコップを見ながら、レオンは思った。あれは自分の心に似ている。太腿をつねり、拳を握り、爪が手のひらに食い込むほど耐えたこともあった。嫌がられることを怖れて手を引っ込めたことも一度や二度の話でない。この状態をどれほど維持できるかは不明だが、自分としてはかなり超人的な力を発揮していた。水を捨てるという選択肢はなかった。もう捨てる場所がなかった。捨てたところですぐにまた満ちてくる。無駄なことだと知っているから、心になみなみ注がれた水もぎりぎりの状態を保っていた。

 ジェイムスがレオンのコップから自分のコップへ水を移す。孤高を誇っていた水は半分も消え、あとには虚ろな空間が残された。用意した料理にまったく手がつかず、フォークでつつく。行儀が悪いとわかってはいたが、ものを食べたい気分ではなかった。こんがり焼けたステーキとその隣に整然と添えられていた野菜はてんでに散らかって皿を汚していた。向かいの彼は食器をかちゃかちゃ鳴らしながら肉を口に運んでゆっくりと咀嚼している。肉汁が唇からこぼれて伝う。レオンはティッシュを取って彼の口元を拭いてやり、彼は文句も言わずに受け入れた。ペースは遅いが、実に美味しそうに食べる。実際に料理をした本人は食べられずにいるのに。

 半分ほど肉を食べたころ、レオンが一口も食べ進んでいないという事実に気付いてか、ジェイムスが口ごもりながらフォークを下ろす。どうして食べないのかと問うたのは彼だった。レオンは中身が半分減ったコップを取って水を飲んだ。彼の質問に微笑で返しつつ、焼いたニンジンを一つ摘まんで食べる。そこでようやく少し安心したのか彼が食事を再開した。何の味もしなかった。焼いた野菜の甘みも、ニンジンのしゃきしゃき感も。

 レオンは彼の手首へ視線を移した。胸がかっと熱くなる。病院では安静が必要だろうと睡眠剤を数錠、かなりの血が流れていて貧血になる可能性があるからと貧血薬も数錠出してくれた。この人は食事が終われば薬を飲み、俺はこの人の隣に寝そべってまんじりともせず夜を明かすことになるのだろう。包帯は血の色が滲んで早く取り替えてくれと訴えていた。

 皿をきれいに空にし、ジェイムスは美味しかったと淡い笑みを浮かべた。薬袋を開けたレオンはカプセル薬を飲めと促し、彼は大人しくそれに従った。言うことは素直によく聞くというのに、やることは本当に憎らしい。レオンは彼の手首を掴まえた。救急箱には様々な治療道具が揃っていた。すべてジェイムスが原因である。新しい包帯の封を切り、彼の手首に巻かれている古い包帯をほどき捨てて新しいものに交換する。この一連の状況は息遣いの音一つなく、ただひたすらに静かだった。

 まっさらになった包帯を見ているうち、わけもなく加虐心が沸き起こってくる。いっそ俺があなたを壊してしまえば自らを傷つけることもないだろう。壊して、俺の隣に従わせれば、こんな無駄な虚脱感など覚えなくて済む。体に刻まれる永遠の傷なら俺が刻みつけるほうがいいかもしれない。冷えた溜め息ばかり吐き出したレオンは救急箱をふたたび片付け、引き出しへしまった。



「レオン?」

「はい」

「私……、ふふ」



 ためらいがちに言ったジェイムスがいきなり声を上げて笑いはじめた。何ヶ月も死んだ鼠のように暮らしていた彼が、こうも大笑いするような何かがあったか? いや、あったとしていま笑うような状況か? レオンは目眩を覚える。腹を抱えて笑っていたジェイムスは涙をぬぐい、レオンの間抜けな表情を嘲笑った。*何を見ているんだと。*俺の知っているあなたと違いすぎて目を疑ったと言うや、ジェイムスはレオンを抱きしめた。



「知っているんだ」

……

「いつも気付いていたよ。私が寝ているとき、私の足首を見ながら、片手で掴みながら、私の首を掴んだりもしながら、歯を立てて体に痕を残したい、だっけか」

……

「レオン、君に縛られたくて……



 両手で大事に包んだレオンの手を自身の首へと持っていく。それなら、もうこんなふうに感情をすり減らす必要はない。レオンはもう片方の手も持ち上げて彼の首を絞めた。それなら、俺の質問に答えろ。ここ数ヶ月のあなたの自傷は全部、そのためにした演技に過ぎなかったのかと。彼が苦しそうな声でそうだと答える。俺がそういう目で見ていることを前々から知っていたのなら。最後にレオンは本当にそうなりたいのかと問いかけ、彼はそうなりたいのだと返事をした。



「俺がどれだけ苦労したと思ってる?」

「ごめんなさい……



 あなたはずいぶんとふしだらな人だ。吐き捨てるように言った言葉に、彼が恍惚とした表情で笑った。首にくっきりと指の痕が残っていた。彼の喉を一口に食いちぎらんばかりに噛んで放してやる。あなたが望むなら、そうしてあげましょう。あなたの命さえもこの手に握ることができるなら、俺はこの機会を逃しはしない。後悔しないかと尋ねた言葉にも、彼はかえってこちらの心配などをする。ああ、まったく。実に病んだ人間たちだ。どこまでも狂っていると、レオンは一人思う。俺の所有欲を受け止めてくれるあなたがいてどれほど幸せか。レオンは前に自分が買った手錠を探しに行きながら鼻歌を歌う。*とても頑丈で、一人では決して外せない手錠を買っておいた──。*











38. <幻覚?>



 *あれ、見える?*



 来る日も来る日も、繰り返す質問。レオンはジェイムスの言葉に首を傾げた。毎度繰り返される質問にも、彼はうんざりした様子一つ見せず常に同じ反応を返した。何が見えるんでしょう?

 しかしながらジェイムスは答えずに膝を抱き寄せ、沈黙を維持した。レオンはちらりと周りを確認する。おかしな質問に形成されるおかしな雰囲気。ジェイムスのイメージはとうの昔に失墜していた。最初のころこそ精神錯乱ではないかと言われていた。しかし、精神錯乱にしては彼はあまりに健全だった。健全というのは体が健全だというのではなく、儀式で己の役割をしっかり果たすという意味において。つまり彼は、せめてもの救いだが生存者たちが安らげる場所でのみこうなるのだ。誰もが休息しながら互いの話に花を咲かせ、緊張していた体と心を寛がせられる唯一の場所で、たった一人、彼だけはまだ儀式から抜け出せていないような行動をした。生存者の間では変わり者で有名なミカエラでさえも首を振った。彼と私では領域が違うようだと出来るだけ遠回しに言ってはいたが、彼女もまた他の人たちと同じ考えだろう。あの人はおかしいようだと。レオンの考えも似たり寄ったりだった。彼はおかしな人だ。



「何が見えるのかお聞きしても?」

「何でもないよ」



 いつだってそんな返事だ。やんわりした拒絶の言葉を返されればレオンもそれ以上は尋ねない。なぜあんな質問にいつまでも付き合ってやるのか、とレオンのそばにいた生存者が訊いても、レオンはただ人好きのする笑みを浮かべるだけだった。彼にも事情があるのだろう、と思ったから。

 彼が嫌いなわけではなかった。嫌いたいとも思っていなかった。精神的な異常ぐらいでその人を嫌いになどなれはしない。しかし、レオンが気に入らないのは、彼が自分に向けて正直に話してくれないということだった。あなたが見ているものが何なのか、あなたが見て恐れているものが何なのか。自分も共有したかった。







 ある日の儀式の最終盤で、レオンはついに彼と二人きりになることができた。どのみち自分たちに残されたものは死以外になかったのだ。何もすることなく、奥まった場所に二人でうずくまっていた。しとしとと雨の降るラクーンシティは文字通り灰一色だった。人々がなぜ都市部を嫌うのかわかる気がした。いわんや、崩れた都市など誰も住みたくないだろう。



「雨だね。レイクビューホテルみたいだ」

「もうすぐ死ぬっていうのに、そんな呑気なことを」

「考えてみれば、ここは間違いなく恐ろしい場所だよ。死というものに恐れを抱かなくなるから。あっちでは生きようとして一生懸命あがいていたのに」

「死ぬことさえ恐れないあなたが恐れているものは?」



 レオンは彼のそばに近寄った。こんなにも顔同士の距離が縮まったのに、あなたの緑色の目には俺が映っていない。両目が義眼であるかように、あなたの焦点は別の場所に合っている。レオンはいっそう近くに寄った。キスでもしてやりたい気分に駆られた。

 しかし、彼は指一本で唇を押し返す。指の動きに従って押されたレオンはじっと大人しくしていた。ようやく彼の目に自分が映っている。だが、それは愛情のこもった眼差しではなかった。警告に近い眼差しだった。



「やると決めたら奴はきっとやる」

「奴?」

「まだ私のことを見ている。いまにも怒り出しそうだ。だから、やめたほうがいい」



 あなたはおかしな人だ。理解に苦しむ言葉だったが、レオンは彼の言うことに従った。あなたがそう言うのであれば。しかし、この発言のおかげで彼が何を見ているのか察することができた。あなたがああしてぞんざいに呼ぶ存在は、文字通り『奴』以外にないのだから。

 レオンは彼の手を握った。彼の体温は、普通の人よりも低く冷たかった。











39. <青いバラ>



 朝の日差しではないが、昼の日差しもなかなか悪くないと気付いたのはひと月ほど前からのことだった。遅くに目を覚ましたジェイムスはだらだらと怠惰を満喫していた。暖かな日差しを受けた布団からは柔らかい匂いがして、まだまだ眠っていられそうだったからだ。だけど、今日は駄目だ。

 ジェイムスはベッドから抜け出し、洗面台へ向かった。スリッパが床にぺたぺた引きずられる。洗顔をし、昨日洗濯を済ませたタオルで顔を拭く。ふわふわだ。ついでに目やにが残っていないかも確認する。今日は大事な日だから。しかし、わざわざスーツを着るほど格式の要求されるものではなかった。眠っている間に癖づいた髪をブラシで梳かしてやれば、すぐにふんわりと髪が立ち上がる。ジェイムスは最後に着ていたときのそのままに、黒のノースリーブと灰色の半袖シャツ、その上に緑色のジャケットを着た。元はとても鮮やかな青色だったのに、時間経過とともに色の抜けたジーンズを履いて踵の低い靴を履く。ああしまった、忘れるところだった。ジェイムスはふたたび靴を脱いで家に上がり、自分の部屋に入った。右ポケットに財布をしまう。

 外に出たジェイムスをじりじりとした日光が出迎える。顔をしかめるほど眩しい。急いで車に乗り込みエンジンをかける。重低音を響かせながらようやくエンジンの入った車は、もうずいぶん長く乗っていることを知らせていた。中古車だったこれを購入して早5年も使っているのだ、無理もあるまい。ゆっくりと速度を上げる。道の向かい側では小学生たちが公園で遊び笑い、また別の方角では会社員たちが忙しく動き回っていた。書類、上司との面談、見学、業務上の会議、その他諸々。大人になったらみんなああして大変になるのだろうか、小さいころの自分はそう考えていた。大人になったいま、己の暮らし向きはあまり思わしくなかったが。ともあれ、それなりに忙しく暮らしてはいたのだ。小さな会社に入って経理業務を任されていた。小規模会社に過ぎなかったものの、その中でも指折りに忙しかったジェイムスはまめに仕事をこなしていたが、こと社内で評判がよくなかったために勧告退職を受けた。会社の人たちに疎まれていたせいだろう。しかし、ジェイムスはいまなら言える。決して悪いことなどしていなかったと。不快な過去を思い出して口の中が苦い。稼ぎを得ようと別の仕事も掛け持ちして疲れていたせいで他の人たちとあまり話せなかっただけだというのに。それで解雇されるなんて。

 花屋に着いたジェイムスは店の中へ足を踏み入れた。最近はご無沙汰だったのに昔の常連だということを覚えていたのか、久しぶりですねと主人が快く挨拶してくれる。礼儀上、ジェイムスは挨拶を返しながら花を選んだ。ユリとカスミソウ、そしてキンセンカ。ユリは3本、カスミソウは小さいから10本、キンセンカは5本。見目よく束ねてくれた主人はジェイムスに花を渡し、ジェイムスは主人に20ドルを手渡した。いい匂いがする。人の心も知らず、とても香り高かった。

 のろい自動車を駆って行ったのはひときわ大きな碑石が立ち並ぶ場所だった。それでも誰かが小まめに草むしりをしてくれるおかげで背の高い雑草はない。ジェイムスは小さく突き出した雑草を踏みながら目当ての墓石に向かった。昨日、他の人たちが訪れたのか周りの墓にも花束がこぞって置かれていた。ちらっと眺めたジェイムスは溜め息をつき、手元のこじんまりした花束を見て呟く。すまない。私にはあれほどの花を買うだけの余力がなくて。

 ほどなく愛する人が眠る墓前に立ったジェイムスは、常になく目を真ん丸に見開いて驚いた。ひゅっと呑んだ息を整え、墓の上に愛らしく咲いた花を観察する。派手でも、かといって淡くもない色のバラ。風が吹いているのに花は揺れずにすっくと伸びている。青いバラ。美しく、神秘的だ。明け方に下りた露が結んで葉の先に垂れている。ジェイムスは墓石に書かれた名前をなぞりながら、自分が買ってきた花束も名前の下に供える。君の不治の病は治せなかった。不可能だった。けれども治したかったし、君を救いたかった。いつだったか薄暗く昇ってくる明け方の光を、窓辺で眺めながらぼんやりしていたとき。君は私の手を握って言った。私を諦めないでくれてありがとう、と。おそらく君のその一言のおかげで希望を抱けたのだ。時間が経つにつれ君は希望を失っていったけれど、私は君の一言を信じてどこまでも諦めなかった。けれども、結局は不可能だったということを悟ったとき。その喪失感は計り知れなかった。私の手で君の息を止めてしまった日にはいっそう。

 青いバラの花言葉は不可能。メアリー、君は不可能を可能にした人だ。君は数限りない可能性を持った人だった。諦めろ、家に帰れと突き放した担当医に言ってやりたかった。これを見ろ。彼女は、奇跡を起こした人だ。

 鼻をすすったジェイムスは慎重に青いバラを根元から引き上げた。服が汚れることなどお構いなしに上着へ載せ、土まで忘れずすくってから、風呂敷のように包んで助手席に座らせる。植木鉢を買って家のいちばん日当たりのいい場所で育てよう。青いバラの花弁を片手に撫で、ジェイムスは久しぶりに笑顔を見せた。











40. <傘>



 やっとの思いで現実に帰ってきたジェイムスは精神病院で処方された薬を服用し、食事をしたあとソファーに座ってぼんやりしているばかりだった。そんな日がずっと続いていた。父親はそんなジェイムスを見て何も言わなかったが、表情には心配と憂いとがありありと浮かんでいた。ジェイムスも父の心配をわかってはいたが、何もしたくなかった。人形のようにそこへ座り、時の流れを感じるだけだった。

 そうして1ヶ月と2週間を悄然と患っていたジェイムスが、もう一度仕事をしたい、とりあえず父さんについてゆっくり管理人の職をしてもいいかと言い出したときなど。フランクは喜びのあまり涙を禁じ得なかったが、すぐに何でもないふりをして肯定し、ジェイムスに仕事を教えてやった。それを見ていたジェイムスはティッシュを引き抜いて涙を拭いてやった。フランクは色々と訊きたそうであったが、ジェイムスに尋ねることはしなかった。息子が快く答えてくれるとは思わなかったからであろう。

 けれども、訊かれたら話すことはできた。ジェイムスがまた社会に出たいと思うようになったきっかけ。



 雨の降る日だった。息子が部屋に閉じこもって沈んでいるのを見かねたフランクはジェイムスに簡単なお使いを頼み、ジェイムスは父親の字で食材の名前が書かれた紙を持って外に出た。スパゲッティとベーコンを作る予定だったのか、麺とトマトソース、バターとベーコンだけあれば十分だった。そこに牛乳800mlを買った。ハーブはいらないかという質問に、父はまだたくさん残っているからそれだけ買ってくるようにと言った。ジェイムスは、基本的にいい息子だった。そのため父の言葉に従って紙にある材料だけを買うことにした。酒を買ったら父は悲しむだろう。

 そうして買い物をすべて終え、家に向かおうとしたジェイムスを迎えたのは突然の雨だった。天気予報が外れるのはままあることだが、こんなふうに外れるのはうんざりだ。例えば、自分が傘を持っていないときだとか。ふう、と溜め息をついたジェイムスは傘のない人たちと同様、上着を頭にかぶって家まで走り出した。幸いにも家の近所にあるスーパーだったので遠くはなかったが、しばらく動いていなかったせいで低下した体力にたちまち息が切れ、ゆっくり歩いていく羽目になった。面倒だが家に帰ったらシャワーを浴びなければならない。靴に水が染み込んでくる。不快な感覚にジェイムスは口を曲げた。

 ほとんど家に辿り着いたころ、ジェイムスは横道で傘もなく雨に降られている何かを見つけた。自分と似た境遇の人だろうと視線を引かれるままに眺めたが、それは人ではなかった。



 サイレントヒルでしつこく自分を追い回していたあの*三角頭*だった。一瞬のうちにあの場所へ戻ったようで、ジェイムスはそのまま凍りついた。お前は私が生み出した幻覚だ。正確に言うなら、あの町が作り出した宗教の集合体。私はもうあの町にいないというのにお前が見える。お前は私で、私はお前だから? 雨に当たりながら自分を見つめる物体に視線を奪われ、ジェイムスは自分がすっかり濡れていることすらも忘れていた。やはり私はあの町で死ぬべきだったのか。だからお前が任務地でもないのに存在するのか。しかし奴は何の行動もとらず、ただ雨に降られているばかりだった。ジェイムスは奴に近付いた。一歩一歩と近付いているが、奴はそのままだった。ジェイムスはとうとう奴に触れる。三角の金属頭の感触も、肉屋の屠殺者のようなすり切れた服も。全部そのままだった。お前は私に会うためにここへ来たのか? 目の前には自分があれほど恐れていたトラウマの結晶体がいた。だが、もう恐ろしくなかった。お前はどのみち私を殺せないのだから。

 奴が手を伸ばし、ジェイムスの頬をそっとさすった。それがちょうど、元気にしていたのか、というような似合わず優しげな手つきなので笑ってしまった。奴はジェイムスの唇を撫でると、ジェイムスが瞬きをした次の瞬間には消えてしまっていた。残して去ったあとの地面には小さな傷痕が刻まれていた。三角形の模様に。



 ──ともかく、ジェイムスは単純なきっかけでもう一度がんばって生きなければと考えたのだ。それに、メアリーが遺した手紙にも自分に二度目の人生を生きてほしいと書いてあったから。父の仕事を請け負って書類を整理していたジェイムスは手帳に三角形を描く。お前はまるで隣でそわそわと、逸れた道を行く飼い主を見つめる子犬のようだ。

 ジェイムスは小さな窓を開けて澄んだ空気を肺いっぱいに吸い込んだ。今日も新しい一日の始まりだ。











41. <逃避>



 世界はゆっくりと崩壊に向かっており、それを見て見ぬふりする人や知らない人はあくまで正面から向き合わずにいた。貪欲、利益、戦争、死。レオンは刃の上を危なっかしく渡っていく者だった。刃によって足が切れ血が流れようとも、レオンは止まらず進まねばならない人間だった。

 レオンは最近、家で頻繁に目を覚ますようになったことに気付いた。悪夢を見たわけでもなく、物理的な被害で目覚めたわけでもない。普通に寝入ることができなかったのだ。自身の担当官は休暇が必要なら出すから言えと再三言い含めたが、レオンは取り立てて休暇を申請しなかった。休息期間を与えられるとはいえ、己の病んだ心を治療するのに充分な時間をくれるわけでもないのだから。したがってレオンは自身をさらに少し駆り立てた。前回は鎖骨を骨折して二ヶ月病院で過ごさねばならず、先週は指を銃弾がかすめてまたも病院へ行く羽目になった。体は敵の刃がかすった傷痕に満ちている。どうせ安定した未来などないのだから、レオンは自分の傷を見ても何の感情も抱かなかった。あるいはひそかに、いっそ任務中に死んでしまえればと望んでいたかもしれない。レオンは腹に巻かれた包帯をほどく。まだ血の滲む傷が自分にそっくりだった。



「あなたといると平和が怖くなる」



 レオンは彼を抱いたまま言った。この平和がいつ崩れるかわからないから。そのあと自分が経験するだろう喪失感が恐ろしくなって。自分などが享受してもいい安定感なのかが疑わしくなって。

 彼はレオンの髪をいじっていたが、そのうち両手で撫ではじめた。意外にも人類の歴史上、平和の時代は数年にも満たないのだと、彼が語る。第二次世界大戦が終わってからまだ100年にもならない。それすらも他の国で起こっている戦争まで含めれば、人類が一度も争わなかったことはないと。戦争のない日を集めてみれば、やっと一週間になるかならないかだと言った。つまり私たちは、厚かましくも平和を享受しているのだと。彼を抱いた腕に力がこもる。憂鬱になったせいだ。



「いくらもない平和を享受するのが恐ろしいのも、特別なことじゃないよ。どこかで人が怒涛のように死に、どこかでは退屈すぎるほど穏やかな日常が共存する世界だから」

「誰もがが幸せになれる世界はないんだろうか」

「私は君がささやかな平和を楽しむのも悪くはないと思うけれど」

「逃げ出したい」



 レオンは本心を吐き出した。どこかに逃げたいと思ったのは一度や二度でなかった。誰もいない場所に逃げ、そこに寝転び、ゆっくりと朽ち果てたかった。彼が額に口付ける。彼の胸に顔を深く埋めて、匂いを嗅ぐ。落ち着いていく気分だった。カーテンの隙間から月明かりが差し込む。彼は背中を叩きながら、疲れたなら眠ったほうがいいと言った。



「眠れるまでとんとんしてあげようか?」

「俺は赤ん坊じゃない」

「ふぅん」



 彼はお構いなしに腕枕をし、レオンの腹を撫でさすった。「昔はよくしてあげたものだけど、こうしてまたすることになるなんて思わなかったな」。彼が小さく笑う。彼がとても優しい手つきで、顔のあちこちを撫でてまわる。怪我をしても、生きて私のそばに戻ってきてくれればいいと囁く。レオンは目を閉じた。あなたは俺の逃避先だと、夢で言ったのだか現実で言ったのだか区別がつかなかった。むにゃむにゃ呟いていたレオンは眠りに落ちる。その日も夢やら何やらを見ることはなかったが、ぐっすりと眠れる日だった。











42. <留守番電話>



 自分の携帯電話に誰かから電話が来ることはなかった。特に職場を辞めたあとはなおさら。すなわち、誰かが自分に電話を掛けてきたというのは非常に珍しい出来事だった。携帯電話を持ったハリーが自分のほうへと投げて寄越す。取り落とすところだった。睨みつけると彼がきまり悪そうに笑う。



「私以外に掛ける人がいるとはね」



 ジェイムスは答えずに携帯電話を開く。そろそろ替え時なのか、文字がぼやけている。番号は4112 – 5111。正体不明の番号だった。不吉な感じがして番号を消そうとしたが消えない。まったく、完全におしゃかになったらしい。ハリーはいつの間にかシェリルと一緒に本を読んでいた。ジェイムスは携帯電話をポケットに入れて椅子に座り、頬杖を突いた。もしかしたらこの番号からまた電話が来るかもしれない。怖ろしさよりも好奇心が勝った。よくあるスパムメッセージすら来なかった携帯電話をどうやって知って?

 隣が騒がしい。父娘の騒音というのはあんなふうなのか。ジェイムスは羨ましさを覚えた。自分の妻は先天的に子どもができにくい体で、病気になる前も早いうちから諦めていたのだ。ジェイムスは夫婦だからといって必ず子どもを産む必要はないと彼女を慰めたが、彼女は子どもを欲しがった。自分の血を分けた子どもを育てたいのだと、彼女は言った。そんなわけで、彼女は病院にいるあいだ養子縁組について勉強してもいた。よく病院を訪れていたローラを、彼女は養子に迎えたがった。ローラはそれはよく彼女に懐いており、おてんばな性格もメアリーの前では借りてきた猫のように大人しくなった。しかし、もはや叶えられぬ夢だろう。町から抜け出したあと、ジェイムスはローラを探し出せなかった。レイチェルという看護師を訪ねて訊こうとしても、彼女はもう別の孤児院に移った、場所を教えることはできないと断られた。子どもの身辺保護のために。看護師の言葉を聞いたジェイムスは強いて彼女を探そうとしなかった。最後にローラは、大嫌いだという言葉を彼に浴びせて去っていったから。

 ウィイイン─。振動が鳴る。電話が来た。先ほどのあの不吉な番号。手に収まるほどの携帯電話を取り上げ、電話を取る。もしもし? ハリーに聞こえないよう小さな声で応える。電話からは何の返事もなかった。ジェイムスもただ黙って聞いていた。ジジジッという音がひとしきり続いたかと思うと、まもなく何かの声が入ってきた。



*『ジェ■■■。ここはとても■■な場■よ。私が■■願って■■ ■■■ここに■■■あ■の。一緒に来ない? 今度■そ上手■■くわ。■■■はあなた■苦しめるよう■ものは■■■ない。まるで、■■のようよ。いつも■■■のよ■に■■を眺め■、お■べりを楽■■る。待ってるわ。あなたが望■だ■■■の姿で』*



「そこまで」



 流すように聞いていたジェイムスの携帯電話を奪ったのはハリーだった。返してくれと手を伸ばしたが、彼は携帯電話をしっかり自分の懐に隠してしまった。表情が険しい。親に悪さがばれた子どものように縮こまる。大した内容じゃありませんでしたよ。ジェイムスは小さく抗議した。



「少し外に出てきてもいいですか」

「もう経験しただろう。あそこにはもう何もない。あれは彼女にもできないことだ」

……は、はい」

「携帯電話は替えたほうがいい。今後知らない番号から電話が来たら私に確認をとるように」



 制限しようとするハリーに反発しかけて、ジェイムスはすぐに諦めた。彼が心配する通り、自分はまたあれに騙されるだろうから。かえって誰かに制御してもらうほうがいい。

 ジェイムスはだらりと机に突っ伏した。疲れたせいだった。