きなこ湯
2024-09-30 20:07:51
2345文字
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甘い煙

 士官学校でこっそり喫煙しているタバティエールを見つけた候補生の話。
 銃マスワンライのお題「甘い/苦い」より。


 放課後、寮舎のどこかから微かな煙の匂いがした。それは火薬や油の匂いとは違い、不思議な甘さを含む香りで、候補生は思わず廊下に立ち止まる。窓の外に見える空は日暮れの名残を残す程度で、ほとんど夜に差し掛かる色合いをしていた。屋内はさらに薄暗く、床板の木目の模様もはっきりとしないくらいだ。
 目を閉じて気配の薄い香りの尻尾を捉える。廊下に落ちる暗い影の隙間から立ち昇るような、あまり嗅いだことのない匂いだ。正体不明の煙を追いかけるようにゆっくりと足を進めると、人のいない寮舎の裏へと辿りついた。
 薄闇にひとつの人影と、ぼんやり浮き上がる小さな火が見える。
――タバティエール?」
 候補生がそう声をかけて近づくと、声の主は驚いたように振り返った。相手が候補生であるとわかると、ホッと肩の力を抜く。
「ああ。なんだ、マスターちゃんか……って、こういう言い方はよろしくないな」
「別に、気にしてないよ」
「はは。そう優しいのはマスターちゃんの美点だがな、俺なんかに気を遣う必要はないぞ」
 タバティエールは困ったように呟き、片手に持った煙草を口元へ寄せた。煙を深く吸い、吐き出す。白い煙が細く宙を漂い、やがて消えた。
 候補生が隣に並んでも、タバティエールは煙草の火を消さなかった。士官学校の規則のうち喫煙は禁止事項に当たるが、タバティエールは貴銃士で、貴銃士は人間ではない。また教官の中にも喫煙者はちらほらおり、タバティエールがひっそり煙草を吸っていることを非難する気持ちはあまりなかった。候補生が黙って近寄ったのは、喫煙の習慣のない彼女にとって煙草が珍しかったこと、そしてタバティエールから香る煙が〝甘く〟感じられたからだ。
 タバティエールは一瞬だけきょとんとしてから、言葉なく隣に並んだ候補生をちらりと一瞥し、変わらず静かに煙を吐く。
 候補生は目を閉じて、夕闇に溶ける煙の匂いを嗅いだ。――やはり、甘い。バニラのようなこってりした甘さだ。銃から噴き出すそれとはまったく違う、嗜好品の香りなのだろう。
 タバティエールが煙草を手にしている時、そばにはシャスポーの姿も共に見かけることが多かった。生真面目なシャスポーは喫煙者ではないらしいが、まだ若い候補生の姿を目にすると、すぐタバティエールの喫煙をやめさせる。だからこんなに近くでじっくりと煙の匂いを感じたことがなかったのだと、候補生は遅れて納得した。
「これ、こないだ職業訓練先でもらったんだ」
 タバティエールは煙草を軽く振って灰を落とし、そう切り出した。
「〝甘すぎて好みじゃなかったから〟って言うもんだから、どれほどかと思ってたんだが、まさかマスターちゃんが釣れるなんてな」
「そうなんだ。普段の煙草は違うの?」
「ああ。俺はもっと重い方が好みだが、まあ、せっかくもらったものを捨てるのも何だかな、と思ってさ」
……でも、タバティエールにその煙草を譲った人も、要らないから渡したんだよね?」
「たしかに」
 タバティエールは苦笑を浮かべ、もう一度煙草を口元へ寄せた。
――まあ、なんだ。俺にとっちゃ縁のある代物で、雑に扱うのも気乗りしないのさ」
 そう呟き、吸った煙を吐き出す。周辺には甘い香りがふわりと満ち、候補生も少しだけ深く息を吸う。もちろん副流煙が身体に悪いものだと理解はしているが、火薬と油の匂いに馴染みある鼻が嗜好品の煙に不快感を覚えることはなかった。
 ちらりと横目に見た煙草はずいぶん短くなっている。くゆる煙をぼんやり目で追っていると、不意にそれが目の前に差し出された。
 顔を上げる。タバティエールは彼女を見下し、僅かに首を傾けた。草臥れた色合いの目を伏せ、静かに問いかける。
――吸ってみるか?」
 低い声がそう囁き、うなじに薄らと冷たい気配が忍び寄る。
 候補生は差し出された煙草を見下ろし、口の中に溜まった唾を飲んだ。士官候補生の喫煙は規則で禁じられている。そうでなくとも未成年だ。
 もちろん、タバティエールはそれを承知で誘っているのだろう。
 候補生がそっと手を持ち上げると、タバティエールは指先で煙草を挟んだまま、彼女の口元へ近付けた。
「え、」
「大丈夫。そう、少しだけ吸ってみな。煙を口の中に留めるくらいでいい。はじめてなんだろう?」
 視線だけで見上げると、タバティエールは浅く頷いた。
 候補生は恐るおそる差し出された吸い口を咥え、言われた通り少しだけ吸い込み――
――ゲホッ、ゲホッ!」
「おっと。マスターちゃん、大丈夫かい?」
「だ……、だいじょ、っ」
「慌てなくていい。ゆっくり深呼吸して……
 盛大にむせた候補生の背中を、タバティエールは大きな手でゆっくりと擦った。
 ようやく落ち着いた候補生が眦に涙を浮かべながら顔を上げると、タバティエールは申し訳なさそうに眉尻を下げ、携帯灰皿を取り出して躊躇なく火を消した。
「気にしないでくれ。というか、褒められたことじゃないしな。マスターちゃんが煙草の味なんか覚える必要ないんだから」
「あ……えっと、その」
 何と言葉を返すべきか迷う候補生に、タバティエールは瞼を伏せて薄く笑う。
 ふとタバティエールの節立った手が伸び、彼女の頬をそっとなぞった。その肌や服に染みた煙の匂いは苦く、重い。
――今日のこと、他のやつらには秘密にしてくれよ」
 そう言い残し、タバティエールは片手を振ってその場から立ち去った。すっかり陽の落ちた薄闇に消える背中を見送り、候補生は思わず自分のくちびるに触れる。口内に居残る煙の後味はまだほんの少し甘く、タバティエールから香る苦い匂いとの差に、まだ背伸びをしても足りないなとひとり苦笑した。