ユコ
2024-09-29 21:47:46
6469文字
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ラストノート・エスコート

お題・エスコート
紳士の顔をして長期的な計画で退路を経とうとする教授と、そんな男の本心に気づかずに一夜だけの関係を望んでしまったギャンブラーの話。
(※教授のイメージの香りの話です。直接的な描写はないですがベッドシーンを匂わせる部分があるのでご注意ください)






 久々に視界に入れた男の顔は、いつもと変わらない冷静沈着さを纏っていた。
 いつもは被っているはずの石膏頭もなく、健康的な肉体美も畏まったスーツの中に隠されているフォーマルな姿。面倒ごとを避けたがる彼も、流石に今日のこの場の重要度を理解しているらしい。「やあ、教授」と僕は閉ざされた重鎮な扉を前に端末を確認している男に向かって、いつものように手を挙げて声をかける。
 ピアポイントでカンパニーが所有する随一の迎賓館。その場を貸し切った会談であるという説明をジェイドからされた時に、来賓の名前を聞かなくとも重要な会談であることを理解した。そういう場に向いているトパーズではなく、僕を指名した理由も。彼女は人脈の重要性をよく知っている。「技術開発部がどうしても協力を得たいエネルギー開発における功績を残した天才クラブの人間が訪れるのよ。お相手にレイシオ教授にも声をかけているわ」と彼女は僕にいった。つまり、どちらもカンパニーの人間にとっては相手が非常に難しい来賓であり、レイシオと親しい僕に、彼の機嫌を損ねないように橋渡しになれという命令だ。僕がいないとはじまらない会談の場。それを知っていて、レイシオも僕を待つように扉の前に立っているんだろう。
 遅い、と今にも叱りつけそうな渋い顔でレイシオは端末を胸元にしまい、僕へと顔を向ける。僕の姿を品定めするように視界に入れた彼が、不満そうに眉を顰めた。今日の僕の格好は彼の嫌がりそうな派手な格好もしていない、無難な紺色のスーツを着ている。レイシオが主役の場であることを理解した上で、彼が映える色を選んできたつもりだったけれど、それでもお気に召さなかったのか。そう思ったが、スーツのデザインとは違うところがお気に召さなかったらしい。レイシオは指先を僕の首元に伸ばす。
「タイが曲がっている。珍しいな、身だしなみに無駄に時間をかける君が」
「君、本当に一言多いよね。直前まで辺境惑星の視察が入ってたんだよ。信用ポイントもまだ普及していない星だったから、衣装の現地調達もできなくて。君の隣に立つのに見合うようなフォーマルのスーツを取りに慌てて自宅に立ち寄ってきたところ」
 なんとか髪のセットは直してきたが、最後の身だしなみチェックにまで時間が足りなかった。トイレに立ち寄って鏡でもみてくるべきか、とあたりに視線を動かすと、レイシオが溜息混じりに僕に近づく。
「直してやるからじっとしていろ」
「君自ら? いいよ、鏡見てくるから……
「もうまもなく目当ての貴賓が来るのに、最高幹部の君が先に出迎えないのはおかしいだろう」
 それはそうだ。教授から有無を言わせない圧を感じて、僕は渋々彼の方に黙って首を晒すように顔を上げた。身長差があるから少しでも彼が僕のネクタイをほどきやすいようにという配慮だ。彼の指先が僕のネクタイにかかり、しゅるり、と音を立ててネクタイの結び目が解かれる。その音は嫌がおうにも、僕が忘れようとしていたとある「記憶」にアクセスする。遮断シャットダウン。余計なことを考えそうな思考を強制的に終了させて、僕はいつもの笑みを唇に浮かべて、彼に話題を振り直す。
「ねえ。もしかして、香水変えた?」
 近づいてきた彼から漂う、柑橘の気配と海のような爽やかな香り。清潔を好む彼らしい香りに、僕は問いかける。
「何故そんなことを突然聞く」
「いや、この間会った時に君からした香りと違ったから。もっとムスクが強い、甘い香りだったような……
 そこまで口にして、しまったと僕は続きを口にするのをやめた。
 シャットダウンしたつもりの記憶が、ちっとも終了できていない事実に今更気づいたからだ。
 数週間ほど前のことだった。
 初めて、彼とカンパニーの仕事でも個人的依頼でもなく、プライベートな誘いで週末を二人で過ごした。きっかけはなんだったかわからない。ピアポイントに新しくできたバーがいい感じだとか、適当に理由をつけた気がする。ただお互い何かそういった理由を探していた時期だったのは、はっきりしていた。ビジネスパートナーというには近く、友人という言葉で片付けるのには惜しい。そういう距離をお互い言葉にしなくても楽しいと感じているのは、彼と過ごす時間が向こうから自然と引き延ばされていくのに感じていた。それを悟った上での、僕たちはそういった曖昧な距離を嗜める大人同士だと思っての誘いだった。しかしながら、結論から言うと、それは僕の本心じゃなかった。
 バーから出た時に、僕が足をよろめかせたのはわざとだったのか、本当に酒が理由だったのか。でも迷うことなく僕の体を彼の逞しい腕が支えてくれた時に、いける、と思ってしまった。僕の動向を具に見つめて、僕から目を離さずに隙を探していたからこそ、即座に飛び出した腕だったのは明らかだったからだ。その腕が、意志を持って僕の体をしっかりと抱きしめる。
 仕事の場ではない、プライベートの誘いだったからだろうか。彼の腕の中から、いつもはしない香水オーデコロンの香りが僕の鼻口をくすぐった。それは、僕の知らない遠い異星の香りだった。
 僕の故郷にはない、遠い海のような潮の香り。そこに、ミネラルを多く含んだ石灰の瑞々しい気配と海に長く漂った流木のような大地の香りが入り混じる。飾り気のない、自然のあるべきままの野生の香りだった。とても知的で、彼のために作られたような芳香。その香りを嗅いでいるだけで、激しい嵐の風に晒されて母なる幹からも別れてしまった木が、果てない海を寄る辺なく漂い続ける旅が見えるような気がした。広大な海を漂い続けた長い長い旅の果てに、流木がようやく流れ着いた浜辺は穏やかで、もう二度と寄る辺ない旅に出ることもない。僕はその旅路に、深く安堵する。彼の腕の中で味わった香りは、そういうものだった。
 僕にとっては遠すぎる、僕の知らない星と、生活と、安堵の匂い。
 それは僕が手に入れたくても手に入らない幸せの香りで、でも手放すには惜しすぎる心地よい香りと体温だったから、一度だけでもいいな、と愚かにも思ってしまった。僕は縋るように彼の胸元に指を伸ばす。
「僕、酔ってるんだ。明日には忘れるから。……だから、今日だけ、駄目かな」
 震える声は、側から見ても酔っ払った男の声とは思えなかった。けれど、そう囁いたと同時に、彼の唇が僕の唇を無言で塞いだ。
 多分、彼はずっと待っていた。僕からこうやって誘われることを。僕からの誘いに迷うことなく理性的な男が手を出したことに、熱い唇の熱で僕はそれを悟った。
 今日だけ、と僕は囁いたのに、彼は近場のホテルではなく、用意していたかのように僕を自邸へと誘った。警戒心がなさすぎる。酔いが覚めて理性を取り戻したら、彼を叱ろうと思った。こんな風に下心を抱えている男に、一人の時間をこよなく愛する君の大事な場所を教えちゃ駄目だって。広い寝室に鎮座していた寝台にしかれた清潔なリネンから漂う彼の香りは、彼の腕の中で嗅いだのと同じ遠い異星の香りで、海の野生的な香りがする。そんな自然の香りと、酒の堕落した酩酊と、彼の汗ばむ肌の温度が嵐のように入り混じり、僕の外も中もぐちゃぐちゃに暴かれて、僕は果てた。最中に彼から贈られたキスの数を、覚えていない。覚えちゃいられないぐらいに、何度も奪われたから。やめての哀訴も、いいよの許諾も、もっとの懇願も、全部僕の口からは飛び出す前に彼の口に奪われた。それぐらい情熱的に、彼は僕を抱いた。
 そんな嵐のような一夜が明けて、朝起きると、テーブルの上に一枚のメモと部屋の鍵があった。朝から学会があるので先に出る、鍵はコンシェルジュに預けてくれという彼らしい要件だけ書かれた簡素なメモだった。
 そのメモからほのかに漂う僕に安堵を与えた広い海の残り香は、まるで嵐が明けた後のように穏やかで、甘かった。海を漂い続けた流木の長き旅は、ここで朽ちて終わったのだ。ほのかに香る潮の香りに甘いムスクの官能的な香りが混ざって、男の香りがするなと思った。忘れるべき一夜の夢の終わりにしては、ずるずると引きずってしまいそうな随分と甘い香りだった。
 それが、数週間前。彼に会った最後の記憶。
 翌日、彼からチャットで次の予定を聞かれた履歴もあったが、全部無視をして辺境惑星への出張の仕事を無理やり部下から奪って、気づけば僕はピアポイントから飛び立っていた。その部下が行くべき辺境の惑星は星核の影響で極寒の地で、しばらく熱に浮かれた頭を冷やすのにちょうど良かったから。
 ──だって、あんな風に抱かれて、どんな顔と態度を取ればいいっていうんだ!
 自業自得と言われそうだが、取り繕うのが仕事といってもいいギャンブラーの僕でも、取り繕うのに時間を要する事案だった。
 この先も、教授とは戦略的パートナーを続けていく。僕の計略にも、仕事にも、彼は手放せない。それなのに、一度だけなんて軽はずみなことを、この口は愚かにも口にしてしまったのか。この男も、この男だ。今日だけと宣言したのに、なんであんな忘れられない抱き方をしたんだ。
 淡々とあの夜と同じように僕のネクタイをほどき直す男の逞しい節張った指を見つめながら、僕は逆恨みのようなことを思う。そんな僕の一夜の恨みも知らずに、僕の問いかけにレイシオは手慣れた手つきで結ぶべきネクタイの左右の長さを最適な長さに調節する。その指先には、この間の一夜の熱は一切感じられない。冷やかな指先だった。そうして、ネクタイを結び直しながら、いつものように淡々と彼は口を滑らせた僕へ答えを返す。
「いや。身につける香りを変えてはいない。君は香水コレクターを自負している割に、気づくのが甘いな」
「どういう意味だよ」
「香水が好きな君にわざわざ講義をすることでもないが、香りはつけたてのトップノートと、そこからしばらく漂うミドルノート、そして香りが人肌で温められて空気中に揮発した頃のラストノートで香りが違う。僕は普段から君のように香水を身につける主義じゃないし、つける時はこうしたフォーマルな場か、必要に応じた特別な時だけだ。今日はこの会談のために、先ほどホテルの自室でスーツに着替えて、この香水オーデコロンを身につけてきた。だから比較的、つけたての時の香りなんだろう。同時に、君はどうやら酒で記憶がとんでも香りだけは覚えている、優秀な記憶領域をしていると言える」
 僕が口を滑らせただけのことを、つらつらと得意げに講義をする教授に、僕は押し黙るしかなかった。つまり、忘れたふりをしていた僕に対して、ちっとも忘れられていないな、という遠回しの彼の嫌味だ。この野郎。忘れられないようにしたのは君のくせに。ここまでの素知らぬ顔をしてくれた大人の対応はなんだったんだ。
……丁寧な講義をどうも。君の使うものはセンスがいいってことはよくわかったよ。今度君の身につけてるお気に入りの香水の名前を教えてくれ。結構好きな香りだから、僕のコレクションにも加えたくなったよ」
 にこりと微笑みを携えて、彼の意図とはあえてずれた返事を返す。あの夜のことを蒸し返すつもりはない、という意思の表れだ。そんな僕の返しに対して、レイシオは否定することもなく平坦と話を続ける。
「僕は基本的に愛用する品は君のようにころころ変わらない。好みは長く変わらないし、気に入ったものはずっとそばに置く主義だ。君のように流行に心変わりもしないし、移り気がないからな」
「最新の潮流に敏感なのは商人としての必要な戦略だよ。僕は君みたいな古きに重きを置くような懐古主義じゃない」
「それに関しては一定の評価はしている。ここで僕が強調したいのは、僕はそんな簡単に好みを変えることはないということだ。しかも、たった数週間程度で。最初から今日だけの香りなんて存在しないし、簡単に手放すつもりもない」
「へ……
 彼の説明に僕から間抜けな声が思わず漏れる。それって、つまり。目を瞬かせて僕のネクタイを直す男の額を見つめる。彼の長い睫毛が持ち上がり、僕と視線を交じらせる。その視線に含まれた熱には、覚えがあった。あの夜、僕が今日だけ、と希った時に僕を見つめた時の熱と同じ。不味い、とその場から踵を返して逃げ出したいのに、僕のネクタイを手綱のように握る男のせいで、逃げ出すこともできない。瞳だけは熱を帯びているのに、声はどこまでも冷やかな男が、僕に解説を続ける。
「ところで、プルースト効果という効果は知っているか。人は忘れやすい生き物だから、記憶というのは定着しづらいものと言われる。だから光円錐のように人は記憶を忘れないように形にして取り出す。しかし、光円錐のような形にしなくても、人に特定の記憶を刻み込ませるのは容易だ。香りとは視覚以上に、人の海馬に直接的に働きかける要素が多く、記憶に直結している。そういった特定の香りを記憶に結びつけることをプルースト効果と呼ぶんだ」
「高尚な講義をどうも。それって、僕に何の関係がある?」
「阿呆な君にわかりやすく言い換えてやろうか? 好みが簡単に変わらない僕はこの先、身につける香りを変えることもないし、この先、僕と会う度に君はこの香りを味わうんだろうなと言っているんだ」
 ──僕は普段から君のように香水を身につける主義じゃないし、つける時はこうしたフォーマルな場か、必要に応じた特別な時だけだ。
 香りを問うた時の、彼の説明が脳裏に蘇る。必要に応じた、特別な場。僕からの誘いを待っていたかのように、戸惑うことなく返されたキス。記憶に焼き付けるための下準備を整えて、この男は僕の誘いに応じた。あの夜は、僕が愚かにも口を滑らせた、たった一度きりの偶然なんかじゃない。全ての点が脳内で結ばれて、僕は弾かれるように彼の顔を見上げる。そこには紳士の顔を纏った計画的な男が、優雅に僕を見下ろしていた。
「僕の好む香水の銘柄を知りたいと君は言ったな。君が今僕が身につけている香りとあの夜の香りが同じものなのかを確かめたかったら、いつでも確かめにくるといい。僕は急がない。香水の名前はそこで教えてやる。これで講義は終了だ」
 そういってレイシオは一人満足そうな顔で僕の首元から指を離す。そこにはラインの歪みもない、綺麗に巻き直されたネクタイがしっかりと僕の首元に巻かれていた。同時に、穏やかな遠い海の香りが僕から離れていく。頬が熱い。今すぐにこの男の胸元に顔を押し付けて、自分の顔を周囲から隠したくなる程には酷い顔をしているのが、鏡を見なくてもわかった。
 ──こんな体裁が保てない顔で表舞台に立てだって? 
 きっと、この男は身にまとう香りによる僕の記憶の再生リフレインをこの先、何度だって繰り返すつもりだ。僕が彼を必要とし、戦略的パートナーを続ける限り。僕が彼の知識を手放せないのを知っていて、彼は狡猾に準備をしていた。冗談じゃない。僕は得意げな顔で僕を見下ろす男を睨み上げる。
 ここまできて、ようやく僕はこの男にやられた、とはっきりとわかった。最初から、この男との関係に一度だけの関係なんてなかったのだ。宇宙の真理にすら辿り着こうとする男を甘くみていた事実に僕は唇を噛む。そんな一切の余裕がない僕に、悠々とした声とともにレイシオは僕に腕を差し出し、尋ねる。
「さて、ギャンブラー。そろそろ貴賓が訪れる時間だが、会談の場へのエスコートは必要か?」
……いらない。それより、やっぱり鏡を見てきたいから、先に行って時間を作ってきてくれると助かるよ」
 でも、帰りは一人で帰りたくないから、君のエスコートが欲しいかも。
 もう逃れられそうにない。そう覚悟して掠れた声でパートナーへの要望を口にすると、男は優雅な笑みを浮かべていいだろう、と得意げに僕へと了承を返すのだった。