俺はマフィアの構成員だ。長く下働きのようなことをしていたが、最近晴れて、組織の幹部付きに昇進した。その幹部である中原中也に呼び出され、俺は初めて幹部の私室へと訪れた。部屋の前に立ってから、気を引き締めるために大きく深呼吸をした。ノックをし、自分の名前と用件を告げる。
マフィアの上層部は短気で血の気が多い。下っ端が些細なことで首を跳ねられるなんてのは、ここじゃ日常茶飯事だ。こちらがミスをしなくても、相手の虫の居所が悪かったとか、濡れ衣や言い掛かりで罰せられる者も少ない。中原幹部の人となりを把握するまでは、どうしたって警戒する必要がある。
「ちょうどいいところに来た。冷蔵庫から水を取ってくれないかい?」
中から幹部本人ではない声が聞こえた。入っていいものか悩んでいると、「中也に呼ばれて来たんでしょう? 入っていいよ」と重ねて告げられ、恐る恐る扉を開けた。
中は宛らホテルのスイートルームのようだった。手前には革張りの応接セットが並び、右手と左手にそれぞれ部屋が続いている。壁や扉には随所にロココ調の装飾が施されている。
冷蔵庫から水を取る。指示を実行すべくしばし周囲を見渡すが、見える範囲に冷蔵庫はない。扉を開けても良いものか悩んでいると、「冷蔵庫は左手奥のキッチン。私は右の部屋にいるから持ってきて」と追加で詳細な説明があった。大変ありがたい。裏社会にまともな社会性のある人物などいないに等しいから、誰もそんなこと教えてくれないのだ。
言われた通り左手奥に進むとキッチンがあった。冷蔵庫を開けるとミネラルウォーターのボトルがいくつか並んでいたのでそのうちの1本を手に取る。元に戻って今度は右の部屋の扉に近づくと、ノックをする前に「入っていいよ」とお声が掛かった。
扉を開けると、中には天蓋付きの寝台が鎮座していた。声の主はその中にいるようで、シーツの海から飛び出した腕がこちらに手招きしている。近づくと、カーテンの隙間から男が気怠げな顔を覗かせた。
その顔には見覚えがあった。中原幹部の愛人と噂される男だ。確か名は太宰といったか。仕事中でも常に中原幹部の隣にいてスキンシップを絶やさないから、構成員どころか外部組織にもその存在は知れ渡っている。言葉を交わすのはこれが初めてだ。
「ありがと。もう喉カラッカラだったんだけど、動く気になれなくて。中也ってば全然体力差とか考えてくれないんだから」
水のボトルを受け取ると、一気に半分程を飲み干して笑った。身を起こしたことで、上半身が顕になる。服を着ていない身体には数多の鬱血痕や歯型が並んでいた。先の台詞を合わせると、今までここで何をしていたかなど、考えるまでもなく明白だった。
「君、見ない顔だね」
「はい、1週間程前から中原幹部の下に」
「そっか、道理で」
会話が途切れた。値踏みするような視線が身体を這い回る。太宰さんが寝台から身を乗り出して腕を伸ばすのを身を硬くして見守っていると、冷たい手が俺の尻を撫でた。
「えっ……と?」
「君、なかなかイイ身体してるね。私好みだ」
「あの……」
「誰彼構わず誘ってんじゃねぇよくそビッチが」
太宰さんがうっとりと目を細めるのに困惑していると、中原幹部の怒声が飛び込んできた。バスローブを纏い、髪はまだしっとりと湿っている。シャワーを浴びていたのだろう。
「あら残念。嫉妬深い旦那様に見つかっちゃった」
「ったく、油断も隙もありゃしねぇな、手前は」
太宰さんが悪びれた風もなくぺろりと舌を出して見せると、中原幹部がため息を吐いた。
「おい、こいつに何言われても応じるんじゃねぇぞ。ただの色情魔だ。粉かけられてんのは別に手前だけじゃねぇ」
「そうそう、うっかり中也にバレると文字通り首が飛んじゃうものね」
太宰さんは楽しそうにくすくすと笑っている。中原幹部はうんざりとした様子で、それ以上は何も言わなかった。もう諦めているのかもしれない。
マフィア幹部と愛人とはいっても、媚び諂うような関係ではないらしい。幹部ともなれば擦り寄ってくる人間は多いだろうし、逆にこういう気が強いタイプの方が好みなのかもしれない。
「わかってんなら手前も自重しろよ」
「えー、だって君の嫉妬する姿可愛いんだもの」
太宰さんが甘えたように中原幹部に抱きつくと、中原幹部もそれに応えるようにして太宰さんの顔にキスを降らせる。俺は痴話喧嘩の当て馬だったのだろう。その様をなるべく視界に入れないようにしつつ、心を無にして耐えた。
一頻りキスを交わすと満足したのか、中原幹部は「で、何しに来たんだよ」と、突然こちらに水を向けた。太宰さんとは未だ抱き合ったままだ。
「あ、はい。ご指示いただいた資料をお持ちしました」
「ああ、そこ置いといてくれ。後で読む」
「はい。それでは失礼いたします」
指示通り資料を置くと、その場から足早に立ち去った。背後では再び睦み合いを開始したようだった。
それから、数十分後だった。ポケットに紙片が入っていることに気が付いた。
なんだったか、と取り出して見てみると、それは簡素なメモ用紙だった。走り書きの手書き文字で、日時と傘下ホテルの名前、それから「太宰」のサイン。ホテル名に続く数字は部屋番号だろう。
このメモの意味がわからない程、鈍感なつもりはない。
ホテルを訪れて部屋番号を告げると、すぐに該当の部屋に通された。中に入ると、ゆったりとしたバスローブに身を包んだ太宰さんがシャンパングラスを傾けていた。
「やあ、来てくれて嬉しいな」
俺が入ってきたことに気づくと、すぐにグラスを置いて立ち上がる。近づいてきたかと思うと、まるで恋人同士の再会のように自然に抱きしめられ、額にキスを落とされる。俺はびくりと肩を震わせた。
「ふふふ、随分初々しい反応をしてくれるじゃないか。そんなんじゃ可愛くて虐めたくなっちゃう」
太宰さんが小首を傾げると、柔らかな髪がふわりと揺れた。アルコール臭に混ざって、スパイシーなフレグランスが香る。その可愛らしい仕草とは裏腹に、俺の背中に回した手はうっとりとした手付きで腰から尻に掛けてを撫でている。どくり、と心臓が跳ねた。
「すみません、楽しませられるよう努力はしますが、お手柔らかに」
「そんなに硬くならなくていいよ。私はもう準備できてるけど、君は? お風呂使う?」
「あ、はい。お借りします」
俺はシャワーを浴び、太宰さんに導かれるままにベッドに入った。
太宰さんは恋人のように抱いてほしいと言った。だからご希望通り全身を愛撫し、丁寧に身体を開いた。堪えきれないとでもいうように、吐息に交じって時折甘く鳴くのが艶やかだった。
行為を終えると、太宰さんは「君のこと気に入っちゃった。良かったらまた会ってほしいな」と微笑んで、ホテルのメモ用紙に電話番号らしきものを書いて寄越した。
「連絡待ってるね」
恋人にするみたいに頬にキスを落として、部屋を出ていった。置いていかれた俺は、ほとんど夢見心地だった。
それから、2、3週間に1度のペースで呼び出された。時間帯は昼だったり夕方だったりとあまり規則性はなかったが、どうしても外せない仕事が入っている時に呼び出されるようなことはなかった。俺の予定を盗み見ているのかもしれない。
呼び出されると、俺は一も二もなく駆けつけた。ホテルの一室で甘いひと時を過ごし、その雰囲気のまま「またね」と別れる。
一度だけ中原幹部と一緒にいる太宰さんを見かけたが、ベッドの中とは似ても似つかない澄ました顔をしていた。けれど目が合うと、一瞬だけ溶けるような笑みを見せてくれた。
◇ ◇ ◇
その日、俺は“仕事仲間”からの連絡を待っていた。もちろん願うのは成功の報告だが、失敗しても連絡はあるはずだ。天にも縋る気持ちだ。
今日の取引には、ポートマフィアの首領が現れるらしい。ポートマフィアの首領といえば、巷では幽霊だと専らの噂だった。姿は愚か、声や名すら知る者はほとんどいないという。会ったことがあるのは、幹部の中でもほんのひと握り。この情報を得るために、俺も俺の組織も随分と苦労した。
その成果が今日だ。
しかし、固唾を飲んで連絡を待ち侘びる俺の耳に届いたのは、端末の着信音ではなかった。しんと静まり返った部屋に、ノックの音が響く。
「おい、いるんだろ」
中原幹部だった。続いて、俺の名前を呼ぶ。
本来なら首領に随伴しているはずだ。何かがおかしい。すぐに気づいて、緊張が走る。気配を殺し、ひっそりと裏口へ足を向けたが、一歩進んだところで扉がけたたましい音を立てて破られた。
「逃げる気か」
立て続けに銃声が響き、手足に風穴が空いた。逃げようとした態勢のまま、前のめりに床に転がされた。
計画は失敗したのだろう。となると、俺のスパイ行為も露見したはずだ。俺は覚悟を決めた。しかし、続いた言葉は些か予想外だった。
「手前だろ? 太宰に手出したのは」
まさかただの浮気の制裁か? それなら仕事仲間は無事かもしれない。もう計画は最終段階に入っている。俺が死んだところで影響はない。どうせなら完遂するところを見届けたかったが、結果としては上々だ。
足でぞんざいに身体をひっくり返される。中原幹部の奥にいつもと変わらぬ笑みを讃える太宰さんがいた。変わらないはずなのに、いつもは優しく見える笑顔が、氷のように冷たく見えた。
「君も君のお仲間も単純で助かったよ。お陰で簡単に誘い出せた。手間が省けたよ」
お仲間、という言葉に嫌な予感がする。ポーカーフェイスは崩さなかったつもりだが、太宰さんは嘲るように笑った。
「まさか私が君の仕掛けた盗聴器に気づかないとでも? 流石にそんな無能を演じたつもりはないんだけど、心外だな。ちょっとは骨のある奴だと思ったからわざわざこの私が身体まで張ったのに」
「寝たのは手前の趣味だろが」
心底残念そうに言う太宰さんの後頭部を、中原幹部が叩いた。戯れ合うように軽口を叩き合っている。
一体どこから仕組まれていたのだ。まさかあの日、中原幹部に呼び出されて太宰さんと接触した時からだとでもいうのか。
出血で意識が朦朧とし始めていた。もう、ここから一発逆転の手段があるとは思えない。生き永らえたとして、待っているのは拷問だろう。舌でも噛んでさっさと死んだ方が組織のためだ。
ああ、そうだった。もうその組織も、存在しないのか。
「あ、ちょっと! 君が適当にぶっ放すから死んじゃいそうじゃない」
手放しかけた意識を太宰さんの優しい声が引き留める。出血している箇所を圧迫し、俺の止血を試みている。全てが仕組まれていたとわかってからでも、優しくされると錯覚を起こしてしまいそうだった。太宰さんとの一時は夢のようだった。それこそ、自分のスパイという任務を放棄してしまいたくなるくらい。幸せな夢のまま、死なせてほしい。
「君を嬲り殺す中也を見るの、楽しみにしてたんだから。そんな簡単に死なないでよ」
太宰さんの極上の笑顔を最後に、意識が途切れた。
◇ ◇ ◇
「あーあ、もう死んじゃった。つまんない」
「つまんないじゃねぇよ。いい加減その悪趣味な遊びやめやがれ。自覚あんのか手前は」
「だってー、心配と嫉妬で狂いそうな中也が可愛くて堪らないんだもん」
「趣味悪ぃ」
中原が舌打ちを漏らす。
「その趣味悪い私のこと好きで好きで堪らない中也くんも、大概趣味悪いよね」
ポートマフィアの首領は、それを楽しそうに見つめていた。まるでそれが、この世で最上の娯楽とでもいうように。
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