ボウルに割った卵とバター、オリーブオイルを混ぜオムレツをつくる。バターの匂いが古く、あまり広くはない台所に漂う。使い込んだフライパンを水道水で洗うと蒸気がシンクを覆った。
白い皿にオムレツをのせ、ついでにパセリを添えて少々硬くなり始めたパンを皿の端に置いた。適当に集めていたら本当に集まってしまったハチミツやマーマレードのジャムの瓶を棚から取り出して机に置く。
今日はそれほど時間がないので具のないオムレツにしているが、時間があればキノコや根菜類、玉ねぎを入れる。
一軒家でひとりは気楽でいい。
台所の出窓には、編み目が透けているレースのカーテンがしまっているがこれを開くことはそうない。
インスタントコーヒーをいれてマグカップに注ぐと、湯気が揺らいだ。風が出てきたのかもしれない。朝の風はすこし冷たく感じた。そういえば朝食の時に飲むものも、麦茶ではなくコーヒーにかわっていた。
眼鏡がコーヒーとオムレツの湯気で曇る。仕方がないので外しておいた。
オムレツはオリーブオイルとバターの香りが濃く感じた。胃もたれはあまりしないのでこれくらいが朝はちょうどよかった。
朝食を食べ終え皿とマグカップを洗い、歯を磨く。まだ眠たそうな自分の顔が鏡に映っていた。
浴衣から着物に着替えてから足もとを見ると降魔がのんびりと前脚を伸ばす。ピンク色の舌がぺろりと鼻を舐めていた。
「行きますよ」
降魔に玄関で声をかける。するりと襖の隙間から出てきた彼女は、青嵐の足に擦り寄ってから消えた。
その場に残された紙切れを桐の長細い箱にしまい、革の鞄に入れて家を出た。
彼は食事をあまり好まないようだったので、手土産に持ってきたものは白ワインだった。
紫垂月頼宗は口もとをほころばせて「いい香りだね」といった。
ワインの栓を抜くと、衝撃でコルクが手のひらを打つ。それも心地のよいものだった。
「ギリシャのサントリーニ島で作られた白ワインだそうです」
グラスに注ぐと、薄い黄色みかかった液体がかすかに揺れた。
エーゲ海に面したサントリーニ島はヨーロッパでも最古と言われるほど、ワインの歴史が深いという。
彼はギリシャ、とくちびるを動かした。
「行ったことあるの?」
「いえ。外国に行ったのは一度きりで。たしかイタリアだったと思います」
聖剣使いの本部があるヴァチカンをとおくで眺めたくらいだ。思い出といえば。
ローマの休日でグレゴリー・ペックとオードリー・ヘプバーンが真実の口の前で大騒ぎしたり、バイクを乗り回したり、アイス――いや、イタリアなのでジェラートか――を食べたりしたわけではない。
「へぇ、そうなんだ」
白ワインを覗き込むように見つめる紫垂月頼宗の白い手が、ワイングラスをそっとなぞる。
「どうぞ、飲んでみてください」
慣れた手つきでグラスを持ち、くちびるを寄せる。香りを確認してから、くっとグラスをそっとあおった
外で虫が鳴いている。鈴虫かもしれない。甲高い音というわけではないけれど、耳に心地よかった。
「……このワイン」
「はい」
まじまじと彼が見つめてくる。おいしかったのか、それともまずかったのか。まだ彼の真意は分からない。
「君の生気と似た味がするね」
「……」
エーゲ海に浮かんだサントリーニ島。美しい石灰の白と、空の青。砂浜と――故郷の空、海。脳裏をかすめたのは沖縄の海だった。
もう帰れない。帰らない。かえることができない。
「どうしたの?」
不思議そうに覗き込む瞳が藤色に見えた。
「いえ」
自分のぶんのグラスにワインを流し入れる。香りを嗅いでから、ゆっくりと飲んだ。わずかに酸味の強い、塩っ気のある辛いワイン。
「……そうですか……これが、私の」
「おいしいよ」
彼は目を伏せてワインを見下ろした。まるで湖面を見下ろすように。
「それは、」
――よかった、と呟こうとしたけれど、やめた。そのかわりにもう一度グラスに口をつける。苦みもほんのすこし感じた。
エーゲ海と似ても似つかない沖縄の海だけれど、これを飲むと思い出す。故郷の海を。あのとき彼も見たはずの光景。それは青嵐の心を強く揺さぶった。波が、波の音が、漣の、音が。
「……」
耳のあたりを指でさする。
もう夢のなかでしかかえれないはずの海。
かえれない。
そうだ、「帰ることができない」のだ。あの美しい海と砂浜に触れられない。
「帰りたい?」
彼は青嵐のこころのうちを見透かすように、そう言った。
「そう、ですね。帰りたいのかもしれません」
目の前の神は目をほそめて「そう」と息を吐くようにグラスの脚を持ち、ワインに口をつけた。
リイリイという虫の鳴く声が聞こえてくる。外は暗く、時計は七時をさしていた。
「けど未練を残したままのほうが、よっぽどつらい」
「……そうかもね」
「どこかできっぱりと、諦められたら」
ふとくちびるだけで笑ってみせる。そんな未来があるのかどうか、自分自身にも分からない。
それでも故郷の海は美しいのだ。その気持ちは偽りではない。偽りではないのに、どうしてこんなに心苦しいのだろう。
「紫垂月殿」
今日、はじめてその名を呼んだ。
彼の白く細い指に、すがるように触れた。指先だけで。
「……すみません」
すぐに手を引くと、彼はくちびるを花のようにほころばせた。藤の匂いが強く香る。
「忘れるのも忘れないのも、君の自由だよ」
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