それは、彼と付き合い初めて一年と経たないうちの、とある日のことだ。特段、何の日ということもなく、ただただ、彼ならば、と思ったのがその瞬間であっただけのこと。日ごと勢力を増す日輪さえ、ミサオさんの笑顔には敵うまい。車に乗り込む前のうすらと肌伝う汗さえ神秘の象徴じみて、彼の神聖さを陽にめいっぱい向かう向日葵そのものに感じて笑みがこぼれる。そんな日々を、送っていた。
「
…ところで、ミサオさん」
単なる話題転換めかしたその接続詞は、多く、本題の前に用いられる。私のそれも、例に漏れなかった。
「ふぇ? はい、何でしょう、なんか改まって」
どきり、とする。改まったふうに言ったつもりはないけれど、変に勘の良い彼には、私の覚悟が分かってしまったのだろう。それについては直接触れずに、本題に、ふかく、深く切り込んだ。
「
…本日の、帰り道。
…花を、供えに寄り道しても?」
「お花
……なにか、たかあきさんにとって特別なかたなんですね。もちろん、OKに決まっちゃってます!」
ちいさく敬礼して返す助手席の彼に、前方不注意にならない程度でちいさく視線をやり、にこり、わずかにぺこりと会釈する。
「ありがとうございます」
ああ、このひとことが持つ意味の真価さえ、きっと彼は部分的には気づき、そして大半には気付かないのだろう。どきどきと、急くよう叩く胸に頭と耳の邪魔だけはしてくれるなとただ願う。そんな私のわずか途切れたことばを縫うよう、ミサオさんは、こうも続けた。
「あっ、なんなら、今すぐでも全然構いませんよ。僕との買い物は、また今度で良いんで。てゆーか、そのほうが良いような気が、なぁんか、しちゃってるんですよねぇ
…」
たいていは好意的な彼の人柄を加味しても、彼の、読みにくい直観力を加味しても、この鋭さには、改めてわずかな驚きと動揺を抱く。それを噛み締めるたび、知り尽くしてもいない相手に、これほどまでに重要な胸の内に触れさせようとしている己を、かつてでは到底想定し得まいと、まばゆいほどに面はゆく思うのだった。
「
…どのような間柄の相手なのか、訊きもしないんですね」
言えば、どんぐりまなこという語がこれほど的確な者もそうそう居まいというまんまるのまなこがひとつがい、ぱちくり、ぱちりと、星の煌めきのように音を立ててまたたくのだった。続くことばに、私は更に少し驚きを増すような、ああ、だからこそ彼にと決めたのだという確信を深めるような、多様な感情にとぷり、胸底を満たされるのにしみじみ浸る。
「だって、たかあきさんにとって、大事なかたなんでしょう?」
言わずもがなのことをなぜきかれるのだろう、という疑問符さえ見えそうな小首の傾ぎを真横に感じる時間は、ああ、いかような
宝物匣さえ与え得ぬ至上の至福だ。それが何ら、おしつけがましさ等を持たず、彼の生来のお人好しぶりを胸の半紙にじわりにじませる。きれいな墨絵は極彩色だ。どんないろにでも、なれる多幸感。私は、言葉に詰まるほど、胸がいっぱいになりかかっている。否、とうにいっぱいだったのだろう。
「あっ、でもっ、話したほうがラクになるとかだったらバンバン、思い出話とかしてくれてOKですからね」
――ああ、彼のいたわり寄り添うことばの数々に、孔明の亡霊は、こんなにも救われている。きっと、今日はこの尾に引きずる名残を、たからばこにしまえる日になることだろう。そう思うと、すこしばかり、しまう前のそれをちらつかせていじわるなんてしてみたくなるものだから、自分もとんだ現金者だとは思う。
「
……ふふ、そうですか
…それがたとえ、かつての想い人でも?」
すると、彼はこう返したのだった。予測が、正直に言えば出来てはいた。けれど、実際に彼から直に、彼自身の本心として聞くのは、またことさらに沁み入るものだ。それがほしくて誘導する策士はきっと、眼前(厳密には隣のシート、だが)に向いた気持ちを唯一付けるための儀式を欲した甘えん坊だったのだ。
「えっ、なら余計にっ、今スグ向かっちゃわないとじゃないですか! 僕との買い物はほんとまたで良いんで、ってゆーか、たかあきさんがお世話になったかたなら、
…っ、
…その、僕も、お花を捧げさせてもらえたら嬉しいなー、なーんて、思っちゃったりなんかしちゃって~
…」
言い切りがつかの間よどんだ謙虚さに、いっそう、しみじみ好人物だと彼に惚れ込む。きっと、ミサオさんはこう思ったのだろう。“自分もお花を捧げたいけれど、それは一体、高明のなにとしてなのか、少々図々しい思い上がりかもしれない”
……などと。そこに彼の、実際私からこう思われていたらいいな、という控えめな願いと、幾ら愛をささやかれても確信を持ちきれない謙虚さが輝き、いっそう、愛のことばのささやき甲斐があるなどと私は感じてしまった。
「
…そう、ですね
……では、ミサオさんがよろしいのなら
…これから、向かいましょうか」
「はい。あっ、モチロンお花屋さんにも寄っていかないと! そのあいだに、そのかたとのおはなしとか聞かせてくれたらうれしいです」
ああ、ああ! それが決して、“こいびと”としての余裕だとかそういったたぐいでない生来の人柄なのだと、ぬくもりを知るこの胸は理解できる。
「
…っ、
……すみません、
…少々、路肩によせても
…?」
ぽろり、と、吐露をのせるしずくがこぼれては、とても運転などできやしない。ミサオさんが気を回して、「あ、すぐそこお店あるみたいなんで、できたら駐車場まで行けますか?」と言ってくれたので、そこまでなんとか、移動する。駐車させてもらった。
「そしたら僕、飲み物買ってきますんで
…」
車を降りようとする彼の手首を、がしり、いかないでほしいとばかり掴んでしまい大人げなかっただろうか。そうだ、わたしは今、思春期のあのころに身を置いているのだから!
「
……わかりました、あとにしますね」
よしよしと、髪を撫でられ、こくり、ちいさくうなずく。
「
…っ
…、
……、
……葵さんは
…、中学校の、同級生で
……」
ぽそり、搾り出すことばは、それでもそれを望んでいた。理解しているように、ミサオさんは私の髪をあやすよう撫ぜ、頬のしずくに、ゆびさきを添える。
「そうなんですね。たかあきさんの、中学校時代かぁ。お話、僕もアオイさんから、聴いてみたかったなぁ
…」
彼のまなこが今たしかに自分越しの彼女をやわらかくあたたかな陽で見つめていることに、ああ、なみだがぽろぽろとこぼれてくる。こんなことは、殆ど初めてに等しかった。
「っ、
……実は、あおいさんは
……当時の私を、モデルにした、小説も
…、出して、くれたんです
…」
「えっ、すごいじゃないですか! それはもう、一生のお宝確定ですね」
嫉妬、という単語を彼が知らないわけでは恐らくなく、傲慢なことを言えば、彼が私の彼への愛情を重々理解し、その上で私のこれまでの人生をひとりのヒト同士として尊重してくれているのだと、それがひしりと伝わってきて、彼の肩に顔をうずめたいとさえ思うほど胸が、どうと満たされ感情があふれてくる。
「
…っ
…、
…っく
……っ
…はい
…… その本は
…今、も
……あなたの前の、グローブボックスに
…」
「わぁ、そうなんですか?! えっ、すごい!!
……あのー
…、もしそのすごぉく大事なご本に、僕がさわっても、イヤじゃなかったら、なんですケド
…読んでみても、いいですか? あっ、それかっ、タイトルとかメモらせてもらえたら自分で買ってみるんで、それでもじゅーーぶんなんですケド
…今読めたら、僕から捧げるお花にも、ただの感謝とかだけじゃない、なんか、親しみとか、色々、込められる気がして
……あっ、ほんと、無理はしないでいいですからね!」
あわあわ、まくしたてるのは彼の好いクセだ。万華鏡よりもゆたかな変遷が、胸くすぐるぬくもりが、彼のすべてには、溢れていた。
「
…っ、はい
……ぜひ、ご自由に
……断る理由が、塵一つも、ありませんから
…」
「やったぁ、ありがとうございます
…! えへへ
…では、ありがたく
…… …へぇ~、孔明君、ですかぁ。さすがたかあきさんの同級生さんだ、ズバリ、言い得て妙、ですねぇ
…なんかもうっ、タイトルからして最高!ってカンジしますよねぇ」
そんなふうにそのまま、彼がことばまじりにページを繰るのを、ゆるやかな時間のなか、眺めていた。その本は、ミサオさんに好意を持ち始めてからもなお、そこから下ろすのも何かがちがうと思い、定位置に仕舞ったままだった。今現在、に絞って言えば、踏ん切りが、ついていないわけでは決してない。“かつての想い人”。先ほども彼にそう告げた言葉に、虚偽はない。私は、彼女への想いに封をしていたあのころから、彼女が既婚者となってもなお、長らく、どこかで踏ん切りが付ききってはいなかった。割り切りを、してはいたつもりだ。それでも尾びれを、引きずる深海魚であり続けた。初めて水上輝く遠いひかりに、近づいてみよう、と思ううちにみるみる海面上へ腕ごと引き上げられる。不慣れな空気をぷぁ、と吸えば、そこにいたのはまばゆい後光を背負った日輪だったのだ。そんなミサオさんを恋しく思うようになり、日々を重ねて初めて、自然と、私は彼女を真に過去形の宝物に、出来たのだ。そして。ああ、今、それをより決定的に、しかも共有の、宝へと、できるとは。
「
…ふふ
……、
…私の宝物は、
…あなたの宝でも、あるようですね
……」
「へへ
…当然じゃないですかぁ。あっ、でもでも、そんなゴーマンなつもりじゃないんですケド、僕のたからものは、たかあきさんのたからものでもあるんで、僕がこの本を読んで、あなたのことにもっと、触れられたなーっていうすっっごく嬉しい気持ちがしてるのは
……、
……あー
……一緒に、おはなし、したいですねぇ
…… ぅっ、く
…っ、
…あーー
……ぼく、も
…、ちょくせつ
…っ、会えたら、よかったのに、なぁ
……」
彼の、彼の共感、共鳴のゆたかさに、改めて感じ入る心地と同時に。わかっていたかのような、この胸の内側深奥に沁み入り響き渡るあたたかさ。つかの間、共に彼女のために泣き、静けさが胸を、それでも温めた。
「
……このまま、駐車場をお借りしていただけでは何なので
…飲み物を、買ってきますね」
私は自分の涙に切りがついたところで、そう申し出る。
「ひっく、ふぇ
…っ
…すみま、せ
…っ ぼくが、やることだったのに
…っ」
「
…良いんですよ、ミサオさん。私は、あなたのその澄んだ涙に、幾度となく救われ、この心を、すくい上げられてきているのだから」
飲み物を買って戻り、駐車場で少し飲めば、ミサオさんの涙にも、ひと区切りがついたようだ。いつも立ち寄っている花屋へと、船出する。道中、こんな会話をしていた。
「アオイさん、って、好きなお花とか、ありました?」
「それは分かりかねますが
…名前が葵のご紋の葵なので、私はたいてい、アオイ科の控えめな花をお店で選んでもらっていますね。白い、一重のものとか。あとは、花言葉に差し障りがないかは確認していますね」
「ふむふむ、なるほどです
…それじゃあ、今日は、ちょっぴり趣向を変えて
…とびっきり元気いっぱいのお花にしてみませんか? あっ、そーだ、今ピーンとひらめいちゃったんですけど、ヒマワリって、確か、漢字だと葵って字入りますよね?」
「フム
…確かに、入りますね。目からウロコでした」
「あと、なんか、パワフルなアオイ科
…?のお花っ、お店で選んでもらっちゃいましょう!」
まるで天啓のごとき頃合いで、折しも花屋の駐車場についたところだった。彼はことばの調子のわりに心細げに、私にいつもより少し、寄り添うよう歩いた。それが哀悼の気持ちによるさびしさゆえとわかり、私は肩を抱き寄せたいのをぐっと、こらえたのだった。
「すみませーん、僕たち、ヒマワリと、あとアオイ科?のお花、ほしいんですケド
…なんか、パワフルで花言葉とかもイイ感じのやつとかありますか? あっ、ついでにヒマワリの花言葉とかも教えてください!」
敬礼まじりに尋ねるなつこさに、私とは顔なじみの好々爺たる店主も、きっと即座に惹かれたことだろう。同僚とでも思ったろうか。私がひとを連れてきたのは初めてだから、少々驚きはしたかもしれないが勘繰るでもない品の良さがこの店を愛用している理由だった。
「ヒマワリの花言葉は、本数によって違うんですよ」
店主は、ミサオさんに、そのゆたかな書庫から知識の書簡をしゅるりと容易に開く。
「へぇ~! ちなみに、どんなカンジなんですか?」
「一本だと、“一目惚れ”とか、あと“あなたが運命の人です”、なんて意味もありますねぇ」
「むむっ
… すみません、ソレ、あとで僕のぶん別途一本頂いてよろしいですか?」
「もちろん、もちろん」
ひそりと小声で耳打ちしても、静かな音楽の流れる心地良い店内では、私の耳には届いていたので思わずはにかんでしまった。店主も、ミサオさんの全身表情の豊かさに、なごましそうに笑んでいる。察してしまっただろうか。こちらの店主にはそれなりに気を許しているし、ミサオさんとの仲を誰にさえ隠す気は私にはないので、構いはしないけれど。
「そうですねぇ、あと、百八本などもプロポーズに使いますし、九百九十九本になってくると、“何度生まれ変わっても私はあなたを愛します”、なんてね、情熱的な想いを込めたりもできるみたいですけど、当然、その本数になってくると予約になってしまいますね」
どきりと、する。それが、冗談まじりの豆知識であるのだろうとは、思った。だのにわたしは恐らくそれが、我々の恋仲を見抜いての助言であるのだろうとも、思ったのだ。胸中で大福帳へと書き加えながら、それを予約するべき日は今なのかもしれないなどと、気の急いたことさえ思う。そのくらい、ミサオさんの人柄に、私は心底惹かれている。
私は、彼らの会話に、口を挟んだ。
「因みに、手向けに贈るに差し障りのない本数は?」
「うーん
…八輪だと、“あなたの思いやりに感謝します”、なんて意味もあるので、そのあたりでしょうかねぇ」
「なるほど。では、向日葵はその本数でお願いします」
「かしこまりました、いつもありがとうございます。あとは、アオイ科のパワフルな花を、と先ほどおっしゃっていましたよね」
「はい」
はにかみながらふわりと声さえほころぶ私の顔を、先ほどミサオさんの対応をしていてこちらを見ていなかった店主は、初めて見たはずだ。初めて、きいたはずだ。少しだけ目をぱちくりとさせ、それでも特段触れずに、まなじりに笑い皺をわずか刻みつつ、やわらかな笑みで会話の続きに身を投じる控えめな聡明さがやはり好ましい相談相手だと思う。
「アオイ科なら、ハイビスカスはいかがですか?」
「ハイビスカス
…ですか?」
「へぇー、ハイビスカスもアオイ科?なんですねぇ」
ふたり、かさなるように返答する時間さえも宝物だ。ミサオさんはアオイ科の花の一般的なイメージも恐らく持たないであろうに、素直に感心しているのが和ましくて、私はくすりと、のどをふたつほど揺らしてしまった。聞き逃さなかったミサオさんが、純粋に不思議そうに、小首を傾げている。
「たかあきさん、なんか楽しそうですケド、ハイビスカスお好きなんですか?」
「っ、
…く
…っ
…いいえ? っ、
…ふふ
…っ」
妙に上気する心地に、くつりとちいさくわらいを噛み殺す。ミサオさんは、自分がそうさせているのだと勘付いて、ぽりぽりと、頬を掻いていた。店主は、気長にそれを、笑みながら見守ってくれていた。
「
…うーん
…まあ、いいですケド
… あっ! そうそう、ハイビスカスだと花言葉とかあるんですか?」
ミサオさんが左てのひらに右のこぶしをぽんと打ち付けて思い出したことをくちにする。店主は、にこやかにそれに応えた。
「幾つかありますとも。“上品な美しさ”、“繊細な美”、“新しい美”、などとうつくしさに関するものや、あとは“信頼”、なんていうのもありますねぇ。それから、ハワイ現地では、“幸せな未来”、だとか、“希望”、なんて意味も持つようですよ」
――ああ! 店主の言葉に、私は、身動きを、
刻を刹那、止めずにおれなかった。それは私が葵さんに抱いていた感覚でもあり、願いでもあり、そして
――
「へぇー!! なんかっ、僕らにめちゃくちゃピッタリじゃないですかっ、たかあきさん!!」
ああ、思った通りのことそのままを、口調の差異こそあれ、彼がそっくり違わず口にするものだから
…私の
刻は、永き眠りから解けたかのようにゆるやかに、それでも確かに、この手に実感を握りしめ、今、ここから動き出すのだ。
「ふふ
…そうだね、ミサオ」
「ふぇっ??!!?! どぁっっ、どーーーしたんです急にっ?!?! ぼくっ、びっくりしすぎて気が動転しちゃってるんですけどっ!!」
「問題でも?」
ミサオの手を握り、その甲をうやうやしく掲げて僕が小首を小さく傾げれば、手の甲にくちづけでもされると思ったのか、動揺にびくんと大きく跳ねるそれが、それでもこわばりこそせど、この手から逃げようとは決してしないところに、ああ、
違いなくこの生の伴侶を、ここに得ているのだと涙ぐみたいほど確信できる。向日葵の予約は、きっとして帰ることだろう。
「いやっっ、いやいやっ、べつにっ、ないですケド
…っ!! えっ、え~~~~っっ、ちょぉっとまってくださいよ、ぼく、ちょっと、顔が
…っっ」
耳どころかゆびさきさえ上質な赤に染まりきった姿に、僕はふわりと、いつくしむよう目を細める。時は、推し進めなければ、まえにはいかないのだ。それは決して、後ろを見返ることを禁じるものではない。大切なものたちを、時間軸の後方からずいと背負ったまま、伴歩する者を、傍に寄せてもいい。その肩を、抱き寄せてもいいのだ。僕はそれを、彼という日輪からさも当然の権利のごとく許されている。彼はしらないのだ。ぼくが、それを、渇望さえも当然せず、遙か遠いものとし、海ふかく身を潜めていたところを彼に、どれほど救われたことか。彼はいつでも好意が無自覚で、その人懐っこさが、僕のこころさえも、
…厚く傷だらけの内壁を有する氷さえも、その日輪でやすやす、融かしてみせたのだということを、何ら気づきはしないのだ。僕の傷については、ある程度は話してある。直接出逢ってからで数えれば日の浅い部類の彼にそんな話をするほど、僕は彼に、心底こころを許していて、けれど彼は、それに得意顔をするでもなく、ただただ我がことのように共に傷つき、心と心寄り添い、そのさきの笑顔を、自然、目指してくれた。だからこそ、僕は葵さんの件を彼に、話したのだ。
赤面のままあわあわと取り乱しているミサオを“傍ら”に、僕は店主に、追加の注文をした。
「ご店主、お待たせしてすみません」
「いえいえ、構いませんよ」
心から構わないのであろうことが自然と汲み取れて、改めて、好々爺だと噛み締める。
「注文の続きですが
…先ほどの向日葵を八輪に加えて、ハイビスカスのミニブーケなど、お願いできますか?」
「もちろん」
「それから
…――」
ああ、彼に直接、想いを告げる瞬間よりはきっと幾らかまともで、それでもこの緊張は、立会人の在るこの場を、人生の時間軸に大きな転機として記すべき日と刻みつける、呼吸さえ止まりそうなほどの、躍動の予兆だ。
「
…ふふ。
……後日、向日葵を九百九十九本と、百八本と
…それから、永遠の愛を意味する本数があれば、そちらもともに、めいめい分けて、受け取れるよう手配を、お願いできますか?」
ミサオが諸手を自らのくちもとにちいさく添えるのが、そのおおきなまなこが潤み天恵を流星の如くこぼすのが、僕のこの胸を、躍動でぐんと、幾らにも揺り動かす。
店主は、微笑みながらこう返した。
「
…はい、かしこまりましたとも。ヒマワリは、九十九本では“永遠の愛”、“ずっと一緒にいよう”
…などといった、意味がありますよ。いかがいたしますか?」
「では、九十九本も追加で」
「毎度、ありがとうございます」
「あっ、まって!! まってくださいっっ!!」
挙手しながら、他方の手を未だ赤面のくちもとに添えながら、それでも、ミサオは会計に入る前に話に割り入ってきた。僕はその真意を既にある程度掴み、涙を重ねたくなるほど胸打たれながら、それでも、明確に続くことばを、とこしえ求めた。
「
…ぼく、
…も
……っ
…、
…おなじのっっ、おねがいしますっ
…!!」
ああ、ああ! くちもとがだらしのないほどに緩みそうになるのを、口髭でも隠蔽はしきれまいしする気もない。彼の張り合い相手が決して、“かつての想い人”、ではなく、横に並んだ僕自身であることを、僕は、重々承知していたのだ。
「同じの、と言うと?」
ミサオに問えば、それはどうも、彼によく言われるけれど、少々、イジワルじみていたようだ。はてさていったい、どこがだろうか?
「~~っっ、もォ、たかあきさんはぜェ~~んぶ分かっちゃってるくせにぃ!! 店長さんっ、ハイビスカスと、ヒマワリいっぱい、僕も同じだけほしいんです!」
「承りましたとも。今日は、
…そうですねぇ、これだけの繁盛ですから、きっと、さぞかし好い日なのでしょう」
「そのようですね」
「ぜェ~~ったいっっ、そうしちゃいますからっっ! 覚悟しててくださいよっ、たかあきさんっ!」
「はは、楽しみだよ」
店主は、にこりと、やわらかく笑むに留めハイビスカスのミニブーケの作成へと入る。
葵さんの墓前にあいさつに行くには、あまりに浮かれすぎだろうか? しかし、今になって初めて、思うのだ。彼女もともすれば、時折献花に向かう僕のことを、どこか、気にかけでもしてくれていたのではないか、と。だとすれば、の、論拠の欠片もない仮定の話だ。仮定の話だが、彼女の夭折にこそ当然未練あれど、不器用でもやわらかな愛にあふれ包まれていたその生に、ただ哀悼するだけの級友よりも、なにか報告をするのなら、
好き伴侶ができたのだ、と、そう告げられる日のほうが、望ましいのではないだろうか。仮定の、話だというのに、僕は彼女に、彼とともに感謝を告げるため、愛車に再び乗り込むのだった。ここちよい、音がまるで昔なら、大量の空き缶でも引きずりまわしていた旅立ちだろうとさえ思う。白い鳩を無数に放ちたいほどの、晴れやかな青空にくっきりとした雲がもくもくとよく映える。
かつての希望の館が燃えた、その残滓にミサオとともに追悼の祈りを捧げに立ち寄る。そこには、幾度も足を運んでいた。そして。それから、葬儀のあとは訪れたことの一度たりともないその墓所に、不慣れ
路同士の伴侶ととも、足を、運ぶ。箒とちり取り、バケツに柄杓を借り、記憶が正しいことを住職に確認してきょろりと探せば、明石の名字が見えた。彼女の、最愛のひとと眠る場所。その秘所へと、葬儀後初めて、訪れた。同じく最愛の、ひとを連れて。
墓の掃除をし、線香のなさを詫びながら、祈りを捧げる。黙する僕と異なり、ミサオは、くちに出して、彼だけのことばで、祈りを捧げていた。
「
…天国の葵さん、それから周作さんも、こんにちは、はじめまして。僕、山村ミサオって言います。たかあきさんから、葵さんのこと、少しだけど聞きました。これから先、もぉ~っとたくさん、聞いちゃいたいと思います!
…あなたや、
…あなたの、愛した、周作さんも
…、きっと、ふたりとも
…とびっきり、ステキなかたたち、なんでしょうね
……これから、先
…、もっと、もォっとたくさん
……っ、
…ひっぐ、
……ぅあー
…… ……あなっ、た
…っ、
…から
…っっ
…たかあきさんのっ、お話
…っっ、
……っ、く
…あなたの、くちから、あなたのっ、表現で
…っ、
……もっと、もォっと、たくさん
…っ、ちょくせつ、おきき、したかった、なぁ
……っっ ぅっぐ、ひくっ、うぇえ
……おはなしっっ、きかせてもらえますか
…っ ふぇえっっ、たかぁきさァん
…っっ!!」
ぼろぼろと号泣する彼に、つられたわけでは決してない僕の本心からの涙もぼろぼろと、呼応するよう、重なり海さえ造り得よう。ミサオの肩を、ぎゅっと抱き寄せる。彼は僕の胸で、僕のシャツを掴み、わんわんと心の底から泣いた。いちども会ったことのないひとたちのために、僕の歩んできた背中を通して見た彼女たちのために、澄んだ涙で僕の胸を濡らす。僕の涙も、彼にわずかうずくまるようこぼれ、彼の髪を濡らしてしまうけれど、構いやしなかった。しばらく僕たちは、泣き合い、身を寄せ合った。
幾億とこらえてきた涙は、とうてい落ち着ききりはしない。それでも、わんわん泣き合えば、わずかばかりすとんと、こころが静まってゆく。涙の瀬が、あさく、穏やかに、静まっていくのを、僕たちは心の整理として、感じた。
ミサオが
涙鼻をすするので、僕はハンカチを添えてやる。柄杓やバケツを後ほどすすいだ際、洗った手を拭く手段は、別途考えればどうにでもなるだろう。策士らしからぬ無計画さを、ミサオとなら自然たのしめるから不思議だ。
「すびばぜん、なんか、ぼくまで勝手に、泣けてきちゃって
……っ」
「
…勝手だなんて、とんでもない
……これまで僕が訪れるときは必ず独りでしてきた追悼に、きみからの、やわらかく、あたたかな愛のまなざしがさながら陽射しのよう加筆されて
…この追記と愛の足された今、捧げた花も、天国の笑顔を彩ることだろうと、心から信じられるよ
…。
……ありがとう、ミサオ」
「うぅっ、そんなのっ、もォ、また泣けてきちゃうじゃないですかぁ! ぼくなんか、ぜんぜんほんと、ただ勝手にご冥福を祈らせて頂いただけなんで
…っ!」
ああ、彼のこういうところを心底、愛している。けれどそれをおおっぴらに告げるには、仏前で少々のろけじみるので、こころのなか、報告するだけに留める。
――葵さん、周作さん。こちらが、わたしの生涯
…いえ、とこしえに寄り添うと、決めた伴侶です。以後、お見知りおきを。また時折お参りさせて頂くかと思いますので、本日はひとまず、顔合わせ程度にて。
…お二人のご冥福を心より願うと同時、永劫続くその愛を、先達とさせてください。
追愛花のブーケが、華やかに墓前を彩った。この晴れ空のなか、それはなによりも似つかわしく、輝かしく見え、僕らはまた泣きそうになった。僕は、ミサオと出逢い、関わっていくなかで初めて、この感情をたからばこに飾ることができた。一面をアクリル張りとしたそのショーケースは、いつ、どんなとき、振り返ってもいいのだと自然思える。意図的に割り切ろうとしなくても、封をしきらなくても、踏ん切りをつけなくても、それで当然で、構いやしないのだと思えたミサオとの出逢いが、僕に葵さんへの想いを、完全なる過去形へと昇華させた。彼が、そうしようと意図してさせたわけでは当然無い。だからこそ、だ。僕らは、そのショーケースを、いつでも振り返ることができる。過去のなつかしみを抱いたまま、ともに歩んで行っても、構わないのだ。ともに歩んで行くことが、できるのだ。ミサオも、僕も、互いに大人だ。これまで、歩んできた生がある。それを互い尊重し、その上で寄り添い合える、そんな彼の生来だろう気質に、少々ドジな人懐っこさからは想定しきれぬ意外性と妙な納得性とを感じて、ふわり、頬がブーケを映したようほころぶのだった。
車に戻り、それでも発進するのを少しもったいぶる。僕たちは、先刻注文した向日葵を大量に受け取るときのことをああだこうだと想像しながら、きっと実際の総量に仰天することだろう。そんな近しい未来にくすくす笑みを寄せ合って、その意味するさきの、ゆくすえのきっと果てのなさに、目を細める。どんなに目を細めようとも、まばゆく末遠い、遙かどこかさきは、目視にははるか難い。それが面はゆく、頬を寄せ合い、肩を寄せ合って、ミサオの鼻唄に、コーラスを入れなどする。
転機は、
何時とも晴れ模様、とは限らない。それでも。ミサオとなら、未だ見通し切れぬどこかへとゆく路に、鳩よりも数多の幸が、降り注ぐことと確信できる。報告したい墓前がここだけではないことにずきりと胸はひどく痛むけれど、僕が自然決めた相手は、どこへなりと、自然、このたましい寄り添い、伴侶として共に在ってくれると確信している。その傍に、ああ、あとひとり、弟が帰ってくることさえも、ミサオとなら確信じみて信じ願うことができるのだ。
――ミサオ、僕たちと出逢ってくれて、本当に、ありがとう
……
心からの感謝は、また今夜くちづけにでも乗せよう。きゅっと、絡げた小指がなにを確約するものなのか、ミサオは知りもしないのに、うれしそうに身を寄せてくる。車を出すのが到底惜しくて、僕は困ったように頬をいっそうゆるませた。さすがに、そろそろお寺にも迷惑になるだろう。そう思い、またいずれ訪れる旨念押ししながらやっと、発進する。
追愛花が彼女たちを悼むほかのだれかのこころにも寄り添うことを、その顔をわずかでも光明のきざしで照らすことを、ただただ、願った。
終
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