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きう
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悪人
鯉⇄梁
※性的な表現を含みます。
件の酒杯とは似つかぬ、青磁の盃に口をつけながらリーは喉の奥で笑った。客人に出すに悪くない品、しかし旧友に出すには些か高級すぎやしないか。手酌する酒も安酒ではないのだろう、芳醇な香りが鼻腔をくすぐる。舌の先に乗せれば香りそのもののような柔らかなとろみが口内を癒し、しかし咽喉を通る時は焼くように熱い。酒に浮かされて見る窓の向こうの景色は、手入れはされているものの、こうして眺めるには少々味気ない。華やかな灯りに照らされもせず、夜の静謐に身を沈めている。まるでここの主人のように無口で飾り気のない風景は、金の目に実直で美しく映った。
だから庭で咲く椿だけが異質で、リーはすぐに理由に気が付いた。口に広がる酒が急に苦く感じられ手を止める。それと同時に部屋の前に気配を感じた。
「どうぞ」
呼ばれる前に声を掛けると、逡巡するような間があって扉が開く。庭の花について冷やかしてやろうと思っていたのに、リャン・シュンが寝巻のような楽な格好で立っていて虚をつかれた。その手には水差しが握られている。
「必要な頃合いかと思ってな」
「
……
先の失態で弱くなったと思われているのか、おれは」
「そうじゃない」
潜められた足音が今は夜中だと教えている。窓の隣へと並ぶと水差しを持ち上げて見せるので、素直に盃を寄せた。なみなみと、まるで酒を飲ませるかのように注がれる。
「
……
これじゃ、まるっきり立場が逆だろう」
「客をもてなすのも仕事のうちだ」
「仕事ねぇ。
……
つまらない言い方をしてくれる」
リャンの眉間に微かに皺が寄り、口角がほんの僅かに上がる。暗がりでもこの男の表情の機微を拾ってしまう、昔の癖が抜けない。そんな自分に苦笑して、盃を口へと運ぶ。咽喉へ流し込む水は酔いが醒めるように冷たい。リャンは水差しを机へ置いて退出するのかと思いきや、再び隣へと並んだ。仕事を終えて来たのだろう目元は疲れのせいか気怠く、それが妙に色っぽく見えて目に毒だった。勘弁してくれと口に出すでもなく毒づいて盃を煽る。日頃は隠れている咽喉や手首から肘にかけての、何度も辿ったことのある肌が今はただ恨めしい。
「まだ何かあるかい?」
退出を促すおれの言葉に、リャンは顎を傾けただけだった。室内の絞られた灯りがそのラインを悩ましく彩る。手を伸ばしたくなって自嘲した。連絡を取らずとも心のどこかで、この男は自分のものだという自負があった。傍にいなくとも心が離れることはないだろう、そう高を括っていた。だから依頼が舞い込んだ時、心中には納得と安堵があった。リャンが真実頼れるのはおれだけで、この距離だって無いものとしておれが来ることを疑っていない。それに間違いはなかった。けれど間違っていなかっただけだった。庭に視線を移せば花が目に入る。この男の、昔と変わらぬ資質は奇跡に等しい。全ては時間とともにうつろい、永遠などは酒の肴でしかない。
胸の奥が蝕まれるように鈍く痛む。酒で穴が開きそうだ。不意にリャンの武骨な指が視線を遮った。驚く間もなく頬に触れる。冷たい指。昔はこの手に請われていたのだと感傷が湧き上がる。慣れない手つきで口の端を撫でるのが懐かしい。
「
……
リャン」
何のつもりだ、とは問えなかった。その合図を忘れるわけもない。碌に連絡も取らなかった癖に、いまだにこの指を自分のものだと思っていた。今も口を開けて、この指を食ってしまいたいと思っている。
でも今更じゃないか。変わらないものはない。理解しているし知っている、ただ知らずのうちに、お前だけはと横へ避けてしまっていただけだった。
「君が私を変わっていないと言ったんだろう」
指先で乞うように頬を撫でられると、鼻の奥に血が集まっていくようだった。
「そりゃ言葉の綾ってやつで
……
こういうことを言ったわけじゃ」
手を掴んで頬から離すとリャンの瞳が寂しげに沈んだ。この至近距離だというのに眼が合わない。すでに男の指を冷たいとは思わなくなっていた。同情ではない、この男がおれに同情する理由がない。ならば愛惜だ。手から零れ落ちようとするものを、掴みたいだけ。その手は、もうおれのものではない。
「
……
お前は不誠実なことをする男じゃないだろ、リャン・シュン」
迷いを、都合のいい想像を打ち切るように口にする。考えさせないでくれ、まだ間に合うかもしれないと。奪ってしまえるのかもしれないと、そんな柄にもないことを、おれに。
「私は、」
声に顔を上げる。いつの間に俯いていたのか、眼が合った。目を逸らしていたのは、おれかもしれなかった。その表面は凪いでいて、僅かな灯りで奥底まで覗けてしまうように思える。澄み渡り、共に過ごした日々が見えるほどに、昔と何も変わらない。
「
……
私は〝まだ〟君のものだ、リー」
声は震えていなかった。ただ低い声は己の内から響くようで、耐え難い引力があった。耳の奥で血潮が音を立てている。乱暴に手首を掴んで寝台へと向かうが、リャンは何も言わなかった。その素直さで全てがリャンの思い通りに進んでいることが分かる。歯噛みしたところで止められない。若い頃と同じ手荒さでリャンを押し倒すと腹の上に乗り上げた。
「当然、準備はしてきたろうな?」
外套と装飾をまとめて脱ぎ捨てる。手袋を外しながら視線を落とすと、物言いたげな瞳がこちらを見ていた。すまない? ありがとう? どちらも聞きたくはない。
「
…………
リー、」
「謝るなよ、これはお前のためじゃあない」
必要なのは愛でも情でもなく、明確な終わりだ。
おれが先に手を離してやらないといけない。そう思うと緊張以上に焦燥で心臓が煩くなるのを感じた。焦げ付くような感情を見ないふりで口付ける。眼鏡が鼻筋を滑り落ちる前に、リャンの手がそれを支える。半円を描くツルを撫でて労わるように耳の裏へと触れた。首の後ろから劣情が立ち昇り、口を開けるとすぐに舌が入り込んできた。招き入れれば歯が当たる。頭に響く不快感さえ興奮した。
尖る歯を恐る恐る舐める舌を絡め取り、こちら側へ引き込むと苦しそうな声が零れた。薄く目蓋を上げれば眉間に寄った皺が目に入って、嗜虐心が煽られる。わざと口を大きく開けて、唇全部を覆うように噛みついた。柔らかな頬へ当たる歯の向こうで、薄い唇が震える。舌先で口内を舐めて甘やかすと腕の中の身体が弛緩する。優しく繰り返して口を離すと汚されたと言いたげに、唇は唾液で濡れ光っていた。
「
……
噛んだことなんでないでしょうが」
「それはそうだが
……
」
とろりと溶けだした瞳はそれ以上言葉を続けようとはせず、ぼんやりとおれの向こうの天井を見ている。眼鏡を外してベッドサイドへ置き、柔らかな髪に指を通す。
「怖いもんは怖いって?」
「いや
……
」
長い耳が迷うように小刻みに揺れた。からかうように内側を撫でてやれば肩を震わせる。
「ん
……
くすぐったい」
「そうだろうとも」
前髪を避けて額に口付ける。眉間の皺を伸ばすように鼻先を押し付ければ、咽喉の奥で笑う声が聞こえる。寝巻の襟を開け喉元に淡くかじりつく。懐かしい、昔と同じ香の匂いがして、無性に泣きたくなった。昔と変わらない合図で変わらない手順を踏み、同じ声で笑っても、もうあの頃を取り戻せはしない。
どうしてこの男は今おれに抱かれようとしているのだろう。もう何もかも変わってしまったのに。いや、リャン・シュンは何も変わっちゃいない。愚直で生真面目で一途だった。なら変わったのはおれの方だ。失ったものを嘆くなど情けない。
「リー」
あの頃と変わらない声がおれを呼ぶ。乞うように。甘えるように。普段は静寂を湛える声が感情を灯して呼ぶ、その声に弱い。おれ以外聞くことはないだろう、ほつれるような声が独占欲と支配欲を満たして止まない。
「リー」
リャンの手が背に回って優しく上下に行き来する。好きだと思った、今も変わらず。ならば変わったのはやはりリャンの方だ。歯に咽喉の柔らかな皮膚が食い込む。ここで引き裂いてしまえたら、いっそ永遠になるだろうか?
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