手持ちの薬が底をついたのは、大粒の雨が窓を叩き続ける日だった。湿った空気が部屋の隅々までじっとりと染み込んで、嫌な重さを増していく。何もかもが湿気を帯びていて、息を吸い込むだけで肺の中まで濡れた匂いが広がる気がする。
高いところから見下ろす景色は、ぼやけた灰色のベールに包まれていた。濃密な雨のカーテンが景色を遮り、遠くの建物の輪郭がぼやけて消えていく。重たく降り続ける雨が地面を叩く音だけが、無遠慮に耳に響き渡る。
目の前の画面に指を置くだけで、思考はあっという間に散っていく。カタカタと鳴るキーボードの音だけが無機質に耳を打ち、部屋の空気はじっとりとまとわりついて離れない。集中なんて、できるはずがない。今日が、俺にとっての最後のチャンスだからだ。薬はもう尽きた。もう、逃げる余地がない。静かな自室ではなく、あえてリビングで作業しているのに、八左ヱ門はとくに言及することなくいつも通りの調子で、いつも通りに過ごしていた。何か話しかけてくれればいいのに、いや、やっぱり話しかけて欲しくない。そんな堂々巡りの思考が頭を占めて、作業なんて手につかない。ぼんやりと画面を眺めていたその時、不意に「兵助」と、八左ヱ門が名前を呼んだ。胸の奥がひゅっと縮む。
「メシ、どーする?雨だし、下に食いに行くか?」
「あ、いや、俺作るよ、賞味期限切れそうな豆腐あるし……それに」
「どした?」
「話があるんだ」
自分でもわかるくらい声が上擦った。なのに、八左ヱ門は驚いた顔ひとつ見せず、太い眉を少し動かしただけだった。それでぼんやり思っていたことが、明確な理解になった。何かあったことくらい、彼は最初から気づいていたんだろう。気づいて、けれども何も言わないで、俺が言い出すのをただ待っていたんだ。そう思うと、胸の奥がじわじわと苦しくなって、言葉が詰まりそうになる。
「何」
低く抑えた声が、鋭く胸に響く。いつもは安らぎを感じるはずのその声が、今はどうしようもなく怖い。申し訳なさと、自分への苛立ちが頭の中で絡まり合って、逃げ場のないぐるぐるに巻き込まれていく。
「……抑制剤が、切れちゃって」
喉がひどく乾き、かろうじて声が漏れた。
「え、大丈夫なの?」
「……うん。昨日までは飲んでるから」
雨音か、心臓の打つ音か、どちらが響いているのかもわからない。頭の中で不快なリズムが続く。
「……この期に、子供、作ろうか」
パソコンのキーボードに視線を落としたまま、声だけをなんとか絞り出す。言葉が胸の奥で鈍くきしんで、手遅れだと知りながら、それでも言ってしまった。八左ヱ門の反応なんて、もう予想がついているはずなのに、後戻りはできなかった。浅い呼吸に喉が灼ける。
「俺も、俺も子供ほしい!兵助も同じ気持ちで嬉しいよ、兵助いつヒート起こすのかって思ってた!けどなんか聞けなくてこれで頸噛むのもできるな、兵助の発情期、兵助と一緒に過ごせるのすげー楽しみ」
悲しいくらい期待通りに、声がきらきらと弾む。顔なんて見なくても分かる。あの、まるで散々照る真夏の太陽みたいな、何もかも包み込む笑顔を浮かべているに違いない。その光が痛いほどに突き刺さって、胸の奥で軋んだ心がついに悲鳴を上げた。
「楽しみとか!よく言えるよな!いいよな、出すだけの方は気楽で!俺、俺は……」
声を張り上げ、反射的に顔を上げた。何も見たくないはずなのに、彼の瞳に捉えられる。期待に満ちていただろう光が、急激に冷えるのが、まざまざと感じられた。傷つけた事実に傷つく。自分が傷つく資格なんてないのに、止まれない。
「っ、すごい体に負担かかるんだぞ、知らないのか?仕事もあるし、」
「知ってるって、でも兵助、休暇だってあるし、ヒート起こさないと子供……」
取りなす優しさが、無遠慮に胸を抉る。優しいのに、鋭くて、刺さるばかりで、息が苦しい。
「だからっ、人工授精にする」
息を詰まらせたまま、吐き出すようにして言葉が零れ落ちた。
「分かるか?病院に入院したままお前の精液を注射で入れるんだ、これならヒート期の治まりも早いし、体への負担も少ない」
「待って、知ってるよ、俺だって勉強してないわけじゃないんだ、まずは普通にするんじゃないのかよ!人工授精とふつーにすんの、あんま確率変わんねーってきいたよ」
あ、子供のことをちゃんと考えてくれてたんだそんな小さな喜びが、痛みに混じってどうしようもなく胸を掻きむしっていく。
「……お前の精液に問題がある場合はより妊娠率が上がる」
「まずは検査してからでも……つか兵助、ダメだってそんなに興奮したら、今日の夜からもう薬ないんだろ?落ち着けって、明日朝イチで抑制剤もらいに病院行こう、な?なんなら俺が薬もらいにいくから。検査もするよ、」
どうしてこんなにも優しいんだろう。好きだ、好きで、好きだから、好きだから、逃げたい。
「で、検査結果待ちつつゆっくり話し合ってタイミングで起こそう。俺へーすけのヒートみたいよ、兵助が、好きだから!見たいよ」
「……精液検査、もう既に受けてたんだろ」
「え」
まっすぐ向かってくるのに、それが泣きたいくらい嬉しいのに、受け止めることも、返すこともできなくて、逃げる。逃げたくて、言葉を投げつけてしまう。
「どうせ俺の親に言われてやったんだろうけど!なんで俺に言わなかったんだ、」
「それは……」
「っ俺のためだろ!俺のため想ってくれてるなら、お、お願い、俺は、ヒート、嫌なんだ、八左ヱ門が好きだから」
瞼の裏に張り詰めていたものが、音もなく崩れる。表面張力に逆らって、瞳から溢れた雫が視界をじわじわと曇らせ、止まることなく頬を伝う。その熱さに気づくより早く、鼻が詰まって息苦しくなる。呼吸を整えようとするが、喉の奥はひりつき、息は上手く吸えない。いつの間にか隣にいた八左ヱ門の表情は、もう、よく見えなかった。
「兵助」
ぼやけた視界の端でゆっくりと差し出されたその手だけは、やけに鮮明に映り込んだ。
「っ、やだ、触るな、きたないから、汚しちゃいけないから、おれ、お前のこと好きだから、……っ」
震える手でそれを払いのける。もしこの手を素直に掴めたら、どんなに良かっただろう。息が詰まって、鼻の奥がじんと痛む。
「好きだから、八左ヱ門と対等でいたいのに、お、おれはオメガで、それができないから、でも、ずっと一緒にいたいから、番いになりたいし形として子供ほしい、っ」
口元で息を乱しながらも、湿ったものが涙なのか鼻水なのか、何もかもがぐちゃぐちゃに絡み合い、拭い去ることさえできなかった。
「……こんな最悪なの、ケダモノと変わんない、ご、ごめんなさっ」
俯いた顔から、重力に逆らえなかった涙がひとつ、ぽろりと落ちる。ソファに落ちると思っていたそれが、八左ヱ門の肩に染みた気づいたのは、少し遅れてからだった。筋張った腕に抱きしめられていて、その温もりがゆっくりと体に染み込んでくる。肩に頬が触れて、懺悔の言葉は吐けず、逃げもできないまま、ただ八左ヱ門の懐に押し込まれていく。
「兵助」
「っ、」
口元に押し付けられた体が、声を封じ込める。さらに強く巻きついてくる腕に、息さえも奪われていく。
「兵助。へーすけがそんな俺のこと好きでいてくれたの嬉しいよ。俺も大好き。愛してる」
穏やかな声が耳を打つ。涙がシャツに滲んでいくのも構わず、彼は静かに言葉を紡ぎ続けた。
「……そんなに俺に見られるの嫌なら一生ヒートこなければいいじゃん。俺は見たいと思うけど、兵助が見せたくないなら、それでいいよ」
「、でも、でも。俺、オメガなのに、ヒート起こすのずっと怖くて、逃げるのっ、そんなの……」
そう、そんなのも出来損ないだと思う。それも嫌なのだ。ぜんぶ自分のわがままなのだ、でも、起こしたら今度は獣のようになり果てる。どうしたらいいのか、もう分からなかった。
「なあ、俺が見たいと思うのはけだものなの?」
「それは、違う」
「別にけだものでもいいけど。 俺は兵助が好きだから見たい、って思うし、好きな兵助がそんなになるなら見ないでいいとだって思う。兵助と、同じだと思うけど」
違う。違う。そんな純粋じゃなくて、もっと醜い──
「だって、俺は、お前を縛りつけるために、子供……」
「……子供なんかなくても、番の証がなくても、兵助のそばにいるって言ったら?それでも、子供、ほしい?」
腕がそっと解かれ、額が寄り添う。互いの吐息が触れ合って、混じり合った距離の、色素の薄い瞳に射抜かれた。青天の霹靂、だった。思いもよらない温かさが胸に広がるのを感じたけれど、柔らかさに戸惑う。声を返すことができず、ただ息を飲み込んだまま、言葉を探す。
「……うん、ほしそうな顔してる。そしたら、兵助、縛るとか、なんだとかそういうんじゃなくて、俺のことが好きだからほしいんじゃないの、子供。好きなやつとの子供、欲しいのは当たり前じゃん。俺もほしいもん」
手探りで奥底に眠っていたものをそっと拾い上げるように、子供に言い聞かせるような、どこか懐かしさすら感じさせるその声は、遠い昔の自分にさえ届くようで。彼の瞳が柔らかく揺れ、目が弧を描いて細められた。
「縛り付けてほしい、って最初に言ったじゃん。ごめん、でも今もあれ、変わらない。でも、目に見えるものじゃなくてさ、もー俺兵助に、なんだろ、心はもう縛られちゃってるんだよ。だから、俺を縛るとかはそこに囚われなくていいよ。怖いなら、逃げたっていいじゃん。いつか立ち向かう時が来てもいいし、逃げるが勝ちでもいいと思うよ、俺は」
あんなに強く、いつも真っ直ぐな、一番好きな人に、ずっとそう言って欲しかったのかもしれない。遅れて気づいたその感情に、驚いて、静かに溶けていくようだった。人生の半分に絡みついていた鎖が、緩む。息が楽になる。
「にげ、てもいい、の……?」
「うん、いいよ。でも、俺を好きな気持ちからは逃げるなよ。俺は絶対兵助から逃げないから、な?」
ニッと歯を見せて笑う八左ヱ門の顔を、今度はちゃんと見つめることができた。その明るい笑顔に、照らされていることを感じた瞬間、胸の奥にじんわりとした温かさが広がる。あの光を受けて、少しでも自分が輝けたら――そんな願いが、ふと浮かんだ。
「……八左ヱ門」
「うん」
「好き、お前が、好き……愛してる、ずっと、いっしょにいてほしい……」
ずっとつかえていた言葉が、どうしようもなく溢れ出る。鼻の奥はツンとするし、また眦から生ぬるいものが溢れたけれど、もちろん!と返す声はそんなのも吹き飛ばすような力強いものだった。晴れ渡る声が耳に届いて、同時に唇が触れ合った。ちゅっと柔らかくて短いものだったが、それでも、全てを奪うような温かさがそこに残った。僅かに湿った跳ねた髪からは、雨上がりの匂いがした。
***
「絶対幻滅しない?」
「絶対しない」
「ぐちゃぐちゃのドロドロになっても、欲しくても、しないか?」
「いやむしろなってほし…今までマグロ気味だったからおぶっ」
「そんなよく無かったのもあるけどお前に幻滅されると思ってそうしてたんだよ!」
「え?よくなかった、って、そうだったのお?!」
「お前の手技をどうこう言ってるわけじゃないけど」
「いやいいって、薄々気づいてたし。てか、俺手技には自信あるし。なんとなく兵助が好きなとこはわかるもん」
「……マグロが急に喘いでもいいんだな」
「だからいいって」
「明日病院行かなくていい。このままヒート起こす」
「え」
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