千代里
2024-09-27 08:28:55
9569文字
Public リーブラ13話
 

リーブラの針は問う・13話・その50


 深夜に生じた異端者の襲撃は、幸運なことに、街に大きな被害をもたらすことなく収束した。おかげで、日が昇り、領主が事の次第を民衆に伝えるまで、異端者の襲撃があったことすら知らない者が殆どであった。
 一名の司祭が犠牲になったことを、人々は悲しんだ。しかし、死亡者が街に来て日の浅かった人物であったために、彼らの悲しみは先だっての襲撃に比べれば随分と小さいものだった。
 むしろ、人々は外部から訪れた者が犠牲者であったことに着目し、竜に変じたのは先だっての襲撃とは別の一派であるという推測を話し合うようになった。誰が犠牲者であるかよりも、異端者の派閥や組織についての推理の方が、彼らにとっては重要だったからだ。
 領主の発表も、人々の推測を後押しした。領主は、司祭に個人的な恨みを抱いていた異端者が、独断で行動に出たものであると後日発表していた。
 無論、領主――ベルナールは、その場に居合わせた冒険者たちから、何があったかを詳しく教えてもらっていた。
 けれども、それらの真実を詳細に語ったところで、人々が納得をしてくれるわけではない。不必要な不安を駆り立てるよりは、とベルナールは人々の耳が信じやすい物語を語ることにしたのだった。
 
 幸運なことは、街への被害が少なかったことだけではない。
 竜に変じた異端者に殺されそうになった少年――コーディの様子を、彼を追いかけてきた騎兵の一人が目撃していたことも、ある意味では幸運と数えられるだろう。
 異端者に殺されそうになっているコーディの姿を見た騎兵は、たとえ竜の血を飲んでも異端者の仲間になっているわけではないのだと知った。
 帰還した騎兵が、己の目撃した内容を報告したことにより、帰還者三名の扱いもいくらか変化を見せた。
 何よりも、異端者と同じようなものではないか、という疑念の目は、最初に比べるとぐっと減った。異端者ならば、竜に変じた異端者に襲われるわけではない。ならば、彼らはやはり異端者ではない、という論法だ。
 この様子なら、砦でそれぞれ暮らすようになっても、幾らかましな対応を受けられるだろうとベルナールに語ったのは、帰還者の中では最も年長のマルコだった。
 孤児院にいたはずなのに、事件を境に行方を眩ました少年――グレンは、異端者の襲撃時によって亡くなった。そのような形で、ひとまずは幕を引くこととなった。
 彼こそが竜に変じた異端者である、という真実は、当事者と一部の関係者の胸に仕舞われることとなった。
 その中の一人であるプリシラも、共に暮らしていた子供たちを安心させるためにも、口を噤むことを選んだ。
 竜によって遺体の損壊がひどく、死に顔も見せることもできない。そのような物語に象られた、虚構にまみれた空の棺は、子供たちの涙と共に教会にある墓地に埋葬された。
 
 異端者によって同僚を傷つけられた司祭は、大いに憤慨していた。
 しかし、居合わせたコーディが、今際の際のグレンから聞いた話として、帰還者の三名が司祭によって異端審問官に売られるところであったことを冒険者たちに伝えた。
 結果、冒険者たちと、彼らに協力をしてくれたベルナールの詰問により、司祭は帰還者たちを異端審問にかけるつもりであったことを白状した。
「竜の血を飲んだ連中を異端者として扱って、いったい何が悪いというんだ! 私は正しいことをしようとしたまでだ!!」
 司祭の主張は、確かにイシュガルド正教に身を捧げた者として、ひいてはイシュガルドに生きる者として正しかった。たとえ、多少私利私欲が含まれていたとしても。
 ベルナールも、司祭の主張を完璧に論破できないことは認めていた。
 司祭が少年――グレンを不当に痛めつけたことについては、白を切られてしまった。
 実際、今となっては証拠はない。それに、平民であるグレン一人のために、高位の聖職者である司祭が罰を受ける可能性が低いことは、当事者たちもよく分かっていた。そのような真っ当な裁きが罷り通っているのならば、帰還した三人はその存在を隠す必要などないのだから。
 結局、司祭が異端審問官を連れて戻ってくる、と捨て台詞を残して街を去っていった。
 彼を引き止める理由を持たない領主は、ただ黙って司祭を見送ることしかできなかった。
 もっとも、異端審問官がやってくる前に、帰還者を領地内の砦に派遣し、やってきた審問官が容易に彼らの所在を知れぬように手配する、とベルナールは冒険者たちに約束していた。
 あとは、訪れた異端審問官が、正しさを希求する心を忘れずにベルナールの話を聞いてくれることを願うばかりである。
 
 異端者を追い払った最大の功労者は、言わずもがな、その場に居合わせた冒険者たちだ。
 彼らの活躍の甲斐あって、被害は最小限のものとなったと言い換えてもいい。
 領主は、冒険者たちの活躍に感謝を述べ、傷が癒えるまで、何日でも滞在してくれて構わないと言った。そのうえ、街で一番広い宿の部屋まで用意してくれた。
 領主の厚意をありがたく頂戴して、六人の冒険者は孤児院の隣にある宿泊施設を後にした。
 宿移りの手間をかけてでも、一行は激戦の跡地から離れることを選んだのだった。
 理由は明白だ。あの場所にいれば、否が応でも思い出してしまうからだ。
 口がきけなかった、あの少年のことを。
 竜に変じ、ついに言葉を交わすことなく別れた彼のことを。
 
 ***
 
 新たな宿の厨房は、以前泊まっていた施設よりも広く、大きな体躯のオランローが使っていても窮屈に感じることはなかった。
 宿の主人にことわって、空いている竈門を使い、湯を沸かす。ティーポットには、今となってはすっかりお馴染みとなったイシュガルドの茶葉が待ち構えていた。
 そうして人数分の茶を淹れてから、オランローは茶請け代わりに持ち込んでいた干し果物を皿に並べた。購入した日付から逆算して、そろそろ食べなくてはならない頃合いのものだ。まだ歩き慣れない廊下を行き、旅人たちの団欒の場でもあるロビーの一角に辿り着く。そこでは、机上に地図を広げて今後の予定を立てていたヤルマルたちがいた。
 だが、一人分の影が足りない。見慣れた長身の青年の姿だけが、その場にはなかった。
「ノエはどうしたんだ」
「次にどこに向かうかが決まったから、少し散歩してくるってさ。行き先は、大体想像がつくけどね」
 ヤルマルは軽く肩をすくめ、ゆっくりと首を横に振る。
……そうか」
 オランローにも、ノエがどこに向かったのかすぐに分かった。ここ数日のノエは、毎日欠かさずその場所に向かっていることも、この中の全員が知っていた。
 普段ならば、これだけの人数が集まれば、和気藹々とした空気になるのが常だった。
 けれども、今はどうか。その場の空気は膨れすぎた風船のように張り詰めていた。
 触れるべきだと思いながらも、触れてはならないと互いに牽制する。だが、その一方で誰かが破裂させてくれないかと望んでいる。そんな矛盾した緊張感が、五人の間を行き交っていた。
「気にするな、って言ってやってるんだけどな。若人にとっちゃ、そう簡単に割り切れるものではないらしい」
「当たり前です。兄さんは……グレンさんのこと、わたしたち以上に気にかけていましたから」
 グレン。その少年の名がオデットの口から飛び出た瞬間、硬直していた空気が揺れる。
 竜に変じた少年は、オデットたちにとっては顔見知りの関係だった。そして、それ以上に、ノエと彼はより親密な関係を築いていた。
「兄さんは、今でも思っているようです。他に、方法がなかったのか……って。そんな風には、見えないかもしれませんが」
 表面上、ノエは今までと変わらない振る舞いを続けている。
 それは、かつて自分自身の信念が揺らいだとき、無理に笑って己を偽ろうとしたときと似た振る舞いに見えた。
 けれども、あの時と違うのは、ノエが自身が受けた心の痛みに自覚的であることだ。しかし、自覚しているものの、今は足を止めて休んでいられる状態ではない。
 オデットの記憶を探すという、当初の目的に立ち返られるようになったからこそ、ノエは己の足を止めている場合ではないと判断した。故に、敢えて平気な様子を見せ、己自身を意識的に騙そうとしているのだ。
「その後悔は、あの場にいたオレたち全員が思っていることだ。あの時、隙を作って竜の攻撃を正面から受けていなければ。気を失っていなければ……オレたちは、グレンを助けられたかもしれない」
…………わたしだって、もっとグレンさんの攻撃を受け止めていたら、時間を稼げていたのに」
「でも」
 各々が己の後悔を口にする中、そっとサルヒが唇を開く。
「多分、グレンは戻らなかったと、思う」
「サルヒは、どうしてそう思うんだい」
 皆の悔悟の念に水をさすような言葉に、そっとヤルマルが質問を投げかける。
 先んじてそうしたのは、オデットやオランローでは、本人が望んでいなくとも冷静な言葉に対して、感情的な応酬をしてしまうかもしれないと思ったからだ。
「異端者が竜の血を飲んでも、人の姿に戻ることがあるのは確か。コーディたちもそうだったようだから。だから、竜の血を飲んだ回数か、あるいは量か……どちらかが人に戻れるかどうかの鍵なんだと思う」
「そんでもって、あれだけ派手に暴れて人を食い殺しまでしたグレンは、一向に戻る気配がなかった。それどころか、自分の友人であるコーディやノエを前にしても、攻撃の手を緩めなかった」
 サルヒの言葉の後を引き継いだのは、ルーシャンだった。
「つまり、奴さんは竜の血に呑まれちまったんだよ。残念ながらな」
「わたしたちの区別がつかないほどに、ですか」
 オランローが用意してくれたカップに手を伸ばし、ルーシャンは喉を潤す。
 舌の奥で感じる濃い茶葉の味を後押しとして、彼は言葉を続けた。
「これは推測だが……竜の血を飲んで竜となった者は、最終的に人としての理性を手放すことになる。少なくとも、俺はそう考えている」
「ですが、コーディさんたちにはそのような兆候は見られませんよ」
「あの坊やは、まだ竜の血を少量飲んだだけなんだろ。もし、異端者の全員が理性的に竜になれるのなら、皇都の連中はとうの昔に異端者たちによって壊滅的なダメージを与えられているはずだ」
 あるいは、異端者たちの集まりには必ず竜の姿となった同胞があるはずだ。
 彼らは、己の体を捨てて竜になることに躊躇はない。そして、竜は大抵の人間よりも強い。ならば、今の体に拘らずに竜の姿となり、その力を組織的に扱えば、大抵の軍に勝てるはずだ。
「なのに、なぜ異端者どもはそうしないのか。竜になった同胞を、より計略的に使おうとしないのか」
……竜に変じたら、理性を失うから、ということかい」
 ヤルマルの確認に、ルーシャンはゆっくりと首肯を返す。
「あいにく、俺は竜の血を飲んだことがないから、具体的にどうなっちまうかは推測の域を出ないがな。だが、クルザスの各地で元人間と思しき竜が見境なしにこちらを襲ってくる場面には、何度か出会している」
 人の体を捨てることで、獣としての本能が理性を上回ってしまうからか。
 それとも、イシュガルドの建国神話に登場し、今なお生ける災厄として人々を苦しめる邪竜ニーズヘッグの呪いが竜の血を伝って流れ込むからか。
「だから、どれだけ長く戦い続けても、グレンが人に戻ることはなかっただろう。あいつの心は、俺たちが来たときにはもう、竜の血に呑まれてしまったあとだったんだ」
 ルーシャンの説明は、そのような現実的な解釈で幕を引いた。
 実際、その場にいなかったヤルマル以外の全員がどこかで納得もしていた。
 グレンは、決して好戦的な性格の子供ではなかった。だというのに、彼は司祭の一人を食らった。その時点で、あの物静かな子供の心が竜の血に飲まれたのは明白だ。
 ――誰もが、どこかで思っていた。
 仕方ないことだ。どうしようもなかった。せめて、被害を出さずに仕留められただけでも僥倖だ。
 それは、自身を納得させる言い訳であり、諦めであり――次に進むために必要な心の整理でもあった。
(ですが……兄さんは、きっと、そんな風に上手に片付けられないのでしょうね)
 今はここにいない青年を、思う。
 オデットもあの現場に居合わせた者であったが、彼女は最初から最後まで巻き込まれただけの被害者の位置にいた。だからというわけではないが、彼女は一歩引いた視点で此度の一件を観測できた。
 けれども、当事者たちはそうもいかない。
(サルヒさんやオランローさんは、上手に気持ちを落ち着けているようですけれど)
 元ガレマール帝国の兵士であるオランローや、ルーシャンと共に傭兵として活動していたサルヒは、戦いにおける気持ちの整理の仕方を自然と身につけているようだった。
 暫くは沈鬱な空気を拭えずとも、いずれは立ち直り、再び歩き出す。そう信頼できるだけの信条を胸に抱いているに違いない。
(兄さんは、グレンさんにとどめを刺した人でも、ありますから)
 ノエはノエなりに最善を選んだのだ。オデットにも、それは分かっている。
 もし、彼がグレンを止めてくれなかったら、グレンは、間違いなくコーディとオデットを引き裂いていた。
(人の命を助けたのだから、あなたの選択は正しい。そんな風に、単純に思えないからこそ、兄さんなのでしょうね)
 ノエが毎日向かう先を思い、オデットは目を伏せる。彼の心に残った傷は、彼女の魔法でも到底癒せそうにない。
 重苦しい空気を跳ね除けようと、ヤルマルが旅程についてルーシャンと相談をしている。サルヒがその話題に乗り、オランローが今晩の食事をどうするかと切り出し始めたときだった。
「失礼します。こちらの宿に、ノエという冒険者の方はいらっしゃいますか」
 ロビーに響く声に、一行は顔を上げる。
 数名の宿泊客の向こうに、イシュガルドの騎兵の証である鎧に身を包んだ男が立っていた。彼の傍には、木箱のようなものが置かれている。
「ノエなら今出かけているよ。彼に伝言があるなら、ボクが伝えておこう」
「では……まずは、こちらを預かっておいてもらえますか。此度の異端者討伐の功績に、領主様がご用意したものとのことです」
 騎兵が指さした木箱には、武具屋のものと思しき焼印が置かれていた。
 攫われた人々を救い出した礼として報酬を用意する、とベルナールが話していたのをオデットは思い出した。帰還者の話を表向きにできないので、異端者討伐の件を隠れ蓑として渡すこととしたのだろう。
「それと、もう一つ。彼に言伝があります」
 騎兵はヤルマルたちが屯していた机に近づき、細く息を吐き出し、告げる。
「コーディ少年が、ノエさんに会いたいと言っています。彼らの出立は明日なので、今日中に詰め所に来てもらえないでしょうか」
――――
 その言葉を聞いた瞬間、オデットは椅子に引っ掛けていた上着に手をかけた。
「オデット」
「ヤルマルさん。わたし、兄さんのところに兵士さんの伝言を伝えに行ってきます。きっと、今日もあそこにいるのでしょうから」
「場所が分かっているのでしたら、私からそちらに向かっても構わないのですが――
「いえ、わたしが行きますから!」
 騎兵が言葉を終える前に、オデットの姿は旋風のようにロビーを駆け抜け、見えなくなっていた。
 残された騎兵は、呆気にとられたように少女が消えていった戸口を見つめている。
「ごめんよ、彼女のことを悪く思わないでくれるかな。ボクとしても、彼を知らぬ人があの場所に立ち入るのは、受け入れがたくてね。きっと、彼女も同じ気持ちだったんだろう」
「はあ……。あの、結局ノエさんはどちらに今おられるのですか」
 片目を軽く瞑り、ヤルマルは言う。
……大事な友達の魂が、眠る場所さ」
 
 ***
 
 からりと晴れた青空には、久々に雪雲以外の雲が散っていた。柔らかく差し込む日差しは、まるでこの世界は今日も平和だと、素知らぬ顔で嘯いているかのようだった。
 けれども、ノエの眼前にあるものが、数日前には当たり前に続くと思っていた命がすでにないことを、この上なくはっきりと示している。
…………
 ノエが立つ場所。それは教会の裏手に広がる墓地だった。
 墓地の向こうには、ポツポツと背の低い建物や街を囲む外壁が見える。おかげで、ノエは憎らしくなるほど晴れやかな陽射しを存分に浴びていた。
 視線を、眼前の墓石に向ける。俯いたまま動かないノエの前、墓石も沈黙を保ち続けていた。
 墓石には、個人名はない。孤児院の子供たちが病や怪我、事故で亡くなることは往々にしてよくあることであり、身寄りのない彼らは先祖代々伝わる墓などは望めない。故に、彼らの終の住処は、孤児院が用意した大ぶりの石碑一つに集約される。
 グレンもまた、教会の隅にある石碑の中に葬られた。その棺が妙に軽かったことを、そこに宿る真実を、ノエは誰よりも知っている。
…………
 少年の亡骸はここにはない。分かっていても、ノエはこの場所に訪れ続けていた。
 ここ以外で、自分が祈りを捧げるのに相応しい場所があると思えなかったからだ。
……グレンさん)
 彼のことを思い出すたびに、ノエの中に様々な感情が横切る。
 まず真っ先に浮かび上がったのは、無数の『なぜ』だった。
 彼が竜に変じた理由は、司祭が白状した内容を照らし合わせれば大体想像ができた。グレンは、帰還した三人を異端審問官に会わせないために、そして自分の命を無為に踏み躙られないために、竜となる選択をした。
 それが、もう人には戻れないと分かってのことだったかは不明だが、竜になって殺された母のことを知っていた彼なら、全て承知の上で選んだようにも思える。
 故に、その点の『なぜ』は判明しているはずだった。
 それでも、ノエは『どうして』を止められない。
(どうして、こうなったのか)
 母を不条理な理由で失ったという点では、グレンとノエは似ていた。意識したわけではないが、その理由もあってか、ノエは彼を目にかけていた。
 口がきけず、仇と目した相手と暮らすことになった少年に、彼が息がしやすい居場所になれたらと思った。同じくらい、仇であるはずのアランがグレンにとってもう一つの居場所になろうとしていることも、彼に示していた。
 少しずつ、少しずつ。錆びついた歯車が動き出すように、色々なものが良い方向に動いていけばと願っていた。
(なのに、どうして)
 一つ一つの『なぜ』を解くことはできる。
 新参者の司祭が、帰還した者たちのことを、自分たちの功績のための生贄としか思っていなかったこと。
 あるいは、そもそもランドンに命じられて竜がこの街を襲っていなかったら。しかし、ランドンは異端者たちに唆されたのだ。ならば、異端者たちがいなければいいのか。
 異端者たちは、現在の治世に不満を抱いていたという。ならば、イシュガルドの政治が変わっていれば良かったのか。
 グレンの母が異端者になっていなければ。グレンがそもそもこの街に来ていなければ。
 そんなありもしない可能性は、無限大に膨らんでいく。けれども、たった一つの現実がノエを今この瞬間に引き戻す。
……グレンさんを殺したのは、僕だ」
 あの時、自分は選んだのだ。
 竜の姿から戻れるかもわからないグレンよりも。
 オデットやコーディたちの方が大事だ、と。
 天秤にかけられた一組の命を前にして、ノエという針はオデットたちを指した。
「僕が、選んだんだ」
 イシュガルドに生きる誰もが、ノエの選択は正しいと誉めそやすだろう。人から竜になったものなど、イシュガルドという国においては存在すら認められない害悪だ。
「でも、僕は、自分が絶対正しいなんて、言えない。言いたくないんだ」
 異端者だから、その命は間違っている。
 イシュガルドでは当たり前のものとして罷り通っている考えに、素直に首を縦に振れなかった。
 自分が、かつて異端者として冤罪の烙印を押されたから、ではない。
 竜になってしまった。ただそれだけのことで、人の生き死にを間違っていると決めつけたくない。それが、ノエの中にあった譲れない一線だった。
 たとえ、周りがどれだけノエが正しいと賛美したとしても。
 ただ一人、ノエ自身だけが首を横に振り続ける。
 その選択が、自分を苦しめるだけだと分かっていても。
――――
 膝を折り、ノエは石碑に頭を下げ、額に手を当てる。
 今のノエにとって、数少ない確かなこと。それは、この祈りだけだ。
 自らを正しいとも言い切れず、さりとて完全に間違っているとも言い切れないノエにとっての、唯一信じられるものだった。
 風が通り抜ける音と、どこかで囀る小鳥の声。静寂だけが残るこの場所で、祈りを続けて十数秒。
 さく、さく、と雪を踏み締める音に、ノエは膝を伸ばし、立ち上がる。
「兄さんっ」
 振り向けば、そこには薄紅の髪を乱した少女が立っていた。宿からここまで走ってきたのか、その頬はりんご色に染まっている。
 ノエがあの日、グレンを殺さなかったならば。今、目の前の少女はこの場所に立っていなかった。
 もう何度目かになるか分からない、感慨とも悲哀とも達成感とも異なる感情に、ノエが唇を引き結んだときだった。
「先ほど、宿に兵の方が来られたんです。その方が、兄さんに伝言があるって」
「僕に、兵士の方から伝言?」
 予想外の相手からの言伝に、ノエは瞠目する。
「はい。詰め所にいるコーディさんが、兄さんに会いたい……と。コーディさん、明日にはこの街を出て行ってしまうんだそうです」
――!」
 告げられた内容に、ノエは一度息が止まったような気がした。
 事件の後、コーディとはゆっくりと話をする時間を取れなかった。
 帰還してきた三人が、街に残らず各地の砦に送られる段取りになっている点に変わりはない。彼らにとっては、身内との長い別れにもなる。残り少ない面会の時間を、余所者の自分が乱してはいけない。
 そう思ったから、でもあるが。
……僕は、どんな顔で彼に会いに行けばいいんだろう)
 コーディにとって、ノエは友人を殺した相手となってしまった。
 嘗てと同じように言葉を交わすことはできまいと思っているからこそ、ノエはコーディに会うのを躊躇っていた。いっそ、臆していたと言い換えてもいい。
「兄さんは……どうしたいと、思っていますか」
 すぐには動けずに固まっているノエに、オデットが静かに問いかける。
 オデットの言葉に促されるようにして、ノエも自分自身へと問いかける。
 今、自分はどうしたいのか。コーディに会わずに背を向け続けて、果たして自分はその後も前を向いて歩き続けていられるのか。
――行きます。コーディさんには……いや、きっと僕にも、今は互いの言葉が必要でしょうから」
 たとえ、糾弾されたとしても構わない。向き合うべき者がそこにいるのなら、後悔しないためにも、会いにいくべきだ。
 会ってほしいと言伝を受け取っていたのに、言葉を交わすことのできなかった少年がいた。
 今も抱き続けている後悔と同じものを宿さないためにも、ノエは一礼だけを残し、墓碑へと背を向け、歩き始めた。