ばたばたと人の走る音で目が覚めた。機内は真っ暗だ。微睡から物音に視線を向ければ、クルーが数人慌ただしく機内の廊下を小走りに駆けていく。
小さい窓からは夜空が見えているけれど、いつの間に降り出したのか、雨粒が窓に張り付き、斜めに筋を作っていた。
廊下を挟んだ反対側、機内の灯りが落ちる寸前まで、隣に座る娘と楽しげに話しをしてくれたアメリカ人の男性二人は既に起きていて、何事が起きたのかとクルーたちの様子を窺っている。男性二人のうちの一人と暗闇で目が合った。暗闇の中でもわずかなほの灯りに照らされる綺麗なアースアイの瞳をすがめて、こちらを安心させるように笑った。
クルーが赤い十字の箱を取り出している。その様子を見て、前方に座る別のスーツの男性が、クルーに声をかけた。そして、救急キットを携えてカーテンの向こうに消える。
「マーヴ」
「あぁ、急病人のようだな」
「ドクターかな、今の」
「向かった先からして急病人は客じゃないな」
「それって」
男性二人がブランケットを跳ね除けて、同時に立ち上がった。廊下を小走りに、それでも寝ている他の乗客を起こさないようにクルーのうちの一人に声をかける。背の大きい口髭の男性は暗闇でもすごく目立つ。
『ん……ママ?』
『あぁ、起きちゃったの、ダーリン』
夢現ながら、何某かの胸騒ぎがしたのだろうか。娘が目を覚ました。
『なにかあったの?』
機内の不穏な雰囲気に気づいた娘の不安げな問いかけに、慌ててブランケットごと抱きしめた。他の乗客たちへと不安が漣のように広がっていく。
クルーと立ち話しをしていた男性二人がカーテンの向こうへと姿を消す。しばらくしてから、クルーと共に、男性二人が席に戻ってくる。スーツの男性も一緒だった。機内の灯りがついて、アナウンスが流れる。
副操縦士と自己紹介したアナウンスで告げられたのは、急病人が機長であるということ。
ざわつく機内に、幸いにして乗り合わせたドクターが処置してくれたとのことだけれど、一番近い空港に機長を降ろすというアナウンスが続く。クレームを言う客は幸いにしていなかった。ただ、その副操縦士の緊張感を伴う硬い声色に、機長の容体と、代わりのいないコックピットへの憂慮がある。
そんなざわつく機内の雰囲気の中、座席の上の収納棚から、髭の男性が小さいバックパックを取り出していた。乗客みなが、何事かと注視している。
スーツの男性がドクターであることは明らかだったが、有事を察してカーテンの奥に一度消えた彼らは何者なのだろうか。バックパックの中をごそごそといじくり回す髭の男性は、目当てのものを探しているらしいが見つからないようだった。周囲の客が不安げに彼らを見守っている。
「ブラッドリー、あれほどバッグの中身を整理しろと」
「まさかこんなとこでIDが必要になるなんて思わないだろ。ハネムーン中だぞ」
「そうなのかい?いやはやおめでとう」
「サンクスドク」
ドクターと髭のない男性が場違いな祝いの言葉を放ち、受け取り、のんびりと握手を交わしている。
「あった。はい」
髭の男性から何かを受け取ったクルーはそれを確認している。
「じゃあ僕のも……」
「あんたは席にいてよ。曲芸飛行でもかますつもり?」
「失礼な。流石に僕だって空気読むぞ」
「これ旅客機ね。空気読んで飛ぶもんじゃないんだよ」
「そうだね、何かあった時のために優秀な海軍パイロットが二人ともコックピットに入ってしまうのは避けてほしいな。乗客代表の希望だ」
ドクターの声に、男性二人が顔を見合わせる。
──海軍パイロット?
髭のない男性が大きく息を吐いた。
「ブラッドショー少佐、副操縦士と管制塔の指示に従うように。僕はクルーと一緒に前方の席で待機する」
「イエス、サー。ていうか、管制塔どころか大将の指示にさえ従わないあなたが言うの説得力ないんですけどね、ミッチェル准将」
「あの、」
互いに芝居がかった敬礼をし合う男性二人のやりとりに、クルーが不安げに声をかける。
「冗談です。大丈夫。この人海軍のエースパイロット」
「彼はトップガン」
「トップガン!?聞いたことあるよ!トップ・オブ・エリートじゃないか!やぁやぁ、あとでサインくれ」
男性二人が互いを指差し、ドクターはサインサイン!と言っている。乗客はぽかんと口を開けたままだ。私の頭にはクエスチョンマークばかりが浮かぶ。
──機長が体調不良で操縦士が一人しかいない中、現役の海軍パイロットが二人?
髭の男性がクルーとドクターを伴ってカーテンの向こうへととって返す。バックパックを収納棚に戻した髭のない男性が振り返る。目が合った。
「……大丈夫よね?」
「大丈夫」
私の呼びかけに、髭のない男性は笑いながら力強く頷いた。大人しく成り行きを見ていた娘が「パイロット!」と叫んだ。
「えぇっと、『しんぱい』『ない』『へいき』『おじいちゃん』、は、パイロット!」
片言のスペイン語で娘に自らの身分を説明する彼に、思わず吹き出してしまった。先程娘と会話していた時は、私が通訳をしていたのだ。
〝アブエーロ〟と自らを称した全く老いて見えない彼は、パイロットとして多くの国を周り、スペインに立ち寄ることもあったのだろう。思い出の中の彼のスペイン語教師は、〝ティオ〟、を教えなかったのだろうか。
英語が片言しかわからない娘は拙い彼のスペイン語でも理解したらしい。たちまちに笑顔になった。
「僕はピート・ミッチェル。今はミラマー基地で教官をしている。さっきの彼はブラッドリー・ブラッドショー少佐。彼は優秀なパイロットだから安心してくれ」
先程のバックパックから取り出していたのだろう、自身のIDを見せながらこちらを安心させるようにそれを翻して見せる。
「ならもう大丈夫ね?」
「もちろん。副操縦士がいるし、大丈夫。マイパートナーは副操縦士のフォローに入っただけ。乗客を乗せて空を飛ぶのに慣れているのは副操縦士の方だし、僕らみたいな戦闘機乗りじゃお役に立てないかもしれないけれど、念のため、ね」
片目を器用につむり、嘯く彼の左手薬指にはエンゲージリングがはまっている。確か、髭の男性がハネムーンだと言っていた。思い返せば確かに同じ指輪だ。そういえば隣り合う座席で眠りにつく際も、彼らはしっかりと互いの手を繋いでいた。
ハネムーン中に飛んだ災難だろう。私たち乗客にとってはこれほどにない幸運だけれど。
「セニョリータ、名前を聞いてなかったね」
娘に声がけをしてくれるピート・ミッチェル准将に、娘は笑顔だ。
『お名前は?って』
『キャロルよ!』
元気よく答えた娘の返答に、ミッチェル准将が目を丸くする。
「……なんだって?」
「私のパートナーがイギリス人なの」
「……本当に?なんてこった!この飛行機にはエンジェルが乗ってるぞ、ブラッドリー!」
◇
飛行機はゆっくりと滑走路へと降り立った。減速する時に、少しだけGがかかり、体が前面に押し出されるような勢いがあったけれど、無事に着陸した。窓の外にはアンビュランスが待機している。思う以上に急を要する着陸だったのかもしれない。拍手が響く中、乗客みなが機長の無事を祈っているだろう。
機内にアナウンスが流れる。副操縦士からの、代替輸送の振替手段の案内と、謝罪と謝意。
乗客が降りていく。クルーが丁寧に案内する中、あのパイロット二人を探したけれど、見当たらない。事後処理等にあたるのだろうか。
『ママ、おじさんたちにバイバイしたかったね」
『そうね、ママもありがとうしたかった』
タラップを降りる。振り返る。すると、コックピットからあの二人がこちらに向かって手を振っている。娘が歓声を上げて手を振り返した。
よかった。きっともう会えないだろうから。
◇
ラウンジで一息ついてから連絡すると、心配したパートナーは迎えに行くと言って聞かなかった。連絡してから数時間後。パートナーが空港に辿り着き、待ち合わせのラウンジに駆け込んできた。
「二人の姿を見るまで生きた心地がしなかったわ!無事ね!よかった!」
ハグとキスを交わし、無事を確かめ合う。
関係者の家族でごった返している空港入口を、私たちは家族三人で手を繋いで通りすぎていく。
「ねぇ、実は私、さっき別の家族が話してるの聞いちゃったんだけど」
神妙な顔でパートナーである彼女が私の顔を覗き込んでくる。
「ここの滑走路、短くて有名なんですって。今日の着陸自体、あの大きさの機としてはよほど高度な技術力のあるパイロットじゃなきゃ着陸できなかっただろうって」
「えぇ?それ本当?」
「うん。それ聞いたから余計に心配しちゃったわよ。副操縦士がとっても優秀だったと考えるべきかしら?」
パートナーが笑う。
「そうね、そうかもしれないし、本当は違うのかも」
私は明確な返答ができなかった。ミッチェル准将の言葉を思い出す。
──乗客を乗せて空を飛ぶのに慣れているのは副操縦士の方だし、僕らみたいな戦闘機乗りじゃお役に立てないかもしれないけれど──
あれは、短い滑走路であるという憂慮すべき着陸に対し、本当のところ、圧倒的に発着艦経験の多い海軍パイロットであるブラッドリー少佐が操縦桿を握るという事実を隠すための方便だったのかもしれないし、そうじゃないかもしれない。いずれにしろ、わかっていることはただ一つ。
あの飛行機には、とても優秀なエースパイロットが乗り合わせていたということだけ。
「なぁに?もう!危ない目に遭ったのに、あなた楽しそうね!『ねぇ、キャロル、ママの顔見てよ!』」
パートナーとキャロルが顔を見合わせて笑う。二人の笑顔をこうして見られること──私はこの幸運に感謝した。
「そうそう、実はね」
ミッチェル准将が、キャロルの名前に驚いたその理由──キャロル=エンジェルのこと。
「その、二人のエースパイロットと、〝エンジェルキャロル〟の話し、帰りの車の中で聞いてちょうだいね」
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