目が覚めた時から、ずっとゲタ吉を名乗る若い男がそばにいた。こいつが自分のことを「水木さん」と呼ぶので、自分は水木というのだな、とすんなり受け入れていた。名前がないのも不便だし。
目覚める前のことは曖昧で、よく思い出せない。栗色の髪の子どもの顔がたまに、不意に思い浮かぶことがあるのだけれど、あれは誰だったのだろう…。思い出せないことに、胸が痛くなることがあった。思い出せないことは他にもあったが、子どもの名前を思い出せないこと程には辛くはなかった。
ゲタ吉は優しい。と思う。
時には水木の手を引いて、この不思議な場所をゆっくり歩いて旅していた。旅、かどうかは本当のところは謎だが、旅のようなものだと思う。
時々ぱらぱらと降る白い雨は水晶、なめらかな白い枝の森の正体は珊瑚だという。うんと昔に死んでしまった珊瑚たちの森。枝に触れると、それはパリリと高い音を立て砕けた。砂糖みたいだ、と言えば、甘くはないですよ、とゲタ吉が困ったように笑ったのを覚えている。
水木はこの場所のことを知らない。ゲタ吉は知っているようだが、話してくれたことは少ない。それでも不安にならないのは、つないだ手から伝わってくる真心のようなものを感じるから。
目覚めた時──ひんやりとした青い世界にいた水木の前に立っていた、広い青空を背負った青年の向こうに羽ばたいた鳥に予感のようなものを感じたからだった。
紫に暮れなずむ空には月があった。いつも見上げる空の上は水面のさざなみが見えるものだが、今夜、月との境目には楽園のような翡翠色がのぞいていた。
「珊瑚は甘くないですけど」
月を見上げたゲタ吉が呟いた意味が、水木には最初わからなかった。だが、珊瑚の枝を砂糖のようだと自分が言ったことを思い出した。ゲタ吉はそれを覚えてくれていたのだろう。
思わず水木はゲタ吉の横顔を見た。月のように冴えた顔だった。
「…ゲタ吉?」
少し背を丸めて片足を蹴り上げる姿勢を取った青年を水木は瞬きせず見ていた。
彼が蹴り上げた下駄は高く高く昇っていく。それを目で追う水木の横、今度はゲタ吉はゴソゴソとどこからともなく皿のように広げた…何かを取り出している。
「水木さん」
呼ばれてそちらを見つめた水木に、ゲタ吉は少しいたずらっぽい顔で笑った。
その顔が。
名前を思い出せない「あの子」に重なった気がして。
ちいさく声を出した水木にゲタ吉が気づいたかはわからなかった。こっち持ってください、と言われ、ひんやりとした白銀の皿の端を持つ。
どれくらい経ったか、ぴちゃん…と皿に水滴が落ちてきた。ゲタ吉と皿に気を取られていたせいで、どこから雫が落ちてくるのかわからない。
「この雫は甘いですよ」
腕と皿の影になりゲタ吉の表情はわからなかったが、きっと笑っているのだろう。
「…そうか」
水木は甘露の影を見上げながら、楽しみだな、と笑った。
If you make a mistake, you can cancel it by pressing the reaction.