トンネルと抜ければ澄んだ空が広がっていた。青々しい草原は柔らかに揺れ、所々ぼこぼこと散らばった白い岩肌が映える。列車に揺られるままに景色を見ていると、次第に現れた黄色いタイルの上を馬車がやけに早々と走っていった。馬車はこちらとは進行方向が逆だったから、そう見えたのだろう。こういうものを見かけ上の速さが云々というのだったか、とつまらないことを考えながら、車窓越しに流れる風景を見ていた。
「ひさしぶりですね。ここにくるのも」
声を掛けられて、向かいの席に視線を戻す。ロイが床に着かない足をぷらぷらさせながら、先のわたしの様に窓の外を見ている。
旅行気分で暢気なものだ。こちらは昨日、突然この列車の切符を握らされたというのに。
「もっと別のタイミングで来たかったんだけどね」
「あはは、もんくはたびのことをけしたせかいにいってください」
「言っても聞かないでしょ」
確かに、とロイはきゃらきゃらと笑う。事の元凶らしく、随分と楽しそうだった。窓に目を戻す。列車はわたしの気分をものともせず、粛々と失われた旅が始まった地に向かう。
本来の予定をねじ曲げてまで戻ることになったのは、ロイが元凶と言っても間違いではなかった。唐突にわたし達がかつてした旅の存在が世界から消えたと知ったのは昨日の事で、それを教えてくれたのは対面に居る彼女だったから。それと同時に無理難題を吹っ掛けられた。旅の残った部分、消えなかった日常の些末な部分、つまるところ失われた旅の失われなかった残滓を使って旅の存在を証明するような余禄と補遺を、寄りにもよって「人間の言葉」で書けと命じられた。拒否権はなかった。ロイにそれだけの権力があるという話ではない。彼女はただの代理人に過ぎない。本来の依頼者は彼女の上司の、いわゆる神というものなのだから、ロイだけが元凶だと言えば間違いになるのだろう。何れにせよ、わたしの事情は否応なく相手方の事情に流された。仮に事情を慮られたとしても、積極的に拒否する理由もなかったから、今ここで列車に揺られている事実は揺るがなかったように思う。
そういう運命なのだ。実にせいせいする。
くどくど言葉が巡る心情とは裏腹に、ガタンゴトン心地よく揺れて生まれた眠気に抗えず、くわ、とあくびが出た。
「取材と評してこの国に戻った訳だけどさ、アポとか取れてるの? 仲間達とかさ」
仲間達と口走って、あの旅の面々の顔が過ってくる。今頃彼らはどうしているのだろうか。余録と補遺の作成をわたしから積極的に拒否する理由がなかったのは、一つに彼らの近況を知りたかったからだった。
ロイは腰に手を当てて、外に向けたままの目を爛々と輝かせる。尻尾がゆっくり揺れた。
「そこはもちろん、へんしゅうしゃのせきむをまっとうしましたよ! といいたいところですけど。じつは、まりぃのほうからとってきたんですよ。しおんに。あぽいんとめんと。ようけんはちょうど、たびのことでした」
「マリィの方から? どういう事?」
意外な、本当に予想もしなかった貴い人の名前が突然出てきたものだから、外の景色もどうでも良くなって食い気味に聞き返した。ロイは耳をぴるぴると忙しなく動かしながら、頭を傾ける。それから長い袖に隠れた手を口元に当てて、悪戯に笑った。こちらを見ることはなかった。
「なにか、ききたいことがあるみたいですよ?」
「中身が薄いなあ。マリィなら用件もちゃんと伝えるでしょ。次期王でもあるからこそ、事務も含めてちゃんとできるタイプだと思うんだけど?」
「さすが、ちゃんとみているんですね。もとはりーだーだっただけある。ふふ、ついてからのおたのしみってやつです」
「そこ伏せられると困るんだって、お互いに。神様権限のついでに、勝手にアポ取られた身にもなってよ。承諾した筈のわたしがマリィの用件知らないの、だいぶシャレにならないし」
一切こちらを見ないロイに、何か隠し事でもあるのだろうと年甲斐もなく意地悪く粘ってみれば、ロイの耳が絞られていく。
「……さすがにわかってますよ。しゃかいじんなんねんめだとおもってるんですか?」
「旅が終わってから、一年経ってるから二年目」
「そうですよ、そのとおり。ようけんをつたえなきゃいけないのも、まりぃがだれよりまじめなのも。わたしがいちばん! しっていますし」
ロイが口を尖らせながら、漸くこちらを向く。盛大に顔を顰めているのかと思えば、いつもと同じように、すっとこちらを射抜くまっすぐな眼差しを向けた。だから舌先まで出かけた言葉を飲み込んだ。嘘を吐くときの顔ではない。素直な彼女は嘘を吐く時にこんな顔はできない。あの一年の旅の中で良く知った事だった。
「ところがどっこい、まりぃもたびの、しおんがさいごにかいていた、ほうこくしょについて、としかいわなかったんですよ」
「……面倒くさそうな案件を拾ってきたね」
飲み込んだ言葉の代わりに、半ば諦めのような台詞を吐く。
マリィがここまで徹底して内容を伏せるとなると、十中八九機密に抵触するのだろう。当事者以外は立ち入れない領域に、当事者として関わるのがどれ程面倒かはよく知っている。
わたしの物ぐさな思考を読み取ったのか、ロイは眉を大きく上げて、それからブーイングするように口を尖らせて答えた。
「いくらめんどうだとしても、もとはなかまですし、こまっているなら、はなしをきかないわけにもいかないでしょう」
「それは分からなくもないんだけど」
どうしたものか、と腕を組む。ロイが引き受けた以上、わたしの事情は全て押し流されるのだから、このわたしが断る理屈はどこにもない。そうと分かっていても、悩むわたしがいた。
人間の言葉を使おうと考えるだけで精一杯なのに、結果として形にしなければならない。想像するだけで喉の奥で何かがつかえるのに、もう一つ、不明瞭な何かをしなければならない。
腑に落ちないまま胸の中に蟠る疑問をどう口にしたものか、戸惑っていると、アナウンスが流れる。独特の表現しがたい、ケロケロした甲高い女性の声だった。機械音声だった。目的地の名前が発せられる。どうやらもう駅に着くらしい。
列車はまたトンネルの中に入っていく。辺りがあっという間に暗くなった。ロイは飽きたようにあくびをしていた。
停車する前に、頭上の棚に置いた軽い鞄をそそくさと下ろす。着替えと最低限の金銭以外の荷物はなかった。ロイに至っては手ぶらだった。お互い荷物が多いのは嫌いだった。列車のドアへと向かう。
駅に止まるまでの短い時間を、ロイと一緒に今か今かと待っていた。そして列車は速度を緩めて、最後キイと甲高い音を立てて止まった。自動で動く扉が開く。車窓の景色のように駅も眩しいものかと思っていたが、庇が日を遮って存外眩しくはなかった。
わたしたちは薄暗い駅に降りた。降りる人間も、ここに元からいる人間も少なかった。ひんやりとした空気が何処からともなく流れて肌を掠めた。こんなに寂しい駅だっただろうか、と失われた旅の終わりをふと浮かべて、過去と現在を比べそうになって、頭を振った。消えたものを惜しんでも大した意味はないのだ。
惜しむ事に意味がないのなら、悪い想像が過る。
「しおん!」
ホームにロイの声が響いて我に返る。思考を反芻してぼうっと立ち止まるのはわたしの悪い癖だ。「今行く」と答えて、早足で向かった。
この後はロイに従うことになっていたから、昨日の数少ない事前の手筈通りに小さい背中に先にして着いていく。
駅を抜ければ、色とりどりの屋根が並ぶ。喧々とした宣伝と安売りの声が飛び交い、それに引き寄せられるように店頭が老若男女、様々な人々が行きかい賑わう。バザールだった。丁度昼過ぎであったから人通りは多く、賑やかだった。
町の中にも続く黄色い道は城に向かうにつれ、段々と細くなっていく。
目の前の景色にほうっと息を吐いた。二年前と全く変わりがなかった。あの時はずっと徒歩でここまで来たものだから、薄暗い駅に降り立つ事はなかったから、ここで漸く既視感を覚えた。
日の光を浴びてきらきらと黄金に輝く道の先を見上げる。同じように更に白く輝く城壁に、あの時は一直線にあそこに連れて行かれたのだったな、と思い返す。理由は勿論、事情聴取だった。丁度、怪物が出始めた折の事だった。
「しーおーんー!」
名前を叫ばれて、何事かと視線を下ろす。ロイは上体を左右にゆらゆら揺らしながら、大きく手を振っていた。自分の居場所を見失わないようにと訴えるようだった。黒毛の馬の耳が微かに揺れる。行き交う人々が彼女の背丈より大きいから、彼女の懸命な努力で以ても人波に埋もれてしまっていそうだった。
はいはい、と口の中で言葉を転がしながら、早足で彼女の後を追いかけ、黄金の道を踏む。今回はどこまでこの道を辿るのだろうか、とぼんやり考えた。
赤い絨毯は存外固い。白い石造りの壁は青白いガス灯で照らされている。市場の中の喧騒が嘘のように、ここは静まり返っている。
わたしたち二人は、今度はロイと一緒に、白い制服の兵士について歩いていた。
「城に来るなんて聞いてないんだけど?」
前途洋々と歩くロイにそっと耳打ちをする。
「そりゃ、まりぃはおうけのひとですよ? ちゃんとしたところにしかいけないじゃないですか」
「否定しがたいな」
さも当然のように言い放つロイに、言葉も出ず額に手を置く。マリィは王家の人間で、しかも正統な後継者だ。そんな彼女が直々に呼び出して、そして具体的な用件は秘匿している。彼女の性格を考えてみれば、恐らく意図的だろう。ここまで綺麗に要素が並ぶので、ロイの言うことは無茶のようで正論であるから質が悪い。
「でも汽車の中で言ってくれてもいいじゃん」
「さぷらいずってやつですよ」
「それが困るって言ったんだけどな」
苦言を呈せば、悪戯が成功したかのように、楽しげにくすりくすりと笑うロイの声が城内に響いた。兵士がそっと目くばせをしてくる。
うるさかったかと、ロイと目をぱちぱちさせて頭を下げようとしたら、予想に反して彼は立ち止まった。
正面には仰々しい扉がある。どうやら目的地に着いたらしい。
先導した彼が扉を恭しく、ゆっくりと扉を引いた。途端に差したシャンデリアの光に、ぴくりと眇める。兵士は引いたドアを背中で抑えて、わたし達が部屋に入るのをだんまりで待っている。
ドアの先に一歩踏み込む。
部屋の中は眩しい位だが、厳粛だった。廊下よりは落ちついた赤色に金色の模様が入った絨毯に、物々しい彫刻が施された椅子が、同じようにしゃちほこばったテーブルを挟むように向かい合って並んでいる。他にあるのは暖炉ぐらいで、城内の割に装飾は少ない。だからこそ空気が張り詰めていた。正しく会議のための部屋に通されたのだと理解する。
「ふふ、お久しぶりですね。シオンさん」
「まりぃ~!」
耳なじみのある声だと思うより先にロイが駆け出す。背後で扉が閉まっていく気配がして、だんだん狭まる隙間に軽く手を挙げた。
そして「久しぶり」と向き直る。
静かな、先まではきっと誰もいなかったであろう会議室の十字の窓枠を背に、たっぷりの猫毛を、あの時から変わらず緩い三つ編みにして、海よりも真っ青な瞳を細めるマリィが立っていた。青いドレスが光を浴びて、てらてらと光る。その裾をくいくいとロイが引っ張っていた。
「げんきでしたか? なかなかあえないから、しんぱいでしたよ」
「ええ、心配に及びません。それなりに元気にやっていますよ」
そう言ってマリィは柔く微笑むとロイに目を合わせ、彼女の頭を撫でた。撫でられた彼女は尻尾を高く上げて、鼻歌まで歌い出す。一、二番目に懐いていた人に構われて嬉しいのだろう。こういう部分はただの子馬だった。昨日のケロリとした顔で、淡々と世界の醜態を話してわたしに無茶を飲ませた姿とは、似ても似つかない。それが、なんとなく喉の奥で引っかかった。
「まさか再会が、マリィから直々に呼び出されるなんてね。大穴だったかも」
「わたくしもこのような形式になるとは思ってもみませんでした。中々、分からないものですね」
喉のつかえを無視して、軽口を叩く。世が世なら、人が人なら不敬罪にでもなるのだろうが、寛大なマリィは顔を上げてふわりと笑った。はにかむような笑みを惜しげもなく見せる彼女に、もう口元を手で覆わないようになったのかと、少し気を取られた。
「もっと平和的で私的だったら良かったのですが」
言葉を続けたマリィの青い瞳が鋭く怜悧に光る。柔和に細めながら、それでも隠せない深刻な色を帯びた気迫に、うなじがピリっと痺れる。
「次の王様が言うと洒落にならないね」
「権力者に洒落も冗談もあったら困るでしょう?」
「言う様になったね。それで用件は?」
時間には限りがあるだろうし、と言い添えて、単刀直入に不明瞭な内容に立ち入ろうとした。すると、マリィは柔い笑みを浮かべたまま答える。
「立ち話には少し長いですから、あそこの部屋で話しましょう」
マリィは向かって右に顔を向けた。それに従うように、わたしも彼女の視線の先を見る。
そこにまた扉があった。この部屋のものほどは大きくはない、金色のシリンダーが付いた、至って一般的な扉だった。一般的だからこの部屋の中では妙に浮いている。
マリィが歩き出したので、わたし達二人も後に続く。
彼女がこんこんとノックをすれば、扉の向こうからぱたぱたと足音が聞こえてからカチャリと鍵が開いた。先客がいたのかと僅かに意表を突かれる。そして今度は扉が、その部屋の中から開かれた。
小さい部屋の中の顔ぶれに目を見張る。二人もいた。扉を内側から開けた、水色の髪を少し伸ばした中性的な面立ちとフリルの多いブラウスが良く似合った少年と、その後ろに、一歩ほど距離を取って立つ、真っ白な、先ほど廊下を先導していた兵士と全くよく似た制服を着た、相変わらず隈が濃い青年然とした彼がいた。
呆気に取られたわたしに気づいているのかいないのか、ドアを開けた少年が口を開く。
「お、シオンもいる。久しぶり」
気さくに掛けられた声に一瞬ひるむ。すぐには反応出来なかった。その隙にロイがマリィの脇をすり抜けて入っていって、少年に引っ付く。彼はうわ、と声をあげながら、ロイを受け止める。
「れのと、まこともいるんですね」
二人の名前を呼びながら、更に尾を高くしてレノの膝にへばりついている。
「そ、マリィの手伝いしててさ」
抱き着くロイの肩をぽんぽん優しく叩いて、わっと喋りだしそうな様子をいなしながらレノは答えた。その言葉に、レノの後ろに控えていたマコトがこくこくと頷く。
「ひらひら。あいどるのふくですか」
「いや、ただのお母さんと妹の趣味。ほら、リボン引っ張らない」
ロイとレノのやり取りを前に、やっと事態が呑み込めるようになって、すぐには明かされない用件と、鍵付きの部屋に通された物々しさからは予想も結びつかない顔ぶれだったものだから、殆ど無意識に呟いた。
「ちょっと人多くない?」
「明日はもっと増えますよ」
すかさず隣にいたマリィに耳打ちされる。どういうことかと考えるまでもなく、気が遠くなった。他国の重鎮とアイドル、国家公務員に子馬と旅人。全くバラバラな、バラバラであるべきこの五人全員と、全く共通の事柄が何かはもう決まり切っている。
はあ、と溜め息も隠さずに、やっと扉の先に足を踏み入れる。背後の部屋よりはこじんまりとしている中に、三人掛けの黒いソファが向かい合っている。椅子は隅の方に何脚か置いてあったが、埃が積もったままだった。最近は余り使われていない、忘れかけられていた部屋だったのだろう。
かちゃりと鍵がかけられる。
ぼうっと突っ立っていると、ひょい、と顔をレノに覗き込まれる。いつの間にかロイは離れていた。きょとんと首を傾げている。
「どうしたの」
「いや、挨拶のタイミングを逃したなって。久しぶり。マコトも」
レノの後ろで、いつの間にか右足をぎゅっとロイにしがみつかれて、どことなく戸惑った風のマコトにひらひらと手を振る。彼は何も言わなかったが、緩く目を細めた。それで十分だった。
「このまま近況とか調子とか世間話をしたい所だけど、そういう訳にもいかないね。マリィも仲間との再会のために呼んだって訳じゃないみたいだし。そろそろ用件を聞いても良いのかな? 鍵もかけた事だし」
ロイを手招きしながら、手前の方のソファに腰掛ける。そしてロイがぱたぱた小走りで、わたしの隣に飛び乗った。何故かマコトも引っ張って来て、空いている席をバスバス叩いて座らせた。
「そうですね。本題に入りましょうか」
ゆったりとした足取りでマリィが向かいに座る。顔を合わせたときは持っていなかった、恐らくこの部屋に置いていたのであろう薄い鞄を隣に置いた。
「さて、この顔ぶれで何となくお分かりかもしれませんね。主題が何かとか、明日誰が来るのか、だとか」
「まあね。怪物を倒した……」失われた旅と言いかけて止めた。人間に言ってもどうしようもない事だった。
「あの旅のことだよね」
マリィは頷いて、わたしの言葉を引き継いだ。
「その旅について、調査に協力して頂きたくて、お呼びしました」
「調査ってどういう事? 報告書はマリィの所含めて、関係した国にはちゃんと耳揃えて出したはずだけど」
もっともらしい台詞を並べながら、違和感を覚えた。旅の存在が消えた割に、本題が消えたと聞いて想像した以上に、存在感がある。いつもは存在ごと抜け落ちて初めからなかったようになる筈だった。なのに、何故これが問題になるのだろう。
「ええ、確かに報告書が保管されていました。ただその報告書が問題で」
「不備でもあった?」
「不備、というか、何と言うべきか。形式や内容の問題ではなく。奇怪な現象としか言いようがなくて」
マリィは珍しく言い淀む。要領を得なくて、わたしも何も言う事ができない。ただ続きを待つ。
「わたくしも上手く整理ができていないのです」と彼女は観念したように呟いた。
「ただ、時系列に並べて話す努力はしてみますね」
彼女は目の前に見えない筋書きでもあるかのように指で空中をなぞる。そして話し始めた。
「まず、資料を受領した時点、一年前の時点では、確かに内容を確認して不備がない事を確認して受領した筈です。そうでないと正式な資料として保管される筈がない訳ですから。関係国でも突き合わせて事実確認をした事だけは確かに記憶にあって、王室の記録も残っています。それから時間が飛んで、丁度三か月前に、資料の保管庫に行く機会がありました。そこで、ふとシオンさんの顔が浮かんで、そういえば一晩で書き上げた報告書があったなと、本題のついでに見返してみたら、中身が白紙になっていたんです。不自然に本論の、恐らく事実が報告されていた部分が白紙になっていて、所感の部分は、これもまた不自然に残っていました。度の過ぎた虫食いというのでしょうか。見てもらった方が早いですね」
隣の鞄から紙の束が引っ張り出される。そして、マリィが選んだ数枚が黒いテーブルの上に並んだ。
どれも中途半端に白くて、中途半端に黒い文字が並んでいる。ある一枚は上半分殆どが真っ新で、半分を超えてから急に黒いインクがびっちりと染みている。かと思えば、別の紙は初めの数行だけ文字が書かれたかと思えば、ぱったりと最後まで真っ白な様相で、ページの番号を見れば1と振られていた。他も同じように白黒がまだらになっている。
眉がピクリと動く。
「すっごい事になってるね。手書きの文字ってこんな綺麗に消せる?」
ひょい、とレノがわたしの頭の横から上体を乗り出して机上の紙をのぞき込む。いつの間に後ろに立っていたのかと若干驚きと共に、答える。
「消せないよ。鉛筆じゃなくてインクだし、無理に消すなら紙が薄くなる」
答えながら、わたしは別の事で頭を回していた。
別に白紙化自体は不思議な事ではない。何と言ったって、二年前に始まった旅は存在ごと、時間を遡って、世界の経歴から全てが失われたからだ。その消し方が中途半端で、その旅由来の変化だけが結果として残っているのも、理屈を付けられない訳ではない。腑に落ちるかは別として、そういう不条理として処理はできるのだ。何にせよ、ない存在に関する報告は、世界の経歴と矛盾する。だから、別に、白紙になっても、おかしくはない。
おかしいのは、あの旅を直接示すこの報告書が存在する事。この報告書にまつわる記録が存在する事。この報告書に関する記憶が存在する事。差し当たって、以上の三点。
「顔色が悪いようだが、その、大丈夫か」
顔色が悪いマコトに尋ねられるほどには、神妙な顔をしていたのだろう。そちらに顔を向けると、ばちりと三白眼と目が合う。マコトもそれと気が付いたようで、ふらふらと小さい瞳が一、二往復分揺れたかと思えば、また戻ってきた。瞳から目を離せば、罰の悪そうな表情が見えてくる。心優しいかつての相棒の気遣いに応えようと、微笑が綻ぶままにして、諧謔的に誇張して前かがみになってから、反動を使って柔らかすぎる背もたれに背中を預けた。ぎし、とスプリングが軋む。
「いや~、奇妙な事もあるもんだなって。わたしの貴重な一晩の進捗が知らない間に殆どパーになるなんて。可哀そう!」
えーん、と雑な泣き真似をすれば「はい、可哀そう可哀そう」と後ろのレノに相応の態度でいなされる。
「淡泊だなあ」とケラケラ笑いながら、机上の白紙一枚を手に取った。
黒い字を辿れば、成る程マリィの言う通り、わたしの推測や所感は残っている。とはいえ、怪物やその原因にかからない部分だけが紙面に存在していた。所感も半分以上は消えていた。怪物の真相に掠りもしない推論とわたしの僅かな感情ばかりが残っている。
概ね現状を把握した所で、報告書をテーブルに戻す。
「で、旅に関する調査って具体的には? マコトとレノ、ロイも呼ぶ辺り、ただ単に報告書の原状回復をして欲しい訳じゃないみたいだけど」
「ふふ、話が早くて助かります」
マリィはこほん、と咳ばらいを一つした。
「前提として、件の旅の事、わたくしは、きっと全くと言って良いほど覚えていないのです」
想定通りの言葉だったので特段驚きもしなかった。無いものを覚えている筈がない。
「これに関連したらしい関係国も殆どそのような認識でした。ただこの報告書を、重大な資料として保管しようとした記憶だけがあって、そうしようと決定した理由が欠けています。その理由はこの白紙化した報告書の中身にある。事態の深刻さは分かっていただけますよね?」
「大体は。よく分からない資料を理由もなしに持っていると面倒だからね~。国ってやつは」
「理解していただけて有難いです。国としては看過できないといった具合で、わたくしが直接の関係者で、皆さんの事は覚えていたからやりやすいだろうという事で調査官として白羽の矢が立ちました」
「じゃあ差し当たって、仲間たちへの聴取と削れた旅の内容特定がメインなのかな」
「前者は正解で、後者は……もっと恣意的に決めるのでハズレですかね」
わたしの気を引くように指を立てて、にこりと微笑むマリィに、「え」と情けない声が漏れた。それから一拍置いて、疑問を吐き出す。口の端がヒクつく。柄になく動揺していると他人事の様に眺める自分がいた。
「恣意的にってどういう事?」
「そのままの意味です。今日までに最低限の下調べは済ませてあります。怪物の被害者を含めて、件の旅を覚えている国民は一切いない事。人の身体の一部を張り付けた魔物を発見した報告例は二年前まで遡っても一切存在しない事。それでも旅の事を覚えている人がいる事」
「ちょっと待って」
上擦りかけた声で、口を挟む。
覚えているとはどういう事なのだろうか。この世界に無いものになった事柄を覚えている人間はいない筈だった。あの旅は精霊の類も関わっていたから彼らの事だろうか。人間ではないのだから始終をきっちり覚えている筈だ。でも、今更なくなったものの話をするのは無駄だ。そういうものを無暗に話す事は、人間以外にとってのタブーだった。暗黙の規則意識は妙に強い彼らが話すとも思えなかった。
だとすれば人間が話したことになるのであって。
「覚えている人って誰」
「……マコトさんとレノさんの事ですよ」
ガバリと横を見る。二人はちょっと目を見開いて、それから二人で気まずそうに目線を合わせておずおずと頷いた。
「覚えてるよ、大体全部。怪物が生まれた理由は、何かあったことしか覚えてないけど。それ以外はちゃんと覚えてるつもり」
「オレも大体レノと同じだ。ただ怪物の発生理由を聞いた記憶はない」
「……成る程」
有難う、と呟いて片手を軽く上げる。
「内容の特定ならレノとマコト、後はまあ、わたしがいればできると思うけど。恣意的に決定する理由は?」
「リアリティの問題です。報告書にはもっともらしさが必要ですから」
「随分あっさりと問題発言をするね」
「だから廊下に面さない鍵付きの、この部屋を選びました」
「用意周到な事で」
「こういう事ばかり上手くなってしまうので嫌気が差してしまいますね」
言葉とは裏腹に彼女は朗らかに微笑んだ。青い瞳は柔く細められていた。随分強かになった、と思って目線を一瞬落とした。視線の先で殆ど白くなった紙が散らばっている。
「さて、リアリティの話に戻りますね。これは、端的に言えばあの旅の存在をどこまで覚えているかに依存すると考えています。例えばわたくしの場合なら、旅の事を全く覚えていないとは言いつつ、レノさんやマコトさんの事、ここにはいない皆さんを覚えています。そしてあの旅が始まった二年より前に貴方達とは見知っていない事も覚えている。ただ、何時出会って、何時友人になったのかだけは定かではありません。だからレノさん達の話を聞いて、覚えている事実に照らせば、内容に覚えはなくとも、もっともらしいなと思えました。旅の中で出会って、旅をしながら関係を深めたのなら整合性が取れるから」
マリィの説明を聞いて、一つ本題と無関係に引っかかった部分はあるものの、言いたいことは概ね理解した。
「という事は、怪物沙汰に無関係だったり被害者だったりする人が大多数で、被害者については被害に遭った事すら覚えてないんでしょ。その人らは旅に関連したことは一切覚えていない以上、正直に話した所で荒唐無稽が過ぎて信用を損なうって理屈かな」
「ええ、間違いないです。本当に不思議な話ですよね。実際にあった旅と事件が、極一部を除いて忘れられているなんて。世界から消えたみたいで」
正にその通り、と言いたい気持ちをすんでの所で飲み込む。口ぶりから察するに下調べの調査規模も相応に広いのだろう。滅茶苦茶だと心の中で呟きながら続きを待つ。
「そういう訳で、旅の事は最低限の事実だけなぞろうと考えました。ただわたくしだけでは、殆ど全て覚えていないのでどうにもなりません」
「だから昔の仲間に聞いてみようって事か。一番知っているかもしれないから」
「そうです。覚えている内容を摺り合わせて、最低限の輪郭を改めて作り上げようという魂胆です。そこでシオンさんの覚えていることをお話しして頂きたく。協力して頂けますか?」
「この部屋に入った時点で拒否権はないでしょ」
はあ、と浅く息を吐いて、腕を前に伸ばす。肩の辺りが良く伸びて気持ちが良かったが、頭に一つ引っかかった、普段は時間と共に何処かに消える疑問が、今は付きまとうばかりで中々離れない。拒否権のない用件が二つもある。それが悪さをしているのだろう。
マリィは笑みを浮かべて、それでわたしの言葉への返答としているのか、何も言わない。
予定調和の様だった。昨日からずっと他人の事情に流されるばかりだった。それがどうという話ではないし、大体、あの旅も例に漏れず選択の暇もなかったのだから、失われた旅の輪郭を探るこれも似た始まりであってもおかしくはない。関連性がある以上乗り掛かった舟とも言えるし、今更拒否する理由もない。人間の言葉を使って文章を書くよりは、自分の経験を物語る方が遥かに楽だとも思う。
しかし、自分の旅の予定が大幅に狂ったのも事実だった。すぐ頷くのは止めにして、せっかくだからと代わりに引っかかったままの問いを吐き出す。
「それにしても、整合性が取れるだけで良く信じられたね。報告例がない怪物の事も、面識がないような友人の事も」
それから、少し語弊があるかと「皮肉ではないんだけどね」と付け足した。
「マリィはそこまでコテコテの合理主義者でもなかったよなって」
「経験を蔑ろにしている、と?」
「流石にそこまでは言ってないよ、流石に」
不思議そうに首を傾げたマリィに、苦笑しながら言葉を取り直せば、一転、彼女はくっくっと喉を鳴らして、実に楽しそうに目を細めた。「冗談ですよ」と弾んだ声で笑っている。冗談にしては些か心臓に悪い。はは、と追随するように笑うしかない。
「でも、そうですね」
マリィは気を引くように指を立てる。
「現にそう在るならば、そう在るべきでしょうから。それを無暗に否定しても意味がない」
はて、と今度はわたしが首を傾げる番だった。ここに冗談はなかった。そう在るまでは、マリィの今残っている記憶と現状を指すのであれば、理解できる。しかし、在る「ならば」と条件を示す連語と、在る「べき」と当然を指す助動詞が呑み込めなかった。現状が在るべき形態そのものになるのは、順序が逆転している気がしてならなかった。失われた旅の荒唐無稽な話を信用する理由とも結びつかなかった。
それとも、わたしが人間でないが故に理解できないのだろうか。記憶が欠ける性質もないから、何かを読み間違えたのだろうか。
喉に小骨が引っかった感覚。読書の度にやってくるそれが、今出てきたものだから、つい喉に触れる。喉は呼吸の度に上下して、生きている様に動いていた。
「どういう事?」
「……話すと長くなりますし、今日は哲学談義をしに来た訳ではないですから。また今度にしましょうか」
尋ねるも、壁の時計をちらりと見たマリィにさらりと躱される。
そして彼女は明日の予定を話し始めた。明日は正午から夜まで、半日ここに集まるようだった。会議の割には妙に長い時間ここを陣取るようなので、せっかくの再会の機会でもあるから集った面々の現状報告も兼ねているのだろう。ともすればそちらの方がメインなのかもしれない。マリィの下調べの範疇に仲間の記憶の状況が入っていないとは想像し難かった。
予定を聞き終えた頃には、喉の突っかかりは消えていた。
「明日も仲間の何人か来るんでしょ。誰来るの?」
マリィの話を静かに聞いていたレノが口を開く。明日を楽しみにしているのを隠すつもりもないようで、声音は明るい。
「何人かではなく、皆さんいらっしゃいますよ。ここに」
「え、ホント!?」
とんでもない返答をしたマリィに、レノとついでにロイが、マコトを巻き込みつつ嬉しそうにハイタッチをしている。その傍ら、思わずわたしが、は、と素っ頓狂な声を上げた。「いや、いやいや」と意味をなさない言葉を重ねて、頭を抱える。
「消息不明も同然の面子、確実にいると思うんだけど。三、四人」
「頑張って会ってきました」
「頑張ったとて、素直に出席しそうもないんだけど」
「国家権力だから仕方ないって言ってました」
「持つべきものは権力だなあ。会議は踊り散らかしそうだけど」
「それもやむなし、ですね」
ふふふ、と満面の笑みを浮かべたマリィに、明日の目的を悟る。他の面々とは会って話をした後ということは、彼女は必要な情報を聞いている筈だった。目的なしに誰かに会いに行ける身分ではないのだ。ということは明日の会議は会議らしく体裁は整えつつ、きっと最低限の確認しかしないのだろう。恐らく今日まで連絡が付かなかったであろうわたし以外の情報は、既に彼女の手の中にある。
空恐ろしいな、と笑うしかなくなってくるわたしに、マリィが重ねて言う。
「でも、最低限のラインを作るために報告者であるシオンさんの力が借りたいのは本当ですよ。反応からして、全部覚えているようですし。怪物の発生原因も含めて」
「ばれてた? いや、隠し立てするつもりもなかったけどさ」
「ええ、シオンさんがいれば原状回復も可能なんでしょう? 報告書に、原因について原因不明の一言すら現れないものはまずないですから。そこも含めて回復可能だと言うなら、そうなのだろうなと」
「そんな事も言ったね、そういえば。その通りだよ」
「でも教えてくださらないんですね」
マリィの一言に息が一瞬詰まる。どこまで言うべきなのだろうか。失われた旅をまさか覚えている人間がいるとは予想だにしなくて、勿論その人から中身の一部を聞いているとは予測できた筈はないから戸惑った。
世界から消えたものを、人間の認識から消えたものを、人間相手にどれだけぶつけて良いのだろうか。そんな事は今まで一度もしてこなかったし、求められもしなかった。結果が全く見えない。
「……ちょっと様子見かな。他に覚えているのは最低三人はいるから、わたし以外に」
結局出せた答えは無難なもので、他の出方を伺うものだった。仲間達の記憶の状況をわたしは知らない。そこを把握してから考えたかった。
マリィはわたしの返事にあれっと目を丸くしたが、その後すぐ一人で頷いていた。少し気にはなったものの、本人が納得したのなら何も言う必要はないか、と開きかけた口を閉じる。
「明日も目的は変わらないですよ。始めはちゃんとやるつもりです」
そしてにっこりと笑って、明日の会議に触れる。始めは、と含みがある言い方に、乾いた笑いが出てくる。
「対面でやる必要あるかなあ」
「別の側面から分かることもありますよ。本人の反応だけ見れば良いというものでもなさそうですし、明日の状況次第でシオンさんも腹を割るか決めるのでしょう?」
「はは、じゃあ意味はあるか」
何を言っても敵わない。本当に強かになったものだ。口の端が持ち上がっていくのが分かった。
話すべき事を話したマリィは明日の準備があるからと、この部屋に残るそうだった。マコトとレノは用事もマリィの手伝いもないとの事で、一緒に城を後にした。ロイは、未だに再会の興奮が冷めやらぬと小走りで先を行く。
太陽はまだ存外高く、街の賑わいは更に高まっているようだった。
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