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きう
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薄明、涙も、水波の隔て
ワンズオ(禾⇄左)
『すまないが来てくれないか』
そんなメッセージがドクターから入ったのは、療養庭園での手伝いが終わった、夕食より少し遅い時間だった。軍手の土を落として、ズボンのポケットに引っ掛ける。
「結局最後まで手伝ってもらっちゃってごめんなさい」
「いえいえ、このぐらいお安い御用です」
夕方ロドスに到着してすぐ、パフューマーさんが押していた肥料と土の乗った台車を運び、そのまま庭園の説明を受けた。今日はロドスでの仕事はないし、休暇のようなものだ。ロドスの中でもこの庭園は随分と雰囲気が違う。オイルや消毒液の匂いもしなくて、ただ草花のいい香りがする。とはいっても大荒城とも違って、自然そのものの匂いではない。空調も他の部屋とは別系統になっているのか、外より随分と暖かかった。花の付き方も管理するため、源石照明で日照時間を変えている区画もあるらしい。秋に差し掛かる今、日向に出すだけではままならない草花も多いだろう。実際にシステムを見せてもらい、時には手伝いをしながら説明を受けていたら、すっかり遅い時間になってしまった。
「いつでも覗いてくれて構わないわ」
優しい言葉を謹んで受け取り、庭園を後にする。ドクターに指定されたのは意外にも艦内のバーだ。数週間前に卸した酒はここで扱うと聞いたが、行ったことはない。空き時間のタイミングが合わなかったし、店の雰囲気に気後れしていたのも事実だ。間接照明の多い、部屋の隅が暗い店は都会風で少し慣れない。
「ワンチィン、こっちだ」
その暗がりからドクターの白い手袋だけが浮いていた。夜に暗闇で会ったら怖いかもなぁなんて失礼なことを考えながら足を向けると、隣に見知った頭が伏せていた。
「
……
どうして彼が?」
「うん、ちょっと飲みすぎたみたいでね」
ドクターがテーブルに突っ伏しているズオ・ラウの肩を優しく揺らす。今日は艦にいる日だったのか。知らなかった。お互いの居場所を共有しない、あくまで友人という距離感に歯噛みする。それなら自分が連絡をすればいいのかもしれないが、ズオにその理由を問われたら答えられない。それに、彼には風変わりな公職もあるし、軽々に居場所を教えることもないだろう。ゆらりと身体を起こした彼は眠そうな顔でまばたきを繰り返した。
「ああ、すみませんドクター」
「すまない、飲ませすぎたみたいだ」
「いえ、私の方こそ加減を誤ってしまい
……
」
そう続ける彼の表情は至極穏やかで柔らかい。頬がまだ赤く、酔っているのかもしれない。
「ドクターに迷惑をかけるのは感心しませんね」
自分の口から出た声が思ったより苛立ちを含んでいて、そのことに少し驚く。ズオが立っている僕に初めて気が付いたようにこちらを向いた。そのことにまた気持ちがささくれだつ。ドクターは僕の言葉に笑いを堪えたような声を出した。
「シャオホー
……
」
「酒をすすめたのは私なんだ」
「ドクターが?」
「いえ、ドクターのせいでは」
「君が大荒城から持ってきてくれた酒があっただろう?」
話始めたズオ・ラウを手で制してドクターが続ける。
ドクターが言う通り、大荒城から郷長の許可が下りた分だけロドスへ酒を納品した。とはいえ僕の試験田から作った酒のほんの一部であって大した量ではない。ロドスにいる人すべてに行き渡る量ではないし、納品されたことを知っている人だって限られる。
僕はそれを今酔い潰れていた彼に飲んで欲しかったし、飲みに誘う口実にしようとも考えていた。ドクターに先を越されるとは思っていなかったけど。もちろんドクターは菓子棚の在庫管理までしている人だし、納入状況を知っていても不思議ではない。
「確かに取引をさせていただきました」
「うん。その話を執務室に来ていた彼にしてね、私も興味があったからこうして足を運んだわけだ」
「
……
それと彼が飲み過ぎたことに関係がありますか?」
水を口に運んでいたズオが一瞬こちらへ視線を投げたが気付かないふりをした。
「勿論あるが野暮は止めておこう。ズオ・ラウ、すまないが私はこの後巡回点検がある。ワンチィンに送ってもらってくれ」
「宿舎にくらい、一人で戻れます」
「心配だ、と言えば分かってくれるか?」
「
…………
分かりました」
「ワンチィン、よろしく頼むね」
ドクターが席を立って僕の肩を軽く叩いた。今は彼と二人にしないでほしい。気持ちが荒れていて、とても酔客に優しくできる気がしない。恨めしく思いながらドクターへ視線を送るが、フェイスシールドに阻まれて表情は窺い知れなかった。
「
……
立てますか」
ズオ・ラウに手を差し出す。彼はこめかみを押さえたまま、困り顔で笑った。
「すみません、仕事の途中だったのでしょう」
「仕事? いえ、今日はここに戻ってきただけなので、特に何もしていません」
その時、一瞬だけ浮かんだ彼の表情が何を指していたのか、僕には判断できなかった。なにせ本当に一瞬だった。
「
……
そうだったのですね」
僕の手を取らずに立ち上がったズオは若干怪しい足取りで店外へ歩き出す。僕を支えにすればいいのに負けず嫌いな人だ。呆れながらも、いつでも身体を支えられるように少し後ろを歩く。彼だってドクターの言うことに了承したのだから、送られることに異論はないはずだ。
消灯が近い廊下は普段より暗いが、彼の首にいまだアルコールの赤みが残っているのは見て取れた。腰から伸びる尾がバランスを取るためなのか、常よりも多く左右に揺れる。
「君は、最近はずっとここに?」
「ええ、ドクターの秘書をしていましたし
……
明日は休暇という話をしていたら、飲みに誘われまして」
多忙なドクターが珍しいことです。そう言いながら笑みを零す横顔に胸が詰まる心地がして、これが嫉妬だと気が付いた。嬉しそうにするズオに罪はないのに、自分の狭量さがそれを苛立ちに変えている。彼の息抜きになったのであれば、その相手が自分でなくともいいはずなのに。
宿舎行きのエレベーターの階数ボタンを押す。彼と僕は同時期にロドスに加入したせいか、部屋が極めて近く、宿舎のある階は当然同じだ。ドクターもそれを知っていて僕を呼びつけたのだろう。
「飲みに行くことなんてあるんですね」
「付き合い程度にはありますよ。特に今日は
……
」
「今日は?」
ドクターに誘われたから? 続きそうになった言葉を無理矢理飲み込む。そうであっても僕に口を挟む権利はない。
「あなたの作ったお酒があると聞いて」
「
……
」
「正確に言うと、あなたが育てた作物から作ったお酒が入荷しているとドクターは言っていました」
ズオは話しながらエレベーターの壁に背を預けた。本当はもう少し店で休んでいたかったのかもしれない。伏せられた目蓋はほの赤い。
「
……
どうでした?」
「美味しかったです。
……
とても甘くて
……
何杯かいただいた時に、度数が強いという話を聞いて、
……
驚きました」
あの時、手を差し出さずに隣に座ると言う選択が僕にはなかった。迅速に彼を部屋に送り届けて、感情が揺さぶられる原因から離れてしまいたかった。もし彼の酔いが醒めるまで隣に座っていたら、今彼は壁に背を預けたまま目を閉じることもなくて、もっと別の話ができたかもしれないのに。
ズオの言葉に、ドクターが始終おかしそうにしていたことを思い出す。部屋が近いからなんて単純な理由じゃなく、あの人は僕の気持ちを知った上で呼びつけたに違いない。席を譲ろうと思っていたのか、それとも二人で帰らせようとしていたのかは分からないけれど。
エレベーターが止まってズオが先に降りる。見送るという任務はもう終わろうとしていた。
「ここまでありがとうございました、シャオホー」
「
……
一人で歩いてたじゃないですか」
「そうだとしても。
……
では、」
続くであろう挨拶より先に、ズオ・ラウの手を掴む。突然のことに彼は目を丸くした。ドクターが僕を鼓舞しているのか、単純にからかっているだけなのか、僕には読めない。だけど、この機会を逃してはいけない気がしていた。
「君さえ良ければ、僕の部屋で何か少し食べませんか? その
……
酒醸を少しもらってきていて」
「ああ、それならシャオマンさんにも」
「あ、いや、時間も時間ですし、それほど量はないので」
「
…………
それを、私に?」
彼は何故か困ったような、哀しいような顔をした。あまり見ることのない類の表情だった。嫌悪や苛立ち、怒りが付随するものではなくて、ただ切なさであるような。
「
……
無理にとは、言いませんが
……
」
嫌がられているとは思えない。けれど返される表情の意味も分からなくて、手から力が抜ける。するりとズオの手が離れた。沈黙がきまずい。言葉を続けようと思っても、丁度いいセリフはひとつも浮かばなかった。沈黙を破るようにズオが「折角なのでいただいてもいいですか」と静かに答えた。
作った白玉の真ん中を軽く潰して茹でる。ズオが所在なさそうに水の入ったグラスを眺めているのが、部屋の簡易キッチンから見えた。手伝いがいる作業でもないからと座っているように伝えたが、何をするでもなく待つだけの時間は退屈に違いない。もしかしたらアルコールのせいで眠いのかもしれなかった。見つめていると目が合って、逸らすより先に彼の唇が動く。
「シャオホーは、友人と甘いものを囲むことはありますか?」
脈絡のない質問に白玉を湯から掬いあげながら首を傾げた。
「たまに
……
であれば、ありますね」
とはいえあまり馴染みはない。今作っている酒醸団子は確かに甘味だが、ヴィクトリアやラテラーノで言うそれとは随分趣きが異なるし、友人と食べるよりもシャオマンにねだられた時に作ることが多かった。彼の向かいに腰掛け、酒醸の入った器と匙を手渡す。
「おや、桂花の砂糖漬け入りですか? いい香りですね」
「それは僕が作ったわけじゃないですけど
……
」
嬉しそうに表情を綻ばせるズオは甘いものが好きなのかもしれない。僅かに酒の残る緩んだ目元を見ていけないような気がして、目を背けて匙を口へ運ぶ。高揚なのか緊張なのか、味がよく分からない。嬉々とした様子で団子を口にするズオに話を促す。
「それで、友人がどうかしたんですか?」
「ああ、いえ、ドクターにバーに誘われた時に、あなたからの誘いはなかったのかと聞かれて
……
」
予想外の言葉に白玉を詰まらせそうになった。むせながら口元を拭う。どこまで読んでいるんだろう、あの人。過去数回秘書に入ったことはあるが、ズオの話をした記憶はない。大荒城での仕事の話をしたぐらいだ。それなのに。底知れなさを気味悪く思っていると、ズオが気恥ずかしそうに続ける。
「私にも学友はいるのですが、恥ずかしながらあなたのように気が置けない友人はいたことがなくて」
気が置けない友人。
彼の素顔に喜ぶべきなのか、それとも友人という言葉に悲しむべきなのか分からない。それでもその言葉から僕が彼に抱く好意からの緊張や、他人へ向ける嫉妬は見当たらず落胆する。
「どう答えたものかと迷っていたら、そのままお誘いいただいたのです」
ドクターは。
ドクターは、僕が彼に僕の酒を飲んでもらいたいことに気が付いていた。だから先に聞いたのだろう「ワンチィンに飲みに誘われてはいないか」と。そして、納入数の少ない酒がなくなるのを危惧したドクターはズオ・ラウをバーに誘った。迎えに来させるために、わざわざ僕が帰艦する日に合わせて。そういうことだ、恐らく。ドクターに嫉妬したのが恥ずかしいぐらいだ。全部が全部、読まれ過ぎている。
「なので、こうして部屋に呼んでいただけて嬉しいです」
ズオが普段よりも血色のいい顔で微笑む。こうして夜更けに二人きりの部屋に呼ぶ、この気持ちが上擦るような緊迫を、彼は共有しない。身体から張り詰めた空気が抜けていくようだった。代わりに身体を埋めたのは物言わぬ寂寞で、僕は乾いた笑いを浮かべることしかできない。
「君も、僕を呼んでくれたらいいじゃないですか」
そう返したのは期待からではなく自暴自棄からだった。泣きたいのをごまかすように匙で残りを掻き込んだ。諦めたいわけじゃない。簡単に捨て置ける感情ならこんな気持ちにならない。だけど希望は薄く、諦念が静かに足元を濡らす。
「それは
……
少し難しいかもしれません」
またズオがあの顔で笑った。困ったような、哀しいような。表情の意図が掴めないことにも、その返答にも困惑する。
「な、何故ですか?」
「シャオホーは今日、療養庭園にいたんですよね?」
「どうして知っているんですか?」
「
……
フィディアの鼻は、意外とよくきくのですよ」
それだけ言って、彼は器へと視線を戻した。服に匂いが付いているのか? 自分の服の胸の辺りを引っ張って嗅いでみるがよく分からない。ズオが吐息だけで笑う。目を眇めて睨んでみても、彼は匙を動かすだけだ。
「あなたが戻っていること、知りませんでした」
ぽつりと呟いた声の弱々しさに目を瞠る。まるで傷心したように言うから、会いたかったに聞こえてしまう。
「
……
大荒城にいたときは、あなたを苛々させてばかりいて」
心当たりのある発言に一気に口の中が苦くなる。あの時はどこか高官の子が見学ついでに手を出しに来たと思っていて、彼にいい印象がなかったのは確かだ。でも何日も顔をつき合わせていれば、それが間違いだとすぐ分かった。
「今、こんな風に話が出来るのは不思議で
……
有難いと思っています。それで、満足すべきなことも」
ズオの顔を見ても視線は空になった器に注がれるばかりでこちらを見ようとしない。影になっているのに瞳が水面のように光っている。冷たくも見えるその目の色を、綺麗だと感じるようになったのはいつだっただろう。
「そう自戒しても、嫉妬する自分も期待する自分もいて
……
駄目なんです。だから、私はあなたを部屋に呼べない」
ご馳走様でしたと付け加えて、そのままズオが席を立つ。彼の言葉は間違いようがなく自己開示だったのに、信じられないほど落ち着いていた。凪いでいると言い換えてもいい。告げられた僕の方が混乱し、引き留める言葉が出てこない。けれど幸いにも身体が動いてくれた。無意識のまま手が彼の外套を掴む。
「
……
シャオホー?」
嫉妬も期待も、まるで今の自分の感情を的確に表していて、だとしたら彼も自分と同じ気持ちなんじゃないのか。この苛立ちや焦り、咽喉の乾きや心拍の速さ、どれも彼からは汲み取ることができない。けれど。
「僕も、満足できそうにないです」
部屋に呼んだのは期待しているからだ。彼を知ることができるのではないかという綱渡りのような淡い期待。ズオがやっと僕の方を見て、理解できないと言うようにまばたきをした。
「それは
……
どういう
……
」
「君のことが好きなんです」
血が逆流してるみたいに頬が熱くなってくる。これで僕の勘違いだったら、恥ずかしいどころの騒ぎじゃない。友人という立場すら失ってしまう恐怖が後から湧いてくるが、もうとっくに彼は友人じゃない。ズオの視線がゆっくりと落ちて、外套を掴んでいる僕の手に移る。
「
……
シャオホーのお酒は、本当に美味しかったです」
ズオの手が外套を握ったままの僕の手に触れる。彼の手は飲んでいると言うのに少し冷たくて、触れられたところが肌に残るようだった。
「あなたの夢の一部はこんな味がするのだと思いました」
優しく外套から指を剝がされ心臓が止まってしまいそうになる。しかし不安を打ち消すように、彼の手はそのまま僕の手に沿う。白い指の間にほくろがあった。
「でも、この酒醸の味は、緊張でよく分からなかった
……
」
顔を上げるとズオが僕を見ていた。冴えた朝の色をした目はやっぱり光を多く纏っていて、それが涙の膜であることを知る。
「ホーシェン」
僕の名を口にした唇がわななく。
「あなたもそうなのだと、思ってもいいのでしょうか?」
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